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【書評】 六〇〇〇度の愛 著者:鹿嶋田真希 評価☆★★★★ (日本)

 

六〇〇〇度の愛

六〇〇〇度の愛

 

 

小説であり映画でもある『ヒロシマ、モナムール』を読み、あるいは鑑賞したことはなくとも、その名前は知っている。映画版は『二十四時間の情事』と、題名のみでは「戦争と恋愛」を描いた作品かいなか判別がつかなくとも、主演のひとり岡田英次が国際的にその名を知られた映画であることで、フランス映画にほとんど関心がない俺でも、何かしらの矜持をもってその名を記憶している。

 

つまり日本人として何らかの誇らしさを感じるのだ。むろん、映画はヒロシマに原爆が投下されたことへの悲劇を描いてもいるのだが、映画という文化を通じて日本人が出ていること、それにはヒロシマに原爆が投下された事実がなくてはならなかったことを考えると、誤解を招くのを承知で言うが、原爆の投下の事実さえ誇らしさを感じるのだ。

 

だがその原作小説にインスパイアされた『六〇〇〇度の愛』という換骨奪胎の出来そこないに対して、俺は日本人であることへの恥ずかしさを覚える。あまりにくだらない小説だからだ。

 

著者の鹿嶋田真希は、正教徒の信者であるらしいのだが、鹿嶋田が小説に散りばめた無味乾燥なキリスト教的な言葉の数々を見ると、信者であることと文学の価値は一切関係がないことを証明しているかのようだ。キリスト教徒であることが文学に深い価値、あるいは影を落とす作家が、『六〇〇〇度の愛』以前にいくたも生まれていることを思うと、鹿嶋田がキリスト教徒たることは何かしら良い影響を与えるのではないかと想像するが、本作を読む限り、文学の価値をいささかも高めていない。

 

小説の舞台は広島ではなく長崎である。既婚者である主人公の女性が、東京から長崎に赴き、青年と情事を交わす姿は、『二十四時間の情事』の主演女優エマニュエル・リヴァを演じているのだろうが、こっけいとしか言いようがない。己の不倫を正当化するための原爆が投下された長崎を舞台にし、キリスト教の言葉や、原爆投下に関わる言葉が、鹿嶋田のインテリぶった文体で描かれただけだからだ。

 

小説の冒頭で、団地のベルが鳴って長崎に投下された原爆を想起するというシーンがある。一体なぜ主人公はそこまで原爆を想起することができたのか。これをギャグではなく大真面目に想起させているところに、著者の文学的センスの無さがありありと表現されている。要は、「気取ってんじゃねえぞこのバカヤロー」とでもつぶやいて、床に叩きつけたくなる、そんな駄作であった。