好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【書評】 ウィトゲンシュタイン『哲学探求』入門 著者:中村昇 評価☆☆☆★★ (日本)

 

ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門

ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門

 

 

 

ウィトゲンシュタインの後期の著作『哲学探求』の入門書。ただし著者があとがきで書いている通り、本書を入門書と呼んでいいかどうかは、いささか疑問である。ドイツ語の原書からすると本書の割合はわずかに6.2パーセントなのである。しかし、6.2パーセントの部分しか本書で語っていないということは、それだけその対象を深く掘り下げて読み解いていくということでもある。全体を俯瞰するというよりも、『哲学探求』という書物をいかにして読むか、その「読み方」の方法を丁寧に抑えたのが本書ということができる。一つひとつ、文章の隅々にわたってまで丹念に後期ウィトゲンシュタインの思想を追っていくという意味では、入門書らしからぬ本書の意図するところは、果たし得たという気がした。

 

私には、ウィトゲンシュタインは、彼が生前に唯一出版した『論理哲学論考』のイメージが強く、学生時代に、その超然とした哲学的な、あるいは詩的な言葉のたたずまい(日本語訳でありながら)に圧倒された記憶がある。そして誰でも知っている『論考』の最後の言葉、「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」という一節を諳んじ、何か自分が高尚な一角の人物になったかのような錯覚に陥ったものである。加えて、ウィトゲンシュタインのいかにも哲学者然とした表情の写真を想起して、自分が当人と思考が一致したかのような愚かな誤解をしたこともあった。その誤解の目的はどこに行き着くのかというと、二十歳そこそこの学生が考えることであるから、至極当然に女性なのであった。何か知的な男性に憧れる女性という、ひと昔のニューアカブームか、あるいはそれよりも遥か以前のサルトルボーボワールの哲学ブームの男性像を夢想する私は、明らかに、モテる男性からは程遠かったのである。

 

そして「来日」したばかりのスターバックスに入って、学者気取りで『論考』を片手に今日のコーヒーを飲みながら思索に耽る振りをして、女性客に「こいつ頭大丈夫か?きもい!」というような目つきをされながらも、それが「おっ、今の子俺のことをチラチラ見たな?」と彼女らの視線の意図を誤解し、女性客が私を見るのは、私に対する好感だという、評価の転換をしてしまうほどに、自己認識の錯誤があった私であった。今から思えば、奇人以外の何物でもないだろう。

 

まあなんでこんな過去の物語を思い出して書いたかというと、『論考』と『哲学探求』とは、明らかにスタイルが違うからだ。ウィトゲンシュタインの思考は、前期と後期とで大きく転回したと言われるが、私のような素人が考える彼の一番の転回とは、雰囲気なのであった。『哲学探求』には、『論考』のような堅苦しさは消え、何かこう、ふわっとした雰囲気に落ち着いた気がしたのである。もちろん、ウィトゲンシュタインは四六時中思索していたような哲学者だから、ふわっとした雰囲気に落ち着いたはずはないが、『論考』においてすべての哲学的問題は解決されたかのように言ってしまう重厚さや高慢さが、『哲学探求』からは見えないと感じたので、より広い視野で、柔軟に哲学を探求した後期ウィトゲンシュタインについては、ふわっとしたと言いたくなる。

 

つまり何を言いたいかというと、『論考』を読む私は堅苦しく、それゆえにスタバで女に好まれているとひどい錯誤に陥っていた。しかし『哲学探求』の入門書を読む今の私は、以前より柔軟で、広い視野を持てるようになった。もちろんスタバで『論考』を読むことはしないし、仮に読んでも相手に好感を持たれているなどつゆほどにも思わない。それが、どうも、上記に述べたような、初期ウィトゲンシュタインの堅苦しい雰囲気と、後期ウィトゲンシュタインのふわっとした雰囲気とに、同一視してしまったがゆえに、過去の物語を思い出して書いたのである。むろん、そんなことを思い出すこと自体、やはり私は、奇人なのかもしれないが。

 

『哲学探求』ではまず非常に面白い概念がある。本書を読み進めて3章にたどり着くと、「語の意味とは、その使用である」という唐突なタイトルの章にぶつかる。語の意味は使用であると言われても、そんなはずはないと思うし、語の意味というくらいだから使用というような、流動性の高い定義ではなく、カチッと何かの枠に収まるべき、固定的な定義とするべきだと思う。ゆえに、全くそのいわんとするところがイメージし得ないのだが、著者によればそれは、「語の意味は、その後のすべて使用の場面で、同じような意味をもっているわけではない。一つの語に対応するようなその後の統一的な意味などは存在しない」と書かれるので、ようやく腹落ちすることができた。この章の中で家族的類似という概念についても丁寧に説明されるので、なるほど、確かに、言語は場面によって意味を変えていくし、何か特定の収まりの良い定義をする方が意味を捉え損ねているという感じもする。

 

『哲学探求』には言語ゲームという概念も興味深い。これは、原語では「シュプラッハ・シュピール」と呼ぶらしい。シュピールとは劇のことである。『ウィトゲンシュタインはこう考えた』において、鬼界彰夫は、言語ゲームについて的確な解説をしている(本書より『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の方が分かりやすかったので、あえて登場してもらった)。

 

言語ゲーム」という概念を通して、ウィトゲンシュタインが我々の言語の実相を理解しようとするポイントは、この巨大なネットワークをある種の単純な劇の集まりのようにみなそうとするところにあるという。例えば「早く来い」という一文があっても、それが「小学校のハイキングでの先生と生徒との会話」という言語ゲームと、「夏休みを待つ小学生の独白」では全く違う役割を持つというように、「早く来い」は、場面の数だけの違った意味を持つと言っている。

劇というだけに「早く来い」という一文を発する話者がいわば、言語ゲームという舞台の上で、なんらかの役割を演じる俳優なのである。これもまた、「語の意味とは、その使用である」という定義から考えると、より分かりやすく捉えることができよう。

 

そして更に「言語ゲーム」の概念は拡充し、「生きる」ことと「話す」こととは不可分であり、言語と生とが不可分であるという考えにまで行き着く。生はこの一瞬間ではなく、時とともに生は進んでいく。その中で繰り返し生じる「言語を使用する局面」が言語ゲームというなら、確かに言語と生とは不可分なのだろう。

 

本書は、『哲学探求』の入門書というよりは、著者が「はじめに」でも書いているように、ウィトゲンシュタインの思考の癖のようなもの、特有の考え方については、我々よりもわかっているので、その考え方を、本書で示したということができる。そういう意味で本書は、『哲学探求』という著作に対する入門書というよりは、ウィトゲンシュタインの思考の癖や考え方を、じっくりと追っていくもの、ということが言える。だから網羅的にこの本を読めば『哲学探求』のなんたるかが分かる、ということはあり得ないし、私も本書を読んでも『哲学探求』のことは部分的にしか分からなかったのだが、思考の癖や考え方については、「語の意味とはその使用」というくらいのイメージとしては、捉えることができた。