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【書評】 復活(下) 著者:レフ・トルストイ 評価☆☆★★★ (ロシア)

復活(下) (岩波文庫)

復活(下) (岩波文庫)

『復活』は、トルストイらしい教条的表現が鼻につく小説

『復活』を最後まで読んだ。トルストイらしい教条的な表現がついてまわる作品で、あまり虫が好く小説とは感じられなかった。例えば、上巻の終わり、ネフリュードフが土地を農民に「譲る?譲らない?」の展開があった。トルストイ私有財産を否定していて、自分の思想を小説に強く押し出すから、本書でも同様の主張をキャラクターに投影するだろうと予測したらその通りになる。ネフリュードフ自身も、若い頃にカチューシャを慰み物にしてから10年は堕落していたが、カチューシャと再会してからの彼は人が変わったようにモラリッシュになる。ここでいうモラルはトルストイ的な思想・主張である。

極めつけは、物語の終盤、ネフリュードフが新約聖書の記述を引っ張り出して、その通りに生きようとする描写である。ネフリュードフは、あたかも作家の掌で動くようで、ずいぶんと素直な男に造形されていた。もうちょっとキャラクターを作家の思想から自由にしてやれば良いのに、と思うのだが、トルストイはネフリュードフを駒のように扱っているのである。堕落した者が一度、キリスト教的な道を歩み始めたら、その道を歩み続けられるというほど、人間は良くできているのだろうか?

ペテロはキリストを裏切り、パウロは肉の欲望に悩んだ

キリストの最初の弟子のペテロは、キリストが兵に捕らわれてから、三度、キリストを知らないと言った。裏切った訳である。キリストを間近で見た、最初の弟子でさえ裏切るのである。自分の命が脅かされるような、究極的な場面に追いやられれば、人は心理的に葛藤し、エゴイスティックになるものである。それさえも超越できるほど、自己を捨て、他者のために生き得る者になるためには、心の葛藤が激しくなければならないし、再び堕落してしまうこともあろうが、そこからまた、這い上がらなければならない。

ネフリュードフのように、一度キリスト教的な道を歩み始めたら、いつの間にやらその道が聖者の道となっていた、というのではあまり感心しない。こんなにも人間は容易に変われるものではないだろう。ペテロは裏切ったし、パウロは情欲に悩まされた。ネフリュードフは性的に堕落し、カチューシャの人生をめちゃくちゃにした。こういう人間の性質は容易に変わるものではない。何しろ、10年ののちに、彼は人妻と姦通しているくらいだ。ふたたび、カチューシャをそそのかして犯してしまいたいというおぞましい思いが現れても不思議ではないし、その方がリアルだ。その欲望と理性が相克し、理性が打ち勝つことができるような描写が見たい。打ち勝つためには、血を吐くような苦しみが生じるはずだ。そのくらい強烈な演出がないとネフリュードフって本当に復活したの?と思えてしまうし、それゆえに、新約聖書を読んでその通りに生きようと決意する描写が寒々しく見えるのだ。

ネフリュードフとカチューシャのエピソードを盛り上げる心理描写が欲しかった

本書の訳者が解説を書いているが、ネフリュードフとカチューシャは、お互いに愛し合っている。にもかかわらず、愛を捨てるというエピソードは確かに良い。これは男女の愛を超越したところに、キリスト教的な愛があるのだということだろう。このエピソードそのものは面白いと思うのだが、それに至るまでの心理描写がものたりない。カチューシャはシモンソンやマリアなどの助力によって「復活」するのだが、復活に至るまでの心理描写がものたりないのである。

良い方向に行こうとしても、人間は善悪両方を持っているのだから、すぐに悪へと連れ戻される。だから苦悩する訳だが、善悪のはざまで煩悶する心理描写は少なく、なぜカチューシャが復活できたのか?が読者に伝わりにくくなっていた。遠藤周作の『沈黙』では、キリスト教に惹かれながらも神父を悪に売ってしまう異常な男が出てくる。彼は神父を裏切った癖に神父の元へと歩み寄ったりする。奇妙ともいえる行動から複雑な心理を読み取る方法もあるが、どうも、『復活』には、キャラクターの行動から複雑な心理を描こうとする向きがある訳ではなく、これまで述べたように、ストレートに複雑な心理を描こうとする訳でもないので、読後も、ものたりない印象が残ってしまうのだった。