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【書評】 夢の浮橋 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

 

夢の浮橋 (中公文庫)

夢の浮橋 (中公文庫)

 

 

谷崎純一郎後期の短編『夢の浮橋』と4つの随筆を収めた作品集。『夢の浮橋』発表時の年齢は73歳であった。70過ぎにして玲瓏な作品を書ける彼の才能は凄まじいとしか譬えようがない。

 

谷崎はスウェーデンアカデミーによる資料の通りノーベル文学賞候補にもあがったが、日本語を解さない外国人が彼の文学を理解できたのかは微妙なところである。受賞した川端康成は、谷崎ほど文体に拘ることなく「日本の美」を謳ったが(すなわち外国語によっても川端の「日本の美」を理解することができる)、後期の谷崎における「日本の美」は以下に述べる通りに、彼の日本語による文体と切り離して、彼の「日本の美」を理解することはできないからである。

 

谷崎潤一郎ノーベル賞候補にあがったことの報道については以下の記事をご参照。

三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年 :日本経済新聞

 

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白眉は表題作でもある『夢の浮橋』で、名高い『源氏物語』の”夢の浮橋”から採られている。後期の谷崎作品の文体は、非常に独特で、『源氏物語』や『伊勢物語』等の平安文学を思わせるほどの美しさを放っている。書かれた文体は現代語であるのに、平安文学を読んでいるようなたおやかさを感じ取ることができる。現代文学でありながら極めて国文学的。こんな文学は見たことがなく、稀有な存在であったことが尊ばれる。日本語でなければ谷崎の価値は理解し得ないだろう。

 

夢の浮橋』は題名こそ『源氏』から採られているが、内容は谷崎らしい「母を恋うる物語」となっている。舞台も明治以降の現代である。

 

物語の構成は面白い。

京都に生まれた主人公が小説の形式を取って母を恋うる物語を書いているのだが、母は、若くして亡くなった生母と、その後主人公が9~10歳くらいになって父の後妻となった継母との2人がいる。

生母が若くして亡くなったことで、彼女の夫も、主人公も、生母を強く求めている。そして継母として現れた女性は、実名は異なるのだが生母と同じ名で、父から呼ばれているのだ。そして父は子に、生母は死んだのではなく、このように再び現れたと理解せよと言う。どこかへ遠出をしていて帰ってきただけなのだと夫は言うのだ。

 

小さい頃に生母を亡くして、継母と生母とを同一視させられた主人公は、「母」に関するエピソードを、生母のものなのか継母のものなのか、記憶が朦朧とするという件がある。これは『夢の浮橋』という題名が表すように、おぼろげな生母と継母の記憶の区別は、あたかも夢の如し、というものなのだろう。

 

しかしおぼろげな記憶の区別は、主人公に、生母も継母も1人1人の独立した人間でありながら、「母」という象徴的なものへと統合されていく人間へと、変化させていく。

 

幼い頃に生母が主人公に乳を触らせていたエピソードは、継母も受け継ぐのであり、既に成人した主人公に対しても、継母は同じように乳を触らせる。継母ゆえに血の繋がりは一切ないとはいえ、実父の妻であり、既に「母」へと統合されていた継母は、何の罪悪感もなく主人公に乳を触らせるのだ。

 

このように、「母」という象徴を、2人の人間の個性を犠牲にしてまでも昇華させていく筆の流れは、谷崎らしく残酷である。女性への崇拝の美学を描いた『痴人の愛』も、男性が女性に跪くように見えて、女性美という象徴的なものの前に肉体を持つナオミは跪いていくしかない様を描いている。いわば、谷崎が抱く「母」や「女性美」の前に、生身の母や女性さえも跪く姿が見えてくるのだ。

象徴的なものに、生身の人間が跪いていく思考は、『痴人の愛』の頃から、いささかも変わっていない。

 

結局、母なるものは、継母さえも死を迎えることで、永遠なる象徴へと引き上げられていく。『夢の浮橋』が当作品集の中で圧巻なのは、「母」という象徴へと生母も継母も統合されていくことと、平安文学を思わせるたおやかな文体によって彩られていること、この2つである。

 

少し残念なのは、終盤がしりすぼみになっている点だろうか。継母の死も、だいぶ不自然な事故死であった。それでも尚、「母」という象徴に、生身の人間を跪かせたかったということが窺われるが、物語の構成としては欠陥があると言わざるを得まい。

 

他の4つの随筆はあまり出来の良いものではないのだが、最後にある文壇の昔話は面白く読めた。

特に泉鏡花が師匠の尾崎紅葉を愚弄した徳田秋声を殴ったエピソードは、毎朝紅葉の写真に手を合わせて一日を始めていた鏡花らしくて面白い。

また、これも泉鏡花だが、みんなで鍋をつついている時、谷崎がどんどん食べてしまうので、鏡花が箸で鍋の中に線を引いて、「ここからは僕のだ」と言う。しかし谷崎は話に夢中になって、境界線を忘れてどんどん食べてしまう。すると鏡花が「あっ、それは僕のだったら」と言って焦る。その様子がおかしいのでわざと知らない振りをして鏡花の分の具を食べてしまうというようなエピソードは、おかしくて仕方がない。

【書評】 対岸の彼女 著者:角田光代 評価☆☆☆☆★ (日本) 

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

対岸の彼女』は女性心理を鋭く描いた良作である。エンターテインメント作品を賞の対象とする直木賞受賞作であるが、あまりエンターテインメント的ではないように思う。純文学という言葉はどうにも好きではないが、他に言い方がないので使わせてもらうと、本作は純文学的である。直木賞受賞作のため、エンターテインメント的と思われるのだろうけれど。俺は少なくともそう読んだ。

 

物語はセンセーショナルな骨格を持っており、そこだけを見るとエンターテインメント的に面白いと思わせるが、「女性の心理」、それと「女性と他者との関わり方」、「女性のビジネスへの関わり方」をえぐり出すことにこそ主軸が置かれていて、楽しんで読むというよりも、読者に思案の余地を与える。小夜子の物語はビジネスのシーンが相当に多いので、エンターテインメント的でもあるのかもしれないが、自身が悟り得なかったアイデンティティを取り戻して行くもので、文体の生硬さとあいまって、軽々しく読めない。それに、葵の物語は割と陰湿な心理が描かれている。やはり本作は純文学的だと思うのだが・・・

 

■物語

 

物語は二人の主人公を軸に進められる。小夜子という主婦と、葵という女子高生の物語が村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のように交互に語られて行く。ただし、葵の物語は過去の回想で、成人して実業家になった彼女は、現在で、小夜子と出会っている。小夜子を雇う者として。そして、物語は収れんする。『ハードボイルドワンダーランド』は収れんしないが、本作は物語が明確に繋がる。

 

主婦・小夜子は、元銀行員で、夫と小さい娘がいる。夫の収入で充分に家計をやりくりできるものの、元々働いていたこともあり、小さい娘が自身と同様に引っ込み思案であることもあり、そして自身が人間関係を上手く築けないこと等が複雑に絡み合って、働くことを決心する。

 

そして就職活動を開始するが、なかなか合格できない。ようやく合格できた企業が、楢橋葵が経営する旅行会社プラチナプラネットだった。ただし会社は清掃代行業を始めていて、小夜子はそのメンバーとしての採用だった。

 

娘のあかりは保育園に預けられることになり、最初は泣きじゃくっているが、最後の方では他の園児ともコミュニケーションを密にしてしっかりしてくる。

 

現在、実業家の葵は、タバコをぷかぷか吸って人間関係もオープンであるが、横浜に住んでいた中学時代にはいじめられて、高校入学と共に、群馬に越して来ている。その物語が並行して描かれているのだが、葵の中学から高校時代までの心理が、現在の小夜子のそれとよく似ているのだ。

 

葵は親友のナナコと放課後に常にいっしょに遊ぶが、高校の中ではまずつるむことがない。葵は中学時代にいじめられた過去を持つので、高校では目立ちたくなく、固定化されたグループに属している。しかしナナコはどこのグループにも属さず、色々なグループを渡り合うので、「いじめられた経験を持つ者の勘」として、いずれ、ナナコはどこにも属せない女として、いじめの対象になるのだと感じるからだ。それゆえに、高校ではナナコとつるまない。そして、その勘は当たる。

 

こういった心理描写が連綿と続くのが葵の物語である。あたかも小夜子の過去の体験であるかのように描かれる葵の物語が並行して描かれることで、そして小夜子が徐々に、ビジネスの現場で頭角を表してくることで、葵が大学を出て成人して実業家として働いていくまでに成長したプロセスが、小夜子の成長によって象徴的に描かれている。

 

現在において、小夜子がかつての葵のように自分に自信がなく、他者との関係こそを重視して、自身を深めたり磨いたりすることなく生きていた経験から、ビジネスを通じて、自身の心理を高めていくプロセスが、実は葵自身のプロセスでもあること。小夜子も葵も似た者同士であり、違うように見えるのは、葵は既に変わってしまった者であり、小夜子はこれから変わりつつある者として、描かれている。

 

特に小夜子が、清掃業という、彼女自身さほど関心がなかった業界において、他人の家の清掃をすることで、清掃の価値に気付いて、清掃業で働くことへの強い意欲を持つようになっていく様は、働く者として、強い共感を覚える。

 

小夜子と葵の物語が収れんしていく終盤において、葵の会社を小夜子は辞めてしまう。その理由は、清掃代行業を辞めて旅行業に辞めてしまったからだが、そうすると、葵の会社の従業員はばたばたといなくなり、遂には葵だけになってしまう。葵は強い意欲をもって会社経営をしていたが、戦略がなく行き当たりばったりで経営をしていたので、従業員が嫌気を感じていたからである。

 

しかし、最後に小夜子は、何もなくなってしまった葵の元へと戻る。彼女が葵の元へと戻るシーンは、かつての親友ナナコの再来を想起させ、読者に深い感銘を与えることだろう。

 

 評価において★を1つ減らしたのは、文体も終盤に近づくにつれて徐々に生硬さが減じられ、小夜子の物語の後半がやや平板になってしまったことである。文体は最後まで緊張感をもって書き貫いて欲しかったし、小夜子の物語の展開も神経を張り巡らせて欲しかった。

ただ、重要な部分において欠陥がある訳でもないので、角田光代の小説でどれを読んだら良いかと聞かれれば、迷わず本作を勧めることだろう。そのくらい、良い作品だった。

【書評】 六〇〇〇度の愛 著者:鹿嶋田真希 評価☆★★★★ (日本)

 

六〇〇〇度の愛

六〇〇〇度の愛

 

 

小説であり映画でもある『ヒロシマ、モナムール』を読み、あるいは鑑賞したことはなくとも、その名前は知っている。映画版は『二十四時間の情事』と、題名のみでは「戦争と恋愛」を描いた作品かいなか判別がつかなくとも、主演のひとり岡田英次が国際的にその名を知られた映画であることで、フランス映画にほとんど関心がない俺でも、何かしらの矜持をもってその名を記憶している。

 

つまり日本人として何らかの誇らしさを感じるのだ。むろん、映画はヒロシマに原爆が投下されたことへの悲劇を描いてもいるのだが、映画という文化を通じて日本人が出ていること、それにはヒロシマに原爆が投下された事実がなくてはならなかったことを考えると、誤解を招くのを承知で言うが、原爆の投下の事実さえ誇らしさを感じるのだ。

 

だがその原作小説にインスパイアされた『六〇〇〇度の愛』という換骨奪胎の出来そこないに対して、俺は日本人であることへの恥ずかしさを覚える。あまりにくだらない小説だからだ。

 

著者の鹿嶋田真希は、正教徒の信者であるらしいのだが、鹿嶋田が小説に散りばめた無味乾燥なキリスト教的な言葉の数々を見ると、信者であることと文学の価値は一切関係がないことを証明しているかのようだ。キリスト教徒であることが文学に深い価値、あるいは影を落とす作家が、『六〇〇〇度の愛』以前にいくたも生まれていることを思うと、鹿嶋田がキリスト教徒たることは何かしら良い影響を与えるのではないかと想像するが、本作を読む限り、文学の価値をいささかも高めていない。

 

小説の舞台は広島ではなく長崎である。既婚者である主人公の女性が、東京から長崎に赴き、青年と情事を交わす姿は、『二十四時間の情事』の主演女優エマニュエル・リヴァを演じているのだろうが、こっけいとしか言いようがない。己の不倫を正当化するための原爆が投下された長崎を舞台にし、キリスト教の言葉や、原爆投下に関わる言葉が、鹿嶋田のインテリぶった文体で描かれただけだからだ。

 

小説の冒頭で、団地のベルが鳴って長崎に投下された原爆を想起するというシーンがある。一体なぜ主人公はそこまで原爆を想起することができたのか。これをギャグではなく大真面目に想起させているところに、著者の文学的センスの無さがありありと表現されている。要は、「気取ってんじゃねえぞこのバカヤロー」とでもつぶやいて、床に叩きつけたくなる、そんな駄作であった。

近況

 

好きなゲーム

 

 

俺が好きなゲームはプロフィールにも書いてあるけれど、ストーリー性の高いものばかり。したがって携帯アプリとかはまず合わない。

小説や映画と同じ感覚でやる感じだ。

日本では携帯電話のアプリゲームや、携帯ゲームが主流で俺には全く肌に合わず、何年かゲームをやってなかった時代もあるが、最近PS4を買って映像が美麗になり、実写映画っぽいゲームが多くなってきたことがわかったので、またハマるようになる。俺の好きな海外作品が世界的に主流になってるのも、良いのかな。国産ゲームはあんまり好きじゃない。アニメっぽいのが多いし。

 

道端3姉妹のように?

 

この土日は久しぶりに2日連休だったから、子どもと遊んでいた。 

俺は女の子が2人いて、今月もう1人生まれるがその子も女の子だ。女の子3人!多いな・・・でも華やかで良いよ。華やかな方が良い。

ちなみに上が今年6歳、4歳の順。

 

道端3姉妹のようになるだろうかw

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地味な花も踊れば映える

 

 

昨日は子どもがAKB48YouTubeで見たいと言うので、スマホで見せていたんだ。でもスマホだと画面が小さいからすぐに辞めて、テレビでYouTubeで見せた。AKBよりも乃木坂派の俺はどの曲も「かわいい子がいねぇなあ」ってな感じだった。あっちゃんも大島優子マリコ姉さんもイマイチだ。

 

けれど、『恋するフォーチュンクッキー』を見ていたら、まるでこの曲の歌詞のように、踊ってしまった。

 

カフェテリア流れるミュージック

ぼんやり聴いていたら

しらぬ間にリズムに合わせ

つま先から動き出す

 

そう。しらぬ間にリズムに合わせ、つま先から動き出すような、ついつい踊ってしまうこの感じ。

子どもが冒頭と終盤でAKBのメンバーがやってる手のポーズ(あれなんていうんだ?)がおかしくて、俺も一緒になって踊っていた。

案外俺、ダンス好きかもしれない。

『Sorry』も踊っちまうしな。


Justin Bieber - Sorry (PURPOSE : The Movement)

 

音楽も良いけれど、歌詞も非常に良い。

だって普通の女の子の歌詞だろう。等身大の。

歌詞の主人公は「可愛いコたち」の対極もしくは「可愛いコ」の外にいる子だ。「地味な花」である女の子が恋をして、でもなかなかうまく言えなくて、恐らく告白しても撃沈するだろうけれどという感じ。

なんかこう、映画にしろ漫画にしろ美人ばかりだし、俺も面食いだから美人しか興味はないが笑、でも、世の中、美人ばかりではない。

普通の子が「大勢」いるんだ。

そういう子を主人公にして、100万枚以上ものセールスを記録したのだから、素晴らしい。

この曲でセンターを飾った指原という子がまた、この曲の「普通の子」「地味な花」を体現した顔つきで、それでいてこの曲そのままに楽しそうに踊っていて、良いセレクトだ。

 

対岸の彼女を再読

 

 

ぜんぶ読んでいないけれど、通勤時間に角田光代という小説家の『対岸の彼女』を読み返している。

昔読んで面白かったのを思い出し、再読。

俺は、基本的にビジネス書でも哲学書でも小説でも、本は読み返すタイプ。読み返す価値がないものは捨てる。

 

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

文章が読ませるし、ストーリー展開が巧みで、なかなか面白い。そしてエピソードが良い。昔読んで面白いと思った作品が、今読むとつまんねえってことはあるけれど、この作品は違う。ストーリーを覚えていないので、どんな展開になるのか?とハラハラしながら読む。

 

エピソードをひとつ。

主人公の一人と思われる楢橋葵という女性が田舎の高校に入学した時、ナナコという同級生から、名前なに?と聞かれる。

楢橋は中学時代にいじめられていたので、嫌われないようにふるまおうとしている。

「楢橋葵」と答えるが、分かりやすいように「楢の木の楢、橋はブリッジの橋うんぬん」と教えてやる。しかし相手は、楢ではなく奈良と誤解し、「奈良の木って有名なの?」聞かれる。そして楢橋は誤解を訂正しない。変に目立って訂正したくないからだ。

このエピソードが好きだ。

 

なぜなら、俺もあんまり高校までの学校が好きではなくって、周囲とうまく溶け込めなかった。男の子ってスポーツが好きだろう。ボール遊びが特に。俺は脚は早かったが不器用なのでボール遊びができない。バスケやバレーそしてドッヂボールでさえ突き指したり、野球をやるとキャッチャーにバットを当てそうになって監督に叱られたりした。

 

昔から本を読んだりゲームしたり、人形で遊ぶ方が好きだった。絵が下手なのに絵を描いたりして女の子と遊ぶ方が楽しく、そして極めつけは、女の子が読むような少女漫画が好きだったりと、気持ち悪い子ども時代だ。

 

大学に入学して、学校で面白いところなのかと初めて知ったのだが、それは大学が学生を管理せずに自律させているからだろう。だから、自分で作ろうとしないと友達一人できないし、敢えて作らなくっても良い。孤独を味わおうとすればいくらでも味わえるからだ。でも高校まではそうはいかない。作らなきゃダメという感じ。

だからなんとか俺も友達を作ろうとしていたが、本当は要らなかった笑

でもそうは言えず、必要な振りをして、嫌われないようにひっそりとしていた。そう、俺も誤解を訂正しないで相手に合わせていたのだ。懐かしい、この感覚。

 

今なら全て間違いをただしてしまいたくなる(しないが)が、それは職業柄仕方のないところ・・・

 

それでこの本って文庫本なんだが、版を見ると2007年初版、2010年に6刷を重ねたことになっている。

妻が長女を妊娠していたのが2010年で、家にばかりいて退屈だから本を買ってきてと言われて買った本のひとつがこれだったことを、思い出す。そうだ、そしてその時妻が読んだ後に俺が読んだのだった。忘れていた。

長女をおなかに宿していた妻が、3人目の子を宿している。

妻はもはやこの本を読まないと言っていたけれど、俺はもう一度読み、上記のエピソードで懐旧の念に浸り、「ああ、3人目の子を宿している時にも俺は本書を読んでいるのか」と思う。

 

最初に生まれた子どもは大きくなり、『恋チュン』を俺と一緒に踊っている。

 

【書評】 ひとり日和 著者:青山七恵 評価☆★★★★ (日本)

ひとり日和 (河出文庫)

ひとり日和 (河出文庫)

青山七恵芥川賞受賞作の表題の他、一つの短編が収められている。
初めに言っておくと、俺は現代日本文学が全体的に苦手である。巧みなストーリー展開を披露した遠藤周作が生きていた頃くらいまでは良かったのだろうが、今や退屈な作品が多い。

一番の理由が、私小説的に日常を淡々と描いた作品が多いからだ。

そんなものを読んでもだから何なの?と思ってしまう。何のドラマもなく、物語らしいものもなく淡々と日常を描いたものに価値を感じない。

そういう訳で『ひとり日和』も淡々と日常を描いた作品として、ほとんど存在価値を感じることはなかった。こんな作品に芥川賞を与え、若手の登竜門としての評価を与えているから、日本文学が代わり映えしないのだ。

本書の解説者が言うように、透明感のある文章ではあるが、ストーリー展開は見るべきものがない。透明感のある文章は確かに悪くないから、創作はやめて、日常的な出来事を淡々と描くエッセイでも書いていればまだしもこの作家の魅力は出るのだろう。しかしこれは小説だ。創作力のかけらも感じない。

特に退屈なのは恋愛描写だ。まるでこの青山七恵という人は恋愛経験がゼロなのではないかと疑うくらいに単調な描写が続く。

恋愛の対象は三人出てくる。

一人は陽平。二人目は藤田。そして最後は同僚。どの相手にも、どのくらい好きなのかとか、あるいは、どうして好きになったのかが全く描かれていないのだ。だからどんな出来事が起こってもだから何なの?と思う。読者は主人公の人間関係に他人事なのだ。

陽平とは、どこかの小説か映画で見たかのように、主人公が訪ねていくと、下着姿の女が現れて終わる。この終わり方もありきたりで覚めるが、主人公は陽平を好きかどうかも分からないから、どうでも良い描写になっている。
もっとも、陽平の場合は、主人公が同居することになるおばあさんとの関係をよりクローズアップするための素材だから、まだこの程度の描写は許されるかもしれない。

しかし、一方、藤田に対してはどうか。一番長く主人公との関係を文章で書いてある相手なのに、大して話したこともないのにいきなり恋愛対象になっていて、簡単に付き合えている。

主人公は、年齢が20歳くらいの若い女性だ。大してきれいでもなく、おしゃれでもなく、文章を読む限り魅力を感じない、孤独を愛する女性だ。しかもおばあさんと同居している。

こんな女性が気軽に男と付き合える訳がない。ましてやセックスも自然に行える訳もない(でも、セックスもできている)。もてない男なんていうエッセイがあるが、主人公はいわば、もてない女である。

藤田のことを、主人公がどのくらい好きなのか分からないし、なぜ好きになったのかも分からないから、主人公を藤田が振ったのも当然と言えば当然だが、あいかわらず、だから何なの?という感想しか出てこないのだ。

そしてさいごに出てくる同僚の男。この男とも何やらデートめいたことをするのだが、男は実は既婚者なのだ。

既婚者が不倫したいと思う時、結婚では味わえない感情を味わう時に不倫したくなる訳だ。つまり恋愛である。結婚と恋愛を別物と考えてしまう既婚者にとって、現実の生活感のある異性よりも、非現実的な恋愛を楽しめそうな異性との交際を望む。だから、主人公みたいにもてない女なんて選ぶはずもない。

もし、もてない女でも不倫の相手に選ぶとしたら、主人公に何らかの魅力があって、男がそれに陥れられなければならぬのだが、そんな根拠はどこにも書いていない。

この小説は、恋愛を一切排除すれば良かったと思う。書けないのだから。

恋愛を排除し、おばあさんとの奇妙な同居(同居のシーンだけは良い)だけを描いていれば良いのだ。そしてオタクみたいな生き方を貫き、男なんかくだらねーバーカバーカとオッサンみたいなこと言って、そして、何か、それこそ、小説とか漫画みたいなのが好きで、応募しているが全く受からなくて、バカヤローって一人で怒鳴ってる女だったら、まだ面白かった。というか、そういう設定の方がまだリアリティがある。こんな嘘くさい恋愛描写と、全く進展しないストーリーを見せられるくらいならば。