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【書評】 問題解決プロフェッショナル 思考と技術  著者:齋藤嘉則 評価☆☆☆☆☆  (日本)

 

新版 問題解決プロフェッショナル―思考と技術

新版 問題解決プロフェッショナル―思考と技術

 

 

もはや紹介不要とさえ思われる問題解決の基本書。著者は経営コンサルタント、H.ミンツバーグ『戦略サファリ』の監訳も務める。経営コンサルタントが書いた問題解決の本とはいっても、コンサルタントに限ったものではなく、一般のビジネスに携わる人向けの本である。

 

本書はあまりに有名で、就活中の学生さえ手に取る本だから、レビューを書くことすら恥ずかしくさえ思えるが、それだけ人口に膾炙したのは、問題解決の手法とは、コンサルタントの基本に留まらず、ビジネスの基本であるからだ。

 

思考編で「ゼロベース思考」「仮説思考」を、技術編で「MECE」「ロジックツリー」が説明される。

・・・と、まあ、「ゼロベース思考」だの「MECE」だのと、このありきたりとも言い得る言葉を並べると、「何を今さら」と思われるかもしれない。しかし本書ほど、上記の4つの項目について、事例や図を用いて、不要物を排した簡潔な日本語で説明されたものは類を見ない。

 

そして、プロセス編と実践編で「ソリューションシステム」が紹介されるが、思考編と技術編を駆使したものなので、思考編・技術編が基礎ならば、「ソリューションシステム」は応用とでも言うべきものだ。

 

著者によって考え抜かれた思考は、簡潔な言葉で並べられ、ビジネス書でありながら静謐な美しささえ感じさせる。問題解決の基本的な考え方をこれ以上でもこれ以下でもなく、シンプルに書き連ねられた本書は、ビジネス書の古典か教科書であるかのよう。

1997年に出版された本書がビジネス書としては異例のロングセラーとなり、35刷の版を重ねたのも、当然という感じだ。

 

本書を読むと、問題解決は問題解決の思考を元に、ビジネスで現実に「実行」することが重要だと分かる。当然だが単に問題解決の知識を知っているだけでは意味がなく、実行しなければ価値を持たない。

 

例えば、ゼロベース思考については以下のように説明される。

 

<ゼロベース思考>とは、「既成の枠」を取り外して考えるということである。

 

ゼロベース思考とは「既成の枠」を取り外して考えること。文章化すれば「な〜んだ、そんなこと」と思われるだろうが、著者が指摘する通り、わかっていることと、実行できることとは大いに違う。

 

「既成の枠」を取り外して考えること、即ちゼロベース思考を「実行」してみると、非常に難しいことに気付く。

例えば仕事をしている時に自らの思考を振り返ってみると、案外に自らの「既成の枠」に囚われていることを知るだろう。これまでの自らの仕事のやり方、自部門のやり方、会社のやり方を踏襲する。それが当たり前で、問題解決もその枠の中で考えていく。それで問題が解決できていれば良いが、なぜか上手くいかない。問題が深いものであればあるほど、解決策は導き得ないだろう。

 

そういう時に、自らの枠(既成の枠)の外を目指して、解決策を考えていくと導き出されることがある。しかし、そのためにはよほど考え抜かなければならないし、考えたところで必要な人材を活用しなければならないし、上司や会社の壁も出てくるかもしれない。

 

壁にぶつかると精神も折れてくるし、「もういいか」と思いたくなる。しかしそう思ってしまうと、「既成の枠」の内側に、思考がまだ滞っていることになる。「もういいか」ではなく、「もう少しがんばってみよう」と実行することで「既成の枠」の外にある解決策を導出することができよう。非常に労力の要る思考と実行であるが、本質を突いた解決策が出てくるはず。既成の枠を外して解決策を導き出すのだから、楽ではないのだ。

 

しかも既成の枠に安住している方が壁もなくて楽なので、ついつい居心地が良くて、思考を居座らせがちである。ゼロベース思考を自分のものにするには、よほど鍛錬をしなければならないことが分かると思う。

 

仮説思考についてはこんな感じ・・・

これは引用した文章を読んだだけで「な~んだ、そんなこと」とは思えないだろう。むしろ「これはなかなか手ごわいぞ」と思うのではないか。

 

<仮説思考>とは、限られた時間、限られた情報しかなくとも、必ずその時点での結論を持ち、実行に移すということである。

 

何しろ、必ず、その時点での結論を持つ、などと言うことは普通に仕事をしていたら、できないからだ。

例えば全く新規の問題が勃発した時に、その時点での結論を必ず持っているなどということは、普通はできない。さあ、どうしようと考えあぐねるばかりだ。

しかし仮説思考を習得しておくと、新規の問題であっても必ずその時点での結論を出せるのだ。

当然ながら100%完璧な結論ではない。ビジネスで求められているのは、最初から完璧な結論ではなく、荒削りでも良いから迅速に結論を出す、ということだ。

そして、「So What?(だから何なの?)」と解決策に問い続けて結論を更新し、検証していく。そうすることで精度の高い結論が出てくるだろう。これだけ変化が速い現代のビジネスの現場では、ゆっくりじっくりと検証を重ねているうちに前提が様変わりすることなんていくらでもある。だから、さっさと現時点での結論を出してしまい、検証を重ね、最後に精度の高い結論を出せれば良いのだ。

 

こんな感じで、MECEやロジックツリーについて、ソリューションシステムについても非常に分かりやすく書かれる。そして、本書は問題解決の教科書らしく無駄がない。

 

問題解決の思考と実行はどこでも使える。例えば俺が趣味で書いているライトノベル(笑)でも、「仮説思考」を使って、こういう小説の枠組みにしよう、キャラはこんな風にとしておく。とりあえず結論を出すということだ。

そうするとすらすらと書けるが、完璧な結論ではない(つまりこれでこの小説は完璧!とは言い得ない)。ゆえに、「だから何なの?」を使って物語を更新していく。そうするとそんなに時間がかからずに、納得のいく小説が書ける。

 

ただし、小説は仕事と違って「大いなるセンス」が問われる。文章力もそうだし、キャラ設定、セリフの選び方、世界観。だから、スピーディに書けるからと言って俺のラノベが新人賞を獲れるとも限らないのだが苦笑

 

閑話休題、問題解決の思考を元にビジネスの現場で実行するのが本書の目的だから、きれいにカバーをつけて読むのではなく、「雑」に使っちゃおう。後生大事に抱えても仕方がない。線など引いて、書きこんだりして、習得して使い倒し、実践に活用することが良いだろう。

問題解決をビジネスで実行できるようになれば良いのだが、結構難しい。しかしできるようになると、問題に対する的確な解決策を導出できるようになるし、ひいては仕事の効率化にもつながる。働き方改革として問題解決の手法を使ったら、労働生産性が高まるだろうから。

食事処at川崎

川崎で泊まりの仕事があったので、夜は外で食べてきました。

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1日目は、とんかつ・つか田

この店は川崎駅から遠いですが、安くて旨いです。
川崎の歓楽街を通過した先にあります笑

ロース定食は1050円。

ロースは脂身が少なく、柔らかいので、箸でサクッと切ることができるんです!

と、味は良いんですけれど、店内がカウンターとちんけな座敷のみなので、めっちゃ狭い!オマケに喫煙可なので、嫌煙家の俺には辛い環境です。。。

んー、でも美味しいからまた来ちゃうかもな〜



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2日目は、炭火串焼のTorico。

炭火串焼の店にもかかわらず、なんと全席禁煙という高待遇!店内には子連れもいるくらい。

しかも、喫煙者のために喫煙室もある。飲み屋で禁煙はありがたいけれど、喫煙室もないと喫煙者を連れて行けないんですよね。それだと客足も遠のく。喫煙者って、お酒飲むとタバコを吸いたくなるようで。

店内は明るいデザインで、女性連れにも良さそうです。てか、女性だけでも入りやすい。俺が行った日もいましたけど、こういう店に一人で来てる女性って良いですね。

串焼はあっさりした味で口当たりがまろやか。値段もお手頃。

オーナーは女性だそうです。気遣いがさすが。また来よう!

俺みたいに一人で訪れてサクッと食べて、帰っても良い。

女の子と来ても良い店。川崎のくせにやるじゃないの!!
この店も駅から遠くて、たどり着くまでに、繁華街を通るのが早いけど、迂回してでもまとも(?)な道から来た方が、男の株は上がる。川崎の歓楽街って下品だからなぁ。

【映画レビュー】 バトルシップ 評価☆☆★★★ (2012年、米国)

 

バトルシップ [Blu-ray]

バトルシップ [Blu-ray]

 

 

製作費2億ドルもかけた超大作SFアクション映画。しかし全世界の興行収入は3億ドル程度と、製作費に比して大ヒットとは言い難い興行成績だ。日本では浅野忠信が出演していることもあり、14億円程度のヒット作となっている。リーアム・ニーソンも出演しており、『沈黙』以前に浅野とニーソンが共演していることを知った。

 

予め、ラジー賞に他部門でノミネート、また、ローリングストーン誌を始め、批評家から酷評されていることを知っていたので、単に浅野を見るためだけに鑑賞。

 

本作はユニバーサル映画100周年記念作品であり、また、そういうハリウッドの大作映画に浅野が出演したという事実は面白いが、映画は面白くない。浅野忠信には、もう少し面白い映画に出演して欲しかった。

本作でのパフォーマンスもそれほど良くはない。浅野の登場シーンは、冒頭から良くない。日米対抗のサッカー試合で出て来るのだが、主人公のライバルとしてのポテンシャルを示すために、やや威嚇的に主人公に対するのだが、どこの馬の骨ともわからないアジア人が調子に乗っているようにしか見えない。何だか、高校生までずっと陰気だった癖に大学デビューすると級に快活な振りをして周りとコミュニケーションを取りたがる男みたいだ。

浅野は声がこもっているので、快活な役柄はあまり得意としない。『私の男』のような陰惨で狂気的な役柄は巧みに演じるし、あるいはテレビドラマだが『ロング・グッドバイ』のように裏社会と表社会の接点にいるような探偵役を自然に演じるのだが、本作のように主人公のライバルとして露骨に対照的なパフォーマンスを見せる役柄は不得手である。

 

ラストサムライ』や『インセプション』のような良作に出演した渡辺謙に比べると、ハリウッド映画に関しては、浅野は、作品選びが悪かったように思う。とはいえ、最近の『沈黙』は悪い映画ではないし、浅野自身も良い演技を見せていたので結果オーライか。

 

日本では『バトルシップ』のファンがいて、彼らをバトルシッパーと呼ぶという。みうらじゅんのようなB級映画を偏愛するファンなのだろうか。確かに、B級映画的な面白さはあるようだ。特に機械のようなエイリアンは、金を徹底してかけながらもデザイン性にかけ、非常にチープだ。金をかけながらチープなデザインしか描けないというのは、往年のB級映画インデペンデンス・デイ』を思い起こさせるだろうか。

 

ただ、俺にはそういう楽しみは出来ないので、本作も高い評価を与えることは出来なかった。

 

【書評】 夢の浮橋 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

 

夢の浮橋 (中公文庫)

夢の浮橋 (中公文庫)

 

 

谷崎純一郎後期の短編『夢の浮橋』と4つの随筆を収めた作品集。『夢の浮橋』発表時の年齢は73歳であった。70過ぎにして玲瓏な作品を書ける彼の才能は凄まじいとしか譬えようがない。

 

谷崎はスウェーデンアカデミーによる資料の通りノーベル文学賞候補にもあがったが、日本語を解さない外国人が彼の文学を理解できたのかは微妙なところである。受賞した川端康成は、谷崎ほど文体に拘ることなく「日本の美」を謳ったが(すなわち外国語によっても川端の「日本の美」を理解することができる)、後期の谷崎における「日本の美」は以下に述べる通りに、彼の日本語による文体と切り離して、彼の「日本の美」を理解することはできないからである。

 

谷崎潤一郎ノーベル賞候補にあがったことの報道については以下の記事をご参照。

三島由紀夫、ノーベル文学賞最終候補だった 63年 :日本経済新聞

 

* 

白眉は表題作でもある『夢の浮橋』で、名高い『源氏物語』の”夢の浮橋”から採られている。後期の谷崎作品の文体は、非常に独特で、『源氏物語』や『伊勢物語』等の平安文学を思わせるほどの美しさを放っている。書かれた文体は現代語であるのに、平安文学を読んでいるようなたおやかさを感じ取ることができる。現代文学でありながら極めて国文学的。こんな文学は見たことがなく、稀有な存在であったことが尊ばれる。日本語でなければ谷崎の価値は理解し得ないだろう。

 

夢の浮橋』は題名こそ『源氏』から採られているが、内容は谷崎らしい「母を恋うる物語」となっている。舞台も明治以降の現代である。

 

物語の構成は面白い。

京都に生まれた主人公が小説の形式を取って母を恋うる物語を書いているのだが、母は、若くして亡くなった生母と、その後主人公が9~10歳くらいになって父の後妻となった継母との2人がいる。

生母が若くして亡くなったことで、彼女の夫も、主人公も、生母を強く求めている。そして継母として現れた女性は、実名は異なるのだが生母と同じ名で、父から呼ばれているのだ。そして父は子に、生母は死んだのではなく、このように再び現れたと理解せよと言う。どこかへ遠出をしていて帰ってきただけなのだと夫は言うのだ。

 

小さい頃に生母を亡くして、継母と生母とを同一視させられた主人公は、「母」に関するエピソードを、生母のものなのか継母のものなのか、記憶が朦朧とするという件がある。これは『夢の浮橋』という題名が表すように、おぼろげな生母と継母の記憶の区別は、あたかも夢の如し、というものなのだろう。

 

しかしおぼろげな記憶の区別は、主人公に、生母も継母も1人1人の独立した人間でありながら、「母」という象徴的なものへと統合されていく人間へと、変化させていく。

 

幼い頃に生母が主人公に乳を触らせていたエピソードは、継母も受け継ぐのであり、既に成人した主人公に対しても、継母は同じように乳を触らせる。継母ゆえに血の繋がりは一切ないとはいえ、実父の妻であり、既に「母」へと統合されていた継母は、何の罪悪感もなく主人公に乳を触らせるのだ。

 

このように、「母」という象徴を、2人の人間の個性を犠牲にしてまでも昇華させていく筆の流れは、谷崎らしく残酷である。女性への崇拝の美学を描いた『痴人の愛』も、男性が女性に跪くように見えて、女性美という象徴的なものの前に肉体を持つナオミは跪いていくしかない様を描いている。いわば、谷崎が抱く「母」や「女性美」の前に、生身の母や女性さえも跪く姿が見えてくるのだ。

象徴的なものに、生身の人間が跪いていく思考は、『痴人の愛』の頃から、いささかも変わっていない。

 

結局、母なるものは、継母さえも死を迎えることで、永遠なる象徴へと引き上げられていく。『夢の浮橋』が当作品集の中で圧巻なのは、「母」という象徴へと生母も継母も統合されていくことと、平安文学を思わせるたおやかな文体によって彩られていること、この2つである。

 

少し残念なのは、終盤がしりすぼみになっている点だろうか。継母の死も、だいぶ不自然な事故死であった。それでも尚、「母」という象徴に、生身の人間を跪かせたかったということが窺われるが、物語の構成としては欠陥があると言わざるを得まい。

 

他の4つの随筆はあまり出来の良いものではないのだが、最後にある文壇の昔話は面白く読めた。

特に泉鏡花が師匠の尾崎紅葉を愚弄した徳田秋声を殴ったエピソードは、毎朝紅葉の写真に手を合わせて一日を始めていた鏡花らしくて面白い。

また、これも泉鏡花だが、みんなで鍋をつついている時、谷崎がどんどん食べてしまうので、鏡花が箸で鍋の中に線を引いて、「ここからは僕のだ」と言う。しかし谷崎は話に夢中になって、境界線を忘れてどんどん食べてしまう。すると鏡花が「あっ、それは僕のだったら」と言って焦る。その様子がおかしいのでわざと知らない振りをして鏡花の分の具を食べてしまうというようなエピソードは、おかしくて仕方がない。

【書評】 対岸の彼女 著者:角田光代 評価☆☆☆☆★ (日本) 

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

対岸の彼女』は女性心理を鋭く描いた良作である。エンターテインメント作品を賞の対象とする直木賞受賞作であるが、あまりエンターテインメント的ではないように思う。純文学という言葉はどうにも好きではないが、他に言い方がないので使わせてもらうと、本作は純文学的である。直木賞受賞作のため、エンターテインメント的と思われるのだろうけれど。俺は少なくともそう読んだ。

 

物語はセンセーショナルな骨格を持っており、そこだけを見るとエンターテインメント的に面白いと思わせるが、「女性の心理」、それと「女性と他者との関わり方」、「女性のビジネスへの関わり方」をえぐり出すことにこそ主軸が置かれていて、楽しんで読むというよりも、読者に思案の余地を与える。小夜子の物語はビジネスのシーンが相当に多いので、エンターテインメント的でもあるのかもしれないが、自身が悟り得なかったアイデンティティを取り戻して行くもので、文体の生硬さとあいまって、軽々しく読めない。それに、葵の物語は割と陰湿な心理が描かれている。やはり本作は純文学的だと思うのだが・・・

 

■物語

 

物語は二人の主人公を軸に進められる。小夜子という主婦と、葵という女子高生の物語が村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のように交互に語られて行く。ただし、葵の物語は過去の回想で、成人して実業家になった彼女は、現在で、小夜子と出会っている。小夜子を雇う者として。そして、物語は収れんする。『ハードボイルドワンダーランド』は収れんしないが、本作は物語が明確に繋がる。

 

主婦・小夜子は、元銀行員で、夫と小さい娘がいる。夫の収入で充分に家計をやりくりできるものの、元々働いていたこともあり、小さい娘が自身と同様に引っ込み思案であることもあり、そして自身が人間関係を上手く築けないこと等が複雑に絡み合って、働くことを決心する。

 

そして就職活動を開始するが、なかなか合格できない。ようやく合格できた企業が、楢橋葵が経営する旅行会社プラチナプラネットだった。ただし会社は清掃代行業を始めていて、小夜子はそのメンバーとしての採用だった。

 

娘のあかりは保育園に預けられることになり、最初は泣きじゃくっているが、最後の方では他の園児ともコミュニケーションを密にしてしっかりしてくる。

 

現在、実業家の葵は、タバコをぷかぷか吸って人間関係もオープンであるが、横浜に住んでいた中学時代にはいじめられて、高校入学と共に、群馬に越して来ている。その物語が並行して描かれているのだが、葵の中学から高校時代までの心理が、現在の小夜子のそれとよく似ているのだ。

 

葵は親友のナナコと放課後に常にいっしょに遊ぶが、高校の中ではまずつるむことがない。葵は中学時代にいじめられた過去を持つので、高校では目立ちたくなく、固定化されたグループに属している。しかしナナコはどこのグループにも属さず、色々なグループを渡り合うので、「いじめられた経験を持つ者の勘」として、いずれ、ナナコはどこにも属せない女として、いじめの対象になるのだと感じるからだ。それゆえに、高校ではナナコとつるまない。そして、その勘は当たる。

 

こういった心理描写が連綿と続くのが葵の物語である。あたかも小夜子の過去の体験であるかのように描かれる葵の物語が並行して描かれることで、そして小夜子が徐々に、ビジネスの現場で頭角を表してくることで、葵が大学を出て成人して実業家として働いていくまでに成長したプロセスが、小夜子の成長によって象徴的に描かれている。

 

現在において、小夜子がかつての葵のように自分に自信がなく、他者との関係こそを重視して、自身を深めたり磨いたりすることなく生きていた経験から、ビジネスを通じて、自身の心理を高めていくプロセスが、実は葵自身のプロセスでもあること。小夜子も葵も似た者同士であり、違うように見えるのは、葵は既に変わってしまった者であり、小夜子はこれから変わりつつある者として、描かれている。

 

特に小夜子が、清掃業という、彼女自身さほど関心がなかった業界において、他人の家の清掃をすることで、清掃の価値に気付いて、清掃業で働くことへの強い意欲を持つようになっていく様は、働く者として、強い共感を覚える。

 

小夜子と葵の物語が収れんしていく終盤において、葵の会社を小夜子は辞めてしまう。その理由は、清掃代行業を辞めて旅行業に辞めてしまったからだが、そうすると、葵の会社の従業員はばたばたといなくなり、遂には葵だけになってしまう。葵は強い意欲をもって会社経営をしていたが、戦略がなく行き当たりばったりで経営をしていたので、従業員が嫌気を感じていたからである。

 

しかし、最後に小夜子は、何もなくなってしまった葵の元へと戻る。彼女が葵の元へと戻るシーンは、かつての親友ナナコの再来を想起させ、読者に深い感銘を与えることだろう。

 

 評価において★を1つ減らしたのは、文体も終盤に近づくにつれて徐々に生硬さが減じられ、小夜子の物語の後半がやや平板になってしまったことである。文体は最後まで緊張感をもって書き貫いて欲しかったし、小夜子の物語の展開も神経を張り巡らせて欲しかった。

ただ、重要な部分において欠陥がある訳でもないので、角田光代の小説でどれを読んだら良いかと聞かれれば、迷わず本作を勧めることだろう。そのくらい、良い作品だった。