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【書評】 ○○○○○○○○殺人事件 著者:早坂吝 評価☆★★★★ (日本)

○○○○○○○○殺人事件 (講談社ノベルス)

○○○○○○○○殺人事件 (講談社ノベルス)

『○○○○○○○○殺人事件』とは

『○○○○○○○○殺人事件』は、早坂吝のミステリー小説。第50回メフィスト賞受賞作品。

不思議なタイトルの訳は、読者にタイトル当てを迫るというもの。最後まで読むと答えが書いてあるが、知っても爽快感を得られないのであまり意味がない。なんでこんなタイトルにしたんだろうか。

メフィスト賞は、作家の舞城王太郎が受賞したことのある賞だ。私はミステリー作家時代の舞城が好きだったので、それ以来、何となくメフィスト賞作家には関心を持っているが、あまり面白い作品には出会えていない。『○○○○○○○○殺人事件』も同様。文体も世界観もへたくそで、ライトノベルの中でも低俗な部類に入る作品である。

探偵の人物設定がめちゃくちゃな駄作

おとなしい区役所勤務の男・沖が語り手。観光系のブログがきっかけで南国でオフ会をやるようになった男女のグループがいる。沖もその1人。ある時に参加した南国で、メンバーの男女が失踪した。探しているうちに殺人事件が起こる。南国は電話もネットも繋がらず、密室のようになってしまった。犯人はメンバーの中にいるらしい。誰なのか。

一応のミステリー仕立てにはしているのだが、らいちという「事件を解決する探偵」役の人物設定がめちゃくちゃで、小説として成り立っていない作品だった。当初、らいちは脇役のような立ち位置で、女子高生くらいの年齢の少女なのだが、セクシーで淫乱、誰とでも寝る女性として描かれていた。

らいちは、賢そうな雰囲気をつゆほどにも匂わせていなかったのに、小説の後半で急に探偵を気取り始める。探偵は語り手だと思っていた読者は肩透かしをくらう格好だ。しかも、アクション俳優のように格闘技の技術を身に付けており、推理力に長け、ドイツ語の誤りに気付くなど知性を兼ねているというが、想定の範囲外なので理解できない。こんなリアリティの欠片もないような人物設定を、ストーリーの後半に持ち込むとはどうかしている。ライトノベルや、日本のオタク系アニメやゲームのような人物設定ではありがちで、リアリティがないからダメというより、唐突に、ストーリーの後半に持ち込むから不愉快なのだ。

実は私は探偵でした、頭も良いです、知識もありますと言われても・・・理解に苦しむとしか言いようがない。人物設定をストーリー中に変更し、「実はこうでした!」っていうのが許されるなら何でもありじゃないだろうか。

トリックも男性の包茎を1日で手術することが関わっているんだけど、これは笑いを取ろうとしているのか。それにしてはユーモアの欠片もないのだが。作者は、何となくミステリーの知識はあるような書きぶりなのだが、アウトプットがこれじゃあねえ。

【書評】 弱いつながり 検索ワードを探す旅 著者:東浩紀 評価☆☆☆★★ (日本)

弱いつながりとは?

『弱いつながり』は、批評家・作家東浩紀のエッセイ。2012~2013年にかけて、幻冬舎のPR誌星星峡で連載されていた。150ページの薄い本ながら日々の思考と行動に対する示唆を与えてくれる良書である。

弱いつながりというのは、アメリカの社会学者マーク・グラノヴェターによる「弱い絆」という概念を援用したものである。グラノヴェターは、転職した人の満足度について調査した。すると、満足度が高かったのは意外な人たちであることが分かった。職場の上司や親せきなどのような身近な存在との関わりよりも、「たまたまパーティで知り合った」といった人の方が満足度が高かったというのである。

弱い絆とは、そういった「たまたま」「偶然」の出会いによる関わりを言う。あるいは、人との出会いに限らず、「たまたま」「偶然」の体験でも良い。自分のことを知らない「たまたま」出会った人の方が、自分のことを知らないがゆえに自分が予測不可能な転職先を紹介してくれる可能性がある訳だ。あるいは、仕事でロシアに旅行をして「偶然」買ったマトリョーシカを娘に買ってみたら、思いの他奥さんが喜び「マトリョーシカが好きだった」ことに気付かされる。弱い絆は重要なのである。

逆に、深い絆というのは、家族、友人、親戚、上司などの身近な人との関わりを言う。著者は、深い絆ばかりを重視するのではなく、強い絆・弱い絆の双方を大切にする必要があるというものである。

固定化された役割から抜け出るためのきっかけを作る

人は役割を演じようとする。ビジネスパーソンは特にそうだろう。仕事ではマネジメントやリーダーシップや専門性などの役割を求められているからだ。役割を演じるのが当たり前になり、そこから抜け出ることを非効率だと思ったり、無意味だと思ったりする。でも、それだと広がりがない。グラノヴェターが言うように、予測不可能な転職先へと自分を導いてくれないのだ。

日常は忙しい。だから、固定化された役割から抜け出ることは難しい。抜け出てみるためには、きっかけが必要になる。そのきっかけは、自分が意図的に作り出さないと生まれない。弱い絆=弱いつながりを意識して、飛び込んでみること。例えば、今まで行ったことのない飲み会に出てみるとか、趣味のセミナーに出てみるとかでも良い。弱い絆は人との「たまたま」「偶然」の出会い・体験によって、思考・行動に変化を与えてくれるのだ。

観光客になって見知らぬカフェで「弱いつながり」を見つけよう

著者は、所属するコミュニティがたくさんあっても、それら全てに役割を合わせる必要はないという。コミュニティから遠ざかるのではないが、適度な距離を保ちつつ関わるのが良いのである。そういった関わり方を、著者は観光客という概念で説明している。

所属するコミュニティがたくさんあるのはいいことです。ただ、そのすべてにきちんと人格を合わせる必要はない。話も全部は理解する必要はない。一種の観光客、「お客さん」になって、複数のコミュニティを適度な距離を保ちつつ渡り歩いていくのが、もっとも賢い生きかただと思います。

なぜ観光客が良いのか。

観光客に対置するのは村人で、1つの場所に留まり続ける定住者である。村人は複数のコミュニティに関わろうとせず、例えば、会社と家の往復で多くの時間を費やしてしまう。複数のコミュニティに関わろうとしない。それでは思考も行動も変えることもできない。

では、旅人はどうか。旅人は積極的に複数のコミュニティに関わろうとする。複数のコミュニティで求められる役割について、個別に役割を演じていくのだ。だが、個別に役割を演じることは体力の消耗戦になってしまい、端的に疲れる。それではダメだ。

そこで、観光客の概念が出てくる。弱い絆を求めるために、複数のコミュニティに関わり、適度な距離を保ちつつ渡り歩いていく。普段は妻に任せている近所の人づきあいに参加し、パパ友を作るのはどうだろう。意外と、仕事に関連性のある人と出会えるかもしれない。あるいは、1人旅をする。見知らぬ観光地へ行って、面白そうなカフェを見つけてみるのも良い。見つけたら、中に入ってマスターとゆるく話し、「弱いつながり」を見つけてみよう。

検索は強い絆を強くする

著者は、インターネットでの検索は強い絆を強くするといい、これは慧眼だと感じた。インターネットで検索することは、新しい何かの情報を得るために行うことである。新しい情報に触れる訳だから弱い絆のような気もする。しかし、自分の検索の仕方を思い返せば、強い絆を強くしていることが分かるだろう。

例えば、Googleで「ペット」について検索しようとする。すると、検索したい言葉に関連性のある記事と、関連性のない記事のいずれかを読むだろうか?当然、前者である。いや、むしろ、前者しかあり得ないと言っても良い。なぜなら、Googleで「ペット」と検索すれば、何ページにも渡って関連記事が出てくる。そう、”関連”記事が出てくるのである。関連しない記事は出てこない。つまりネット検索では弱い絆を強くするよりも、強い絆を強くしてしまうのだ。固定化された役割、思考、行動。そこから人間を解き放ってはくれない。

副題と帯への違和感

本書は、以上のように、弱い絆・強い絆を対比的に考えていくために示唆に富んでいる。面白いエッセイなのだが、副題に「検索ワードを探す旅」とあり、帯には「グーグルが予測できない言葉を手に入れよ!」とあり、これらに違和感を持ってしまうのが残念だった。副題と帯を読むと、インターネットに関連するエッセイかと思うだろうが、実態は人生論である。

もちろん、インターネットについては、「検索は強い絆を強くする」で述べたような知見を得ることができる。しかし、それらの知見は主ではなくて従だろう。クローズアップすべきは、グラノヴェターやネットワーク理論などに基づいた人生論なので、それらがイメージできる副題・帯にしないと読み手が混乱してしまう。

まあ、それを差し引いても、休日の日曜に寝転びながら読むのにはちょうど良い薄さだし、そんな風に適当に読んでみたら意外と示唆に富んだ知見に出会える本ではある。薄いゆえに満足度は高くないけれど、それこそ「たまたま」「偶然」に良書に出会ったという意外性を味わうことは可能である。

【書評】 知らない人を採ってはいけない 新しい世界基準「リファラル採用」の教科書 著者:白潟敏朗 評価☆☆☆★★ (日本)

リファラル採用とは?縁故採用とは違う新しい採用スタイル

本書『知らない人を採ってはいけない』は、リファラル採用についての解説書。著者の白潟敏朗は、リファラル採用の事業会社を運営している。尚、人材開発の会社トーマツイノベーションの設立者でもある。

最近、プライベートでもリファラル採用の話題が出るようになってきて、社員の紹介を経た採用活動を指すという。それなら、「リファラル採用って縁故採用じゃないの?」という人がいた。しかし本書を読むとどうも違う。著者は、リファラル採用縁故採用と似ているが、全く同じではないというのだ。

社員の紹介だからといて、無条件で入社できるのではなく、しっかり面接し採用の可否を決定します。

つまり、リファラル採用は、社員の紹介という接点では縁故採用と似ているが採用方針が異なるということだ。縁故採用でも、形式的に面接することはあるが、面接の結果がどうあれ採用することが決まっている。しかしリファラルの場合は「しっかり面接し採用の可否を決定」する。

リファラル採用をカテゴライズするとダイレクトリクルーティングの1つである。ダイレクトリクルーティングとは、会社が求職者を積極的にアプローチする採用スタイル。リクナビマイナビのような広告媒体、エージェントなどの人材紹介とは違って、会社自らが求職者と接点を持って採用していくというものだ。

リファラル採用はコストがかからない

ダイレクトリクルーティングは、会社自らが求職者と接点を持って採用していく。そして、リファラル採用もダイレクトリクルーティングの1つである。ということは、会社と求職者の間に仲介が入らない。そのためコストがあまりかからないで済む。

本書を読むと、リファラル採用はコストが安い。リファラルにすれば、広告媒体もエージェントも使わず、かかるコストは社員への紹介報酬や会食費くらいで済むというのだから、大幅なコスト削減である。

私も採用担当をやっていた時、エージェントを使ったことがあるが、年収の30%を成功報酬として請求されることが多かった。年収600万円の人を採用したら、180万円の成功報酬をエージェントに支払わなくてはならない。3人採用したら540万円だ。

これは中途の成功報酬額だが、新卒でも安くはない。リクルートでは1名採用するごとに100万円の成功報酬がかかる。

https://www.recruitcareer.co.jp/business/new_graduates/rikunabi-agent/price/

求人媒体は会社によって費用が異なるが、本書のデータによると媒体は平均して294万円かかっていた。媒体だから1人採用するごとに費用がかかる訳ではないが、それでも高い。

それに対してリファラル採用はどうか。

前述のようにかかる費用は紹介報酬や会食費、せいぜい交通費くらいである。本書には会食費として3万円~15万円かかるというが、イメージしやすい金額だろう。紹介報酬は会社によってまちまちだが、入社時10万円とか3,000円を2年間支給するとかいう事例が載っている。そもそも、報酬を設けない会社もあるし、著者は紹介報酬を勧めていなかった。

エージェントの540万円、広告の340万円と比べてもかなりコスト削減となることが分かるだろう。

「社長と会社を好きになる人」を育てることが難しい

一方、著者がアピールするリファラル採用のメリットには、社員が社長と会社を好きになり、その魅力を知人に訴えて自社に入社してもらうことが挙げられていた。さらっと書いてあるが、これは大変なことではないだろうか?

本書では、リファラル採用のメリットの1つに、「会社の魅力と課題の見える化」が書いてある。

リファラル採用は、シンプルに考えると「自社を友人・知人に紹介したいと社員に思ってもらう」、そして「その社員の話を聞いて、友人・知人に転職したいと思ってもらう」の2つがそろってはじめて動き始めます。

だからこそ、社員が自社を紹介したいと思えなくてはならないし、現状、そうなっていないのであれば変えなくてはならない。それが課題の見える化だと言い、見える化された課題を解決しなくてはならない。

しかし、課題を解決するためのハードルが高い場合があるだろう。例えば、人事制度がメチャクチャだったらどうするか?組織風土が荒んでいたらどうするか?

人事制度は改定しなくてはならない。組織風土も荒んでいたら変えなくてはならないが、風土は目に見えないから制度設計よりも解決は難しい。これらを変えているだけでも時間が大幅に経過してしまうだろう。そもそも自社単独でできるか分からない。といって、採用は待ったなしだから、リファラル採用を目指して、とりあえずは従来の採用手法(媒体、エージェント)を使い、追々リファラルに移行すれば良いということなのかもしれない。

いずれにしても、課題解決のために高いハードルがある場合、どうするのかが本書では見えない。だから、採用活動する社員に、社長と会社を好きになってもらうといっても、それ自体が困難になってしまってはリファラルを始められない。高いハードルについて、どう対処するのかは触れるべきだっただろう。

課題が解決された暁には、リファラル採用はコストパフォーマンスに優れた採用手法となる

しかし、もし、何らかの手段で高いハードルの課題を解決した場合、リファラル採用が上手くいきそうな感じはする。課題が解決され、知人・友人に紹介しても良い会社になったら、採用活動のコスト削減も効果を発揮するだろうからリファラルはコストパフォーマンスが高い採用手法となる。

リファラル採用のデメリットが書かれている

本書にはリファラル採用のデメリットが書かれているので、読者に誠実な印象を与える。デメリットは以下の5点。

・採用できるまでに時間がかかる
・1年以内の大量採用には向かない
・活動してくれる社員に負荷がかかる
・採用を間違えた場合にやめさせづらい
・今いる社員以上のレベルの人材は採りにくい

大量採用に向かないというのは、会社の採用方針によってはリファラルを採用できないことを意味する。この点はエージェントも同様。広告媒体を使うということになる。ちょっと脱線するが、採用ホームページ単独で充分な母集団を集められるようになれば、媒体も要らないが、そうなるとHPだけで採用できる「ダイレクトリクルーティング」となる。媒体には安くない費用を払っている。うまく集客できればHPだけの採用もありかもしれない。

今いる社員以上のレベルの人材は採りにくいというのも、その通りだろう。よほど人脈がある人なら、様々な人材を紹介できるかもしれないが、そういう社員がいること自体が希少。ただ、本書には間接的な知人・友人の紹介もリファラル採用になるというから、レベルの高い人材が来る可能性も否定できない。

リファラル採用の具体的な進め方

本書後半は、リファラル採用の具体的な進め方について解説されていた。まずは採用担当者の人選。採用といっても、人事担当者だけが採用活動を行う訳ではない。他部署からも人を集めていく。その後、欲しい人材像を決めて、リファラル採用を運用する上でのルール作りを行う。次に魅力・課題を設定する。

課題については前述の問題がある。採用活動を行う社員に社長と会社に魅力を持ってもらうことに重点が置かれているのだから、ハードルの高い課題を解決せずには勧められまい。それを解決したとして課題の設定を行う訳だが、「受け入れてもらいたいこと」を知人・友人に言って良いというのは興味深い。確かに、社内の全ての課題を解決することはできないだろう。だから、「これはちょっとな」と社員自身が思うことであっても、知人・友人には何とか受け入れて欲しい課題はある。それを「受け入れてもらいたいこと」として書き出し、応募者に伝えるという点は正直で良いと思う。

課題の設定が終わったら、会社の中期経営計画を立てて、アピールブックというものを作る。口頭で魅力を言うだけではなく、会社の魅力を冊子にして作っておくのだ。そうすれば、社員も相手に魅力を伝えやすいだろう。

本書は、このように、リファラル採用メリット・デメリット、具体的な進め方まで、薄い本ながらリファラル採用のエッセンスが書かれていた。リファラル採用を概観するにはうってつけの本といえると思う。

【映画レビュー】 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 評価☆☆★★★ (日本)

あらすじ

同名のライトノベルが原作の恋愛映画。福士蒼汰主演。他のキャストに小松菜奈東出昌大。京都の美術大学に通う男子学生・南山高寿(みなみやま・たかとし)は、通学中の電車で、若い女性に一目惚れをする。この機会を逃してはならないと、思わず声をかけ「一目惚れをしました」と告げて笑顔をもらう。携帯を持っていないという女性に、「また、会えるかな」と尋ねた高寿。女性は「また、会えるよ」と答えるが目には涙が光っていた。

ダサい男がカッコよくなるべきだった

高寿は奥手で、女性と付き合うのも初めて。対する女性の福寿愛美(ふくじゅえみ)の方も初めての恋愛。高寿を演じるのが福士蒼汰。私は彼の演技を見るのが初めて。ネットでは演技が下手だと叩かれているが、そんなに悪くなかった。反対にヒロイン役の小松菜奈は、かなりかわいらしい雰囲気であるが、感情を抑制した演技をしてしまっていて、役になりきれていなかった。福士はクールな役柄ながら、バスの中で嗚咽したり、愛美と心が通じ合えず茫然としたりする場面など良い味を出して演じている。

ただ、この映画は演出が下手くそ。高寿は当初、眼鏡をかけたダサい男という設定なのだが、高寿の見た目があまりダサくないのだ。眼鏡をかけて、ちょっと変な服装をするだけでは物足りない。思いきって、『電車男』の山田孝之みたいにリュックをしょって、長髪でオタクっぽいダサさがないと、女性に出会ってカッコよくなっていくプロセスが見えない。福士は何とかダサい男を演じようとしていたが、彼の美男ぶりが透けて見えるほど見た目が悪くないのである。

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高寿は途中で愛美に髪をカットしてもらうのだが、元々さほど酷い髪形でないので、カットしてもらっても変化を感じなかった。眼鏡男子という言葉が昔流行ったが、あんな感じで「ちょっと服装が変だけど良い男だよね」と思われる見た目だ。こういう重要な設定に手を抜いてしまう映画なのだ。

肝心のパラレルワールドの設定が意味不明である

ぼくは明日、昨日のきみとデートする』という恋愛映画には、ファンタジー要素が入っている。時間軸が混乱しているようなタイトルなのは、そのためだ。ねたばらしをすると、女性の愛美はパラレルワールドの世界に生きている。しかもパラレルワールドの時間軸は、高寿とは逆である。男性の高寿の時間は過去→現在→未来という時間軸に生きるが、愛美は未来→現在→過去に生きているのだ。

パラレルワールドは5年ごとに交差し、2人は会えるようになるという。高寿と愛美は共に20歳。時間軸を逆に生きているので、高寿が25歳になると、次に愛美に会った時に彼女の年齢は15歳になってしまう。更に高寿が30歳、35歳を迎えていくと愛美は10歳、5歳となる。5歳の次は0歳なので2人が出会えるのは、高寿35歳、愛美5歳までということになる。次に高寿が愛美に出会う時、彼女の年齢は15歳なので、もはや恋愛はできない。したがって、恋愛ができるのは20歳であるこの時間、しかもわずか30日間だけというのが、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のテーマ。

このパラレルワールドの設定が映画の肝なのだが、意味が良く分からなかった。単に未来の人で良いんじゃないかと思ったのに、わざわざ分かりにくい設定にしている。パラレルワールドなのに2人が出会える理由は、高寿が35歳の時に5歳の愛美を助け、愛美が35歳の時に5歳の高寿を助けたからというもの。その設定自体はおかしくないけれど、パラレルワールドにした意味が分からない。

20歳の時、30日間だけ愛し合える恋愛というアイディアを先行して、作られたストーリーなのだろうが理解しにくい。高寿は私たちと同じ時間軸を生きているので過去の記憶があるが、愛美は高寿からいえば未来から始まっているので、同じ過去を共有した記憶を持たない。その切なさを描きたいなら、若年性認知症の女性を愛する男性の物語にすれば、まだしも理解しやすかった。そうなるともはやファンタジーではなくなるし、本作のような個性はなくなるが、映画を見る人にとってはよほど分かりやすいはず。

フィクションだからこそリアリティを追及せよ

フィクションだからこそリアリティを追及して欲しいものだ。特に『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のように、分かりにくいパラレルワールドの設定にするなら、相当に設定を細かく決めないと見ている方は感情移入できない。

一番分からないのは、高寿の世界にいる間、愛美はどのように過ごしているのかということ。家族と一緒にパラレルワールドから高寿の世界に来ているのか?それにしては、家族の姿が一切描かれないのはどうした訳か。彼女だけ来ているのか?そうすると自宅の電話番号はなぜ繋がるのか?パラレルワールドでしか使えない番号なのか?そこらへんの説明が全くない。

愛美にとっては、彼女は時間をさかのぼっていくので、高寿との経験を全然共有できていない。そんな男と、そもそも、愛をはぐくもうと思うだろうか。この点は高寿にとっても同様である。なお時間をさかのぼる愛美は、高寿が生きている時間を生きていないのでいわば記憶がない。それゆえに、高寿が教えてくれたメモを頼りにデートをするのだが、そんなことをしてどうするのだろうか。どう感情が交流するのだろうか。もっとリアリティを追及してもらいたい。

【書評】 サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆ (日本)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

『サド侯爵夫人』は三島戯曲の代表作

普段、映画は見るのに演劇を見ない私が戯曲を活字で読むはずがない。それでも読んだのは、三島由紀夫の著作だからである。三島由紀夫のあまたの長編小説を読んできた私は、彼の小説の地の文の詩的なレトリックに酔わされていた。同時に彼は、小説のセリフにも意識を込めて書いていた。詩情、諧謔がセリフの端々に満ちている。戯曲はセリフとセリフで構成される。俳優の織り成す演技が物語を展開せしめるために、セリフは重要なパーツである。戯曲に関心がなかった私が三島の戯曲なら読んでみようと思ったのは、小説のセリフに感心していたからだ。

三島由紀夫のライフワーク『豊穣の海』を読み終え、三島のほとんどの長編小説を読了した私は彼の戯曲に手を伸ばす。何を読んだら良いか。三島由紀夫は劇作家としても著名だった。『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』『近代能楽集』『黒蜥蜴』など多数がある。どれを読んでも良いが、『サド侯爵夫人』が気になった。この作品は、女性6人の会話劇で『サド侯爵夫人』というタイトルなのにサド侯爵本人が出てこない作品なのである。これは面白そうだと思った。

すぐに引き込まれた。サド侯爵とは作家マルキ・ド・サドのことで、彼の作品はサディズムという言葉の由来となった。サドは小説でサディスティックな暴力描写を描いただけでなく、実生活でも性的に乱れた生活を送った。性犯罪や暴力の廉で長い間投獄生活を送った18世紀のフランスの作家である。

『サド侯爵夫人』は、サド侯爵夫人ルネの謎に迫った作品である。謎というのは、ルネは18年近くに亘り貞節を守り、誰からサドを悪く言われようとも夫を信じてきたのに、サドが牢屋から解放され自宅である城に帰ってきたら絶縁するという謎だ。その謎の解明を試みると共に、女6人の会話だけでその場にいないサド侯爵の人物像を語る傑作である。私は他の三島戯曲を読んでいないのに、『サド侯爵夫人』が三島戯曲の代表作だと感じた。

女6人の会話だけでサド侯爵を語る術

舞台はパリのモントルイユ夫人邸のサロンである。戯曲は3幕で時代の流れを経るが、舞台はずっとサロンで変わりない。そこに、サド侯爵夫人ルネ、ルネの母モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、サン・フォン伯爵夫人、シミアーヌ男爵夫人、そして家政婦シャルロットの6人がいる。登場人物は彼女ら6人のみで、サド侯爵本人は現れない。6人の会話だけでサド侯爵の人物像を語るのだ。

それぞれの人物は何かを象徴している。サド侯爵夫人ルネは貞淑、モントルイユ夫人は法・社会・道徳、アンヌは無邪気・無節操、サン・フォン伯爵夫人は肉欲、クリスチャンであるシミアーヌ男爵夫人は神、シャルロットは民衆を象徴する。

モントルイユ夫人は厳格な母親である。牢獄からの解放を願う娘ルネの心情を汲み取り、サン・フォン伯爵夫人に要請して解放してもらおうとする。しかし、モントルイユ夫人は画策してサドを再逮捕させてしまうのだ。彼女は法・社会・道徳を重んじる女性なので、ルネにはサドと離婚して欲しかったのである。それを知ったルネは激怒し、モントルイユ夫人は秩序に外れた人間を憎悪し絶対に許さないのだと言った。

このように、モントルイユ夫人は法・社会・道徳を重んじる余り、サドには辛らつである。サドを再逮捕させるまでに厳格に接する訳だ。一方、サド侯爵夫人ルネはサドに貞淑を近い、戯曲の最後の方まで彼を信じる。サン・フォン伯爵夫人は肉欲に象徴され、サドに近い人物として共感的に語る。シミアーヌ男爵夫人はクリスチャンで、サドについてはキリスト教の立場から達観的に語る。シャルロットは民衆を代表して、フランス革命後に、ルネの引導を渡す役を担う。

女6人の会話だけを通じて、サド侯爵を多面的に描き出す三島由紀夫の手腕は非常に冴えていた。サドはただの一度も舞台には上がらないのに、彼の存在感は圧倒的なのである。

人物像は主観によっていかようにも変わる

私は『サド侯爵夫人』を読んで、人物に対するイメージ(人物像)がいかに主観に捉えられているかを改めて知った。女6人の価値観が異なれば、人物像がいくらでも変わるのだ。サドに対するイメージは、肉欲とか反道徳が近いだろう。だからモントルイユ夫人やサン・フォン伯爵夫人の主観がサド侯爵の人物像に近い。しかし、そこにルネ、シミアーヌ男爵夫人が関わってくると人物像にも多面性が備わってくる。

サド侯爵が放埓な生活を送り、犯罪者として投獄されようとも、ルネは彼を信じる。サドは娼婦と寝るばかりか、妹のアンヌとまで性交するような、獣のような男である。そんな男に対して貞淑を誓うルネがいることは、サドにも貞淑性なるものが帯同しているように思える。サドを巡る時にルネが関わることで、サドの人物像にも貞淑性を感じさえするのだ。

貞淑の徹底、「ジュスティーヌは私だ」

『サド侯爵夫人』は、最終幕で大きな変化を見せるように見える。ルネは浮浪者のようにみすぼらしい姿で自宅を訪れたサドに、会わないと断言するのだ。家政婦シャルロットに命じ、「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と伝えさせる。これは、サド侯爵夫人ルネが貞淑ではなくなったことを意味するように思うが、そうではない。ルネの貞淑は最後まで変わることはない。むしろ貞淑の徹底した姿が、この別離の宣言に現れているのだ。

それを知るには、別離の前のシーンを見るべきだ。ルネは母親のモントルイユ夫人と話している時に、サドが獄中で書いた『ジュスティーヌ』という小説を引き合いに出す。この小説は姉妹の物語で、美徳を守り続けた妹ジュスティーヌが不幸に遭い続け悲惨な最期を遂げるという結末になっていた。ルネは、「ジュスティーヌは私だ」と悟る。そして、自分はサドの創り出した物語の住人に過ぎないと感じた。さらにルネは、神がサドに命じてこのような世界を創り出した(サドの創った世界に支配される)かもしれないとも思う。

それゆえルネは、修道院に入って、神に残りの人生を捧げることにしたのだ。神に人生をささげれば、神がサドに世界を創らせようとしたか否かが分かるだろうから。ルネには、サドを愛さなくなったのではなく、サドの創り出した世界から脱することをもくろむ訳でもなく、むしろその世界に安住することを選択している。ルネはサドとの別離を選んだが貞淑ではなくなったのではなく、彼女はむしろ貞淑を徹底している。

サドとは何者か

『サド侯爵夫人』の特異性は、人物像が他者の主観によっていかようにも変わる点にあるが、読者が、そもそも人物像とは、本当に捉えられるのか?という疑念を抱くことにもある。つまり他者がどのように人物像を捉えても、そこには対象となる相手(サド)は蚊帳の外にあるような気がするのだ。

「ジュスティーヌは私だ」と言うルネと、サド侯爵とが面と向かってコミュニケーションを取る場面は遂に現れない。サドが、「私はそんな人物じゃない」と言えば、そこで人物像は変遷を迫られるか、あるいは瓦解することもあろうが、サドが出てこないので、本当の人物像は分からないともいえる。だが、サドが出てきたところで、人物像を解釈するのは「この私」なのだから、永遠にサドとは何者かということは、分からないかもしれない。だから、「そもそも人物像とは、本当に捉えられるのか?」という疑念を抱いたところで、サドが出てきても人物像はつかめないかもしれないのだ。

だから『サド侯爵夫人』が取った人物像の多面性は、1つの理解の仕方であるが、そこにサド本人が出てきても、出てこなかったとしても、サドの人物像は永遠に分からないかもしれない。人物像のつかめなさを、この戯曲はじっくりと教えてくれる。

『朱雀家の滅亡』は小品

『サド侯爵夫人』と同時に収録されている『朱雀家の滅亡』は、天皇に対する忠義を描いた作品。朱雀侯爵という華族の家柄に生まれた長子・経広(つねひろ)が、戦時中、自ら危険な任地に赴いて戦死する姿を描く。

伯父の光康、女中だが経広の実母であるおれい等は、経広の危険な任地への赴任を回避する方法を画策する。しかし、経広と経広の父である経隆(つねたか)は、何としてでも天皇への忠義を徹底しようとするのだった。

『朱雀家の滅亡』は小品である。経広の天皇への思いは感じるのだが、経広の死後、おれいによる経隆への批判、同じく、経広の恋人による経隆への批判はくどくどしくて、退屈だった。物語は経広の死をもってピークに達し、そこから物語が変遷する訳でもない。戦後の日本に対する著者の批判めいた表現は興味深く読めたが、経広亡き後の『朱雀家の滅亡』の物語の深まりはなかった。

『朱雀家の滅亡』と共に語られる三島の短編『憂国』は、主人公夫妻の死をもってピークに達して結末を迎えるので緊張感を持って終わるのだが、『朱雀家の滅亡』は緊張の糸が切れて、あとはだらだらと物語を無理やり長引かせているような気がしてならなかった。評価☆☆☆☆☆は、『朱雀家の滅亡』に対するもの。