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【書評】 山の音 著者:川端康成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

山の音 (新潮文庫)

山の音 (新潮文庫)

 

『山の音』は川端康成の長編小説で、文庫版の解説者である山本健吉によると現代日本文学の最高峰に位置する作品だという。私もその意見には賛成だが、『雪国』と共に、とは書かれていないし『雪国』より『山の音』の方が優位に位置するように書かれる。そこが疑問で、私には『雪国』の方が優れた作品に思えるのである。『雪国』は完成まで10年以上費やされただけあって、文章全体が会話の端々に至るまで精緻で、一見すると人工的な風味を見せるのであるが、その無駄のなさは欠陥がなく、この物語の世界観を映画のようにカメラで写実的に撮影しているようで、人工的というよりもむしろ自然に見える。といっても単なる写実主義ではなく、むしろ川端の観念が『雪国』の世界に広がっているのであるが、それにもかかわらず『雪国』の風景は自然に見えてしまうのだ。こんな文学を私はこれまで読んだことがなかったので、『雪国』の読後は軽いショックを受けた覚えがある。本書にはそこまでのショックは受けなかった。

 

もっとも、『山の音』も極めて優れた作品である。川端のノーベル文学賞受賞後に、川端を囲んで、伊藤整三島由紀夫がTV鼎談した時に、三島が川端文学を評して「これはなかなか手ごわいぞと思うでしょう」と、川端の作品を知らぬ者へ簡潔な解説を施しているのだが、確かに、川端の作品は、殊に長編は、「なかなか手ごわい」作品が多いように見える。YouTubeで動画が掲載されているので引用しておく。


川端康成氏を囲んで 三島由紀夫 伊藤整1|3

 

主人公は、尾形信吾という60歳過ぎの会社員の男である。信吾は鎌倉に住み、都心まで電車で通勤している。保子という容貌の冴えない妻、修一という同じ会社に勤務し、第二次戦争で実戦経験者の息子、そしてその妻で美しい菊子と同居している。

 

修一は不倫をしており、戦争未亡人の女・房子と関係していた。修一の不倫は、信吾はおろか保子も、そして修一の妻である菊子さえも知っている。それにもかかわらず修一は不倫を止めることができないし、信吾も止めさせることができないでいる。修一は戦争によって変貌したようで、倫理観が欠如し、不倫を悪いとは全く思っていない。信吾に詰られても平然としている。この倫理観の欠如は、戦争による衝撃が心に打ちつけられたかのようである。菊子は小説の最後まで修一を理解できず、彼を「怖い」というのである。といって本書は反戦小説なのではなく、戦争によって倫理観を欠如させてしまったとはいえ、そのことが問題ではなく、修一の中に存在する心の闇というものの現在性が問われているのである。だからなぜこのように倫理観がなくなってしまったのか?ということは、問題にされていない。

 

信吾は、小説の冒頭で山の音を聞く。そしてこれにより彼は自らの死期を悟るようになるのである。小説中、信吾が死ぬことはないが、彼の周囲の人物を通して、死はいくつも形を変えて、信吾の前へと現れてくる。信吾の死の予感、友人の死、修一の周りの戦死者、菊子が堕胎した胎児の死。胎児の死は、菊子が夫・修一の不倫を知っており、彼との間で宿した命は、不倫が解消されるまでこの世に出せないと思って、堕胎したのである。これには、信吾も衝撃を受けていた。


『山の音』全体を貫くのはこのような強い無常観である。また、信吾は若い頃、保子の姉に恋をしていた。姉は非常に美しかったが、他家へ嫁ぎ、そして若くして死んでしまった。信吾は保子と結婚するも、姉を忘れることはできないでいた。息子の修一は成人して結婚するが、その相手は美しい菊子であった。菊子と保子の姉には血縁関係はないが、信吾はその美しさに姉の面影を見る。


信吾は菊子を内心愛しているのだが、最後まで行動には移さない。菊子は修一の不倫により精神的に追い詰められていくが、信吾は修一夫妻が仲の良い夫婦になることを望み、菊子に信吾たちとの別居を勧める。信吾は菊子を愛しつつも、それを小説の終盤まで認めることができず、象徴的な夢を見てようやく認識する程度だ。


信吾は既に死んだ姉を愛することが叶わず、息子の妻である菊子を愛することができない。信吾は心から愛する者を誰も愛することが叶わないのである。無常観の一つは愛することができぬ虚しさである。これは、非常に強く、厳格に作品全体を貫いている。そしてもう一つは死である。保子の姉の死、信吾自身の死の予感、友人の死、菊子の胎児の死。これらは絶対的な虚しさを感じさせる。取り返しのつかないものである。


姉の死という永遠なるものから始まる愛の系譜は、菊子を愛そうとしても永遠に愛せない虚しさへと繋がる。そして、いくつもの死。これらの虚しさのパターンは、明確に区別されるものではなく密接に繋がり、むしろ混交している。虚しさという言葉に統合されるためにである。