川端康成の長編小説。この小説は図書館で借りて読んだが、気に入ったので、書店で買い求めた。川端の小説は、今年に入って、『雪国』『眠れる美女』『山の音』『初恋小説集』と読んできた。『初恋小説集』は評価しないが、3つの長編、1つの短編(眠れる美女)を読んで作品の質が安定していると思った。私は、日本文学の中では三島が一番で、その次に谷崎を評価していたが、今では川端康成が抜きん出ているように思える。谷崎には感心すべき思想が多くないが、川端には無常感が根底にあってこれが私の心を捉える。
主人公は小説家の大木で、妻と国文学者の息子がいる。やや通俗的ながら世に知れた小説家である。『山の音』もそうだったが、息子の存在感は薄い。『山の音』では妻をないがしろにして不倫に走る息子が描かれていたが、本書では女性に疎く、美しい女性に騙されて最後は恐らく命を落としてしまうことになる。「恐らく」というのは、小説では息子の死は明確に書かれていないからだが、登場人物の台詞によると恐らく死んでいる。
この小説は、時系列的には、大木と音子という16歳の少女による不倫、それによって音子が妊娠中絶するところから始まる。少女と恋愛した時、大木は31歳で、15歳もの年齢の差がある。既にその頃大木は小説家で妻も子もいたのだが音子と不倫を犯している。これに対して大木には罪悪感はあるものの、24年の時を経てまた会おうと試みるところから、罪悪感よりも己の愛を優先する。今音子に会ったところでどうなるものでもないが、大木は、京都に住み、現在は画家として成功している音子に、会えないかと打診する訳だ。こういう彼の行動に、私は無常感を感じる。大木が音子に会ったところで、今さら妻を離縁して音子と生活ができる訳でもない。それにもかかわらず会う気持ちを抑えられず、行動に移してしまうということ。そこに無常感を感じ取れる。
音子は大木のことを恨みもするが、愛情はまだ大木に対して持っており、美貌の若い女弟子けい子を差し向ける。このけい子というのが、のちに大木の息子を事故で死に至らしめる張本人である。
けい子は第二の主人公とでもいうべき強烈な存在感を放っており、ほとんど狂気に取りつかれている。女弟子は音子を恋しており、音子のために大木の家庭を崩壊させようと試みる。大木とホテルに泊まってキスをしたり、大木の息子の官能性を刺激する妖艶な姿態を見せる。息子の事故死という結果によって、家庭崩壊に成功するのであるが、彼女の音子に対する狂気的な執着、大木に慰み物にされた音子のために復讐せんとする異常な行動などによって、恋の対象として崇拝される音子をして恐怖せしめる女性である。こういう狂気的な女性は、『雪国』の葉子や、『山の音』の絹子などにも通じるところで、川端の得意とする女性像なのだろう。そして川端は、これらの女性像に狂気と共に「哀しみ」を付与するが、けい子には「美しさ」をも付与する。美しさと哀しみの題が言い表すのは、音子でもあるが、もう少し中心に据えられるのはこのけい子だろうと思う。
けい子の行動は、主人公大木が音子と会おうという気持ちを行動に表すのに似て、無為である。音子の関心は、彼女には向いていないからである。だからどんな行動を取ったところで、彼女は音子に愛されることがない。逆に恐れられ、怖がられる。この無為の行動は、無常であり、もっといえば「哀しみ」である。そういう意味では大木の行動もまた、哀しみなのであるが、彼は音子が妊娠中絶をしても、妻を捨てて音子を引き取れなかった無責任がついてまわるので、哀しみかもしれないが、美しさはみじんも感じられない。ただただ、残酷なのであって、彼の息子が事故死に至ってもさしたる同情の観念は湧いてこないのである。
従って本書における「美しさと哀しみ」は、必ずセットになる表現である。音子、そしてけい子は、共に美しく、哀しい存在である。彼女たちには悪を感じられない。たとえけい子が大木の息子を事故死に至らしめても悪だとは感じられない。悪なのは大木であって、けい子は音子の思いを勝手に解釈して行動したとはいっても、音子を思う恋の心がそうさせたのであれば、そしてその恋が成就されることがないのだから、美しく、哀しいが、そこに悪は感じられない。本書を読むとけい子の狂気に疲労させられるが、そこには狂気に陥ってしまう哀しみだけではなく、悪を感じられぬ美しさがあるので、何とも言えぬ感情に捉われることを実感する。これが、美しさと哀しみなのであろうか。