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【書評】 川端康成・三島由紀夫 往復書簡 評価☆☆☆☆★ (日本)

川端康成・三島由紀夫往復書簡 (新潮文庫)

川端康成・三島由紀夫往復書簡 (新潮文庫)

川端康成三島由紀夫の往復書簡

川端康成三島由紀夫の往復書簡。巻末にロシア文学者・川端香男里(康成の女婿)と評論家・佐伯彰一の対談を併録。さらに、三島由紀夫による川端康成に対するノーベル賞候補推薦文(邦訳付き)も掲載されている。
筆まめ三島由紀夫の手紙に対し、師匠の如き川端康成による返信が瑞々しい。1968年に川端康成ノーベル文学賞に選ばれて後は、三島由紀夫の手紙は儀礼的なものになっていく。そして1970年7月、三島由紀夫が出した手紙が、最後の書簡となる。その4ヶ月後の11月25日、三島由紀夫は自決した。

終戦から三島由紀夫自決の年まで

往復書簡は1945年の川端康成の手紙から始まり、1970年の三島由紀夫の手紙で終わる。1945年3月に川端が出した手紙は、東京大空襲の直前。1970年に出された三島の手紙は、三島事件が起きる4ヶ月前。何かが起きる直前から始まり、何かが起きる直前に終わる2人の往復書簡は何やら波乱を含んだ演劇のような技巧を感じさせもする。

三島由紀夫川端康成ノーベル賞受賞がショックだったのか

巻末の対談で、川端香男里佐伯彰一は、川端康成ノーベル賞に輝いた時、三島がショックを受けたのかどうかを議論している。1968年10月16日の川端の手紙の後、三島からの手紙は10ヶ月も後の手紙になっていることを指摘している。なぜなら、1968年10月16日の手紙の翌日に、川端のノーベル賞受賞の通知があったからだ。それ以来、10ヶ月も三島の手紙がなかったことを2人は疑問視している。

川端香男里 しかも、川端康成ノーベル賞受賞以降、三島さんの手紙はたった二通だけ。
佐伯彰一  川端さんのノーベル賞受賞によって、やはり相当のショックを受けられたんでしょうね。これは、作家の自尊心にかかわる微妙な問題ですが、三島さんは、次々と出てくるベストセラーまで気にかけずにいられない、人一倍競争心の強い人だったから、最後の行動の引き金とまでは言わないけれども、繋がる何かを感ぜざるを得ないなぁ。

川端香男里は、康成のノーベル賞受賞の後、三島からの手紙はたった2通だけだったことに触れた。それに対して佐伯は、三島は川端康成ノーベル賞受賞が三島には相当のショックだっただろうと推定する。確かに、佐伯が言うように三島事件と「繋がる何かを感ぜざるを得ない」のは、私もそうだろうと思う。

赤裸々につづられた三島由紀夫の心情

三島由紀夫は手紙の中で自らの心情を赤裸々に吐露している。1945年以降の初期の手紙は、未だ作家としての地位が定まらない時代のもので、三島は血気盛んな文学への思いを書いていた。勧銀の入社試験には落ちたが大蔵省には入省できたことなどのエピソードも初々しく、三島が川端に信頼を置いているがゆえ率直に書けていたのだろうと思う。

川端と三島の往復書簡の中で衝撃的だったのは、1969年8月4日付けの手紙である。三島が川端宛てに書かれたものだ。

三島は長い手紙の中で、以下のように、死を予期するような言葉を綴る。

小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。小生にもしものことがあったら、早速そのことで世間は牙をむき出し、小生のアラをひろい出し、不名誉でメチャクチャにしてしまうように思われるのです。生きている自分が笑われるのは平気ですが、死後、子供たちが笑われるのは耐えられません。それを護って下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら便り(原文ママ)にさせていただいております。

この時すでに死を予期していたとしか思われない文章ではないか。全幅の信頼を寄せていた川端康成にしか言えない、やや弱気とも思える三島の苦しみ、哀しみがここに表れているように感じる。