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【書評】 お艶殺し 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

お艶殺し (中公文庫)

お艶殺し (中公文庫)

谷崎潤一郎の短編集。表題作の他、『金色の死』を収める。『お艶殺し』は江戸時代の町人を主人公とした凄惨な恋愛物語、『金色の死』は近代を舞台に、岡村という青年の狂気的な芸術作品が昇華される物語である。どちらも谷崎が余興で書いたかのような力の入れ方で書かれているだけに、容易に読める。物語も分かり易いし、物語の奥底に深いテーマがある訳でもない。生活のために書きなぐったかのような乱雑な短編である。だが、私はどうも谷崎の初期短編が好きで、本作もまた、好きな作品たちなのだけれど、それはひとえに、乱雑に書かれたがゆえに、人間の狂気が率直に表出されているように、見えるからではないか。表題作、『金色の死』、いずれの主人公も極めて異常な行動を取るのである。

『お艶殺し』は新助という資産家に雇われた奉公人と、その家の娘であるお艶との狂気的な恋愛を描く。時代は封建的な江戸時代の物語なので、使用人と奉公人との関係は絶対で、彼らの恋愛は成就されない。つまり道ならぬ恋である。同じような設定の著者の小説には高名な『春琴抄』があり、こちらは春琴と佐助とが恋愛関係に至っても、春琴は盲目ゆえむしろ許容されるがこれは例外的である。『お艶殺し』の場合は容赦なく許されぬ恋なのである。お艶は新助を愛しながらも、身分の違いという障壁に阻まれて、人の目を盗んで新助と逢引をしている。お艶は健気な女性である。が、これは表向きの顔だ。結局、お艶という女性は悪女であることが分かる。彼女は、資産家の令嬢ということもあり、一見すると清楚で真心のある女性であり、新助も彼女を世間知らずのかわいい女性と目するが、それは彼女の仮面であり、それを剥がすとお艶は忽ち、妖艶な毒婦へと姿を現すのであった。谷崎は先に私がレビューした『谷崎潤一郎対談集【藝能編】』でも悪女が好きだと言って憚らなかったから、よほど悪女が好きだと見える。晩年に至って、『鍵』や『瘋癲老人日記』のような小説を書いているのだから、谷崎の創作意欲をいかに掻き立てるのかが分かろう。


お艶はある時、清次という悪党一味に誘拐されてしまう。そうとは知らぬ新助は、清次の手下の三太と酒を飲んでいる。ほどよく酔いが回ってきたところで連れ立って帰ろうとすると、いきなり三太が斬りかかってきた。驚く新助だが、三太が思うほどには酔っていなかった彼は、三太を返り討ちにして殺害してしまう。清次の差し金で自分を殺害しようとしたことが分かった清次は憤るが、一目お艶に会ってから自首しようと思っていた。それで清次の家を訪ねてみると女房しかいない。女房に言葉で苦労された新助は、女房の襟首を掴んで彼女をも殺害してしまうのだった。こうして新助は、一人、また一人と殺人を重ねてしまうようになる。本作が谷崎潤一郎の耽美主義的作品の中で異彩を放つように見えるのだが、それは新助の止めどない殺人への欲求と実行とを細密に描いていることであろう。そこには心理描写はほとんど見られず、飽くなき殺人への欲求と実行とが描かれているのみである。極めて冷淡なまでに、新助は殺人者という職業を有しているかのように、客観的に描かれている。それだけに新助の殺人への止めどない欲求と実行は恐ろしく、戦慄させられるほどだ。妖艶な女性を魅力的に描きながらも、『お艶殺し』が描かんとしているのはお艶ではなく、殺人者・新助の方である。

彼は人間の顔さえ見れば、直ぐにその肉体の惨たらしい死骸になった光景を想像した。どうしてもまだ一人や二人は、彼の手にかかって非業の最後を遂げる者がありそうに考えられた。

これほどまでに新助は殺人への欲求を抑えられないでいるのである。そして、お艶と二人で清次を殺害するまでに至るが、これは和製ボニー&クライドの殺人シーンのような場面である。ただ、物語はタイトルが示しているようにお艶を殺すことで終幕を迎えねばならないので、ボニーとクライドのタッグはここらへんでお預け、となる。お艶は資産家の娘でありながら芸者として大成し、自分の出世のためなら人を蹴落とすことも厭わないような妖婦である。地獄の沼の底でうごめくような妖怪である。だからお艶はボニーとクライドのタッグを抜けて、新助に告白する。実は彼女は、新助のことをとうに欺いていたのだと。

芸者としての仕事を首尾よく捌いていくには、男に体を許さなければ円滑には進まないのである。それを知っているお艶は、いろんな男と寝ていて、自分を誘拐した清次とまで寝ている始末である。清次はお艶の「恋人」新助を殺害しようとした悪党である。そんな男とまで彼女は性交するような女である。成功するためには手段を選ばぬのがお艶という女性なのである。お艶は、現在はある侍のことを好いていて、新助のことなどどうでも良いと思っている。むしろさっさと別れたいとすら思っているくらいである。こんな告白をしてしまったお艶は、新助がどれほどまでの悪漢であるか、知らなかったようである。ついに彼女は、タイトル通りに殺されてしまうのであった。新助が欲望したように、惨たらしい死骸になることの布石を作ったかのように、お艶は新助に、欺いていたことを告白してしまうのである。

この血みどろの殺人シーン満載の小説『お艶殺し』は、殊更強調するまでもなく、殺人に継ぐ殺人の連続で、新助の心理描写がないだけ、新助は殺人狂になっているかの如く、他人の血を欲するのである。そしてその血を流させるのは、他ならぬ新助本人なのである。

『金色の死』は、解説の佐伯彰一によると三島由紀夫が絶賛した短編なのだそうである。確かに、芸術的狂気の果てに、人工楽園を築く男・岡村の物語である。語り手の私が岡村に比べて数学が出来るだの、全体的に勉強が出来るだの、学校にストレートで合格するだの、社会性があるだの、そういった諸々の社会との関係性を全て放逐するのが岡村の人工楽園である。人工的な美を欲した三島が本作を称賛したというのも理解出来るだろう。『お艶殺し』ほどではないが結末の人工楽園が突飛ながら秀逸で、クリエイティビティに富んだ文章表現にはなっていると思う。