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【書評】 たんぽぽ 著者:川端康成 評価☆☆☆★★ (日本)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

『たんぽぽ』は川端康成の最後の長編小説

『たんぽぽ』は川端康成の最後の長編小説である。『眠れる美女』『片腕』の系列に連なる作品で、最後まで書かれることなく、川端康成の自殺により絶筆となってしまった。眼前の人間の体が見えなくなる「人体欠視症」という奇病に冒された稲子と、その母、そして稲子の恋人・久野の物語。非常に会話の多い小説である。

『たんぽぽ』は1964年より書かれ、川端の死により絶筆となった。川端は長い思考を重ねて長編を書くことがあり、名作『雪国』も14年に亘って書き継がれた。『雪国』にしろ『たんぽぽ』にしろ、数年単位の長い期間に亘って書かれたとは思えないほど、作品の質には揺らぎがない。長い年月をかけて書かれたそれらの小説に、著者の漲る緊張感が一貫しているのである。

他者の体が見えなくなるという狂気

稲子は「人体欠視症」という奇病に冒されている。これは目の前の他者の体が見えなくなるという病気である。そして稲子は自分の体を見ることができ、彼女の体は、他者には見られているのである。ただ、稲子自身が他者を見ることができない。そして、彼女は精神病院に入れられてしまうのだった。

この狂気は何を意味するのだろうか?

本書の解説者は稲子の主体のはく奪と書いている。見ることが主体性であるとすれば、確かに稲子は他者に見られるのに自分は見ることができないので、主体のはく奪なのだろう。

稲子の存在が物語の存在を成り立たしめる

しかし久野にしても稲子の母にしても、稲子がいなければ二人の存在が成り立たないではないか。つまり彼らが語る言葉は、稲子を抜きにしては語り得ないのではないか。

会話の多い『たんぽぽ』という小説において、確かに、稲子は二人の会話の中には現れるが、今ここには、ついに姿を見せない。しかし『たんぽぽ』は稲子と彼女の「人体欠視症」という狂気を抜きにしては存在し得ない。

もし稲子がいなければ、何らのテーマもない会話の交流に過ぎない。稲子は、今ここには姿を見せないが、その存在は大きく、主体は、むしろ絶対的に大きい。物語の全てを治めるほどに。

惜しむらくは、本書が未完に終わったところである。川端康成の長編小説は、唐突に終わる生命のように突発的な終局を迎えるが、『たんぽぽ』は、それにしても、川端康成の自殺による終局が唐突で作品の質を高くしない。