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【書評】 ドルジェル伯の舞踏会 著者:レイモン・ラディゲ 評価☆☆☆★★ (フランス)

 

ドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)

ドルジェル伯の舞踏会―現代日本の翻訳 (講談社文芸文庫)

 

 

レイモン・ラディゲと言えば、三島由紀夫に影響を与えた20世紀初頭のフランスの作家という印象しかなかった。俺は三島の愛読者だから、彼を知るための材料としてラディゲを読もうと、『ドルジェル伯の舞踏会』を手に取った。何しろ三島は、次のように本書を評しているからだ(『私の遍歴時代』)。

 

私は、堀口氏(引用者注:本書の訳者堀口大學のこと)の創った日本語の芸術作品としての『ドルジェル伯の舞踏会』に、完全にイカれていたのであるから。それは正に少年時代の私の聖書であった。

 

敬愛する三島由紀夫にここまで言わしめているレイモン・ラディゲ。そしてその作品『ドルジェル伯の舞踏会』は三島を知るために読まなければならないと思った。何しろ少年時代の三島にとって本書は「聖書」なのだ。

 

しかし読んでみると本作は、青年と伯爵夫人の恋の芽生えや男女の交流を丹念に追った心理小説として、古めかしさは否めないものの、今尚読むに耐え得る作品であり、三島を知るために留まらず、三島に属さずとも十分に一個の作品として成り立っていることを知った。

 

 

ラディゲは『肉体の悪魔』で華々しくデビューし、フランスの文壇にセンセーションをもたらした後、本作『ドルジェル伯の舞踏会』を書き上げ、若干20歳で夭折した。作品への評価のみならず、「夭折の天才」としての伝記的なエピソードも、ラディゲへの関心を喚起する。

 

こういう作家に対して、書かれた小説だけを読んで評価することは難しい。どうしても作家の影がちらつく。そもそも、ラディゲから影響を受けた三島由紀夫に対しても、彼の壮絶な割腹自殺を抜きにして作品を評価することは出来ないだろうからだ。どうしてもラディゲ=夭折の天才、三島=愛国者三島事件の首謀者(割腹自殺を遂げた者)など作家的イメージ(作家の影)を抜きにして作品を捉え切れない。

 

作家の影を抜きにして作品を捉え切れないということは、本来、とりたてて作品の質を高めることも低くすることもないはずだ。しかしどうしても夭折の天才の作だから、愛国者だから、ということで評価する向きから逃れられない。それは、そういった作家たちにとっては夭折の天才となってしまったから、割腹自殺を遂げてしまったから、仕方がないと見るべきなのだろうか。

 

作品は、小説であれ映画であれ「機械」が作り上げたものではない。無論、人間が作ったものだ。それゆえに書いた者、撮った者の影から完全に独立して作品を評価することは難しいし、その評価の方法はナンセンスなことなのだ。機械が小説を書いたのなら、機械が夭折しようが割腹自殺をしようが、小説だけを評価出来るだろう。だから『ドルジェル伯』についても、この作品を書き上げた後に腸チフスに罹って若干20歳で夭折してしまったラディゲの遺作として読まざるを得ないし、そういう読み方で適切なのだろう。

 

 

『ドルジェル伯の舞踏会』は恋愛心理小説である。この作品においては心理を描くことこそが重要で、ストーリーはやや蚊帳の外に置かれているようだ。物語の前半で女主人公マアオの心情に敢えて触れないあたりは、最初、一体誰と誰の恋愛なのか?と疑わせるほど慎重な書きぶりだ。徐々にマアオの心情を明らかにしていくが、心の動きを静かに受け止めて文章に書こうとするとここまで丹念に描けるものだと感じる。

 

恋の芽生えについて、作家がどのように描くかは千差万別だが、長編小説の中盤でようやく、「僕は彼女のことが好きだ」と思うに至る小説などあるだろうか。しかし『ドルジェル伯の舞踏会』は90ページ近辺に至って、男主人公フランソワが、マアオのことが好きだと自覚するのだ。小説は220ページ程度しかないので、物語の中盤で恋をしていることを知る訳だ。相手の女に至っては、終盤まで恋の気持ちを認めようとしないほどだ。

 

『ドルジェル伯』において、フランソワとドルジェル伯夫人マアオとは、恋愛を成就させない。本作の主眼は成就ではなく「過程」にあるからだ。従って、ラディゲの処女作『肉体の悪魔』のように、二人はセックスをしない。それどころか、二人はキスはするけれど、唇を重ね合わせるのではなく男が人妻の額にキスをする程度のものだ。睦言を語る訳でもない。この作品で重要視されているのは二人の恋の成就ではなく、過程におけるそれぞれの心の風景だ。それを時間をかけて丹念に描いている。

 

物理的な距離感を構築したのは、マアオが人妻であることの制約が大きな理由となる。もし、フランソワとマアオとが結婚していない男女であれば、制約は何もない。ただ愛し合えば良いだけのことになる。しかしただ愛し合えば良いだけのことにさせないのは、マアオが人妻だからだ。そして夫アンヌに対して貞節を守っている。もちろんフランソワもそれを弁えた上で、安易にマアオに対して恋愛感情を示しはしない。

 

この制約の中で『ドルジェル伯の舞踏会』は生まれる。

そして最後までフランソワとマアオは結ばれない。マアオが本当の意味でフランソワに恋していることに気づくのは、170ページを過ぎた頃だ。

 

マアオは、自分がフランソワを愛しているのだといよいよ認めないわけにはいかなくなっていた。

 

この時点で、小説は残り50ページを残すのみである。その後マアオはフランソワの母あてに、自分がフランソワを愛していることを告白する手紙を書くのだが、それでも尚物語は、フランソワとマアオとの恋愛を成就させようとしない。二人は、マアオが既婚者であるという制約の下、慎重に、言葉を選びつつ接する。

 

『ドルジェル伯の舞踏会』は、恋愛の過程に重心を置いて筆を走らせている。そのために二人の恋はむしろ成就されない方が良いとさえ、作者は考えているかのようだ。だから、フランソワの母、そしてマアオの気持ちが夫に知られる頃には、物語は終盤を迎えざるを得ない。恋愛感情を言葉に表し、他者に知られていくと、恋愛はどうなるか?成就するか、あるいは破綻するか、しかなくなる。そうなると『ドルジェル伯』はハッピーエンドを迎えるか、悲恋として終わるか、いずれかに至る。そうではなく、あくまでも恋愛心理を丹念に描くことのみに強い関心を抱いて、ラディゲは本書を書き切ろうとする。

 

 

非常に独特な恋愛心理小説である本書だが、古めかしく感じられる点があるのが事実だ。それはおそらく、ラディゲというより、訳者に責任があるかもしれない。一番改めるべきと思われるのがマアオがフランソワの母にあてた手紙で、なんと「候文」だ。永井荷風じゃあるまいしと思ってげんなりした。

それと、「のだった」の乱用である。事あるごとに「のだった」が続く。例えば以下のような「のだった」の乱用が続くと、訳者は矜持を持って書いているつもりだろうが、現代の文体に慣れた目で読むと洗練されていないように感じられる。「のだった」だけを読み飛ばしたくなるほどだ。

 

否、責めるには及ばないのだった、何故かと云うに、伯爵夫人が二人前にしても十分な愛を持って居るのだったから。彼女の愛が如何にも大きいので、アンヌの上にまで滲んで、相互的に相報いているものと思わせるのだった。フランソワには、このような事情は少しも察しがつかぬのだった

 

 

訳者の堀口はこの「のだった」を美文のように書いているつもりなのだろうが(ここまで乱用するのだから)、ここまで「のだった」を使い続けると、文の流れを滞留させてしまう。あまりに「のだった」が続くので悪文にさえ感じられる。

「である」とか「していた」などと、文末を飾る言葉はいくらでもあるのだから、 綺麗な日本語となるように訳出すべきだと思うのだが。三島はこの「のだった」が気に入っていたようなので、ちょっとショックだ(笑)

 

「それかあらぬか」とか「館」とか「寄付の間」とかの古めかしい言葉が、「するのだった」「すぎぬのだった」という「だった」の乱用による、メカニックでもあり同時に呼吸が切迫するようにパセティックでもある独特の文体の中に、ちりばめられている堀口氏の訳文は、しばらくの間私をがんじがらめにして何を書いても「だった」がつづいて出てくるほどになった。

 

三島由紀夫『私の遍歴時代』

タラレバむすめ

 冬のドラマはまあまあ面白いんじゃないでしょうか。俺が観ているのは次の4つです。

 

東京タラレバ娘

・カルテット

・A LIFE

・相棒15

 

今回、『奪い愛、冬』を見逃したのがもったいなかったですね。こういう昔ながらの感情的な恋愛サスペンスって好きなタイプなので。水野や三浦の狂気的な演技も面白そうでした。

 

 

 

今回は『タラレバ』について。この作品は7話まで観ています。

 

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このポスターが超カッコイイ♡ 

 

日本版『セックスアンドザシティ』っぽい感じですかね。主人公の倫子(吉高由里子)はこのドラマを観て脚本家を目指したらしいし。

 

『タラレバ』は、30歳過ぎの独身女性の恋愛、友情、ビジネスを描いた作品です。とりわけ田舎の高校から上京して来た3人の女性たちの友情を、なかなか素敵に描いています。3人の女性たちの中で元AKB48の大島優子がクールで寂しげな女性を演じていますが、役になり切っている感じです。大島って演技が下手だったで、どちらかというと嫌いな女優ですが、演技に磨きをかけたんでしょうかね。あのメガネで凛とした雰囲気で、居酒屋の看板娘やられたら、俺、通っちゃいますね!

 

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かわいすぎるクールな大島さん・・・

 

逆に主人公を演じる吉高は、演技は良いんだけど、彼女を巡る男性たちがみんなデカくてかっこいいので、小柄で美人でもない吉高では男性たちに見劣りするのが残念だったかな。速水もこみち演じる男が、倫子をスーパーでナンパするんだけど、違和感がありました。いや、吉高はわたし結構好きですけどね。でもあんなカッコイイ男が「おっ!」と思うほどのビジュアルじゃない・・・んでわ?と。

 

* 

 

さて、恋愛はとってつけたような感じがしていましたが、7話まで観ると感想が変わってきます。早坂っていうテレビ局のプロデューサーが、昔、局の後輩だった倫子を好きになって告白するんだけど、あえなく撃沈する。

昔は、ダサかったんですね、早坂は。だから倫子もお断りした。

でもプロデューサーにまで上り詰め、演じるのは『天皇の料理番』やみずほのCMでも知られる俳優・モデルの鈴木亮平なので、カッコよくなってる笑(時の流れは速いなぁと思うけど、まぁ鈴木亮平だしな、という感じ)

 

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東京外大出の鈴木さん

こいつがカッコ悪いはずもないだろうと

 

 

それで倫子も好きになるけれど、早坂は他の子と付き合う。そのあと倫子も何人かの男と寝たり恋愛したりするが、結局フリーになる。

 

倫子はドラマの脚本家なんだけど、なかなか芽が出ずにいるので、プロデューサーの早坂は、彼女に脚本の仕事のチャンスを与え続ける。それでも仕事を得られずにいる倫子ですが、脚本家になるために局を退職しただけのことはあり、脚本にかかわる仕事なら何でもやるなど努力家の一面も。

影にひなたに倫子をサポートする早坂ですが、これはあくまでも、元後輩である倫子だから、同情とか共感、あるいは一緒にビジネスをしたい(つまりドラマを作りたい)とか、そういう意味だけでサポートしてたと思ったんですね。

 

そうしたら7話になって、早坂は、倫子のことをあからさまに好きだオーラを出し、しかも彼女とチューしちゃうwww

 

あれっ?オマエ、一途に、ずっと好きだったんかおんどりゃぁ!という感じ。

 

ビジュアルはあんまり良くない倫子だが、7話では寝ずに脚本を書き上げて、早坂の恩師が計画してる地域の活性化ドラマの脚本を書き上げるなど、仕事を一生懸命やる女性に「オッ・・・w」と思ってしまう男性はぐっとくるエピソードはいくつもある。だけど早坂がま~だ倫子を思ってたとは、オジサン、思いませなんだワwww

 

 

カルテットは今度語ろうと思いますけど、満島ひかりがかわいすぎますな。こういう子に騙されてみたい・・・

【書評】 All You Need Is Kill 著者:桜坂洋 評価☆☆☆★★ (日本)

 

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

All You Need Is Kill (集英社スーパーダッシュ文庫)

 

 

 

このブログにはゲームの話題がほとんどないし、書くつもりもないので読者がゲームについての知識を持っているか否か分からない。しかし『ドラクエ』や『FF』というゲームの名前くらいは聞いたことがあるだろう。日本の代表的なゲームだ。そして、そのジャンルがRPGということも聞いたことがあるかもしれない。

 

いわゆるRPGは敵を倒していく毎にキャラクターのレベルが上がり、文字通りキャラクターは強くなっていく。強くなることでより強い敵を倒せるようになる。しかし、時には、あまりに強い敵と戦うと、キャラクターは死ぬこともある。死ぬ時はゲームの終わりを迎えるが、それでゲームを永遠に遊べなくなる訳ではない。ゲームのデータを記録したところから、もう一度遊べるようになるのだ。

 

そして生き返ったキャラクターを操って、もっとレベルを上げる。そして強敵をいつかは倒せるようになっていく。倒せるようになるまで、キャラクターは死に続け、そして復活し続ける。ゲームが物理的に壊れることがない限り、キャラクターは永遠に生き続けるかのようだ。このゲームの世界において時間のループを繰り返し続けるのである。

 

 

All You Need Is Kill』というライトノベルは、このRPGのような永遠性、繰り返し、時間のループを扱ったSF小説だ。トム・クルーズ主演で映画化され『オール・ユー・ニード・イズ・キル』という邦題(原題『Edge of Tomorrow』)で公開された。映画版と違う点は、日本を舞台にした原作と異なり、欧州地域が舞台であり主人公も日本の青年ではなくアメリカ人の壮年になっている。ゆえに名前もキリヤ・ケイジではなくウィリアム・ケイジ。映画版では姓が名になっている。しかし多くの点では原作を踏襲する。

 

ライトノベルというとイラストが入っている若者向けの小説のジャンルということで、思わず読み飛ばしたくなるような退屈な文章が並んでいるかと予想したが、予想に違わず生硬な文章で、スタイリッシュなSFの世界を丁寧に構築していた。会話は漫画的、ゲーム的な印象を受けるが、地の文はしっかりと書かれていて読み易い。

 

 

トーリーは、ギタイと呼ばれるエイリアンが地球を侵略している近未来の世界。日本のみならず全世界がギタイの侵攻によって荒廃し、人類は勝ち目の薄い抗戦を続けていた。

主人公キリヤ・ケイジは、統合防疫軍という軍隊に初年兵として入隊。脆弱な兵士として前線に赴くが、リタ・ヴラタスキという英雄的な女性兵士のサポートもむなしく、物語の序盤であっけなく死ぬ。 

しかしなぜか生き返ったキリヤは、出撃前日に時間を呼び戻していた。そして、何度も死んでは蘇生することを繰り返す。キリヤは、繰り返しの物語=時間のループを続けるうちに、記憶の蓄積により自分を「成長=レベルアップ」させていく。物語の序盤で脆弱な初年兵だった彼はいつしか英雄的な女性兵士リタと肩を並べるまでになる。そして、キリヤは、リタと共にギタイを倒す秘策を見つけようとしていく。

 

 

映画版に比べるとやや複雑な構成で分かり辛く、戦闘シーンの迫力も描き切れていないという印象を抱いた。

 

加えて、もっと明確に、繰り返しの物語であるの悲劇性を強調するべきだったと思った。何しろ主人公キリヤだけが時間のループを繰り返すことが出来るのだから、例えば、何も変わらず同じ行動を繰り返して行く周囲の人間と自分とを比較して、葛藤する様子を仔細に描いても良いと思うのだが、やっていない。

繰り返しの物語の中に女性の姿が入って来ても良いかもしれない。好きな女性がいて彼女は時間のループに入らないが、キリヤだけは入ることが出来るので、その女性といずれは離ればなれになってしまうような、感傷的なエピソードを入れるとか。それがヒロインのリタなのかもしれないが、彼女のことをキリヤが好きかどうかは最後の方で取って付けたように定かになるだけで、ロマンティックな言葉のやり取りもないし、そもそもリタ自身が魅力的に描かれていないので、彼女が死んだところで感じ入るものは少ない。

そういった、何かしらの葛藤、感傷が明確に描かれていないので、この小説が悲劇の衣装をまといながらも、読者は小説との間に距離を感じ、他人事のように感じられてしまった。

 

 

上記の欠陥はあるものの、スタイリッシュでハードなSF世界を構築した想像力、そして時間のループを活用してSFアクションへと導いたアイディアは評価したい。後者の手法はいくらでも応用出来る。SFでなくてもアクションでも良いしファンタジーでも良い。

 

この小説における、主人公が強くなって敵を倒すということは、「成長物語」の構造になっているからだ。だから本作ではジャンルがSFだが、アクションでも良いしファンタジーでも良い訳だ。時間のループを繰り返して強くなる物語は、フィクションの可能性を押し広げる。アクションやファンタジーでなくても、恋愛でも、あるいは政治や戦争物語でも使えるだろう。政治や戦争だと考えるだけで恐ろしい物語が出来るかもしれない。読者にフィクションの可能性を感じさせてくれる本書のアイディアとおおまかなあらすじはとても良かった。この作品以外にも独創的なアイディアを用いた他の作を読んでみたい気もする。

【映画レビュー】 ラ・ラ・ランド 評価☆☆☆★★ (2016年 米国)

gaga.ne.jp

 

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アカデミー賞最多14部門ノミネートのミュージカル映画ラ・ラ・ランド』。デミアン・チャゼル監督、ライアン・ゴズリングエマ・ストーン出演。チャゼル監督はアカデミー監督賞、ストーンは同主演女優賞受賞(ベネチア、GGの女優賞も受賞)。ゴズリングもアカデミー主演男優賞にノミネートされた。既に世界興行収入3億ドル超のヒット作となっている。

 

舞台はロサンゼルス。冒頭の交通渋滞にイライラするドライバーたち、一人の女性が車から降りたところからオープニングナンバーが始まり映画は幕を開ける。このオープニングナンバーが洗練されていて、色彩感覚豊かな映像と共に絶大なインパクトを誇り、物語へと強く引き込む。

 

ストーリーは、ロサンゼルスで成功を夢見るジャズピアニストのセブと、女優の卵のミアによる、「男女の出会いと別れ」を描いたもの。ただしセブはピアニストであるが、彼の夢はピアニストとしての成功ではなく、自分の好きなジャズを聴けるお酒が飲める店を開くことである。

これまで一体どれほどの映画がこのストーリーを描いてきたか分からない。男女の出会いは、映画の2時間という尺に収めるためには適当な題材なのだろう。

しかしそれをどう料理するかは監督の手腕にかかっている。

 

あらすじだけを読めば、ロサンゼルスを舞台に、ありきたりで凡庸な男女の出会いと別れがあるだけだ。むしろ、セブがジャズの店を開いて大成功し、そして女優の卵であるミアが、有名女優になってしまう件は、唐突な印象を与え、やや説得力に欠けるとさえ言えるほどだ。ストーリーにはシンプルで大きな仕掛けは無いので、映画を鑑賞した後にこの映画は何を言わんとしていたのかと言う疑念に囚われなくもない。単に出会いと別れを描いただけではないかと。

 

しかし何とも形容し難い感動が押し寄せるのは何故なのか。

 

 

二人の出会いから数カ月、ミアは女優を夢見ていたが、あまりにも不合格が続くため、セブの勧めもあり自分で脚本を書いて自作自演の一人舞台を披露することにする。しかし結果は惨敗で、客席はまばら、楽屋の脇を通る観客から聞こえて来る感想は、ミアへの中傷だった。

夢破れた彼女はセブの元を去り実家に戻る。

セブはセブで、店を開くという夢はどこへやら、安定した収入を得るためにバンドのピアニストとして働くようになっていた。

二人ともロスの現実の壁に阻まれ、夢を諦めてしまったかのようだった。

 

ある時、セブのスマホにミア宛てに電話が来る。

相手は大作映画キャスティングエージェントで、「ミアの一人舞台を見て感心した。オーディションに来て欲しい」というものだった。

セブは驚きミアの自宅に車で向かう。

最初はオーディションに行くことをかたくなに拒むミアだったが、セブは「明日、朝8時に迎えに来る」と言い残して去ると、彼女は思い直してオーディションに参加する。大作映画の撮影地はパリで、合格したら渡仏することになる。

セブとミアは、もし合格したらどうするかを話し合う。お互いの愛を確認する二人だがどこか二人の愛はここで終わるような、潜在的な哀しさがある。ミアはパリに行くけれどセブはロスに残り夢を追う。夢を果たすためには、しばしば、男女には別れを伴うものなのだ。

 

そして大作映画のオーディションに合格した彼女は、パリに赴きスターの道を駆け上がり、5年後、有名女優になってロサンゼルスに現れる。

彼女はある年上の男性と結婚し、一女をもうけていた。そこにセブの姿はなかった。

 

ある時夫婦は、車に乗って、二人だけのデートを楽しもうとする。そして夫が、あるジャズの店に行こうと誘い、ミアも応じるとその店の名はかつて彼女がセブのために考えた名だったことを知るのだ。

店の中央に座り、ジャズの店を仕切る男を見ると、セブがいる。セブもミアに気付くと二人の思い出の曲をピアノで弾いて行く。

 

二人は、時を経て違う道を歩んでいるが、二人がもし結婚していた場合の5年間を、映画に随所に流れていた美しく、明るく、時にはもの哀しいいくつかの曲と共に、走馬灯のように作り出し、「もう一つの『ラ・ラ・ランド』」を怒涛のように描き出す。

セブとミアは別の道を歩み、もはや、共に愛し合うことはないけれど、二人で過ごした時間の大切さは一片たりとも変わらない。最後に二人は笑みを浮かべながら見つめ合い、それぞれの道へと戻って行く。

 

 

この走馬灯のように振り返る終盤のシーンは、『ラ・ラ・ランド』のもう一つの物語を観ているようで、もしかしたら別の人生が、セブとミアにはあったかもしれないとも思う。しかし、もしそれを選択していたらどうなっただろう。セブは店を開業出来ず、ミアは女優になれなかったのではないか。走馬灯のように振り返るのは、本来は「過去」のことだがこれは「可能性」の物語でしかなく、事実ではない。

だから、走馬灯のように振り返った可能性の人生が、美しいものであったとしても、それはあくまで可能性。しかし可能性ではなく現実だったのは、二人が愛し合った事実だ。それが既に過去のものとなってしまったとしても、彼らはそれを、セブのピアノ一つで思い返すことが出来る。

 

 

言葉は常に、映像よりも音楽よりも、優位であるように思って来た。言葉は明確で、それだけに共通して他者と理解し合うことが出来る。映像や音楽は言葉よりも感覚が強い。それゆえに受け手によっては別の解釈をすることが出来てしまう。それゆえに言葉の方が優位であるように思って来た。

 

しかし、事実、このようにレビューで『ラ・ラ・ランド』についてずらずらと文章を書き連ねてみても、いささかもこの映画について語っているように思われない。観た方が早い。そう言い得てしまうほど、言葉の無力感を感じる。

 

それが、特にこの映画の終盤のシーンに現れているように思う。非常に明るく、楽しい映画でありながら、将来への不安を顔に表す主演俳優二人の表情に、哀切さを感じられてならない。それは映像とジャズのせいなのか。つまり映像と音楽の優位のせいなのか。

 

言葉は明確で、映像よりも音楽よりも明確で論理的であることが出来る。しかし、書かれた言葉は、ピアノ一つで走馬灯のように過去を振り返ることは難しい。書かれた言葉は、連続した映像を用いて走馬灯のように過去を振り返ることは難しい。

 

ラ・ラ・ランド』がありきたりで普通の「男女の出会い」を描いた凡庸なストーリーを描きながら、感動を呼び起こしてやまないのは、言葉が映像よりも音楽よりも「劣位」にあることではもちろん無く、言葉では表現することが難しい喜び、愛、哀しさ、切なさの感情の組み合わせを、映像と音楽との巧みな複合体で呼び起こしてくれるからだろう。

 

・・・と、こう書いてもこの映画の魅力をいささかも語っているように思えないのだが、書かれた言葉は、この映画の前では、黙るしかないのかもしれない。むしろ、「超感動した」とか「すっごく良い映画だった」とか言う、映画を観終わった後に、俺の心の中に浮かんだ言葉、他の観客の言葉、ツィッターのつぶやき、その程度のダイレクトな言葉の方が、より『ラ・ラ・ランド』の感想としては、本質を突いているかもしれない。

 

ご都合主義的な展開はどうしても気になるが、この映画で言いたいことは実業家として成功することでも女優として名を馳せることでもない。だからご都合主義は良い部分とは言えないが、作品の質を大きく貶めることにはならない。

 

しかし、これ以上語ると野暮でしかないので、もう、閣筆する。

 

 

***

 

2017年にDVDを借りて『ラ・ラ・ランド』を見たが、やっぱり凡庸に見えたし、何よりも女優がいきなり大女優になっちゃうという飛躍が好きになれなかった。音楽は良いんだが。。。

 

評価を☆4つ→☆3つへ変更

【映画レビュー】 サンドラの週末 評価☆☆☆☆☆ (2015年 ベルギー、フランス、イタリア)

 

サンドラの週末 [DVD]

サンドラの週末 [DVD]

 

 

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督、マリオン・コティヤール主演。『マリアンヌ』や『アサシンクリード』など出演作が相次いで劇場公開されるに伴って、ビデオ屋に、彼女の特集コーナーがあった。その中で目を惹いたのが本作。

 

体調不良から休職をし、ようやく復職できることになった矢先の金曜日、上司から解雇を言い渡された女性サンドラ(コティヤール)。彼女は、自分の復職を会社に認めさせるため、16人の同僚にかけあっていく。ただし、会社の経営が思わしくないことから、サンドラの復職を認めると、社員たちのボーナス1,000ユーロがなくなってしまうのだ。サンドラの復職か、自分たちのボーナスかを賭けて、月曜日に無記名投票が行われる。16人のうち過半数の票を獲得すれば彼女は復職出来る。何とかして自分の復職に投票してもらおうと、週末の3日間をかけてサンドラは奔走するというストーリー。

 

地味で単調とも言い得るようなあらすじの通り、一見すると退屈になってしまうところを、ダルデンヌ兄弟は、音楽をほとんど用いない抑制された演出でリアリティを表し、16人の同僚に説得しては断られ、あるいは受け入れられする動きのある展開と、サンドラ自身が徐々に「精神の強さ」を取り戻していく心情の流れを丁寧に描き、ドラマに仕立て上げている。

 

 

明日の食事に事欠く訳でもなく、「公営住宅」に住めば何とか暮らしていけないこともないサンドラ一家(夫と2人の子有り)。貧困層とはいえ、現在の暮らしを変えたくはないが、夫の給料だけでは現在のアパートに住み続けることは出来ないので、サンドラの賃金も、現在の暮らしを守るためには必要である。

 

そのため、食堂で働く夫は、サンドラに、同僚に説得して回るように勧める。サンドラは心を病んでおり薬を常時持ち歩いているような女性なのだ。休職も恐らく心の病が原因なのだろう。そんな妻サンドラに3日間にわたって、バスで、徒歩で、時には夫の運転する車で、16人の同僚を説得させに奔走させる夫は、酷な仕打ちをしているようにも見える。夫がなぜ諦めないのか?が映画の一つのストーリー上のポイントである。

 

サンドラは何度かなげやりになり、月曜日は勝手に決めてという。即ち、投票は自分の復職に入れても良い、ボーナスに入れても良い。勝手にしろという訳だ。しかし夫は諦めない。彼女を励まし続ける。夫は一体、何を信じているのだろう。努力をすれば、報われるという資本主義か?あるいは労働者として権利を持つサンドラは会社と交渉して復職を勝ち取るべしとする民主主義か?

 

映画は、サンドラの努力もむなしく、過半数を獲得することは出来ずに、8対8の投票で終わる。夫が望んだ資本主義も民主主義も実を結ばないのだ。ポイントの一つは、悲劇的な形で終結を迎える。

 

しかし、サンドラは、16人の同僚を説得しに行く中で、ある発見をする。

 

自分のために、ボーナスを捨ててでも、復職に投票してくれる人が何人も現れたことをである。結果的にその数は8人にも上ったが、数だけではなく、彼ら彼女らの心情の豊かさに、心を打たれ、精神を鍛えられていくのである。これがストーリーのもう一つのポイントで、サンドラは最後、復職に失敗したにもかかわらず、颯爽として帰路に着く。

 

自分のボーナスか、あるいは同僚サンドラの復職か。道徳的に考えればサンドラの復職を望むが、たかが1,000ユーロであっても貧困層の同僚たちにとっては、渡したくない金なのである。

もちろん、1,000ユーロという少額では大したことは出来ない。同僚が言うサンドラに投票しない理由も、毎月の学費だとか家のリフォームだとかいって、大した理由ではない。毎月の学費は臨時収入のボーナスをあてにせずとも払える訳だ。リフォームも、やらなくてはならぬものではないだろう。それでも貧困層にとっては渡したくない金なのだ。

 

サンドラも公営住宅に移れば生活が出来るのにそれを選択しない。貧困層も学費やリフォームの支払いに困惑している訳ではない。それでも僅かながらの金を渡したくない。その気持ちは、貧困層にいるサンドラもよくよく分かっている。

 

 

ボーナスか、復職か。この選択肢を迫られた時、貧困層たる同僚たちにとっては、まるで生死の決断をするがごとく、悩む。家庭内で喧嘩を生み、時には殴りあう。離婚に至った同僚もいた。たかが1,000ユーロのためにである。しかし彼らにとっては究極の選択なのだ。

 

その中にあって、サンドラのために同情し、共感し、涙する同僚たち。

 

その中で「臨時契約の社員」が黒人青年がいた。彼は臨時だから、契約が終了すれば、失業する可能性を示唆する。だから彼は、サンドラが説得に来る前から、ボーナスではなく会社から疎んじられるのを恐れて、ボーナスを選ぼうとしていたのである。しかし、サンドラのことを思って、最後は彼女の復職に投票する。

 

投票が失敗に終わった時、社長に呼ばれたサンドラは、社長に褒められる。

 

社長は孤立無援の状態から8対8の接戦に持ち込んだサンドラの行動力を評価したためだ。そして彼はこう言う。

 

ボーナスを出して、尚且つ、サンドラの復職を認めよう、と。ここでサンドラは薄く笑う。疲労を癒す瞬間のように思えたからだ。しかし社長は付け加える。サンドラがいない間、16人で仕事が出来ることがわかった。だから、サンドラを復職させ、臨時契約の社員を切る、と。

 

一瞬褒められて喜んだサンドラは、社長の申し出を断る。黒人青年の存在が念頭にあったからだ。

 

そして彼女は潔く社長室を退出し、会社を出て、もはや元の暮らしは維持出来ないはずの我が家に戻る。

 

そこで夫に電話して、ダメだったけど、善戦したと言って、映画は幕を閉じる。その時のサンドラの笑顔は、何の成果も生み出せなかったにもかかわらず、「勝利」しているような表情を示していた。

 

自由、労働者の権利、金といった自由経済、資本主義、民主主義だけを信じていると、サンドラのような行動は取れないだろう。この映画にあるように、「同僚の気持ちがわかっていた」サンドラが、3日前の金曜日には、こんな行動を取りはしなかったはずだ。喜んで復職したいと言っただろう。それなのにこの選択を取るということ。いかにこの3日間が彼女にとって、人生観を変えられたかが分かる。

 

貧困にあるサンドラにあって、少しでも人間的な光を獲得した瞬間が、この映画の決断には込められている。たかが3日間のあいだ、同僚を説得して回るというだけのシンプルなストーリーをかくもドラマティックに描いた映画に、驚異と表現したくもなる。