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【書評】 斜陽 著者:太宰治 評価☆★★★★ (日本)

斜陽 (角川文庫)

斜陽 (角川文庫)

『斜陽』は太宰治の代表作のひとつで当時のベストセラー小説にして、筆者が最も嫌いな小説だ。もうひとつの代表作『人間失格』はまあまあだったので、これも面白いのかと思って手に取ったら、読んだ自分を軽蔑したくなるほど退屈な作品だった。

何より嫌なのは文章が堕落しきっていることである。谷崎潤一郎のように、地の文において気品のある日本語を多用して、上流階級を描くことに太宰は関心を示さない。ひたすら名詞に「お」を付けることで、主人公かず子一家と、平民との格の違いを惨めにも表現しようとするのだ。敬語が発達している日本語ならいくらでも上流階級らしさを表現し得るのに、太宰は「お」を付ける程度でお茶を濁す。仮にも小説家なら豊富な語彙力によって文章に技巧を凝らすべきだ。


また、主人公かず子の行動は極めて軽薄で、吐き出されるセリフが不快感を催すほどに下劣である。

何しろ人生を評して、「人生は恋と革命のためにある」というのだから。
こんなセリフは、ギャグとして言うか、少年少女が若気の至りで書いてしまう時のセリフであろう。しかし太宰は、40歳近くにもなって、一切の恥じらいもなく主人公のセリフとして語らせる。こんな厚顔無恥の感性は、筆者には無い。このように自分に酔っているだけの駄文の連続には、1分1秒でも時間を費やしてはならない。

かず子は直治という愚弟が尊敬する作家に、手紙を書く。結びの差出人のところがM・Cとしているのだが、その意味が手紙ごとに変化していって、「マイ・チェーホフ」だの「マイ・コメディアン」など、気取り過ぎも良いところだ。これは『斜陽』が象徴する気取りであって、自分に酔った文章が連綿と続く。それが『斜陽』だ。

働かないで暮らしているかず子一家なのだが、金がないから結婚するだの、モノを売って生活の足しにするだの、労働を軽侮する行動には極めて不快だ。かず子の労働に対する価値観を読むごとに、罵倒してしまいたくなるほどである。別に筆者は働かないことがいけないとは思っていない。かず子が、労働を軽侮しているところが気に入らないのだ。働かなくて生活ができたり、敢えて働かない生き方を選ぶのは構わないが、労働を軽侮してどうする。かず子は、現実から離れて、夢の中に生きる人間のようである。

このように、虫唾が走るところは枚挙に暇がない。

鹿嶋田真希の『六〇〇〇度の愛』とか青山七恵の『ひとり日和』も駄作だが、太宰治の『斜陽』を前にしてはまだ読む価値がある。

この小説で褒められる点は1点だけ。

筆者が読んだ『斜陽』は角川文庫版で、解説は角田光代なのである。角田は、かつて太宰の小説が好きで読んでいたが、『斜陽』の良さだけは分からなかった。また、年を経ると共に太宰の作品を読むことを恥ずかしく思うようになり、遂には読まなくなってしまった。

しかし、二十代、三十代となり、様々な人生経験を経て『斜陽』の良さに気付くことが出来た。その気付きを軸に、味わい深く解説にしている。あたかも小さなエッセイのような苦さと軽やかさが混合した、良い解説だと思う。こんな短い文章でも角田らしい個性を出せるのは凄い。

筆者は太宰の『斜陽』の良さを三十代の現在でも理解出来ないが、角田が太宰作品を読み、読むことを止め、そして再び読むようになった過程はセンシティブで面白く、理解することが出来る。『斜陽』を読むことは、虚無的な気持ちに陥らされるけれども、角田光代の解説文は、読むことで意味があると思う。この解説文が読めることが、唯一本書を評価出来る点だ。

【映画レビュー】 ルビー・スパークス 評価☆☆☆★★ (2012年 米国)

 

 

 あらすじ

 

小説家カルヴィンは、夢の中に出てきた女性ルビー・スパークスを小説に書いた。カルヴィンは小説家としてスランプに陥っているので、ルビーのことを小説に書いてはどうかという、精神科医の勧めでたくさん書いたのである。彼女は、理想的な女性として描かれていく。出身地も、容姿も、職業(画家)も詳細に描かれるのだ。

そしてある時、カルヴィンが自宅で目を覚ますと、小説の創作物であるはずのルビーがキッチンに立っていた。創作物が現実の世界に飛び出て、その創作物に作者であるカルヴィンが恋をするというラブストーリー。

 

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ルビー・スパークス役のゾーイ・カザン。本作品の脚本も担当している。 

 

 

ルビーはカルヴィンの創作物である。

その創作物たるルビーは、カルヴィンの筆次第でどんな人間にもなるという設定だ。例えば、ルビーはフランス語が堪能だ、と、カルヴィンがタイプライターに打ち込めば、その瞬間から彼女はフランス語を話し始める。歌いながら服を脱ぎ始めると打ち込めば、その通りになる。創作物であったルビーに恋するようになるという件は、ピグマリオンのようだ。ピグマリオンであるルビー・スパークスは、自身がカルヴィンの創作物であることを知らない。

 

ピグマリオンと違うのは、カルヴィンは創作物としてのルビーを手放す、ということに表れている。ルビーはカルヴィンの理想的な人間として「創作」されるが、それでも血の通った人間なので、カルヴィンの意に沿わない行動を取る。そして何度も意に沿わない行動を取ってきたルビーとカルヴィンの関係は、以下に示すように、ついに決定的となり、カルヴィンはルビーを手放す。

 

パーティにカルヴィンと共に参加したルビーは、退屈していた。そこでラングドンという男に誘惑されるまま、プールで下着姿になってしまうのだ。そこをカルヴィンに見咎められたルビーは、カルヴィンの意のままに操ろうとするカルヴィンを嫌がり家を出ようとする。

そこでカルヴィンは、ルビーはカルヴィンの創作物であることを暴露した上で、ルビーのことを小説にしたため、「彼女を自由にする」と書き、創作物としてのルビーを手放してしまうのだった。

 

そして自由になったルビーは、もはやカルヴィンの創作物ではないから、彼の家から消えてしまう。そして、カルヴィンと再び現実で出会い、恋に落ちるような予感を匂わせて物語は終了する。この時、ルビーには創作物だった過去の記憶はない(現実の女性だから当たり前だが)。現実のひとりの女性としてカルヴィンの前に現れる。

創作物から離れて、現実の女性に恋をせよというのがこの映画のメッセージであり、「創作物に恋をする」というストーリーが面白く、短いこともあって興味深く映画を観ることができた。

 

 

自分の意のままに操ることができる創作物というのは、日本のオタク文化を想起させるだろう。小説というメディアから飛び出す女性、その女性を自分の意のままに操ることができるというのは、育成シミュレーションゲームのようだ。

さて、題材は非常に興味深い作品だが、今ひとつこの映画に没頭できなかった。その理由は、この映画が、オタク的な設定を持ちつつもオタク的でないからだろう。筆者は日本のオタク文化を想起させると言ったが、日本のオタクならもっと上手く描くはずだ。

設定も純文学作家ではなく漫画家かラノベ作家、せいぜいエンタメ作家にしただろうし、相手の女性を画家にはしない。純文学作家や画家という職業はハイカルチャーの職業で、サブカルを愛好するオタク的な職業ではないからだ。

女性役のゾーイ・カザンはかわいい雰囲気がある女性だが顔が良い訳ではないので、かわいい女性とも美人な女性とも言い難い。あまり性的な魅力を感じない。オタク的にするなら美人でかわいくてスタイルが良い女性ということになる。そこまで完璧にオタク的にしなくても、もう少々性的な魅力を付け加えないと、理想的な女性には遠い感じがする。

性格も没個性的であり、目立つような性格の個性が欲しいところであった。オタクなら「ツンデレ」にするだろうか。そこまでオタク的にしなくても、ルビーの個性を強調するために、目で見て分かる性格の強さが見たいところであった。

この「創作物に恋をする」というストーリーは面白いので、誰か、日本のオタク的な映画監督が撮り直して欲しいと思う。きっと面白くなるはずだ。

【書評】 コンビニ人間 著者:村田沙耶香 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 普段、筆者は近年の芥川受賞作など読まないし、読んだところで高い評価をしない場合が多い。ストーリーに起伏がなかったり、人物描写が薄かったり、セリフが退屈だったりと、読むに堪えない作品を読む破目になるからである。また、そのような評価できない作品が芥川賞を受賞し、マスコミの称賛を浴びてしまう状況に食傷気味になっていた。

 

しかし、この村田沙耶香という、三島賞を受賞し、新人とは言えない作家の『コンビニ人間』はどうだろう?本書は、評論家・小谷野敦が太鼓判を押していたというので、普段なかなか褒めない評論家が推薦するとなると興味深いと思い、つい読んでみたくなった。そして読んだら、これは、稀に見る良作ではないか。

つい☆5つをあげてしまったほど秀逸な出来で、他の作品も気になるところだ。☆4つにするには欠点を見つけなければならない(『ラ・ラ・ランド』の急展開のストーリーみたいに)が、ボリューム不足程度しか思いつかなかった。

それにしても、『コンビニ人間』のような良作が50万部超のベストセラーになることは、出版業界にとっては良いことだ。質が高い作品こそ売れて欲しいと思うからである。

芥川賞受賞作はマスコミから注目され、純文学ながら高いセールスを期待されやすい(映画でいえば日本アカデミー賞のようなもの)。それゆえに、良作が受賞作に選ばれると、作品の質の高さに呼応するように売れる訳で、筆者は初めて、芥川賞に意義を感じた。

 

 

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 *

 

大学在学中から18年間コンビニで働いている36歳の未婚女性・古倉恵子が主人公。彼女は大学卒業後も同じコンビニでバイトとして働き続け、恋愛も性経験もしたことがない女性である。

当然同僚は変わり続け、彼女が働き始めた頃に同僚だったメンバーはひとりも残っていない。店長すら8人も変わっているくらいだ。彼女はコンビニの発する音(レジの音、掛け声、客の靴の音など)に安らぎを感じ、ここが自分の社会との接点だと信じて止まず、生活も思考もコンビニに依存していた。

 

 

コンビニ人間』の主人公恵子は、幼い頃から社会から奇異な目で見られていた。

かわいい鳥が死んだら、普通はかわいそうだから埋めるという発想をするだろうに、彼女は違う。母親に「お父さんが焼き鳥が好きだから食べよう」と言い、そして、クラスメイトがとっくみあいのケンカをしていたらスコップで殴って止める。女性教師が喚いていたら、スカートと下着ごと下ろして止めさせる。彼女は、その度ごとに教師、両親、あるいは妹から心配され、「異質な者」として認識させられていく。

ただし、これらの「異質な者」としてのエピソードが、ユーモラスに描かれているため、「異質な者」恵子が他者から疎んじられるほど忌むべき存在ではないことが分かる。関わりを避けられはするが、興味の対象としてのぞき見をされる。それは、「鳥を焼き鳥にして食べよう」と言った時に、大人たちが興味津津で恵子を見ていたという叙述に、端的に表れているだろう。彼女はその視線を、土足で自分の領域に入る態度と言っており、快く思っていない。

 

そして大学在学中に見つけたコンビニという世界に降り立った彼女は、社会との接点を見つける。ここで恵子は、同僚の言葉づかいや、ファッションを真似ることで、「異質な者」でない、社会的な者へと自らを飾り立てようとしている。それは功を奏し、内気な恵子は地元の同窓生と再会しても、「変ったね!」と好意的に言われるほど彼女らから打ち解けられる人間として、自らの役割を演じることができていた。

 

コンビニで働くことは、恵子にとって何を意味しているのか。

 

恵子は他の仕事を見つけようと選択肢を広げたことはあったようだ。しかし、上手くいかず結局同じコンビニで18年間も働き続けている。「異質な者」である恵子にとって、社会的な者を「演じる」には、コンビニで働くしかないということである。

コンビニは厳正にマニュアルが整備されていて、自らの異質性が入り込む余地がない。自らの異質性に自覚がある彼女は、マニュアルのままに働くことができるコンビニで働くことで、社会的な者を「演じる」ことができると思った。それゆえに恵子はコンビニでの労働を選ぶ。

そう、あくまで恵子にとって、コンビニで働くことは社会的な者を演じるということである。異質な者が異質性を前面に出すとエドワード・ゴーリーの『うろんな客』になってしまって、手がつけられないが、彼女はそこまで無自覚ではない。 エピソードからすれば、彼女はうろんな客そのものなのだが。

 

うろんな客

うろんな客

 

 

 

社会的な者を演じるにあたって、結婚しない理由や、就職しない理由を問われ、その都度まるでマニュアルのような回答をしてきた彼女だが、いろいろな人と交流するにつれて、徐々に質問に上手く応えられなくなっていき、仕方なく白羽という完全な「異質な者」を住まわせ、恋愛をする者を演じようとする。これは社会的な者を演じるための振る舞いにすぎないのだが、周囲の社会的な者たちは、恵子が遂に社会へと、こちら側へと、歩み寄ったものと勘違いして喜ぶのだ。

これが振る舞いにすぎないのは、読者の期待に反して、恵子は白羽を好きになることもないし、セックスもしないのである。

ただ、この試みは上手くいかず、恵子は18年も勤めたコンビニを退職するほどの乱暴な行動に移り、白羽を食べさせるために別の仕事を探そうとするが、結局は止めて、コンビニで再度、働くことを決意するのであった。

 

恵子は、自分を人間ではなく、コンビニ人間なのだと自覚するところで、物語は幕を閉じる。これは社会的な者を演じる者として、名前を与えたということに尽きる。

自分は、他者が言うところの「こちら側」の人間ではないし、そう振舞おうとしても無理であった。コンビニで働くことで、多少なりとも、社会との接点を持つ者として、この世界で生きるのが、自分の精一杯の振る舞いなのである。

 

異質な者から、社会的な者へと変貌するのでもなく、異質な自分を壊さないように、社会的な者を演じる恵子の物語は、未だ先を読んでいたい気にさせるが、コンビニ人間の自覚をして、きれいに終わるのだ。彼女は、「鳥を焼き鳥にして食べたい」と言った時の彼女と、いささかも変わっていない。ただ、社会生活をするためには働かなくてはならないし、そのためには自らの思考をマニュアル化して、異質性を隠ぺいしてくれるコンビニは、何よりも働きやすい場所なのである。

恋愛を是とするのではなく、誰も好きにならない彼女だが、もし彼女の目の前に、恵子を異質なまま愛してくれる人間が現れたら、恵子もその時は、恋に落ちるかもしれない。しかし、その彼氏は、恵子にスコップで殴られたり、人前でズボンを下ろされるかもしれない。そんな恵子の恋愛も、見てみたい気がする。・・・

 

 

***最後に***

 

コンビニ人間』にはユーモアたっぷりの叙述が随所にある。思わず笑ってしまった。この村田という作者は笑いのセンスが筆者と似ているようである。そしてこのユーモアをもって描かれているのが全て恵子であり、恵子にまとわりつく異常さは、笑いと離すことができないブラックユーモアだ。恵子には、漫画家の蛭子能収にも類似した、グロテスクだが関心を覚えずにはいられない愉快さがある。

 

・恵子は、未だにコンビニで働く理由を妹に考えてもらっている。その理由が「体が弱くて正社員の仕事ができない」というものだ。こんなことを妹に考えてもらっていること自体おかしくて笑ってしまう。

・そして、地元のクラスメイトの旦那に、「体が弱いのに立ち仕事っておかしくない?」と核心をつく質問をされ、またも妹に、「他に良い理由ない?」と聞く。そんなことを大真面目に言っている恵子にまたも笑ってしまう。

・怒っている人間の顔を見つめることに興味を持っている恵子。目の前で憤る白羽をじっと見つめながら人ってこんな風に怒るのかと、冷静に考える。「こいつ頭大丈夫か?」と、笑える。

・妹は既婚者で赤ん坊がいるのだが、その赤ん坊が泣いているシーンがある。そこで妹は母親として当然あやしにいく訳だが、恵子は、妹と共に食べたケーキのナイフを見て、黙らせるだけならあやすこともなく、他に方法があるのにと思う。ナイフを使って黙らせるということなので、親切にしてくれている妹にそんなことを思うなんてと思う反面、あまりにブラック過ぎて、ゲラゲラ笑ってしまった。

【書評】 芥川賞の偏差値 著者:小谷野敦 評価☆☆☆★★ (日本)

 

芥川賞の偏差値

芥川賞の偏差値

 

 芥川賞第1回~最新回まで164作をランク付けしたブックガイド。平易な言葉で、芥川賞作品を紹介している。文体は彼のAmazonレビューと似たようなもので、肩の力が抜けている。本書は芥川賞を受賞した全作品について触れているのと、部分的に候補作についても書かれているので、芥川賞のデータベースとしての価値がある。

肩の力が抜けた文体は気に入らないが、対象の文学作品に対してはっきりと、「面白い」「面白くない」が断定的に書かれているところは独特だろう。この断定的な口調に我慢できない読者もいるかもしれない。本が好きで、読んだ本は概ね高く評価するような人もしかりだろう。筆者は何でも高く評価するような読み方は苦手なので、小谷野の断定口調は嫌いではない。

 

そうは言っても、作品に対して、「面白い」「すばらしい」「面白くない」などの形容詞を連発するも、なぜ「面白い」のか「面白くない」のかが語られない場合が多く、納得感はあまりない。本書のAmazonレビューでもそれは指摘されているところだ。全体的にふわっとした文体で、彼の芥川賞受賞作にまつわる雑学がメインだから、批判的な見方が出るのは当然のことだと思う。

 

小谷野の良いところは、評価する基準に「面白さ」や「退屈さ」を置いているところだ。面白い(退屈でない)作品は良いし、退屈な(面白くない)作品はダメだ。

例えば滝口悠生を紹介した箇所で、この受賞作は退屈だと良い、「退屈なのは良くないと私は考えている。そういうものに芥川賞を与えるから、世間では純文学とは退屈なものだ、と思うようになる」と言う。

もう少し説明をして欲しいと思うが、単純に、退屈な作品はいけない、もっとストーリーを面白くしたり、人物設定をしっかりしろ!とまで深読みすれば、彼が言っていることは分かるような気がする。

 

 

芥川賞の偏差値』で一番面白い箇所は、「まえがき」である。普通まえがきは読み飛ばしたくなるが、本書ではしっかりと読みたい。

興味深いのは、以下に引用したように、芥川賞は新人賞なのに、いつしか文壇最高の収穫のように扱われることになったという指摘である。新人賞が文壇最高というのは、他国ではあり得ないだろうが、日本では実質的にそうなっている。

ともあれ文壇最高というのは、マスコミがテレビやネットなどを使って騒がしくしているだけのことで、小谷野が指摘するように、芥川賞受賞作に共通して言える性質は「面白くない」ことなのだから、騒ぐほどに作品の質は担保されないということだ。

 

また、引用した箇所ではもうひとつ興味深いことを指摘している。西村賢太の受賞作を引き合いに、西村の本領は違う領域にあるのに、なぜか受賞作は本領ではない作品が受賞したという部分だ。

芥川賞受賞作の性質が「面白くない」ことを書いた部分でも、小谷野は、「同じ作家でも、ほかに面白い小説はあるのに、芥川賞に選ばれるのは、面白くないものが多く、また候補作の中でも、面白くないものを選ぶという性質がある」と言っている。

確かに芥川賞受賞作は退屈な作品が多いことは、同意できる。ただ、ここまで言い切られると、純文学に接していない者がマスコミの報道で「試しに読んでみるか」と、芥川賞受賞作を手に取ったら最後、二度と純文学を読んでもらえなそうな気もする。

 

ところで、芥川賞は新人賞である。だがいつしか、その受賞作が、その年の文壇最高の収穫のように扱われることになった。もちろん変である。たとえば西村賢太の受賞作は「苦役列車」だが、西村の本領は「秋恵もの」であって、「どうで死ぬ身の一踊り」で受賞すべきだった。しかし「苦役列車」は映画化もされ、最新の「文学年表」にも載っていたりする。変である。

 

 

彼が最高の偏差値を付けていた最近の芥川賞受賞作『コンビニ人間』は、筆者は未読なので論評できないが、Amazonの「あらすじ」を読む限り面白そうな雰囲気がする。少なくとも又吉の『火花』よりは読んでも良いかなという気になるが、芥川賞作品に1400円は高価過ぎるので中古で買おうか。同作は既に50万部の売り上げを超えた作品のため、図書館では人気過熱で、実質的に借りることが出来ないのだ。

芥川賞受賞作に感心したことがほとんどないので、作家に印税を払いたくないのである。だから普段は図書館で借りるようにしているが、こうも人気があると借りることが出来ない。だからといって新刊で買うと印税が入ってしまうから、中古で買う。

【映画レビュー】 アデライン、100年目の恋 評価☆★★★★ (2015年 米国)

 

アデライン、100年目の恋 [DVD]

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29歳から年を取らなくなった美貌の女性アデラインが、真の愛を見つけるまでをつづった恋愛物語。1908年生まれのアデラインは現在107歳となっているが、見た目は29歳のままである。演じるのはブレイク・ライブリーというブロンドの髪を持つ長身の美しい女性である。映画のカットのいくつかを見ると、アデライン役のライブリーの美しさが際立っていることがよく分かる。例えば以下の写真のように。

 

 

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ブレイク・ライブリーという女優を、筆者はこの映画で初めて観たが、なかなか最近ここまで魅力的でエレガントな美しい女優は観たことがなかった。もし目の前に彼女が現れたら、多くの男はおかしくなってしまうのではないか。海外ではエマ・ワトソンが筆者のお気に入りの女優だが、彼女は少し小悪魔的な顔つきが気になるのと、幼さと、田舎臭さを感じる。その点ライブリーのビジュアルは、洗練されていて、完全に近い。演技力はワトソンに及ぶべくもないが。

 

 

さて、この映画は、散々褒めたブレイク・ライブリーの美しさ以外には、何ら見るべきところがない。せいぜい、ハリソン・フォードとアデラインの娘役の女優に、ちょっとした知性とか人生経験とかを感じ取る程度だ。この映画は、まるでライブリーの美しさのためのプロモーション・ビデオであるかのように、中身がない。100年生きても尚年を取らない女性アデラインの物語は、料理しようとすればいくらでも面白い物語に転換し得るのに、この映画は愚かにも下手くそなレシピで不味い料理を客に提供する。

 

アデラインは、107歳まで生きた女性である。しかも普通は107歳まで生きれば体力も知能も衰えるはずだが、彼女はどちらも29歳のまま保っている。ということは、積み重ねられた知識と経験は、高齢と共に記憶から失われるのではなく、そのまま使われ、言葉や行動に活かされるはずなのである。

 

しかし、アデラインは29歳の頭の悪いおねえちゃんでしかない。

彼女に交際を迫って来るエリスという男の家に簡単に行ってしまうところからして、107年の知見はまるで活かされていないことが分かる。女性が独り者の男の家に行くということはセックスを了解したも同然なのだが、案の定アデラインはやすやすと体を許してしまう。男は女を抱くと、相手が自分のものになったかのように勘違いをする。そして所有したくなるものだ。107年も生きていれば、愛情をもってセックスした女性が、自分の前から離れてしまうことに、男が傷付くことは想像できるはずなのに、アデラインは安易にエリスの家に泊まり、そして、去って行ってしまう。なんだかんだ言って、最後は結ばれる訳だが。

 

西暦1908年から107年生きたのだから、第二次大戦も朝鮮戦争ヴェトナム戦争ケネディの暗殺も9.11もイラク戦争も全て見てきているのだが、彼女の頭の中にあるのは恋愛だけ。確かに、愛する人と共に年を取ることができないことは苦しい。だから恋愛を欲するというのは分かる。しかしそれだけでは映画を観る者に共感を与えることは難しい。107年も生きた上での知識や経験をもった人生観は、彼女には見るべくもない。

 

そしてライブリーの大根演技が酷く、彼女が107年も生きた女性には全く見えないことだ。彼女がもう少し想像力と理解力を発揮して、107年生きた女性を演じられれば、ストーリーの不味さを多少は補えるのに、それも不可能だ。

 

 

この映画は「伏線を張る」ということをしない。エリスと付き合うことになったアデラインは、彼の家に行く。そこで、彼の父ウィリアムに出会うのだが、実は父は、アデラインが数十年前にロンドンで付き合ったことのある男だったのだ。あまりにアデラインとそっくりな女性に、ウィリアムは「アデラインじゃないか」とつぶやく。ウィリアムによって彼女は年を取らない女性であることをあばかれる。

それにしても、ウィリアムとの出会いをなぜ先に描かなかったのか理解できない。この映画は「伏線」を張って、観る者に驚きを与えるということを知らないのか?

もしウィリアムが若い頃に付き合ったことのあるアデラインとの幸福なシーンを先に描いておけば、観る者は「この先どうなっちゃうの?」と思う訳だが、とってつけたようにエリスの父と実は付き合っていたっていう展開を見せるので、驚きもショックもハラハラさせられることも、何もありはしない。

 

そして、天文学者ウィリアムは星の名前にアデラインの愛称をつけるほど彼女に惚れ込んでいたのに、アデラインが再び現れたことで、苦悶することがない。結婚を申し込みたかったほどの女性だ。奥さんが「私を二番目扱いして」と言って憤慨しているけれど、ウィリアムにとって奥さんは二番目だったんじゃないのか?そこらへんの心理がまるで掘り下げられていない。

 

 

こんなつまらない映画でも、ブログの映画レビューのネタになっただけは良いのかもしれない。ただのおねえちゃんだけれど、ライブリーはとてもきれいで目の保養にはなる。また、久しぶりにハリソン・フォードを見ることができたし・・・