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ドストエフスキー『悪霊』3巻・覚書

 

悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)

悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)

 

 

遂に最終巻。読んだのは4月初旬なので、思い出しながら書く。これでは「覚書」にならないのではと思うが、2巻まで書いておいて、最終巻を書かないというのもおかしなものだから、簡潔に書く。登場人物についてメモをする。

 

『悪霊』の最終巻は、登場人物の三分の一が死ぬ。亀山郁夫の解説が示すように、まさに「ヨハネの黙示録」にも似て、多量の人間が死んでいく。解説に丁寧に書かれているので参照すると、以下の人物が死んだ。

マリヤ・レビャートキナ、イグナート・レビャートキン、流刑囚フェージカ、リーザ・トゥーシナ、イワン・シャートフ、アレクセイ・キリーロフ、マリー・シャートワ(その子)、ステパン・ヴェルホヴェンスキー、そして主人公ニコライ・スタヴローギンである。

 

スタヴローギンは死なないと思っていたのだが、物語の最後、自ら生命を絶ってしまった。スタヴローギンは「チーホンのもとで」において、絶対的な無神論は絶対的な信仰に近いと言われていたのだが、結句は自殺してしまう。本書における悪霊は、本書にエピグラフとして掲げているルカによる福音書が指し示す通り、「悪霊が人から出て豚に入ると、豚の群れは崖より湖に落ちて死ぬ」という時の「悪霊」である。従って、おびただしい人間の死が描かれているのは、悪霊が豚に入って死んだことを表しているのだろう。だから、スタヴローギンであっても死ぬ。

 

スタヴローギンを王のように見立てようとしていた革命家・ピョートル・ヴェルホヴェンスキーは死なずに出奔し生きながらえる。だからといって彼が悪霊ではない、ということにはならない。悪霊のように死ななかったからといっても彼は悪霊から免れる訳ではない。悪霊でないように済ませるには神を信じるキリスト教徒たるしかないのだろうが、ピョートルはキリスト教から縁遠いところにいるからだ。彼は革命集団・五人組を指揮し、殺人を教唆する。

 

流刑囚フェージカは主要人物を何人も殺害するが、彼自身も死ぬ。彼はスタヴローギンを敬うがピョートルのことは軽侮する。それどころかピョートルを殴打する始末である。

 

 

 

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【書評】 蠕動で渉れ、汚泥の川を 著者:西村賢太 評価☆☆☆★★ (2016年)

 

 

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西村賢太なんか全く興味がなかったのに、筆者が愛読している書籍・映画評ブログ「アブソリュート・エゴ・レビュー」の作者が、「定期的に矢も楯もたまらず読みたくなる中毒性を有する西村賢太」とまで書いていたので、読んでみた。西村の小説は芥川賞受賞作『苦役列車』しか読んだことがない。

 

同じ芥川賞作家の村田沙耶香ほどではないが、確かに面白かった。

地の文やセリフは、昭和58年という時代設定よりも、だいぶ古臭い気がするが、西村は敢えてそういう文体を使っている。世界観は貧乏な中卒の少年の物語を赤裸々に描いているが、自虐的で、にもかかわらず嗜虐的な少年の複雑な心理・行動の描写は、独特で興味深い。『苦役列車』の時も感じたが、西村の小説はこれであると、直ぐに分かる個性的な文章になっていた。文章を読んでいるだけでも西村の頭の中を見るようだ。

 

 

本書は、全体的に自虐的なギャグが多く、純文学というよりエンタメだろう。自虐という意味での笑いのネタが随所にあり、言葉で笑わせるセンスに長けている。西村の文章が漫才でいえばボケで、読者はツッコミなのである。いちいち「何言ってんだ」とか「いい加減にしろ」とかいうツッコミを入れながら読むと本当に面白い。人前で読んでいたら思わず笑ってしまうほどだ。例えば、貫多は中卒の17歳で、女性を欲しているのだが、その時の描写が以下である。

 

バイト終わりや休みの日に、そうした女とどこかで待ち合わせ、普通にデートをし、うち二回に一度はちょっとセックスなぞもさせてもらえると云う、極めて普遍的な男女交際の楽しみが今の自分の生活中にあったならば、それはどんなにかうれしいことに違いあるまい。

 

何とも味わい深い描写で、切なくなるほどだが、この文章を読んでいておかしくならないか。特に「二回に一度はちょっとセックスなぞもさせてもらえる」などという、哀切な欲望をここまで赤裸々に吐露されると、立ち止まって文章を読み返し、笑いが止まらなくなってしまう。それも「させてもらえる」という、何だかこう、女性にお願いして「やらせていただく」ような貫多の奥床しさに笑える。

しかも「二回に一度はセックス」という描写は、他の文章でも出てくるのである。よほど貫多は二回に一度のセックスにこだわっているかのようだ。自虐的に地の文で書かれることで、三人称ながら主人公を突き放さないことがよく分かる。

 

また、貫多は孤高を好むのだが、だからといって「ローンウルフ」なるダサい言葉を何度も何度も、敢えて多用するあたり、この言葉に切ない自虐が込められているのだが、やはり笑ってしまう。読みながら、筆者は、「ローンウルフじゃねえよ」などと、ツッコミを入れてしまえるのである。

 

17歳の癖に、酒飲みで当たり前のようにビールを飲み、タバコをふかす。それが、貫多は貧乏でエゴな性格ゆえに全く洗練されておらず、ほとんどオッサンのようだからいちいち笑える。借家の前に泥酔のあまり嘔吐したなどという描写は唖然とさせられるが、やはり良い。

 

そして一番筆者が笑ってしまったのは以下の文章だ。

 

きっと今頃は、早くも各々女と共に部屋に引きこもり、全裸になり合ったベッドの中で、モゾモゾやっているに違いない。フェラチオをねだった挙句、もしかしたら初めてのバックなぞを、果敢に試みているかもしれない。

 

いったい、こんな馬鹿みたいな文章をよく考えついたものだと思うのだ。モゾモゾやるだの、フェラをねだるだの、安っぽい描写が続き、挙句の果てには、「初めてのバック」とくる。まるで初めてのキスのように「初めて」を使う西村賢太のある意味センスの良さに、笑いを抑えることができない。「セックスの体位如きに、いちいち気取った文章を使ってんじゃねえ」などと、筆者などは読みながらツッコんでしまった。

 

マジメに読んでいると馬鹿を見る小説だが、17歳で酒飲み、喫煙者、そして自分ではイケメンと思っているけれど女性が寄り付かず、風呂に何日も入らない不潔な、オッサンのような少年、北町貫多の自虐ギャグを見るために読めば、相当に面白いことが分かるだろう。テレビに出ているお笑い芸人がいかに笑いの言葉を磨いていないか、本書を読むと実感してしまう。

働き方改革

「働き方改革」便乗コストカットにサラリーマンが漏らす嘆き節… もっと残業したい、もっとカネが欲しい (現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

政府の働き方改革により、今後、労働者の残業時間が規制される見込み。現在は36協定さえ締結すれば、まさに青天井に残業させることが出来たが、将来は、そうはいかない。

 

そうなると困るのは”残業代”をアテにしている労働者だ。記事は次のように書く。

 

 政府は「働き方改革実現会議」で労働者の残業を年間720時間(月平均60時間)、繁忙期の上限を月100時間未満とする罰則付き上限規制案を決定した。

 彼らの進める「働き方改革」の背後には、経営側による残業代のカット―つまり人件費削減の魂胆が透けて見える。

 

至極もっともである。

働き方改革による残業規制で、残業代の浮いた分を、労働者の年収にまったく反映しないとすれば、だ。

 

日本電産の永守社長の言うように、残業代の浮いた分を、年収に反映していく人事制度にしていけば労働者からの不満も大きく出てこないのだが、徒に残業代をカットするだけでは、労働者から反発されるのも当然だ。

 

残業ゼロとCM展開 日本電産・永守社長“転向”の理由 | 文春オンライン

「過去に言ってきたことと全く違うことを言っている」

1月24日、決算説明会で自社の働き方改革についてこう語ったのが、日本電産永守重信社長兼会長(72)だ。

 最新のロボットやスーパーコンピューターを導入して製品の開発期間を短縮したり、業務の効率化のためのソフトウェアを導入して労働時間を短縮。一方で、残業代の減少分は賞与や手当の増額で補い、年収減にはしないという。

 

カルビーの「働き方改革」も凄い。この会社も残業時間規制がそのまま年収減には繋がらないケース。 

 

カルビーの“利益率が5年で10倍”を実現させた「働き方改革」とは? - リクナビNEXTジャーナル

 

「会社が変わり、お客さまが喜ばれ、売り上げや利益が上がる。そうすると、それが還元されて、リアルに自分たちの賞与が変わる。給与が増えるのは誰でもうれしいですから、こういう仕組みだと理解できていれば当然、モチベーションは上がります。トップのメッセージは極めてシンプルでわかりやすいんです

 

その他にも、インターネット上には、「働き方改革」によって生産性を高めている企業例がたくさん転がっている。現代ビジネスのように、労働者の不安を煽っているだけの記事は最悪である。

 

 

 

「働き方改革」が目指すべきは、現代ビジネスの記事のごとく、労働者年収減を狙うものではないはずなのだ。そもそも、残業規制によって残業代が減り、年収減になってしまっては、生産性の向上など望むべくもない。労働者が自律的に生産性向上を目指さねばならないが、年収減なら生産性向上など、労働者は「やらない」だろう。そんなことも分からない経営者は、人の扱いが分からないということになろうが、そこまで無能な経営者ばかりとも考えられない。

 

「生産性も上がって、年収も上がって」が一番良い訳だが、そこまでいかずとも、残業代が減ることがそのまま年収減に繋がらないようにしなければならない。それを考えるのが経営者なのだが、もし政府の方針の表面だけを見て人件費削減に繋がって良かったと考えるような経営者なら、無策に等しいと言わざるを得ない。

 

「働き方改革」により、人件費の総額を下げることなら、出来ると思う。生産性を向上させた労働者には高い年収を支払い、非効率な労働者には低い年収を支払う。

全労働者の残業代を一律にカットするなんてのはダメだし、逆に一律に上げるなんていう策もダメだ。人件費のパイはある程度決まっている訳で、それを大幅に上げたり下げたりしてはならない。というか、そんなことをする経営者っているかね?笑

 

 *

それにしても、最初の記事では、以下のような専門家の解説があるのだが、こんな程度の認識で専門家とは空しくなる。ただ不安を煽っているに過ぎない現代ビジネスの論調に歩を合わせているだけなのだ。

 

 神戸大学大学院経営学研究科准教授の保田隆明氏が解説する。

 「長時間労働を規制することで大きな打撃を受けるのは現場で働く人たちで、彼らの賃金カットにつながります。一般のサラリーマンの給与は残業代が大きなウェートを占めているのが現状です。こうした中で長時間労働を規制すると、大きな混乱を引き起こすことは避けられないでしょう」

 

 「大きな混乱」が出ないように経営者はどうすべきか、何か一言でも対応策をコメントすれば良いのに。もしかしたら策を練ったが現代ビジネスには削除されてしまったのか?仮にも神戸大の教員なのだから、その可能性はあるが、雑誌の趣旨もこの経営学者には伝わっているだろうから、恐らく大したコメントは言えていないのだろう。現代ビジネスの御用学者のようなものだ。

 

「大きな混乱」の中で、経営者は業績を上げるためにどうするのか。会社は人で成り立っている。残業代カット→年収減で、業績が上がるはずがないことくらい、考えることが出来る経営者なら分かるだろう。政府の残業時間規制を額面通り受け取って、しめしめとばかりに、労働者の残業代をカットするだけで事足れりとするようなら、そんな会社に未来はない!

 

 

とりあえず、労働者は自分の会社の「残業時間規制」がどのような仕組みとなるのか、注視しておこう。規制を額面通り受け取り、単に残業代を減らし、年収を下げるような会社なら願い下げ。転職しよう。それこそ会社の奴隷ではないか。

【書評】 空中庭園 著者:角田光代 評価☆☆★★★ (日本)

空中庭園 (文春文庫)

空中庭園 (文春文庫)

郊外の集合住宅に住む家族に関わる物語。集合住宅はダンチと称され、かつてはステータスになる集合住宅だったのに、今やバスを使わなければどこにも行けないと揶揄される始末だ。そんな場所に住んでいる二人の中年夫婦と、高校生の娘、そして中学生の息子の群像劇である。といっても、途中、家庭教師や妻の母が主人公になる物語もあるが、いずれにせよ家族に関わりのある人々だ。

ダンチは、件のように揶揄される通り、建てられた当初は華やぎ、住民にとっては憧れの対象であったものが、時の流れと共に飽きられていく。高度経済成長期というほど昔の話ではないのだが、どうもその時代の集合住宅を思わせる。マンションと呼ぶには安っぽいし、アパートは賃貸のイメージだ。この集合住宅は買える。だから、ダンチと呼ばれるのだろう。

本書は、そのダンチの持つ、空気のように無味乾燥で無意味な雰囲気を描き出すことに成功している。恐らく、『白色の街の、その骨の体温の』の著者は、角田光代を読んでいるだろう。特に本書の描き出した空気のような世界は、『白色の街の〜』における、まさに白色の街そのものだ。

さて、本書の登場人物の誰もが、知的でなく、社会の轢いたレールに乗っているだけの人生に全く疑問を持つことがなく、ただ生きているだけの人々である。群像劇はそれぞれの登場人物が主人公になれるが、誰一人スターにはなれない。主人公らしい活躍がないし、たいして共感できるほどの葛藤も見せない。そこに横たわると、醜態と呼べるほどのグロテスクさもないので、露悪趣味の人間も満足させられない。空気のように存在感がなく、意識して、初めて、あぁいるのだなぁという感じである。それだけに、群像劇でありながら彼らの物語を読むことが苦痛なのだ。

空中庭園というのはダンチのことだが、そこに住む家族や関係者が空気のように存在感がないのだから、読んでいても何ら面白くない訳だ。文章も空気のように個性がなく、角田光代が書いたのかどうか、分からないほどだ。角田光代は、西村賢太鹿島田真希のように誰が読んでも西村だ、鹿島田だと分かるような文章は書かないが、もう少し角田らしさがあったはずだ。それがほとんどなくなっているので、それもあって読み進めることが苦痛で、時間がかかってしまうのだった。

唯一、家庭教師だけはこの退屈なダンチの関係者たることを辞めようとするかに見えるが、あまり強い意志はかんじられない。不出来な作品だった。

【映画レビュー】 ゴースト・イン・ザ・シェル 評価☆☆☆★★ (2017年 米国)

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原作もアニメも経験済みのはずだが、主人公が草薙素子ということ以外、内容を全く覚えていない『ゴースト・イン・ザ・シェル』が映画化されたので観た。先週はダルデンヌ兄弟の『午後8時の訪問者』も観たので、2本も劇場で映画を観たことになる。まるで大学生の時分に戻ったようだ。確かにあの頃は、週に何本も観たし、DVDも含めれば1日に2本も3本も鑑賞したことがあった。それに比べれば週に2本観たくらいで学生時代に戻ったとは言い過ぎとも言えようが、月に1本劇場で映画を観るか観ないかくらいに、劇場での鑑賞頻度が低くなってしまった現在、週に2本も劇場で映画を観たのだから、それくらいの「言い過ぎ」も許されるというものだ。

 

 

『ゴースト・イン・ザ・シェル』は、ジャンルはSFアクション映画で、全体的に激しいアクションが多く、予算が掛かっていることがよく分かる。画面全体が暗いため、せっかくのアクションが見栄えが良いのか否か分かり辛いのはマイナスだ。古い例だが『マトリックス』みたいに明るい絵にすべきだった。

主人公は身体が透明になって、突然敵の前に現れることができる。それは本作独特で、面白いのだが、せっかくそのような個性があっても、全体的に暗いシーンばかりでは予算の無駄遣いにすら見えた。

 

 

義体という、半人間半機械のような身体を持つことが現実となっている世界において、主人公のミラ(草薙素子ではないのだ!)は、脳以外全てが機械というアンドロイドのような人間である。元々の肉体に脳があった頃の記憶は消失しており、自分が何者なのか分からない。とりあえず、捜査の職務を遂行することが彼女の任務であり、プロフェッショナル然として人間離れした活躍を示す。

 

演じるのはスカーレット・ヨハンソンで、ビルから飛び降りたり敵と激しく格闘したりと、荒々しいアクションを無理なく演じている。ヨハンソンは『ロスト・イン・トランスレーション』で初めて観て以来、好きな女優なのだが、観たいと思う出演作が多くない。だから、文学界の狂犬とあだ名されるジェイムズ・エルロイ原作の『ブラック・ダリア』以来、彼女の演技を観た訳だった。『ロスト・イン・トランスレーション』は批評的にも興行的にも成功した作品なので、ヨハンソンも『ロスト』の印象が強いのだが、最近は『アイアンマン』『アベンジャーズ』等のアクション映画にも出演していることもあり、本作でのアクションもお墨付きなのだろうけれども、筆者には“『ロスト』のヨハンソン”というイメージであったので、彼女の見事なアクションの演技の披露には、隔世の感があった。

 

心配だったビートたけしについては、全編英語の作品なのに彼だけが日本語をしゃべるという、よく分からない設定だった。「半機械」の世界だから言語が異なってもあたかもコンピュータのように外国語を瞬時に翻訳してくれるのかもしれない。だから外国語を話されるということは、意味を持たないのかもしれないが、特にそういった設定上の説明がないので、易々と納得させられるには至らない。

たけしは既に日本語での台詞にも怪しいところがあって、カツゼツが悪く何を言っているのか聞き取れないところがある。筆者は彼の監督作もお笑いについてもファンだが、それは優れたパフォーマンスを提供できていた過去があるからだ。時折YouTubeで「北野ファンクラブ」を見ることがあるが、彼の言語の選び方や間髪を入れない迅速な話し振りは今尚面白い。ああいう話し振りが、彼の思考によるものであることは、たけしの説明を要さない映画の演出方法を見ればよく分かる。

 

ビートたけしは、カツゼツが悪いせいで台詞を満足に言えないようでは、俳優として致命的だと思うし、彼が相変わらず映画に重宝される現状から、たけしは裸の王様なのではないかと思うこともある。しかし、彼が本作で銃を使って暴れまわるシーンには、あたかも『アウトレイジ』を思わせてゾクゾクしたし、たけしはしゃべらなくても身振りだけで、観る者を興奮させる俳優だと感じた。劇中で彼が放つ、「きつねを殺すのにウサギを寄こすな」(ちょっとうろ覚えの台詞だ)という台詞には、『アウトレイジ』シリーズにあってもおかしくない程に雄々しいプロフェッショナルさを感じる。それにあのヘンテコな髪形。たけしがバラエティで演じる道化にも見えたが、それをシリアスに見せるのは、たけしのシルエットの凄みであり、監督の演出の妙味だろう。

 

 

主人公の名前が草薙素子ではなく、ミラという名前であることからして、既に原作やアニメと映画は異なる物語だと想像させられるが、その通りで、ミラは以前の記憶がない。以前というのは、義体ではなく、元々の肉体と脳が繋がっていた頃の記憶である。筆者は原作やアニメを見ているから、主人公が草薙素子だと知っているので、ミラの正体が素子だと気付いている。そして物語も、ミラの記憶をたどって、本当の名前は草薙素子なのだと教える。ゴーストというのは「魂」だが、いかに義体となって、体のほとんど・・・特にミラの場合は脳以外が全て義体である・・・が機械となっても、その人の魂自体は、つゆほども変わらないというのが、この映画の主要なメッセージなのである。ただのSFアクションではなく、人間の魂の尊さを伝える訳だ。

 

それゆえ、素子というと日本人を思わせるけれども、既に義体になってしまった彼女の外見が、西洋人であるスカーレット・ヨハンソンであることは、この映画のメッセージを伝えるための象徴と言えるだろう。これが同じアジア人であったら、魂は変わらないということのメッセージは弱まってしまう。素子を演じるのが西洋人、しかも、いかにもアングロサクソンのような顔立ちのヨハンソンが演じたのがこの映画のメッセージを高めていた。ヨハンソンが素子を演じることで、批判もあったようだが、映画の分かり易いメッセージ性を見れば、そういった批判は、全く意味がないことを知るだろう。

 

素子にはヒデオという恋人がいて、そのヒデオは、物語の前半で敵とされているクゼの元々の姿なのである。それが、カーターという本来の敵のあざむきにより、敵と仮想されていた。それが物語の終盤で明らかになり、ヒデオはカーターの手によって死ぬのだが、素子=ミアは、クゼの本来の姿を知っているので、彼の死を悼む。こういった設定も、メッセージ性をより高める、効果的なものだと言える。

どうでも良いが、ヒデオというと、ゲームデザイナーの小島秀夫を思い出してしまうのだが、さすがにそれは考え過ぎか。