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【書評】 カブールの園 著者:宮内悠介 評価☆★★★★ (日本)

カブールの園 (文春e-book)

カブールの園 (文春e-book)

SF作家の宮内悠介は、本作で三島由紀夫賞を受賞した。三島由紀夫賞は純文学の賞だから、宮内は異なる分野の作家ながら三島賞を受賞した、ということになるだろう。これは芥川賞への対抗なのだろうか。芥川賞もSF作家の円城塔や、芸人の又吉直樹を選んだことがある。作家と芸人では違うが、エンタメ文学と純文学は、文体も題材も作品の考え方も違えば、読者層も異なる。異業種とは言わぬまでも、SF作家が純文学の賞を受賞するというのは、異質な印象を持つ。

三島賞は新潮社が主催しているが、どうも芥川賞を追随しているようなところがある。三島賞に限らず、同社の山本周五郎賞でもタレントの押切もえを候補作に選んだことがあったが、これも又吉の受賞後のことである。結果はTVドラマ『リバース』が話題の湊かなえだったが。湊は「文芸の外の人が2作目なのに上手にかけているという、イロモノ扱いのままで審査された作品と僅差だった。そのような結果が原動力になるという小説家がいるでしょうか」と受賞後にコメントを出しているのだが、押切の作品が候補に選ばれたことに対して、よほど腹にすえかねたものとみえる。
よほど出来栄えが良いものでなければ、又吉の二匹目のドジョウを狙うことは、辞めたほうが良いだろう。

押切もえ「山本周五郎賞次点」に、湊かなえ激怒! バーニング巻き込む“異例バトル”に発展か? - エキサイトニュース(1/2)


さて、三島賞の受賞作品とは、私は全く肌が合わず、せいぜい矢作俊彦『ららら科學の子』と村田早耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』が及第点で、他に舞城王太郎阿修羅ガール』、中原昌也『あらゆる場所に花束が……』、鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』等を読んだがどれも最低の出来であった。そして本作も酷い作品である。三島由紀夫賞は、文藝春秋芥川賞に対抗して作られた経緯があるが、村田早耶香の『コンビニ人間』に賞を与えただけ、芥川賞の方がマシと言えるのか?その程度の比較なので、どっこいどっこいだとは思うが。

出来の悪い翻訳小説のような平板な文体で、人物描写の深堀りが出来ておらず、読んでも読んでも、人物の思想や心情が頭に入って来ない。本作には、カブールの園という中編の他に、半地下という中編もあるが、特に後者の人物描写は、上っ面をペンでなぞるだけで中身がない。

とはいえ、カブールの園は、まだマシではある。
物語の構成は、医師の治療の下、過去の自分と向き合う日系3世のアメリカ人女性が、英語を母語としながらもアメリカでの生きづらさを感じ、休職して旅をし、日系人収容所やロスにいる2世の母親と久しぶりに会って、自身のアイデンティティーを構築していくというものだ。医師の治療でVRを使用しているのが独特で、物語の冒頭で少女時代のいじめの話が語られるのだが、それが「VRで見る仮想現実」とは読者に教えぬまま進行する。そして唐突に現実の世界に戻り、少女時代の風景はVRを通じて見たものだったという事実を知らされる。こういう導入部は読者の興味を引くのに十分である。

しかし、その後のアイデンティティーを追う物語は、日系アメリカ人3世がアメリカでの生きづらさを感じる、という物語である。3世であるにもかかわらず生きづらさを感じるというのは、興味深い題材に見えるが、それだけに難易度は高い。人種はアジア系とはいえ、英語が母語であるはずのアメリカ人が感じる生きづらさであるから、容易なことでは表現し得ない。露骨に差別される訳でもあるまいし、といっても孤独とか、違和感という認識を強く持たねば、生きづらさをアピールするには及ばないからだ。そのバランスが難しいところだが、本作では成功していない。『コンビニ人間』は孤独や違和感を敢えて積極的に受け入れる作品だったが、そうすることで主人公の異質さは際立つ。カブールの園では、同じアプローチは取れないだろうが、否定的、批判的に捉えるにしても、異質さのアピールが全く不足している。体裁を整えるためにロスにいる2世の母親と会って、母も実はアイデンティティーに悩んでいたとか、強制収容所を訪ねるとか、その程度のエピソードを散りばめるだけではものたりない。

それにしても、村上春樹も一見すれば凡庸な文体に見えて、その実英米文学を丹念に読み込んだ果てに培養された、独創性の高い文体を創造した。村上春樹風の文章は、多くの小説家に影響を与えたけれども、それだけ彼の構築した文体は、模倣したくなるほどに蠱惑的とすら言い得るものだったのだろう。宮内悠介のそれはどうかというと、平板で、ただ単に皮相な文体なのである。そして人物描写が表層的なので、人物像がイメージし難い。それにしても、こんな作品に賞を与える三島由紀夫賞という文学賞は、どうかしている。宮内は、SF作家で、カブールの園が最初の純文学作品だったとのことだが、「VRで見る仮想現実」以外見るべき個所もない作品には、賞を与えるべきではなかっただろう。

【映画レビュー】 麦の穂をゆらす風 評価☆☆★★★ (2006年 アイルランド、英国)

ケン・ローチ監督によるアイルランド独立戦争を舞台にしたヒューマンドラマ。左翼を任じ、労働者に焦点を当てた映画を撮り続ける監督らしい視点で独立戦争を描く。カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作。

兄テディ、そして弟デミアンの二人は、この世にただ二人だけの兄弟である。共にアイルランド人。英国からアイルランドの独立を目指すため、二人はゲリラ戦に加わる。しかし、リーダーのテディは英国軍に捕まり、危うく殺害されそうになってしまう。英国軍がテディを探しに来た時、デミアンは自分がテディだと言ってテディを庇おうとするが、結局テディは捕まってしまうのだった。

英国軍にアイルランド出身の男がいて、彼の手で脱走するのだが、安直で作為的な場面で辟易させられる。英国軍も彼がアイルランド出身だということくらいは知っているだろうし、そんな男の裏切りを予想できないはずもないだろう。それなら当然、彼を一人にすることなく監視すべきだが、英国人兵士は小便に行っていて、その隙にテディ、デミアン、他のアイルランド人たちは、脱走に成功してしまうのだ。

戦争映画であるはずが、戦争映画っぽくない。銃撃の効果音が安っぽいのと、撃たれても血が出るシーンが少ないので、撃たれているのかどうかよく分からないのである。無暗に残酷な場面を作る必要はないだろうが、多少なりとも凄惨な戦争シーンがないと戦争の恐ろしさが伝わってこないし、何より目の前で戦争が起こっているという緊迫感を感じない。冒頭の青年やテディに対する拷問シーンには、多少戦争の暴力性を描いてはいるが、他のシーンは演劇のようで、つまり撃たれる振りをしているようにしか見えない。あまりにチープので、ゲリラ戦を行っているという設定なのに、草むらで戦争ごっこをしているように見えてしまう。

この映画で褒められるべきは、1つ。

それは、英国とアイルランドとが条約を締結して休戦状態に陥るが、その条約の内容がアイルランドに不利なものであったこと。そしてそれにアイルランド人、そしてゲリラ部隊は憤り、この条約を不服として戦うことを告げる。
条約はアイルランドの独立を認めるものではなく、あくまで英国の自治領として認め、従って英国王に対して忠誠を誓うものだったので、「何のための独立戦争か」と彼らは憤怒の念に駆られる訳である。
そして、兄テディがアイルランド自治領を認める側、弟デミアンがそれを不服として戦う側に別れて争い合う。

最後はテディがデミアンを処刑して物語は終わるのだが、この展開も骨肉の争いを見せるものとしては淡白で、観る者としては客観的に捉えてしまうのが残念であった。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』の2人のアドルフのように、激しい殺し合いを見せてもらえれば、まだしも兄弟の悲哀を感じ取れたと思うが。

【書評】 私の「貧乏物語」これからの希望をみつけるために 評価☆☆★★★ (日本)

 

私の「貧乏物語」――これからの希望をみつけるために

私の「貧乏物語」――これからの希望をみつけるために

 

 

河上肇の『貧乏物語』から100年経ち、現代の『貧乏物語』を描こうとしたもの。36人の著名・無名な書き手によるエッセイが収められている。

 

試みに名を挙げると、蛭子能収金原瑞人亀井静香古賀誠佐伯一麦佐高信高田明益川敏英湯浅誠など私でもよく知っている書き手がいる一方で、本書で初めて名を目にした者もいる。

 

わずか4ページ程度の紙幅で、物語を書くことに慣れていない書き手が、自身の貧困について物語風に書いているので、心情が揺り動かされない。率直に、淡々と紙にインクの染みが滲んでいるという印象を持った。確かに貧困を経験したことは、経験したことのない者からすれば圧倒的な経験たりえるが、4ページで他者に何らかの印象を与えるには、経験だけでは感興を引き起こしきれない。4ページに留めるなら、読む者の感情を掻き立てるための相応の文章力が求められる。それは物語の書き手でなければ困難だろう。

とはいっても書き手が皆小説家であれば、偏りがあるから、小説家だけを対象にすることはできない。それなら、もう少しページ数を増やす必要があっただろう。蛭子能収(漫画家)や栗原康(政治学者)の文章はギャグに近いし、福山哲郎民進党参院議員)は民主党時代の経済の失策を棚に上げて高校無償化に「所得制限」を設けた自民党に憤り、小坂井敏晶(心理学者)に至っては貧困と関係ない文章を書いているが、こういった書き手は排除して、ページ数を増やすべきである。

 

興味深かったのは、貧困家庭に生まれても、大成している者がいるということだ。

試みに挙げれば、井手英策、井上達夫はどちらも大学教授だが、両人とも貧困家庭に育った。井手は母子家庭で、井上も中学生の頃まで母子家庭であった。井手は母子家庭ながら、叔父や叔母など、親戚が救いの手を差し伸べてくれたことで、生きながらえたようである。井上は、母が再婚しても相手が安月給だったため、生活には苦労していた。

 

こんな両人が、苦労して大学教授にまで上り詰めたという事実に、驚嘆させられる。しかし、貧困という逆境が、二人を学者にさせるほどのエネルギーを与えたのかもしれない。両人ともに東京大学卒だが、家庭の経済環境と学歴とが関係するとはいえ、逆境から「絶対に這い上がる」との気概は、貧困による経済環境を凌駕するのだ。

 

私は、逆境という学校のおかげで多くを学び、成長することができたと思っている。逆境は人が生き抜くための知恵と気概を磨き、他者の優しさや他者の苦境への感応力を鋭敏にする。

反対に、逆境を知らないと、このような他者への感応力が鈍磨し、いざ自分が挫折したときに立ち直る力も弱くなる。

 

井上は以上のように逆境と生き抜くための知恵と気概について力強く書いていた。ここでは貧困という逆境について書かれているのだが、貧困に限らずとも、逆境が人を強くし、成長させ、挫折から立ち直り、また、他者への感受性も磨かれていくだろう。

 

 

井上は「朝生」で初めて見た。見るからにリベラリストで、私とは相容れないと思って敬遠してきたのだが、貧困という逆境から復活し、今では東大教授に就いているのだから、思想云々は別にして尊敬したい。

 

 

【書評】 ハーバード流キャリア・チェンジ術 著者:ハーミニア・イバーラ 評価☆☆☆★★ (米国)

 

 

ハーバード流 キャリア・チェンジ術

ハーバード流 キャリア・チェンジ術

 

 

タイトルが大仰。「ハーバード流」と付ければ読者が付くであろうとの出版社の商魂が見え透いていて、良い邦訳とは言えない。私は、本書がキャリア研究で著名な金井壽宏が監訳者を務めていたので読んだが、もしそうでなかったら、先ず手に取ることはなかっただろう。

 

本書でいうキャリア・チェンジとは、キャリア・アイデンティティーを見直すということである。

 

その際注意すべきなのは、「たった一つの本当の自分」という概念を見つけようとしないことだ。キャリアを考えるにおいて、唯一の選択肢を探求するのではなく、複数の可能性から、キャリア・アイデンティティーを探り当てるということに留意して、アイデンティティーを構築せよと言う。例えば、営業である自分が、転職したいと思った時に、初めから営業のみを探すのではなく、営業以外の自分をも含めて選択肢を広げていくべし、ということなのである。営業職で転職したいと思っている者が、業界を変えるということならありふれたことだが、職種さえも洗い直し、机上に並べてどれにしようか?と選択肢を広げることで、可能性は広がるということである。

 

また、キャリア・アイデンティティーを探求するにあたっては、キャリアを如何に方向づけていくべきかに時間を割き過ぎるのではなく、行動することが肝要だと説いている。悶々と机に齧り付いて苦悩するのではなく、企業の面接試験を受けてみたり、大学の講座を受講してみたり、他者とコミュニケーションを取ってみたりする。あるいは読書でも良いが、これも、必ずしも営業なら営業の書籍ではなく、人事に興味があるなら人事の書籍でも良いし、書くことに関心があるならエッセイや小説でも構わないだろう。著者は、思考を否定する者ではないので、思考やキャリア計画について禁じはしないが、「行動」をより強調している。「行動」を経験することで、あたかも神の見えざる手の導きがあるかのように、キャリア・アイデンティティーが形成されていくと説くのである。

 

39の事例を元に、キャリア・チェンジの成功例が書かれている。多くは転職に成功するが、元々のキャリアが医師、大手企業のCEO、投資銀行、大手コンサルタント、大学教員だのといった一部のエリート層に位置するので、成功するのも当然かという印象を持ちがちになるのは否めない。従って、どうしても普遍性が不足するため、もう一つ説得力に欠けるところがある。それは残念な点で、職種を変えるほどのキャリア・チェンジをするには、エリートでないとできないのではないか?という気持ちを読者に与えかねないのだ。投資銀行のような高所得者に、何ら金融の経験を持っていないキャリアの持ち主が就けるか?といえば、そう易々と就くことはできまい。転職組を嫌う国内の銀行なら投資銀行よりもある意味難しいかもしれない(最年少支店長の前任の支店長が転職組であった「みずほ銀行」の例を見る限り、今後は実力重視で、変わっていくと思うが)。

みずほ銀支店長に34歳登用 最年少、実力重視 - 産経ニュース

 

もう一つは、我が国は新卒一括採用をしていて、中途採用が流動的ではないから、本書の如きキャリア・チェンジをしたくともできないという実態もあるだろう。そういった意味では本書のキャリア・チェンジ術が、果たして日本においてはどれだけ有効かという疑問は払拭できない。ミンツバーグ先生のように、どなたかの経営者が、国内の労働者何人かに張り付いていただき、このキャリア・チェンジ術が有効か否かを検証していただきたいものである(笑)

 

とはいえ、本書の言うキャリア・チェンジ術(キャリア・アイデンティティーの見直し)は、「たった一つの本当の自分」という、選択肢を限定することなくキャリア・アイデンティティーを見直していくという観点から魅力的だし、行動せよとのアピールも、それとの相乗効果で実感が出てくるだろう。あとは「GRIT(やり抜く力)」をもって、キャリア・チェンジに向かって努力を重ねる他にない。本書の事例はエリートばかりだが、エリートだけが職種を変えるほどのキャリア・チェンジができるのだ、と思ってしまっては(事例がエリートばかりだから仕方ないが)何も進まない。Amazonレビューではそういうものが散見されたが・・・

思えば私自身も非エリートだが、本書のキャリア・チェンジ術を実践した者の一人だ。10年以上人事の仕事をしてきて、コンサルタントになった訳だが、偶然にも、本書のいっているキャリア・チェンジ術を地でいっていたことにはなる。

【書評】 潤一郎ラビリンス<1> 初期短編集 評価☆☆☆★★ (日本)

 

潤一郎ラビリンス〈1〉初期短編集 (中公文庫)

潤一郎ラビリンス〈1〉初期短編集 (中公文庫)

 

 

谷崎潤一郎の初期短編集。初期短編の中でも有名な『刺青』をはじめ、『秘密』『少年』『麒麟』『幇間』『飇風』『悪魔』『恐怖』の8編を収める。その中でも出来が良いのは『刺青』で、女性の官能性の前に拝跪する男性の姿が描かれる。性的倒錯や足のフェティシズムなどが描かれ、江戸川乱歩が谷崎ファンであったのも肯ける。『刺青』は「しせい」と読み、「いれずみ」とは読まない。

『刺青』は、長編『痴人の愛』などと共に、関西移住前の谷崎の唯美主義的な思想を顕著に表した象徴的な短編であろう。本書に収められている他の短編にも、読むべきものはあるが、無暗に長かったり、物語の構成がいびつだったりと、完成度は高くないものがほとんどだ。その中でも『刺青』は、出色の出来である。

 

谷崎潤一郎の初期短編を読むと、漢文の素養が如実に現れていることがよく分かる。芥川龍之介の短編も、漢語がよく出てくるが、芥川の場合は知的で理性的であって、唯美的であったり官能的であったりすることは少ない。『刺青』の美女が初めて登場する場面で、「足」の美しさを限りない賛辞をもって表現するのだが、それに使用されるのが漢語で、文章を読んでいるだけでも美女の官能的な美しさが「足」に収れんされていくのが理解される。

 

美女の背中に女郎蜘蛛の刺青を彫っていった彫り物師は、遂に自分の理想的な女性の背中に、刺青を完成させた時、美女から「お前さんは真っ先に私の肥料になったんだねえ」と言われる訳である。そして、美女が、燦爛たる背中を朝日に輝かせるところで、物語は結末を迎えた。この見事な物語のラストを見て、私は芥川の『羅生門』のラストの一文、「下人の行方は誰も知らない」と並んで、読む者に深い余韻を残すほどの詩情が表れていると感じた。

 

 

『刺青』以外に私が好んだのは『少年』で、これは『刺青』ほど完成度は高くないが、妖艶なインパクトを残す。『刺青』と共に、何度も読み返したことのある作品だ。

 

『少年』は、付き添いの女中と共に登校する気の弱い少年の家に遊びに行った主人公が、家では学校とうってかわって嗜虐的な表情を見せる少年に引き込まれていく物語である。私はこの作品を読んで、藤子不二雄Aの漫画『魔太郎がくる!』のいくつかのエピソード(むろん、主人公魔太郎に敵対する少年である)を思い出したが、確かに、学校では気が弱いのに、家では暴君とも言えるほどの嗜虐性を発揮する子どもという設定は、『魔太郎がくる!』のキャラクターによく似ている。

 

少年は、資産家の息子なので、その資産家に仕えている家の息子をも、手玉にとっている。彼は上級生で、腕白なガキ大将なのだが、少年の前では奴隷のように隷従している。親のビジネスの関係が子どもの関係に影を落とすというのは、一見すると哀れなものだが、嗜虐的な少年の狼藉を描く谷崎の筆はエキセントリックなまでに乗っているので、悲壮感は全くない。

 

『少年』で興味深いのは、妾の子である姉の光子の存在である。光子は最初はたおやかに描かれているが、徐々にその本性を現し、最後は『痴人の愛』のナオミになる。しかもサディスティックな少年(つまり弟)を奴隷にするために、主人公とガキ大将まで手中に収める始末だ。最初は、少年と共に主人公とガキ大将は、姉の光子を虐めていたのであるが、終盤になって、別館の開かずの間に足を踏み入れたところから、光子の復讐が始まる。開かずの間では、まるでSM小説のように、手足を縛られたガキ大将を目にすることになるのだが、そこで主人公ともども、光子の言いなりになることを誓約させられ、味方を失った少年は、光子の奴隷になってしまうのだ。この誓約には、『痴人の愛』の譲治とナオミとの誓約を想起させることだろう。余談だが、こういうSM的な素材は、恐らく乱歩も好きだったはずである。

 

 

他の作品で見るべきは『秘密』だ。これは、ある美しい女と逢瀬を重ねる男の物語である。ただし、女の住処は全く知らされず、車に乗りながら男は、目隠しをされて女の家に向かうのである。舞台は東京都内だが、場所を知られないように堂々巡りをしたり、遠回りをしたりしているので、全く住処をつきとめられない。どこに女の住処があるのか分からない、「秘密」の関係に興奮する男は、女との逢瀬を楽しんでいく。しかし、ある時、少しでいいから目隠しをとることを許された男は、その瞬間的な周囲への観察から想像をめぐらし、女の住処をつきとめてしまう。すると、「秘密」の逢瀬はもはや退屈なものになり、男は女を見捨て、別の快楽を求めて去っていく。

 

これも藤子不二雄Aの『笑ゥせぇるすまん』のエピソードの1つにあってもおかしくないような物語だが、さすがに横道に逸れ過ぎるか。『刺青』のような完成度もなければ、『少年』ほどの諧謔がないので、物語の特異性で読み手を官能的な世界へと誘うに過ぎない。そういう意味ではあまり好きな短編ではないが、この特異性は悪くはない。

 

他の短編は、似たり寄ったりの若気の至りのような出来で、谷崎ファンの私は楽しめなくもないが、一般の読者には厳しい評価が下されるかもしれない。そういう意味で評価は☆3つとした。