好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【書評】 潤一郎ラビリンス<12> 神と人との間 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

 

潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)

潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)

 

 

『潤一郎ラビリンス』はたいがい短編集だが、<12>は『神と人との間』という長編と2つの短編が収められている。実質的には副題にもなっている『神と人との間』がメインである。詩人の佐藤春夫に対する谷崎の妻譲渡事件に取材しているという側面からも本作は目立つ。そしてその『神と人との間』の出来が良くない(2つの短編も出来が悪いが)。無理矢理に長く書いていることが明らかである。谷崎潤一郎の一流の筆のお陰で読み進めることはたやすいが、物語の構造がいびつで、「善と悪」というメッセージ性の強い理念的な作品を書かんとする余り、人間の自然な思考や行動が見られず人工的な作品に陥ってしまっている。

 

『神と人との間』には2人の主人公がいる。穂積と添田である。

穂積は元医師で長野で開業していたが、ヒロインの朝子を恋する余り、医院を閉じて上京し作家となる(この設定が非常に技巧的。東大医学部まで卒業して医師になって、なぜ医師を廃業して作家になるのか。作家になっても構わないが、それだけの動機が語られないから、この行動は説得力に欠ける)。添田は作者を模したと思われる悪魔主義的な作家で、マスコミを賑わせている作家である。この作品が書かれたのは大正時代だが、現在の俳優やタレントが帯びている大衆性を、この時代では作家が担っていたことが分かる。マスコミが報道する格好の材料だったのである。谷崎も初期は悪魔主義的と言われたことがあったから、添田のモデルは谷崎なのだろう。初期、悪魔主義的な自分をモデルとした作品を谷崎は多く書いている。

 

穂積と添田には、かつて2人が共に恋する芸妓・朝子がいた。その女性を穂積も恋していて、朝子も穂積を恋していることを人づてに聞いていたが、穂積は添田も朝子を恋していることを知っているので、自分から身を引いてしまう。そうかといって穂積は朝子を諦める訳ではない。諦めずに上京しては添田の家に赴き、今では妻となり母となった朝子に会いに行くのである。そこでは最近の不倫ドラマのような安易なセックスが行われないところが上品であるが、あまり長い間どっちかつかずの交流が続くので読んでいるうちに飽きてしまう。結局、穂積は添田に遠慮して朝子の手も握れないのだが、朝子を妻に持ちながらも早々に彼女に飽きて、恋人の女優と遊び回る添田に対してあまりに穂積は紳士過ぎる。

 

ヒロインの朝子は穂積よりも更に淑女で、どんなに夫・添田に殴られても蹴られても、彼の元を離れない。封建主義的な時代にあってはこれが普通なのかもしれないが、貞女とか淑女とかいった価値観に身を束縛されて、自分でものを考えることが出来なかった女性という印象である。物語は添田の急死を受けて、朝子はようやく穂積の妻になるのだが、男に良いように弄ばれているだけで、朝子は哀れであるが、それと共に人間的な魅力を感じないのも事実だ。確かにこんな女なら飽きて他の女に行ってしまうのも分からなくはないが、それならどうしてこんな女がヒロインなので、穂積は恋い焦がれたのであるか。それが分からない。

 

添田の急死の原因は穂積にあって、彼は元医師の知識を用いて添田の死に関わるのだが、添田は散々朝子をあざむき、そして穂積をも翻弄しておきながら、死に瀕しては妻を傍に置き、自分の過去を悔いる。それに穂積は絶望する。その理由は、添田が朝子に対してあまりに冷淡で、浮気はするし、何ヶ月も家を空けるほどの男であるのに、最期を迎えるにあたって、過去を悔いたからである。だから、添田というものは殺すに足る男でないことを知って穂積は絶望し死を選ぶ。

 

せっかく、優しい穂積と一緒になれたと言って喜んでいるヒロインはどうなるのか。添田に死なれて、結婚したかと思えばあっけなく穂積に自殺されるのである。

穂積は、最初からダメなのである。最初からヒロインを妻にしておけば良かったのに、変な同情心を起こして添田に女性を譲るようなことをするから、ヒロインは辛い思いをする訳であった。朝子がいい加減男たちに頭にきて、添田の死後は穂積にも近寄らなくなり、添田をうちやるほどの冷酷さを見せれば、まだそれなりに皮肉めいた、ブラックユーモアの利いたラストになりそうなものを、最後の最後まで朝子は愚かで、自分で何も考えることのしない女性として終わるから、物語は「善と悪」という理念的な価値観に導かれた、いびつな物語となってしまったのである。

【書評】 スクラップ・アンド・ビルド 著者:羽田圭介 評価☆☆★★★ (日本)

スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド

羽田圭介は、又吉直樹芥川賞を同時受賞したのだが、その受賞作品が『スクラップ・アンド・ビルド』である。羽田の小説は『御不浄バトル』しか読んだことがないが、文章に拘りがない作家だと思った。そしてその印象は今回も変わらない。又吉の『火花』は図書館で借りようと思っても人気過ぎて一向に借りられないが、立ち読みした限りは、羽田よりは文章の拘りがあるように感じる。
さて、物語の構成は『御不浄』の方が未だ良かったが、本作は芥川賞らしく(?)、日常を淡々と描いた退屈な物語となっている。ということで、『御不浄』よりは『スクラップ』の方が評価は辛くなる。『御不浄』のレビューはしていないが、あれが☆2.5だとしたら本作は☆2である。私のレビューで☆2.5という評価はないので、代わり映えしない点数になるだろうが。

退屈な物語と書いたがどのくらいつまらないのか。何しろ、新卒でカーディーラーの職に就いていた男が退職して無職となり、母親とその父即ち主人公にとっては祖父と同居しつつ、転職活動を行い、最後に企業から内定を獲得して赴任地のつくばに向けて出発するというただそれだけの物語だからである。途中、太り気味の亜美という恋人と逢引するシーンが出てくるが、羽田は女性に関心がないのか、彼女は何の魅力もない女である。こんな女と頻繁にセックスする場面が描かれるが全く必要性を感じない。結末で出てこなくなるが、彼女とは別れたのだろうか?彼女との関係に関心を持てないので、どうなろうと構わないのだけれど。

ここまで酷評するなら☆1つにすべきなのにしないのは、祖父のキャラクターが良いからである。帯に書かれているほどに祖父と主人公との関係には、介護は関係しないのだが、祖父の九州弁に悲哀があり、それと共に滑稽なので、祖父が出てくるとおかしく感じられるのだ。明らかに本作の中では、叔父と並んで性格が卑屈で、主人公よりもよほど魅力がある。祖父を脇役にせずに主役に持ってきたら、もう少し本作も独創性が増して、語るべきところの多い作品になったかもしれない。

【書評】 猫と庄造と二人のおんな 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)

 

 

『猫と庄造と二人のおんな』は、谷崎潤一郎の中編小説である。1936年に発表された。谷崎の後期に位置する佳作である。全編にわたってセリフが関西弁で書かれている。江戸っ子で東京人の谷崎がかくも緻密に関西弁を活写していることに驚く。そしてその躍動感に満ちて、生活感のある関西の世俗的な世界をリアルに描出し得たことに感嘆させられるのだ。谷崎は、初期はモダニストで、中期以降は日本的美学の追求者であり、その中に本作のごとき世俗をリアリティをもって描き出す手腕までも持っていて、読んでも読んでも奥が深く、著者の全貌にたどり着くまでに時間がかかるので、言葉によっていかに豊潤な世界を構築したのかがよく分かる。

 

『猫と庄造と』の文体は非常にさっぱりとしていて、雅な言葉は使われない。それよりも特徴的なのは端々に至るまで細密に表現された関西の方言である。関西の方言に日本的美学の真髄を見たかのような『蓼食う虫』や『陰翳礼讃』の価値観は、ここでは現れず、むしろ関西弁の活写は滑稽さを醸し出している。それは言葉がおかしいのではなく、セリフを発する人間(庄造、品子、福子)の立ち振る舞いが滑稽だからである。滑稽な人間が放つ言葉だから自然とそのセリフは滑稽なものになる。本作での関西弁は、美学の追求の対象ではなく、滑稽な人間に肉付けをする言葉として、存在しているのである。

 

『猫と庄造と二人のおんな』は、そのタイトルに物語の全てが語られているようなものである。ここには序列が表現されている。即ち、猫が最上位で、次に庄造、そしておんなは最下位に位置する。庄造は猫に拝跪し、女二人は庄造の愛を自分に取り付けようと執着する。女が最下位というのも谷崎の文学では独特に見えるが、谷崎の小説は女性崇拝という要素が確かにあって、その印象だと本作は風変わりである。もっとも、真摯で善意のある女性には、谷崎は好意的ではなく、小説の中で惨めな最後を迎えたり、殺されたりするものもある。そういう意味では、福子は真摯でも善意でもない女だが、本作では最下位に甘んじさせられているのだから、本作の女性観は、谷崎の中では不思議に見えるだろう。

 

 

本作の崇拝の対象である猫リリーに対する庄造の異常なまでの執着は、滑稽ながらも少しグロテスクとも言い得るもので、こういう感覚を後期になっても未だ有している谷崎を私はかわいらしく思う。例えば、小説の序盤ではこんな描写がある。小鰺(こあじ)の二杯酢を肴にしてお酒を飲んでいる場面である。

 

 庄造は、一と口飲んでは猪口を置くと、

「リリー」

と云って、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リリーは後脚で立ち上がって小判型のチャブ台の縁(ふち)に前脚をかけ、皿の上の肴をじっと睨まえている恰好は、バアのお客がカウンターに倚(よ)りかかっているようでもあり、ノートルダムの怪獣のようでもあるのだが、いよいよ餌が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧そうな眼を、まるで人間がびっくりした時のようにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はそう易々とは投げてやらない。

「そうれ!」

と、鼻の先まで持って行ってから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚に滲みている酢をスッパスッパ吸い取ってやり、堅そうな骨は噛み砕いてやってから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろいろにして見せびらかす。

 

更に、かわいいリリーに爪を立てられても一向に動じないどころか快感すら覚えていると見られる描写の後、まるで恋人同士がじゃれあうようなシーンが続く。

 

その円々と膨らんだ、丘のような肩の肉の上へ跳び着いたリリーは、つるつる滑り落ちそうになるのを防ぐために、勢い爪を立てる。と、たった一枚のちぢみのシャツを透(とお)して、爪が肉に喰い込むので、

「あ痛!痛!」

と、悲鳴を挙げながら、

「ええい、降りんかいな!」

と、肩を揺す振ったり一方へ傾けたりするけれども、そうすると猶(なお)落ちまいとして爪を立てるので、しまいにはシャツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、

「無茶しよる。」

とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リリーはそれをすっかり呑み込んでいるらしく、頬ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使いながら、彼が魚をふくんだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端へ持って行く。そして庄造が口をもぐもぐさせながら、舌で魚を押し出してやると、ヒョイとそいつへ咬み着くのだが、一度に喰いちぎって来ることもあれば、ちぎったついでに主人の口の周りを嬉しそうに舐め廻すこともあり、主人と猫とが両端をくわえて引っ張り合っていることもある。

 

まるで人と猫が接吻しているような場面の後、ようやく妻・福子の存在に気付いたとでも言うように振り返り、庄造は「おい、どうしたんや?」と言うのだけれど、愛人との逢い引きを露骨に見せられるようなもので、女としてはたまったものではないだろう。妻の位置よりも猫の位の方が高いかに見える庄造に対するリリーへの愛着は、遂には福子をしてリリーを元妻・品子の元へと追放する手段を選ばせるに至るが、庄造の愛情を自身に向けることは遂に叶わない。

 

 

新潮文庫版の解説で磯田光一は、谷崎文学を通じて愛とは隷属だと説き、『春琴抄』は男女がお互いに隷属し合い「完璧な充実の世界」を構築したと言う。そしてその隷属が拒否された世界を描いたのが本作だと指摘していて、確かに物語の終盤、品子の元へと追放されたリリーは、かつての主人であるはずの庄造に対して、見るからに庄造の家にいた頃の甘えや懐きなどがなくなっている。そして庄造は、品子がいない隙にリリーに会いに来たのだが、品子が帰宅するとまるで間男のように逃げ出していくのだけれど、隷属を拒否された男の哀れさがアイロニーと共に描き出される見事な結末といえるだろう。

【映画レビュー】 世界一キライなあなたに 評価☆☆☆★★ (米国)

邦題と映画の内容が合っていない『世界一キライなあなたに』は、恋愛、障害者、そして尊厳死とを扱った複雑な題材を持つ映画である。

生を謳歌していた31歳の青年実業家のウィルは、雨の中電話を掛けながら歩いていたところ、バイクに跳ねられて半身不随になってしまう。動くのは首の上と、指先くらいである。セックスも出来ない。知性が保たれながらも体のほとんどが動かないことで、ウィルは人生に絶望して、尊厳死を希望していた。ウィルは城を持つほどの資産家の子どもでもあり、両親は健在で彼らも息子が生きて欲しいことを望むが、ウィルの意思は堅い。母親は、あと6か月だけ生きて欲しいとウィルに言い、そのためにウィルの友人として身の回りの世話係を雇う。それがヒロインのルイーザこと、ルーである。ルーは明るく思ったことを何でも口にする女性だが、貧困層に位置して、彼女が働かなければ一家は露頭に迷う。大学に通うこともルーの希望だったが、進学を我慢して労働に勤しんでいた。

死を願っていたウィルが、ルーの明るい性格にほだされて尊厳死を選ばなくなるような爽快な恋愛映画になるのかと思えば、そんなことはなく、ウィルはあくまでも、半身不随以前の状態に戻れない自分を受容できず、尊厳死を選んでいく。ルーとウィルは愛し合うようになるのだが、ルーはウィルの意思を変えられず、物語の終盤、尊厳死が合法であるスイスへと、彼は行ってしまう。ルーはスイスにも同伴して彼の最期を見届ける。死んだ後にウィルから受け取った手紙の中で、ルーは、自由な選択肢を決定するための資金を得る。それは、半身不随の状態で何もなし得ないウィルによる、彼ができなかった自由を、ルーにやって欲しいとの願いが込められている。

人の意思決定を変えられないのは、確かにその通りかもしれないが、ルーがいかにウィルを愛してもウィルの決断を変えられないとすると、これは果たして恋愛映画なのか?これは恋愛映画の衣装をまとった別の映画なのではないかと。別の映画と言ったところで、尊厳死を問題にした人間ドラマとでも落ち着く程度で、さしたる驚きを読者に呈し得ないのだが。ウィルはルーを愛するからこそ、ウィルに縛られずに自由な人生を生きて欲しいというが、彼女に渡された金が手切れ金のように見えてならない。

この映画はどうもキリスト教の死生観に賛同してはいないようだ。ルーの家族は熱心なキリスト教徒で、食事の前にもきちんと祈祷をする。キリスト教は自殺を認めていないが、映画は、ウィルの選択肢を否定的には描いていない。むしろ、半身不随になって苦しんでいるのだから、尊厳死を認める意思決定を尊重する。しかしルーの家族は、ウィルが自殺を思い止まらないこと、ウィルの尊厳死の準備にルーを利用したことに憤慨する。物語の結末は、尊厳死を行うウィルの決心を尊重し、キリスト教的死生観に与しない。

私はこの映画を妻とともに観ていた。妻はこの映画を観て、感心していなかったようだ。ルーがウィルの意思を変えられなかったところに、愛を感じ難かったと言う。私も同感である。ウィルの愛は、尊厳死と天秤にかけると弱いからである。ルーは、半身不随のウィルをも愛したのだが、その思いよりも自らの思いを優先したからである。ウィルにこだわることなく、ルー自身の自由を手にして欲しいために彼女に資金を提供するのだが、それは強い愛とは言い得ない。ただ、この映画において、尊厳死を選ばざるを得ない障害者の苦難は痛いほどに伝わってくる。そこに焦点を当てると標準的な評価を与えて良い映画である。

【書評】 青い眼がほしい 著者:トニ・モリスン 評価☆☆☆☆★ (米国)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

『青い眼がほしい』は、ノーベル賞作家トニ・モリスンのデビュー作。人種差別と女性差別という二重の差別が黒人少女クローディアの「眼」を通して描かれる。青い眼がほしいと言っているのはクローディアではなく彼女の姉でもなく、友人のピコーラである。また、ピコーラは父親から性的虐待を受けて望まれぬ子を妊娠させられるほどに苦難を味わうから、ピコーラが本書の「主演女優」であるが、クローディアや、その姉もまた人種差別と女性差別の被害を強く感じている場面が多々ある。三者三様の差別模様が描かれるといえよう。

ピコーラは11歳くらいの子どもなのだが、父親は件の通りのろくでなしであり、母親もピコーラの味方をする訳でもなく夫と喧嘩を行い、兄は自宅を嫌がり、家出を繰り返す。そんな中、ピコーラは、白人女性の持つ青い眼がほしいと訴える訳だが、叶えられることもなく黒んぼ呼ばわりされ、父には強姦され、気が狂ってしまう。ピコーラは黒んぼ呼ばわりされて人種差別される訳だが、彼女は、強姦されることで、人種差別と女性差別の両方を受け持つ人間の象徴として投影される。黒人女性は、本書の中で、最低のポジションに置かれる。黒人であることで白人から差別され、女性であることで黒人男性から差別されるからである。

クローディアの眼を通して差別が描かれると言ったが、眼は、この作品で重要な位置を占める。白人という、黒人の置かれた永遠とも言える悲哀なポジションを決めてしまった権力者が、何をもって黒人に劣位な位置に置かしめたかと言えば、肌の色なのである。黒人が黒い肌を持つということを、眼で見た白人は、黒人を差別する。永遠に黒人は白い肌になることができないし、その白い肌の持ち主の持つ青い眼も持てないからだ。眼で見ることが人種差別を構築してしまうということ。肌の色は変えられないし、眼の色は変えられない。そして人種は変えられない。

だから、眼で見た対象が自らと大きく違った存在、本書の言葉を借りるなら醜いニガーであっても、先天的に変えることができない人間の外的あるいは内的特徴をもって、差別することは許されないのである。同じことは女性にも言えよう。眼で見るという行為を捉えて、あらゆる先天的な人間の持つ外的内的特徴による差別を許さないという著者のメッセージは、文学的に素朴であるが、根源的で、有無を言わさぬ頑健な筆の力を感じざるを得ない。