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【書評】 細雪 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆★★ (日本)

 

 

細雪(上)(新潮文庫)

細雪(上)(新潮文庫)

 

 

 

細雪(中)(新潮文庫)

細雪(中)(新潮文庫)

 

 

 

細雪(下)(新潮文庫)

細雪(下)(新潮文庫)

 

 

細雪』は谷崎潤一郎最大の長編小説で、文庫版にして1000ページ超の長大な小説である。市川崑によって映画化されていたり、あるいは現在でも舞台化されている(明治座)ので、数ある谷崎作品の中でもその名が知られている方だろう。ただし1000ページもの大作なので、実際に読むためには敷居が高いかもしれない。文体は極めて平易で、かつ物語の流れも通俗的なので、一度読み始めると止め時を知らずに読めるとは思うが。長さに二の足を踏むだけで、難解な作品ではない。

 

物語の舞台は昭和10年代の大阪で、年を経るごとに、欧州でのきなくさい戦争の噂が登場人物たちの口吻に上る時代である。日本も日中戦争を仕掛けるなどして、先の大戦に大きく関わっていく事実が描かれていた。とはいうものの本作における戦争は、登場人物の思考や行動に大きく影響を及ぼしたり、登場人物の関係を裂いたりするものではなく、たんたんとその事実がセリフの中に泳がされているのみである。

 

かつて繁栄したものの、父の死によって没落した蒔岡家の4姉妹を中心に、大阪の風俗、伝統的な上流階級の文化を歌い上げている。4姉妹は、長女鶴子、次女幸子、三女雪子、末娘妙子である。鶴子は、辰雄という銀行員の夫を婿養子として取り、蒔岡家の本家としての佇まいを見せる。ただしその佇まいは伝統に依拠した形式的なもので、妹たちからは反発されることがしばしばで、好影響を与えることが出来ない。夫の辰雄は言わずもがな、父まで続いた蒔岡商店を潰した人間であり、本家の夫という立場がありながらも妹たちにはよく思われていない。

 

実質的には次女の幸子が幸子・雪子・妙子の3姉妹の結束を高め、本家との橋渡しをしていることから、幸子が物語の中心的立ち位置を占めることにもなっていく。幸子は華やかな美人で、妹の雪子の見合いに彼女が出ると主人公のはずの雪子が影に隠れてしまうので、服装や化粧を地味にするように言われるくらいである。案外に世相に疎く、物語の途中で大阪から東京に行ってしまった姉に代わって大阪の蒔岡家を切り盛りするも、雪子と妙子の心を繋ぎ止めきれない甘さを併せ持つ。物語の前半で流産してしまい、いつまでも気に病んで、また、妹たちが不幸せな思いを患っているのを想像して涙を流すなど、母を若くして亡くした4姉妹の中では、母の代理者のような情の深さを持つ。実質的に幸子が主人公ということもあり、心情がよく掘り下げられて描かれている。外見が華やかで背が高く、人間味があり、4姉妹の中でも特に魅力的に描かれている。派手好きな父親に似た性質を受け継いでいる。

 

反対に雪子は、人に地味な印象を与え、自分の意見を容易に発することが出来ず、ぐずぐずしているような女性である。着物が大変よく似合い、亡き母の俤を強く残している。姉妹の中で結婚していないのは妙子と雪子だけだが、奔放な妙子と比べると、雪子は異性との交際もせず、上流階級の節度を保持している。なで肩で痩せており、身長も幸子よりは小柄である。自分の意見を容易に言えないとはいえ、姉妹のように心を許せる間柄であれば、気持ちを言葉に乗せることが出来るものと思われる。割りと人物の好みはハッキリしている。彼女の見合い話から『細雪』の物語は始まるのだが、終盤になるまで見合いは決まらないのである。まるで雪子の見合い話が決着するための物語にさえ思えてくるが、彼女自身のハッキリしない物言いも、見合いが決着しない所以を形作る。


4女の妙子は自由奔放で、恋愛も何度も経験していて、旧弊な薪岡家では極めて特殊な存在である。現代に置き換えれば妙子でも十分におしとやかに見えるが、婚前交渉が許されない上流階級にあっては、彼女は4姉妹の関係性の中で特異に写るのである。奥畑という資産家のボンボンと交際して新聞沙汰になったことがあり、それが縁で雪子の見合い話が上手く行かない向きもあることから、幸子も妙子には由々しい思いを抱いている。妙子自身は親の愛を受けきれずに育った背景があり、そのために彼女は満たされぬ思いを異性に委ねる。


大阪の風俗の細密な活写や、4姉妹の個性を濃厚に、リアリティをもって描出され、読後においても尚、この4姉妹が過去の日本においてそのまま存在したかのような歴史性さえ感じさせられることに成功した、文章の高い技巧性は見事なものである。反面、物語は人工的な場面が鼻につき、手放しで讃仰する訳にはいかない。鶴子一家の上京、雪子の見合い話が終盤まで決着しないところ、妙子の恋人の板倉が急に病に冒されてあっけなく死亡するところ、妙子の妊娠と死産など物語の展開としてしっくり来るとは言い得ない。酷評するほど不自然とは言えないが、何も見合い話がここまで円滑にいかなくとも、とか、板倉が魅力を示すことなく死なずとも、とか、違和感を感じながら読まされてしまったのである。


また、時代背景のせいか、上流階級であることのせいか、人物の封建的な価値観にまるで理解し得ない点も指摘したい。例えば末の妹の妙子が、奔放な行動が災いしたとはいえ、鶴子や、他の姉妹からも絶縁に近い状態に置かされる。その後、妙子は大病するのだが、人間の情として、肉親が大病したら看病に行くのは当たり前だが、絶縁状態だから容易には行かれないと言う。時代の影響だろうが、もしこれで妙子が死んだら、浮かばれないだろう。絶縁だろうが何がなんでも妙子を助けたいという思いで行動する者は、この姉妹の中には見受けられなかった。結局妙子は助かるから良いようなものの、後に三好という男と恋仲になり、彼の子を妊娠してしまう妙子なのだが、上流階級の建前上、遠方に隠れて子を産まねばならぬと言われる。そして父である三好さえ看病に行けないのである。時代と言えば、それまでだが、不条理に見え、しかもせっかく産んだ子が医師の失敗で死産するなど、過剰な人工的演出が鼻についてしまった。結局、谷崎は、この妙子の死産を、板倉の呪いの様に表現したいために、描いたかに見える。封建的な価値観さえ理解し得ないのに、件の人工的な場面を見せられてはなかなか高評価は出来ないのである。もちろん、関西の女性に日本的女性美を託すかのような谷崎の価値観は、幸子、雪子、妙子には充分に現れていて、それを読むだけでも一見の価値ありである。物語上の人工性は批判すべきところとして譲れないが、それを差し引いても本作は標準的な面白さを持っている。日本文学の代表的な作品とは言えないとは思うけれど。


余談だが、明治座の『細雪』では、次女の幸子を水野真紀が演じているようだ。水野真紀は綺麗だとは思うし、華やかさもあるが、幸子を演じるには派手さが足りない。幸子は、充分に美人であるはずの雪子が霞むほどの絢爛たる美人であろう。水野が演じるべきは雪子だと思うのだが。そういう点では映画版の雪子は吉永小百合で、清楚さは良いが地味ではないので、不適な気もする。もっと大人しく、控え目で、内に秘める美しさ、奥床しさを持つのが雪子のはずである。

【書評】 潤一郎ラビリンス<11>銀幕の彼方 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

潤一郎ラビリンス〈11〉銀幕の彼方 (中公文庫)
 

 

私が初めて買った『潤一郎ラビリンス』がこの11巻である。副題を見れば「銀幕の彼方」とある通り、映画に関する谷崎の小説や随筆が収められている。私は、少年の頃から映画を観て来て、映画を作ってみたいというような妄想を抱きながら成人したが、その私にとって映画は私の人生観の大きな部分を形作っている。良くも、悪くも。だから結婚し子をもうけた30代の現在においても尚、映画を観てブログでレビューを書くことでお茶を濁している訳だ。それは虚しさというよりは満ちた感じで、私は子どもの頃に抱いた映画に携わることの空想の道から足を踏み外しても、空高いところにいる映画を仰ぎながら、鑑賞してレビューすることで映画を傍に引き寄せたように錯覚し、絶えずその誤った感覚に敢えて飛び込み続けることで自分は映画に関する何事かを知っており、また、語った気になっている。映画は相変わらず遠いところに位置しているのだが。

 

千葉俊二の解説によれば、谷崎は映画製作に関係し、大正活映株式会社の脚本部顧問として招かれた。『葛飾砂子』『蛇性の淫』などいくつかの映画製作に携わった。翌年には早くも経営者側の方針の転換から映画製作からは離れているが、谷崎の映画に対する関心は晩年も衰えることがなく、初期作品から編集されることが多いラビリンスにおいて、例外的に収められた『過酸化マンガン水の夢』が昭和30年に発表されている(谷崎は昭和40年没)通り、彼は映画に取り憑かれたとまでは言わないにしても、映画に対する深い関心は終生に亘って消えることがなかったのだろう。

 

11巻で私が印象深かったのは『人面疽』という小品で、百合枝という名の映画女優が、ある時、自分が撮られた覚えのないフィルムがあることを発見する。人づてに聞いてみるとそれはアメリカ資本の映画で、女性主人公である花魁があるアメリカ人の船員と恋仲になる。そして船員は帰国に際して花魁を船に隠して密航させる算段である。その時にある醜い青年の助けを得てしまうが、その青年は見返りに、一晩だけでも良いので、花魁を自分の女にさせて欲しいと船員に頼む。一晩くらいならと船員は勝手に認めるが、花魁の方であの醜く汚れた青年に体を自由にされるのは忍びないとして、約束を反故にする。青年はそれでもくらいつき、せめて一目だけでも会わせて欲しいと願うが、花魁はそれさえも拒む。怒った青年は自殺し、彼女の膝に人面疽となって張り付くという呪いをかけた。


この人面疽が花魁の人生に歪みを与え、船員との愛を貫くはずの彼女は淫蕩な性質を見せ始め次から次へと男を変えていく。その間、彼女は人面疽を隠していたのだが、世間は何となく膝頭が隠されていることを不審に思っていた。そうこうするうちにある富裕な身分の男と交際するに及ぶも、彼女の人面疽はふとしたことで露わになり、その人面疽はまさに人間が膝から生えているが如くにゲラゲラ笑っているという結末である。


ラストがあっけ無く終局に向かってしまったところが惜しいところだが、それでも尚、結末に向かうまでの展開をスリリングに書いていく筆の力は見事なものだ。谷崎潤一郎は日本の近代文学において川端康成三島由紀夫などと並んで代表的な作家だが、川端や三島に『人面疽』の如き小さなエンターテインメントさえ書けたかと言えば否であろう。大衆小説への執拗な関心と、芸術以外にも柔軟な視線を向ける多様で複眼的な感性が彼をして種々のエンターテインメントを書かしめたのだろう。


その他に挙げたいのが『過酸化マンガン水の夢』と『映畫雑感』という随筆で、いずれも映画に関する谷崎の批評的な価値観の鋭さが伝わる。前者は晩年の随筆になるが、晩年に至るまでも尚映画に強い関心を持ち続けていたことが彼らしい論理的かつ美麗な日本語で書かれ、味わい深い作品である。『悪魔のような女』というフランスのスリラー映画について、徒らに賞賛することなく、批判すべきところは根拠をもって批判しているところが良い。谷崎は一体に評論家としては知られていないし、現に評論家ではないのだが、彼の筋道の通った明晰な文体からは、対象の芸術作品の良し悪しをはっきりと指し示すことが出来る点で説得力がある。なぜこの作品のここが良くてこれがダメなのかが分かりやすく語られるのだ。

 

 

 

 

 

【書評】 潤一郎ラビリンス<12> 神と人との間 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

 

潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)

潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)

 

 

『潤一郎ラビリンス』はたいがい短編集だが、<12>は『神と人との間』という長編と2つの短編が収められている。実質的には副題にもなっている『神と人との間』がメインである。詩人の佐藤春夫に対する谷崎の妻譲渡事件に取材しているという側面からも本作は目立つ。そしてその『神と人との間』の出来が良くない(2つの短編も出来が悪いが)。無理矢理に長く書いていることが明らかである。谷崎潤一郎の一流の筆のお陰で読み進めることはたやすいが、物語の構造がいびつで、「善と悪」というメッセージ性の強い理念的な作品を書かんとする余り、人間の自然な思考や行動が見られず人工的な作品に陥ってしまっている。

 

『神と人との間』には2人の主人公がいる。穂積と添田である。

穂積は元医師で長野で開業していたが、ヒロインの朝子を恋する余り、医院を閉じて上京し作家となる(この設定が非常に技巧的。東大医学部まで卒業して医師になって、なぜ医師を廃業して作家になるのか。作家になっても構わないが、それだけの動機が語られないから、この行動は説得力に欠ける)。添田は作者を模したと思われる悪魔主義的な作家で、マスコミを賑わせている作家である。この作品が書かれたのは大正時代だが、現在の俳優やタレントが帯びている大衆性を、この時代では作家が担っていたことが分かる。マスコミが報道する格好の材料だったのである。谷崎も初期は悪魔主義的と言われたことがあったから、添田のモデルは谷崎なのだろう。初期、悪魔主義的な自分をモデルとした作品を谷崎は多く書いている。

 

穂積と添田には、かつて2人が共に恋する芸妓・朝子がいた。その女性を穂積も恋していて、朝子も穂積を恋していることを人づてに聞いていたが、穂積は添田も朝子を恋していることを知っているので、自分から身を引いてしまう。そうかといって穂積は朝子を諦める訳ではない。諦めずに上京しては添田の家に赴き、今では妻となり母となった朝子に会いに行くのである。そこでは最近の不倫ドラマのような安易なセックスが行われないところが上品であるが、あまり長い間どっちかつかずの交流が続くので読んでいるうちに飽きてしまう。結局、穂積は添田に遠慮して朝子の手も握れないのだが、朝子を妻に持ちながらも早々に彼女に飽きて、恋人の女優と遊び回る添田に対してあまりに穂積は紳士過ぎる。

 

ヒロインの朝子は穂積よりも更に淑女で、どんなに夫・添田に殴られても蹴られても、彼の元を離れない。封建主義的な時代にあってはこれが普通なのかもしれないが、貞女とか淑女とかいった価値観に身を束縛されて、自分でものを考えることが出来なかった女性という印象である。物語は添田の急死を受けて、朝子はようやく穂積の妻になるのだが、男に良いように弄ばれているだけで、朝子は哀れであるが、それと共に人間的な魅力を感じないのも事実だ。確かにこんな女なら飽きて他の女に行ってしまうのも分からなくはないが、それならどうしてこんな女がヒロインなので、穂積は恋い焦がれたのであるか。それが分からない。

 

添田の急死の原因は穂積にあって、彼は元医師の知識を用いて添田の死に関わるのだが、添田は散々朝子をあざむき、そして穂積をも翻弄しておきながら、死に瀕しては妻を傍に置き、自分の過去を悔いる。それに穂積は絶望する。その理由は、添田が朝子に対してあまりに冷淡で、浮気はするし、何ヶ月も家を空けるほどの男であるのに、最期を迎えるにあたって、過去を悔いたからである。だから、添田というものは殺すに足る男でないことを知って穂積は絶望し死を選ぶ。

 

せっかく、優しい穂積と一緒になれたと言って喜んでいるヒロインはどうなるのか。添田に死なれて、結婚したかと思えばあっけなく穂積に自殺されるのである。

穂積は、最初からダメなのである。最初からヒロインを妻にしておけば良かったのに、変な同情心を起こして添田に女性を譲るようなことをするから、ヒロインは辛い思いをする訳であった。朝子がいい加減男たちに頭にきて、添田の死後は穂積にも近寄らなくなり、添田をうちやるほどの冷酷さを見せれば、まだそれなりに皮肉めいた、ブラックユーモアの利いたラストになりそうなものを、最後の最後まで朝子は愚かで、自分で何も考えることのしない女性として終わるから、物語は「善と悪」という理念的な価値観に導かれた、いびつな物語となってしまったのである。

【書評】 スクラップ・アンド・ビルド 著者:羽田圭介 評価☆☆★★★ (日本)

スクラップ・アンド・ビルド

スクラップ・アンド・ビルド

羽田圭介は、又吉直樹芥川賞を同時受賞したのだが、その受賞作品が『スクラップ・アンド・ビルド』である。羽田の小説は『御不浄バトル』しか読んだことがないが、文章に拘りがない作家だと思った。そしてその印象は今回も変わらない。又吉の『火花』は図書館で借りようと思っても人気過ぎて一向に借りられないが、立ち読みした限りは、羽田よりは文章の拘りがあるように感じる。
さて、物語の構成は『御不浄』の方が未だ良かったが、本作は芥川賞らしく(?)、日常を淡々と描いた退屈な物語となっている。ということで、『御不浄』よりは『スクラップ』の方が評価は辛くなる。『御不浄』のレビューはしていないが、あれが☆2.5だとしたら本作は☆2である。私のレビューで☆2.5という評価はないので、代わり映えしない点数になるだろうが。

退屈な物語と書いたがどのくらいつまらないのか。何しろ、新卒でカーディーラーの職に就いていた男が退職して無職となり、母親とその父即ち主人公にとっては祖父と同居しつつ、転職活動を行い、最後に企業から内定を獲得して赴任地のつくばに向けて出発するというただそれだけの物語だからである。途中、太り気味の亜美という恋人と逢引するシーンが出てくるが、羽田は女性に関心がないのか、彼女は何の魅力もない女である。こんな女と頻繁にセックスする場面が描かれるが全く必要性を感じない。結末で出てこなくなるが、彼女とは別れたのだろうか?彼女との関係に関心を持てないので、どうなろうと構わないのだけれど。

ここまで酷評するなら☆1つにすべきなのにしないのは、祖父のキャラクターが良いからである。帯に書かれているほどに祖父と主人公との関係には、介護は関係しないのだが、祖父の九州弁に悲哀があり、それと共に滑稽なので、祖父が出てくるとおかしく感じられるのだ。明らかに本作の中では、叔父と並んで性格が卑屈で、主人公よりもよほど魅力がある。祖父を脇役にせずに主役に持ってきたら、もう少し本作も独創性が増して、語るべきところの多い作品になったかもしれない。

【書評】 猫と庄造と二人のおんな 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫)

 

 

『猫と庄造と二人のおんな』は、谷崎潤一郎の中編小説である。1936年に発表された。谷崎の後期に位置する佳作である。全編にわたってセリフが関西弁で書かれている。江戸っ子で東京人の谷崎がかくも緻密に関西弁を活写していることに驚く。そしてその躍動感に満ちて、生活感のある関西の世俗的な世界をリアルに描出し得たことに感嘆させられるのだ。谷崎は、初期はモダニストで、中期以降は日本的美学の追求者であり、その中に本作のごとき世俗をリアリティをもって描き出す手腕までも持っていて、読んでも読んでも奥が深く、著者の全貌にたどり着くまでに時間がかかるので、言葉によっていかに豊潤な世界を構築したのかがよく分かる。

 

『猫と庄造と』の文体は非常にさっぱりとしていて、雅な言葉は使われない。それよりも特徴的なのは端々に至るまで細密に表現された関西の方言である。関西の方言に日本的美学の真髄を見たかのような『蓼食う虫』や『陰翳礼讃』の価値観は、ここでは現れず、むしろ関西弁の活写は滑稽さを醸し出している。それは言葉がおかしいのではなく、セリフを発する人間(庄造、品子、福子)の立ち振る舞いが滑稽だからである。滑稽な人間が放つ言葉だから自然とそのセリフは滑稽なものになる。本作での関西弁は、美学の追求の対象ではなく、滑稽な人間に肉付けをする言葉として、存在しているのである。

 

『猫と庄造と二人のおんな』は、そのタイトルに物語の全てが語られているようなものである。ここには序列が表現されている。即ち、猫が最上位で、次に庄造、そしておんなは最下位に位置する。庄造は猫に拝跪し、女二人は庄造の愛を自分に取り付けようと執着する。女が最下位というのも谷崎の文学では独特に見えるが、谷崎の小説は女性崇拝という要素が確かにあって、その印象だと本作は風変わりである。もっとも、真摯で善意のある女性には、谷崎は好意的ではなく、小説の中で惨めな最後を迎えたり、殺されたりするものもある。そういう意味では、福子は真摯でも善意でもない女だが、本作では最下位に甘んじさせられているのだから、本作の女性観は、谷崎の中では不思議に見えるだろう。

 

 

本作の崇拝の対象である猫リリーに対する庄造の異常なまでの執着は、滑稽ながらも少しグロテスクとも言い得るもので、こういう感覚を後期になっても未だ有している谷崎を私はかわいらしく思う。例えば、小説の序盤ではこんな描写がある。小鰺(こあじ)の二杯酢を肴にしてお酒を飲んでいる場面である。

 

 庄造は、一と口飲んでは猪口を置くと、

「リリー」

と云って、鰺の一つを箸で高々と摘まみ上げる。リリーは後脚で立ち上がって小判型のチャブ台の縁(ふち)に前脚をかけ、皿の上の肴をじっと睨まえている恰好は、バアのお客がカウンターに倚(よ)りかかっているようでもあり、ノートルダムの怪獣のようでもあるのだが、いよいよ餌が摘まみ上げられると、急に鼻をヒクヒクさせ、大きな、悧巧そうな眼を、まるで人間がびっくりした時のようにまん円く開いて、下から見上げる。だが庄造はそう易々とは投げてやらない。

「そうれ!」

と、鼻の先まで持って行ってから、逆に自分の口の中へ入れる。そして魚に滲みている酢をスッパスッパ吸い取ってやり、堅そうな骨は噛み砕いてやってから、又もう一遍摘まみ上げて、遠くしたり、近くしたり、高くしたり、低くしたり、いろいろにして見せびらかす。

 

更に、かわいいリリーに爪を立てられても一向に動じないどころか快感すら覚えていると見られる描写の後、まるで恋人同士がじゃれあうようなシーンが続く。

 

その円々と膨らんだ、丘のような肩の肉の上へ跳び着いたリリーは、つるつる滑り落ちそうになるのを防ぐために、勢い爪を立てる。と、たった一枚のちぢみのシャツを透(とお)して、爪が肉に喰い込むので、

「あ痛!痛!」

と、悲鳴を挙げながら、

「ええい、降りんかいな!」

と、肩を揺す振ったり一方へ傾けたりするけれども、そうすると猶(なお)落ちまいとして爪を立てるので、しまいにはシャツにポタポタ血がにじんで来る。でも庄造は、

「無茶しよる。」

とボヤキながらも決して腹は立てないのである。リリーはそれをすっかり呑み込んでいるらしく、頬ぺたへ顔を擦りつけてお世辞を使いながら、彼が魚をふくんだと見ると、自分の口を大胆に主人の口の端へ持って行く。そして庄造が口をもぐもぐさせながら、舌で魚を押し出してやると、ヒョイとそいつへ咬み着くのだが、一度に喰いちぎって来ることもあれば、ちぎったついでに主人の口の周りを嬉しそうに舐め廻すこともあり、主人と猫とが両端をくわえて引っ張り合っていることもある。

 

まるで人と猫が接吻しているような場面の後、ようやく妻・福子の存在に気付いたとでも言うように振り返り、庄造は「おい、どうしたんや?」と言うのだけれど、愛人との逢い引きを露骨に見せられるようなもので、女としてはたまったものではないだろう。妻の位置よりも猫の位の方が高いかに見える庄造に対するリリーへの愛着は、遂には福子をしてリリーを元妻・品子の元へと追放する手段を選ばせるに至るが、庄造の愛情を自身に向けることは遂に叶わない。

 

 

新潮文庫版の解説で磯田光一は、谷崎文学を通じて愛とは隷属だと説き、『春琴抄』は男女がお互いに隷属し合い「完璧な充実の世界」を構築したと言う。そしてその隷属が拒否された世界を描いたのが本作だと指摘していて、確かに物語の終盤、品子の元へと追放されたリリーは、かつての主人であるはずの庄造に対して、見るからに庄造の家にいた頃の甘えや懐きなどがなくなっている。そして庄造は、品子がいない隙にリリーに会いに来たのだが、品子が帰宅するとまるで間男のように逃げ出していくのだけれど、隷属を拒否された男の哀れさがアイロニーと共に描き出される見事な結末といえるだろう。