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【書評】 女であること 著者:川端康成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

女であること (新潮文庫)

女であること (新潮文庫)

女であることの無限

1956年に連載開始された『女であること』は川端康成の傑作の1つ。新潮文庫版で600頁近い長編小説である。長い物語の中に、弁護士夫人・市子、市子の友人の娘であるさかえ、そして市子の夫が弁護した殺人者の娘・妙子、そして市子の夫である佐山が主な登場人物として出てくる。この4人は、「女であること」の哀しみ、喜び、孤独、美しさにより、アイデンティティ(存在)が揺らぐ。市子は主人公でありながら、「女であること」の感情を自ら引き出し、あるいは他者から引き出されることにより、存在が揺らいでいってしまう。彼女は主人公なのか?とすら疑われるほどに、自分の心を自ら、あるいは他者から引き裂かれていくのである。「女であること」は、人間の存在を無限の姿形に変化させてしまうのではないか?とすら、思えるほどだった。

存在が揺らぐポリフォニー

市子は主人公でありながら存在が揺曳する。彼女は理想的な女性像として、一見すると描かれるが、さかえや妙子、佐山、そしてかつての恋人などによって存在をかき乱される。自分はどういう存在なのか?彼女は一個の独立した登場人物ながら、作者とイコールではない。とすれば、何となくミハイル・バフチンポリフォニーを思い起こす。市子は理想的な女性像のように描かれるが、必ずしもそれは絶対ではない。かつての恋人を見ると彼女は、処女のまま結婚しなかったことの罪悪感に苦しむ。さかえは、市子に対して神のような理想像を抱くが、市子が人間の女性であることを体験していくと、彼女に落胆し、その落胆に市子は不快になる。このように、多くの登場人物により、市子の存在は揺らぐ。しかし、特に市子をかき乱すのはさかえだろう。

さかえによる関係する者たちへの揺らぎ

友人の娘である、大阪生まれのさかえは、『女であること』において強烈な印象を残す。川端康成が創造したキャラクターの中では、『みずうみ』の桃井銀平を凌駕するほど、人の心をかき乱す、唯一無二の存在感を放っていた。さかえは息を飲むほどに美しい女性である。しかし彼女は、どんな人間に対しても、自分の感情をなげうつ。その感情が跳ね返されることを承知でなげうつのだ。承知の割には、その跳ね返されることにさかえは衝撃を受けてしまう。私はさかえの描写を読むと不安になる。彼女の感情のなげうつ様は、必ず相手を不穏な心理に陥れるからだ。だから彼女が出てくる度に私は穏やかでない気持ちになるが、一方で、さかえがもたらす不穏は、ホラー映画を見る時のような「怖いもの見たさ」の感情を味わわせる。

さかえに愛される市子の揺らぎ

市子はさかえに愛されるが、それは市子に理想的な女性像を見るからだ。しかし市子とて、神ではない。人間ゆえに、食事もするし眠るし人を恨んだりするしセックスもするし生理もくる。しかしそれでもさかえは、市子を神のように崇める。体験的に、その行為が無駄で、市子が人間であることを知ったとしても、さかえは市子を愛する。

だが徐々に、さかえは市子に不快さを覚えられるようになっていく。特にさかえは、他の登場人物にうちあけたように、市子の夫・佐山に興味を持つ。市子に対するほどの強い思いとはいえないが、神ではなく女であり、更に市子から不快さを覚えられるようになったさかえは、佐山に愛を抱くようになる。市子を通じて佐山を愛するようになったとさかえは言っているが、どこまで本当なのか。彼女は一貫して、「女であること」の究極の存在である市子を思っていたように思う。しかし、さかえによって、特にその存在が揺らいでいく市子は、神ではなくなってしまう。

殺人者の娘・妙子の激情

さかえと共に、忘れられない女性は妙子である。彼女は、殺人者を父に持つ娘である。人権派死刑廃止論者の佐山に引き取られ、市子に愛されながら生活している妙子は、さかえが佐山の家に来るまで、それなりに幸せな生活を送っていた。だが、市子の登場で、さかえの存在は揺らぐ。自分は殺人者の娘であることを忘れてしまうほどに、満ち足りた生活を送っていたが、所詮は殺人者の娘なのだ。

さかえは妙子の中にある激情を見抜く。さかえは、妙子がさかえを殺そうと思ったことがあるということを看破した。そんなことはないと否定する彼女に、しつこく言及する場面を持ったさかえは不気味だが、穏やかに見える妙子が実は激情があるというのは確かなことだ。確かに彼女は、さかえほどに、感情を相手に差し向けるほどではない。しかし、後半、同棲することになる恋人に執着する様は激情というよりは陰湿な欲望の表現という程度のものだ。だが、妙子は言葉に表さないだけで、行動には激情を持っている。

さかえに見抜かれる妙子の態度、佐山・市子夫婦の家を突然に出奔すること、そして恋人と同棲すること、同棲して佐山の家に戻れないでいることなど、一貫するほどの激情がある。

女であることは不安

『女であること』は、「女であること」の哀しみ、喜び、孤独、美しさにより、4人の登場人物の存在が揺らいでいく物語だ。市子は作者の意思を伝える人形ではない。他の登場人物により、「女であること」の感情を引き出され、自分はどんな存在(アイデンティティ)なのかと苦悩する。だがそれは、市子に限らず、さかえもそうだし、妙子もそうなのだし、佐山という男ですら、そうなのだ。結局、「女であること」とは、この4人にとって、どうなのだろうか。延々と続く不安でしかないことを本書は明らかにしているように見える。

【書評】 人魚の嘆き・魔術師 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

人魚の嘆き・魔術師 (中公文庫)

人魚の嘆き・魔術師 (中公文庫)

『人魚の嘆き・魔術師』は絵本のように美しい

『人魚の嘆き・魔術師』は、谷崎潤一郎の短編小説集。文庫にして100ページほどの薄い本。1917年に発売され、谷崎の初期に位置する耽美主義的な作品である。挿絵はオスカー・ワイルドの『サロメ』のビアズリーを思わせる水島爾保市の作品である。耽美的な絵本のような美しさを誇る。本書は、現在では中公文庫で買えるが、表紙にビアズリー的なイラストが描かれていて、絵本のような美しさを引き立てていた。

「人魚の嘆き」は西洋崇拝的

「人魚の嘆き」は中国の古い時代の貴公子の物語。谷崎の西洋崇拝の一種。贅の限りを尽くし、富も名誉も、美しい女性も、全てを手に入れた貴公子は、自らの命と引き換えにしても美に拝跪したいと思っていた。しかし、何をみても彼の心は満たされない。7人いる妾たちは皆美しいが、彼の心は乾いたままである。

ある時、貴公子が外を眺めていると、ある西洋人が歩いている。聞くとオランダ人だという。何しに来たかといえば、貴公子に謁見しに来たのだ。貴公子が美しいものに惑溺したいということを知っている西洋人は、貴公子にあるものを見せる。それは「人魚」だ。人魚の美しさに惹かれた貴公子は、ただちにそれを購入するが、その時、西洋人は「人魚」は西洋では珍しいものではないと言う。「人魚」は西洋の美の象徴なのだ。

「魔術師」は絵空事

「魔術師」は「人魚の嘆き」同様に、ビアズリー的な挿絵が耽美主義を強調する。しかし、公園にあるという小屋の描写はあまりリアリティを感じられず、そうかといって現実を超越した存在感がある訳でもない。文章に綴られた絵空事が展開されているようにみえ、出来は悪い。

『人魚の嘆き・魔術師』は漢語が多用されるもストーリーが退屈

「人魚の嘆き」にしても「魔術師」にしても、題材は異色ながら、耽美主義的な小説であることは変わりなく、読んでみるとさほど奇妙な作品でもない。しかも、退屈といえばずいぶん退屈なストーリーで、小品といった格好である。「人魚の嘆き」は人魚を海に放流して終わりという不可解な結末で、著者にもっと想像力があれば評価し得たかもしれない。漢語の多用による退廃的な美は良いが、ひとつのストーリーとしてまとめられていないので、読後の歯切れが悪い。

「魔術師」は恋人同士が半人半獣になり、お互いに角を絡み合わせ二度と動けないようにして終わりという、粗雑な結末である。男主人公がどうして「魔術師」の意のままになり、魔法をかけられて半人半獣になったのか、その心理的な流れがまるで描出されていない。魔術師の小屋があるという、公園の描写は漢語を多用して魅惑的な世界を構築しようとしているが、著者に公園のイメージができておらず、うまくいっていない。「魔術師」は「人魚の嘆き」よりも出来が悪く、この作品だけなら☆1つだ。

【映画レビュー】 グレイテストショーマン 評価☆☆☆☆★ (アメリカ)

グレイテストショーマンはミュージカル映画

『グレイテストショーマン』はミュージカル映画。実在の人物P.Tバーナムのサーカスビジネスの成功を、「社会からの隔絶者」の存在価値の高揚と絡めて描いたヒューマンな作品に仕上がっている。『レ・ミゼラブル』でジャン・バルジャンを熱演したヒュー・ジャックマンが主演。

貧乏人がサーカスの興行師として成功するまで

時は19世紀の米国。P.Tバーナムは、仕立て屋の息子で、貧しい生活を余儀なくされていた。バーナムは下層階級に位置し、パンを盗んで店主から袋叩きにあうほどであった。ある時、資産家の家に行くとそこには美しい娘チャリティがいた。恋に落ちた二人は、大人になりチャリティの両親の反対を押し切って結婚する。

貧しい生活ながらも幸せな生活を送っていたいチャリティに対し、チャリティの両親を見返したい、社会を見返したいと願うバーナムは、ある時、髭が生えている女、小人症の男、巨人症の男、犬男、黒人たちを使ったサーカスを興す。社会から隔絶されていた人間を舞台に立たせる、いわば見世物小屋である。最初は興味本位で集まる客ばかりだったが、次第にサーカスの面白さに引き込まれた客に評価を得て、バーナムはサーカスの興行師として大成功する。

失意のどん底

バーナムはサーカスの興行師として大成功を収めた。しかしバーナムは、幼い頃から、チャリティの両親を見返したい、社会を見返したいという気持ちがあり、成功してもなお、その思いは消えることがなかった。フィリップ・カーライルという一流の劇作家と出会い、彼のツテで英国女王に会ったり、その席でジェニー・リンドという一流歌手と出会いをする。

特にジェニー・リンドとの出会いはバーナムを変えてしまい、見世物小屋は「偽り」でジェニーの一流の歌声こそ「本物」だと誤解する。バーナムはジェニーの米国ツアーを取り仕切って、サーカスはフィリップに任せるようになる。しかしある時、火事が起きてサーカス小屋は全焼、無一文になってしまったバーナムは失意のどん底に落ちてしまう。バーナムは敗北してしまった。

どんな人間にも価値がある

失意のどん底に落ちてからの展開が魅力的で、バーナムが自分を慰めにバーに入り浸っていると、小人症のトムが来る。そして次々にサーカスの出演者たちがバーを訪れ、バーナムに話しかける。

素晴らしかったのが髭が生えている女(This Is Meを歌っている女)で、彼女はバーナムが自分たちをバーナムのビジネスのために使われていることを見抜いていた。その上で、自分たちが社会から隔絶され、存在なき者とさえ扱われていた事態から、サーカスが、そしてP.Tバーナムが、自分たちを救ってくれたのだという。

私は髭の生えた女の台詞を聞くまで、バーナムは貧乏という以外の欠点がなく、日陰者たちを使ってサーカスを興行したのか今ひとつ分からなかった。この台詞によって、バーナムは単に金儲けのために日陰者たちを使ったに過ぎないことが明確になり、バーナムの人間臭さに好感を持った。

そして、バーナムがビジネスのために自分たちをサーカスで使ったことを知っていながら、自分たちが表舞台に立てたことに喜ぶ日陰者たちは、バーナムと並ぶ本作品の主人公であることがイメージされる。日陰者が永遠に日陰にいるのではなく、表舞台に立って輝いて良いということ。バーナムのサーカスはそれを成し遂げたのだ。たとえそれが、ビジネスのためであっても、日陰者たちが主体的にサーカスで楽しめれば、それで良い。月並みだが、「どんな人間にも価値がある」というメッセージは上手く表現されていたと思う。

敗北を乗り越えて

敗北を乗り越え、新しいサーカス小屋でパフォーマンスを繰り広げるシーンは圧巻で、本作品の最大の見所となっている。映画の冒頭で、P.Tバーナムが「グレイテストショー」の曲に乗り、出演者と共に踊るシーンが描かれていた。観客には、いつのことを描いているのかわからないままストーリーが進行するけれど、実はこの新しいサーカス小屋のパフォーマンスに繋がる。

音楽が素晴らしい

『グレイテストショーマン』はミュージカル映画である。だからといって音楽が素晴らしいとは限らないが、本作の音楽は良い。「グレイテストショー」や「This Is Me」も良いし、ジェニーが歌う曲も良かった。フィリップ・カーライルも歌がうまかったが、ジャスティン・ビーバーに似たちょっとかすれた声だった。

説明不足のストーリーが少し気になる

『グレイテストショーマン』には欠点もあって、主たるストーリーは良いのだが、説明不足のシーンが少々見られた。一番よろしくなかったのが、バーナムは、ビジネスのために日陰者をサーカスで使っているに過ぎないという描写の不足だ。バーナムが「俺はあいつらに共感なんかしていない。ただ金を儲けたいだけなんだ」という台詞を入れるとか、サーカスを始める動機が不純であることをバーナムに喋らせるとか、そういう描写が欠けている。バーナムがサーカスを売り込むにあたって、ポスターを刷るが、そのポスターが奇抜でただの見世物小屋に過ぎないことを想像はできるが、バーナムがどう思っているか、ということが知りたかった。

おそらく観客は何となく、バーナムはただ単に金儲けをしたいだけの偽善者なんだろうなとは思うが、もっと分かりやすい納得感が欲しい。純粋なフィリップと話して「俺は自分だけが大事なんだ」と言って、フィリップに軽蔑されるとか、描写が足りなかった。

あとは、ジェニーがバーナムを称して、想像力があるからサーカスが成功したというシーンがあったと思うが、なぜバーナムにそんな想像力があるのかが分からない。ちょっとでも良いので、貧乏だったけれど本が異様に好きだったなどというような描写があるとなお良い。確かに、バーナムの奇抜な発想のお陰で、サーカスは成功したのだろう。でも、なぜだ?それが分からない。ただの思いつきだと、ちょっとつまらない。まあ『ラ・ラ・ランド』みたいに女優がいきなり大女優になっちゃうみたいな飛躍がないだけマシではあるが。

【書評】 台所太平記 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

台所太平記 (中公文庫)

台所太平記 (中公文庫)

文豪・谷崎潤一郎による女中さん列伝

戦前(昭和11年)から戦後(昭和38年)にかけて、千倉家に出入りした多くの女中たちの変遷を描いた長編小説。語り手の「ですます調」のユーモラスな言葉に乗って、個性溢れる女中たちのエピソードが幾重にも描かれている。

本書の冒頭の文章にあるように、女中という言葉は使われなくなっている。また、女中という言葉を使用しなくなったことと共に、かつては「お花」「お玉」などと呼び捨てていた名前もみな「さん付け」になっている。既に失われてしまった「女中」という文化・風俗に対する懐旧がこの小説を貫く感情である。本書の解説を書いた阿部昭によれば、女中とは「衣食住のあらゆる差別にもかかわらず、利害打算を超えてその「家」と「家庭」に献身すべき名分を持っていた」という。女中を使う家人は、女中に対して差別的な感情を持っていただろうが、女中の方では「家」と「家庭」に献身していたのだし、少なからぬ人情があったことは想像に難くない。著者は、そういう女中たちに対して、語り手のユーモラスな言葉を通し戯画的に描きながらも、失われた文化・風俗=女中に対し懐旧の念を思い起こしていた。

女中さんのエピソードの連続でまとまりがない

本書『台所太平記』は全20回の長編小説である。女中のエピソードを繋いだ物語で、失われた女中に対する懐旧という感情が貫徹しながらも、物語の構造的には大きな一貫性はない。従って読者は個性的な女中のエピソードを読まされることになる。長編小説という形式でありながら、エピソードが連続し物語の構造的な一貫性がないとなると、まとまりがない印象だ。小説の感情的な主題が懐旧であることは分かるが、物語に一貫性がないと、ただ女中のエピソードを集めただけの小説という塩梅なので、退屈さが生じるのは否めない。

いくつかの女中さんのエピソードは悪くない

女中たちのエピソードは淡々としていて退屈なものが多い。しかしその中でも、初、鈴、百合のエピソードは興味を惹かれた。

初は古参の女中で20年くらい千倉家に奉公している。もちろん結婚することもなく独身のままである。彼女は美人でもかわいらしい顔でもないが、肉体はグラマラスで白人が好きだった谷崎の好みの女性であろう。鈴と百合は美人で、千倉家の主人は彼女たちとデートをしている。主人が女中とデートをするものだろうか?と思うが、まるで愛人を連れ歩くかのように主人は女中を連れて飲食に行ったり映画に行ったりしている。ここらへんの描写は、行動としては現れているが、粘着的な描写ではなくからっとしている。『猫と庄造と二人のおんな』よりも更に乾いていて、少し控え目じゃないか?と思われるほどだ。

やっぱり「女の足」が好きだった谷崎潤一郎

初については足が見事だったようで、「サラリとした、真っ白な足の裏を見せていました」だの、「初のたっぷりした大足の、而も真っ白で綺麗な足の裏が一杯に乗っかって、あの大女の重石で踏まれると、実にいい気持ちでした」などと書いていて、谷崎潤一郎の足に対するフェティシズムぶりに失笑させられる。

女中はほんの数人(例えば初、鈴、百合)にして、主人とのエロティックながらも、ユーモラスな戦中・戦後を背景にした物語だったら、もう少し面白くなったと思うが。現状ではただのエピソードに寄せ集めに過ぎない。

【書評】 趣味から卒業!しっかり稼げる自宅教室の開業・集客バイブル 著者:高橋貴子 評価☆☆★★★ (日本)

著者は教室開業・集客コンサルタント

著者は22年の営業経験と、パン教室を開業して3年で人気教室へと成長させた実績を持っている。現在は教室開業・集客コンサルタントとして活動。また、電子書籍コンサルタントとしての肩書もあり、自著『プレゼントしたくなるおしゃれな天然酵母パン』を出版している。この本は「レシピ本+成形動画」というコンセプトが支持されて、AmazonKindleランキングで1位を獲得したこともあるという。

集客方法についてざっくりと教えてくれる本

本書はタイトルにもあるように集客に焦点を絞って書かれた本だ。著者が他のパン教室の講師を見ていて感じたのは「良い技術を持っていても、集客できないといけない」ということである。そこで著者は、22年の営業経験、そしてインターネットの集客ツールを駆使して集客スキルを磨いていくことになる。そして著者が出した成果は、自分が開業したパン教室を3年で人気教室に育て上げたというものだった。

「集客ツール、これが良い」という理由を数値で示すと分かりやすかった

集客ツールの活性化については、全体的にざっくりとしていてポイントを絞り切れていない印象だし、本当にこれで集客できるのか疑問に思える点も多々あった。

著者は自分のホームグラウンドをHPにするという。SNSは集客ツールとして用いHPへの呼び水にするというものだ。この考えはポイントを絞っているので分かるが、たくさんあるSNSやブログは集客ツールとしてどれを使っても良いというのは、何とかならなかったのか。私はどれを使っても良いなどということを聞きたくないのだ。

ブログならブログ、twitterならtwitterYouTubeならYouTube、インスタならインスタを使ってどのくらいのの集客を確保した。その上で「ブログとインスタ」の双方を使って集客することが良いという結論に達したので、「みなさんやってね」ということなら説得力がある。そして著者独自のポイントで書かれた集客した成果が書かれていれば尚更良い。

しかし、本書のように集客ツールは多様化しているのでどれを使うかはお任せで、ブログ、Facebook、動画活用などの集客ツールを勧める・・・ということであれば、そこらへんの無料ブログの提案と何ら変わりない。

文章術は真新しさがない

文章術については真新しさに欠ける。著者は、ブログやHPのタイトルが「興味を引かれるタイトル」にすべしと言う。「興味を引かれるタイトルか否か」でその先を読むか・読まないかが判断されてしまうというが、当たり前というか、ネットの無料記事にいくらでも転がっている指摘に過ぎない。一目見たら忘れられないキャッチコピーについても、「興味を引く」「特徴を伝える」「行動を促す」の3つの役割が大事だと言っているが、SEOを意識している文章を読んでいれば気付ける指摘であろう。

動画を使えば教室の魅力を簡単に伝えられる

動画制作については何章にも亘って文章を割いているが、これには興味を引かれた。「動画」というと一見身構えてしまいがちだが、難しくないと言う。スマホ1つで作れる時代である。ネットの読み手の立場に立ってみると、文章よりも動画の方が記事の言わんとしていることが伝わる経験を思い出すことができよう。
また、教室動画の7つのポイント「大量投稿」「誘導強化」「成約率アップ」「アフターフォロー」「チュートリアル」「ニュースレター」「ステップメールマガジン」も参考になると思う。著者が本書を通じて一貫して言っていることは集客である。教室の生徒数をいかに増やせるか?というものである。そのための動画制作のありかたは教室に留まらず、企業の営業ツールとしても活用できそうだ。