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【書評】 台所太平記 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

台所太平記 (中公文庫)

台所太平記 (中公文庫)

文豪・谷崎潤一郎による女中さん列伝

戦前(昭和11年)から戦後(昭和38年)にかけて、千倉家に出入りした多くの女中たちの変遷を描いた長編小説。語り手の「ですます調」のユーモラスな言葉に乗って、個性溢れる女中たちのエピソードが幾重にも描かれている。

本書の冒頭の文章にあるように、女中という言葉は使われなくなっている。また、女中という言葉を使用しなくなったことと共に、かつては「お花」「お玉」などと呼び捨てていた名前もみな「さん付け」になっている。既に失われてしまった「女中」という文化・風俗に対する懐旧がこの小説を貫く感情である。本書の解説を書いた阿部昭によれば、女中とは「衣食住のあらゆる差別にもかかわらず、利害打算を超えてその「家」と「家庭」に献身すべき名分を持っていた」という。女中を使う家人は、女中に対して差別的な感情を持っていただろうが、女中の方では「家」と「家庭」に献身していたのだし、少なからぬ人情があったことは想像に難くない。著者は、そういう女中たちに対して、語り手のユーモラスな言葉を通し戯画的に描きながらも、失われた文化・風俗=女中に対し懐旧の念を思い起こしていた。

女中さんのエピソードの連続でまとまりがない

本書『台所太平記』は全20回の長編小説である。女中のエピソードを繋いだ物語で、失われた女中に対する懐旧という感情が貫徹しながらも、物語の構造的には大きな一貫性はない。従って読者は個性的な女中のエピソードを読まされることになる。長編小説という形式でありながら、エピソードが連続し物語の構造的な一貫性がないとなると、まとまりがない印象だ。小説の感情的な主題が懐旧であることは分かるが、物語に一貫性がないと、ただ女中のエピソードを集めただけの小説という塩梅なので、退屈さが生じるのは否めない。

いくつかの女中さんのエピソードは悪くない

女中たちのエピソードは淡々としていて退屈なものが多い。しかしその中でも、初、鈴、百合のエピソードは興味を惹かれた。

初は古参の女中で20年くらい千倉家に奉公している。もちろん結婚することもなく独身のままである。彼女は美人でもかわいらしい顔でもないが、肉体はグラマラスで白人が好きだった谷崎の好みの女性であろう。鈴と百合は美人で、千倉家の主人は彼女たちとデートをしている。主人が女中とデートをするものだろうか?と思うが、まるで愛人を連れ歩くかのように主人は女中を連れて飲食に行ったり映画に行ったりしている。ここらへんの描写は、行動としては現れているが、粘着的な描写ではなくからっとしている。『猫と庄造と二人のおんな』よりも更に乾いていて、少し控え目じゃないか?と思われるほどだ。

やっぱり「女の足」が好きだった谷崎潤一郎

初については足が見事だったようで、「サラリとした、真っ白な足の裏を見せていました」だの、「初のたっぷりした大足の、而も真っ白で綺麗な足の裏が一杯に乗っかって、あの大女の重石で踏まれると、実にいい気持ちでした」などと書いていて、谷崎潤一郎の足に対するフェティシズムぶりに失笑させられる。

女中はほんの数人(例えば初、鈴、百合)にして、主人とのエロティックながらも、ユーモラスな戦中・戦後を背景にした物語だったら、もう少し面白くなったと思うが。現状ではただのエピソードに寄せ集めに過ぎない。