好きなものと、嫌いなもの

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『ボヘミアンラプソディ』を見る

ボヘミアンラプソディ』をうまく語れない

映画『ボヘミアンラプソディ』について、レビューをしようと思ったが、なかなか筆が進まない。その理由はクイーンに評価を付けたくなかったからだろうか。あるいは、『ボヘミアンラプソディ』の熱狂に湧いている現状に水を差したくなかったからだろうか。どちらの理由も間違いではない。しかし、もう少し言葉を付言すると『ボヘミアンラプソディ』は良い映画とは思えなかったが、使われている楽曲すなわちクイーンの曲については相変わらず良かった訳で、そう考えると『ボヘミアンラプソディ』をどう評価して良いか分からなくなってしまったからだ。

ボヘミアンラプソディ』のラミ・マレックの前歯が気になる

ボヘミアンラプソディ』を見ていて思ったが、私はクイーンが相変わらず好きだし、特にボーカルで作詞・作曲を兼ねるフレディ・マーキュリーが好きだということである。

だからこそ、『ボヘミアンラプソディ』でフレディを演じた主演のラミ・マレックは、フレディ・マーキュリーとは似て非なる者であったことが気になった。ブライアン・メイロジャー・テイラーを演じた俳優が、本人とうりふたつとさえ言い得るにもかかわらず、ラミ・マレックだけが似ていないと感じたことが気になった。ジョン・ディーコンを演じた俳優もラミ・マレックよりは本人に似ていた。

フレディ・マーキュリーは前歯が出ていたが、ラミ・マレックはいかにも偽物の歯を付けていて、明石家さんまのモノマネをする原口あきまさを思い出してしまった。この映画はもちろん、ギャグ映画ではないのだが、私にはラミ・マレックがギャグにしか見えなかった。どうしても前歯が気になるのである。

だが、最も気になったのは、ラミ・マレックの歌がフレディ・マーキュリーの吹き替えだったということだ。マレックは劇中で歌わない。これには私はむなしさを覚えた。やっぱりフレディの声は誰にも演じられないものなのか。そう思うとこの映画を見るよりも、YouTubeでクイーンのビデオを見た方がマシにさえ思えた。映画のラストで「ドントストップミーナウ」が動画が流れた時に、ライブエイドのシーンよりも感動したのは、クイーンの本物の姿が見られたからである。

ボヘミアンラプソディ』はフレディの自伝的映画

ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画であるが、照準はボーカルのフレディ・マーキュリーに当てられているのでフレディの自伝的映画といえるだろう。フレディは自分のセクシュアリティや、アーティストとしての感性などが理由でバンドに対して亀裂を生じさせる。ロジャー・テイラーはフレディに突っかかるが、ロジャーの視点でバンドへの亀裂を描くというよりは、フレディの視点にロジャーが入ってくるという描写である。

映画はライブエイドの成功で幕を閉じるが、どうしてもそういう結末にしたいために史実を曲げた。すなわちフレディが、自身がエイズに罹患していることを知るのがライブエイドの後であることが史実なのに、映画はライブエイド前に知っていたことにする。それによってフレディがなかなか声量のある声が出ずにいて苦悩するというシーンが感動的なものになるし、バンドがフレディの病気を軸にして結束するシーンにも繋がる。

映画はフレディを中心に周り、フレディと共に終わる。ライブエイドのライ・マレックはなかなか良かった。原口あきまさを思い出させなかった。前歯が気になるのは、マレックがしゃべったり、口を閉じたりしているシーンが多いので、ライブなら前歯が気にならなかったのである。それと、マレックの力強いパフォーマンスは、彼の小柄な肉体、フレディよりも短く見える脚などの欠点がありながらも、クイーンという力強いバンドのボーカリストを演じる俳優然としていたと思う。それでも、彼の歌声は吹き替えなので、感動するかというとそうでもなかったのだが。

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」

フレディ・マーキュリーの最大の魅力は「力」だ。クイーンを力強いバンドに仕立て上げているのは、フレディの力があるからである。ブライアン・メイのギターもロジャーのドラムもジョンのベースも、力は感じるが、クイーンはバンドで歌が主役だ。その歌い手がバンドのイメージを決定づける。それは、力だ。フレディを演じたラミ・マレックがフレディと違うなと思うのは、マレックに力を感じなかったせいだ。歌声をマレックが吹き替えたのは、フレディの声を似せるのが困難だったのだろうが、所詮は偽物という印象を持ってしまった。

フレディ・マーキュリーの身長は177センチでそう高くはなかった。バンドメンバーでは一番身長が低い。といっても、ブライアン・メイ以外の身長は似たようなものだが、ギタリストのブライアン・メイは190センチ近くある。明らかにメイの方が大きいのだが、力は身長からもたらされるものではない。クイーンはバンドで歌が主役なので彼の力の源は歌声からもたらされる。

代表曲「ボヘミアンラプソディ」「ショウマストゴーオン」「ウィウィルロックユー」「ドントストップミーナウ」などから感じられるフレディの力強い歌声は感動的である。私は彼らのビデオをいくつか持っているが、なんだか、見ているだけで涙が流れていく。歌は言葉であるが、むしろ、歌は言葉であるよりも音楽である。だから、力強い歌声を聞いていると泣くというのは、音楽の持つ非言語的な力が私を感動させるという意味だ。

音楽の性質は不思議なもので、クイーンの曲を聞いていると、自分がフレディ・マーキュリーの力の源に触れているような感覚になる。クイーンというバンド名や、タイツを履いたフレディのパフォーマンス、フレディがバイセクシュアリティだったことなどから、女性的なイメージをフレディ・マーキュリーに持つかもしれないが、単に歌声だけを聞くと、フレディには強い力を感じる。

音楽は言葉でいくら表現しても、聞いてしまうとそれらの言葉がむなしくなる。どんなに言葉を尽くしても音楽を聞けば、全てが吹き飛んでしまう。クイーンというバンド名やタイツを履いたフレディのパフォーマンスやフレディのバイセクシュアリティなどは雑音となって消えてしまう。音楽は耳で聞く。あるいは目で見る。視覚と聴覚を使っても尚、音楽に付随した様々な雑音は音楽からずれ落ちていく。クイーンの魅力を感じるには聞くしかない。あるいは見るしかない。

クイーンと死

既に『ボヘミアンラプソディ』という映画から話がそれてしまっている。だが、もう少し続ける。フレディ・マーキュリーの魅力は力だといったが、それは即ち、クイーンというバンドの魅力でもある。当たり前のことだが、歌が主役のバンドにおいて歌い手の魅力が力なら、バンドの魅力もそれに伴った表現となる。

だが、なぜだか分からないが、クイーンの曲を聞いていると死を連想する。別に死にたくなる訳ではないし、フレディが45歳という三島由紀夫と同じ年齢で死んだからでもない。クイーンの魅力が力だと言っておきながら、死を連想するとは何たる矛盾かと思う。

クイーンの曲を聞くと生の源に触れた気がして、私は感動する。それと共に、生の対極にある死を連想し、私はむなしくなる。むなしくなるというとクイーンに価値がないようだが、そうではなく、クイーンの曲に死を連想するからこそむなしい訳だ。

フレディの熱量ある声が歌い終わった後の静寂に、私は生き物の限りある命を感じられてならない。クイーンの魅力が力であるゆえに、歌が終わることは力が尽きるような印象を持ってしまう。

ライブエイドをリアルタイムで見た人の話を聞いてから

ボヘミアンラプソディ』について、私はあまりリアルでは語りたくない。なぜかというと、私の周囲では『ボヘミアンラプソディ』を見て低い評価を付ける者がいなかったからだ。といっても、普段なら、映画について意見が違ったら、リアルでも議論したくなるが、『ボヘミアンラプソディ』についてはリアルでは議論できない。私がこのブログで、ここまでに書いたようなことをリアルでは言いたくないのだった。

それは、『ボヘミアンラプソディ』はクイーンの映画だからで、その映画について批判めいたことを言うことが私にはできないからだ。『ボヘミアンラプソディ』はクイーンを語った映画だから、『ボヘミアンラプソディ』への批判的な言葉がクイーンへと繋がるような気がしてしまう。それは錯覚なのだが、私はそこまでクイーンを自分と切り離して捉えることができない。私の中ではクイーンは、あまり客観的に見ることができない存在なのである。

ある人と電話で話した時に、『ボヘミアンラプソディ』の話になった。その時、その人はライブエイドをリアルタイムでTVで見たと言っていた。私よりもだいぶ年上の人なので、見ることはできる。しかし、それは、一瞬のできごとだった。「そうなんだ!すごいね」と私は言った。話はそこで終わった。しかし、電話で話した後に1人になると涙がとめどなく流れた。

私は時折、クイーンのビデオを見て、フレディ・マーキュリーはこの世にいないという感覚にとらわれることがあるが、この時は電話が引き金だった。私はフレディがこの世にいないことへのむなしさを痛感していた。

おわりに

今回の文章は、日記にでも書いて誰にも見せずにおくべき文章のような気がする。書いていて気恥ずかしい思いがした。それだけ、私の人生にとってクイーンは大きな存在だったということが改めて分かったが、『ボヘミアンラプソディ』という映画の最大の魅力は、そこにあると思う。

どれだけラミ・マレックが巧みに演じようとも、声を吹き替えた時点で、私には遠い存在となってしまった。わりと映画を見て泣くことが多い私が、こともあろうにクイーンの映画で泣かなかったというのは本当に意外だった。

【映画レビュー】 ヴェノム 監督:ルーベン・フライシャー 評価☆☆☆☆★ (米国)

ヴェノム (字幕版)

ヴェノム (字幕版)

明るいユーモアが楽しい『ヴェノム』

『ヴェノム』はマーベルコミックを原作としたSFアクション。Sony Picturesの作品で、かつ、世界中でヒットしているという程度の理由で鑑賞したが、アクションの激しさと、コミカルさがほどよく調合されたユーモラスな作品で面白かった。

アクションとコミカルさに訴求ポイントがあるが、どちらかというと、『ヴェノム』の魅力は、迫力あるアクションよりも、明るいユーモアにこそあるだろう。ヴェノムというクリーチャーは、最初はヘドロみたいにグロテスクで、人間に危害を与えそうに見える。しかも、人間に憑依すると無数の牙をむき出しにしたエイリアンのようになる。ダークヒーローの映画かと思う。Sony Picturesの日本のキャッチコピーには、「マーベル史上、最も凶悪なダークヒーロー誕生。」とあり、残酷な映画なのかなという印象を持つ。

だが、そんなグロテスクな化物が主人公のエディ・ブロックと漫才を繰り広げてしまうから驚く。腹が減ったと言ってはそこらの食い物を食い漁り、悪い人をも食べてしまう始末。そのギャップが面白く、会場にも笑いが漏れていた。もちろん私も笑わされた。

ヴェノムの圧倒的存在感

ヴェノムのヘドロ的存在感は圧倒的で、一度見たら忘れられない。グロテスクでいながら主人公と漫才を繰り広げるユーモラスさが相まって、非常に気に入った。

ヴェノムは最初、単なるヘドロでしかない。形を持たないが人に憑依しようとする。しかしなかなか相性が合う人間が現れない。相性が合わないと人間は殺されてしまう。だから非常に不気味な存在として立ち現れる。見る者は少々おじけづく。こいつはとんでもない悪党だと。

ヴェノムははぐれ者でユーモラス

ヴェノムは不気味な存在で、見る者を怖がらせる。とんでもない悪党である。しかし、ヴェノムは、主人公のエディには憑依し彼を殺さなかった。その理由は、エディ同様、彼ははぐれ者だからだった。

はぐれ者同士でウマが合ったから、ヴェノムはエディを殺さない。殺さずに憑依し続けることでヴェノムはようやく人格を表す。それが前段のユーモラスさである。ヴェノムはエディと漫才を繰り広げる。また、ヴェノムは食いしん坊なので何でも食べる。エディに憑依できたことでその食いしん坊ぶりが露見する。エディが犬のように食い物にありつく姿はなかなか滑稽で面白く、ユーモアがある。グロテスクでいながらユーモラスであるヴェノムは、エディと表裏一体となることで、ようやくその魅力を表した。

『ヴェノム』はアクションとコミカルさが魅力だ。いかにもハリウッドのアクション映画という、異次元のハードアクションは食傷気味である。だが『ヴェノム』にはコミカルさがあるので、異次元のハードアクションも悪くない。映画を見終わった後に、少々、アクションシーンを思い出させるほどには悪くないだろう。

映画のラストシーン近くの戦闘は、スピードが早すぎて面白さがよく分からなかったけれど、街での戦闘シーンは丁寧な描写だった。戦闘の規模は小さくなるが、ヴェノムが憑依した後のエディと人間との戦闘もしっかり描かれていた。

悪役はミスキャスト

悪役ドレイクを演じるのは、リズ・アーメッドという男優。アーメッドは、パキスタン系のイギリス人で名門オックスフォード大学卒という輝かしい学歴を持つが、悪役を演じるだけの憎たらしさに欠けている。実験と称して殺人を犯すマッドサイエンティストなのだが、どうにもそうは見えない。賢そうには見えるが、科学の力で世界を豊かにしたいとでも考えてそうに見えた。悪役になりきれていなかったのだろう。どう見ても、マッドサイエンティストに殺されてしまう科学者にしか見えない。

【映画レビュー】 ゲット・アウト 評価☆☆★★★ 監督:ジョーダン・ピール (米国)

評論家受けが良い『ゲット・アウト

ゲット・アウト』はジョーダン・ピール監督のスリラー映画である。ピール監督はコメディアン出身者である。映画評論家の町山智浩は『ゲット・アウト』をコメディだと言っていたが、私にはコメディとは思えなかった。終盤の暴力描写がチープなので笑ったが、それは監督の意図するところでもあるまい。

ゲット・アウト』は評論家受けが良い映画で、Rotten Tomatoesでは評論家支持率が99%だったそうである。また、脚本も手がけたピール監督は、第90回アカデミー賞にて脚本賞を受賞している。権威のお墨付きを得た訳である。

私は評論家受けが良いという側面は、鵜呑みにはしないようにしてきた。なぜなら、評論家受けが良いという側面は、参考程度に留めるべきだと思うからだ。つまり評論家が良いという映画が必ずしも面白いとはいえないからである。映画は芸術だから、感覚的に受容するものである。誰がどう言おうと面白いものは面白いし、退屈なものは退屈なのである。権威が人の感性に影響を与えないことはないだろうが、だからといって評論家が絶賛した映画が即、面白い映画とはいえないだろう。そして『ゲット・アウト』は私には退屈だった。

黒人の肉体への強い憧憬と、深い黒人差別

ゲット・アウト』はどういう映画か。黒人差別を題材にしたスリラー映画である。主人公・写真家の青年クリスは、白人の恋人ローズに家に招かれた際に「家族に俺が黒人だって言っている?」と確認するような、黒人差別に敏感な男である。この設定は映画が黒人差別を題材にしていることを明示する。ローズ家に行き、自然に振る舞うクリスだったが、黒人の使用人がいて、彼らの態度に違和感を覚えると、徐々に不安になっていく。そしてローズの母の催眠術により、監禁されてしまう(この催眠術というのが鈍臭くて私は黒沢清の『クリーピー』を思い出した)。

クリス監禁後、ローズ家の住人、そして町の住人は、皆、黒人の肉体に強い憧れを抱いていたことが判明する。白人たちの脳の一部を移植し、黒人の肉体を手に入れていたのだ。しかも、白人たちは黒人への肉体を憧れているとはいえ、人種差別の感情は強く持っている。象徴的なのは、ビンゴゲームだ。ビンゴゲームの商品はクリス。まるで黒人の奴隷売買のような設定なのである。私は、この『ゲット・アウト』という映画は退屈だったが、終盤の陳腐な脱出劇でそう思ってしまったのであって、「黒人の肉体への強い憧憬と、深い黒人差別」は良い設定だったと思っている。

ゲット・アウト』という映画は、「黒人の肉体への強い憧憬と、深い黒人差別」という設定は良いのに、アクションとサスペンスがつまらなかった。心理に迫るような恐怖は描けていなかったし、怖いなと思ったのは、冒頭で、車にシカが衝突した時くらいであった。これではスリラーとして及第点はあげられない。

主人公クリス役の俳優の演技は悪くない。また、ローズ役のおねえちゃんなんかは知的でかわいくて私好みだった。

終盤の陳腐な脱出劇

クリスは耳をふさげば催眠術の影響がないだろうと考え、捕えられていた椅子からはみ出していた綿を耳に詰め込む。クリスを手術台へと運ぼうとしたジェレミーの不意を突いて倒す。ここからは多少の残酷描写も交えたアクションシーンが続く。クリスはアクション映画のスターのように、住人を倒していく。ただの写真家の青年なのだが、ずいぶんと腕っ節に自信があるようだ。

クリスがとにかく強く、誰も敵わない。彼が住人に痛めつけられるシーンはあるものの、アクション映画さながらに勝ってしまう。リアリティのある描写をしたいのか、架空の描写に留まりたいのかよく分からないのだが―――とにかくクリスが強くて、私は興醒めした。腕のひとつでももぎ取られれば、住人とクリスとの間で凄絶な戦闘が生じたと思える訳だが、身体に強烈な痛みを受けるシーンがない。血は流れてはいるのだが………

最後は恋人ローズを運良く倒して、ハッピーエンド。黒人の友だちが運転する車で帰宅するという、なんとも平凡な結末だった。住人で最後まで生き残るのはローズなので、ローズに殺されてしまったらもう少し評価を上げても良い。あるいはクリスがもう少し身体に痛みを受けてくれれば。

【映画レビュー】 バリー・シール アメリカをはめた男 監督:ダグ・リーマン 評価☆☆★★★ (米国)

危険度の高い仕事

バリー・シールという、CIAに雇われたパイロットの物語。事実に基づく物語となっている。主演はトム・クルーズ、監督はダグ・リーマンである。リーマンは『ボーン・アイデンティティー』や『Mr.&Mrsスミス』などのアクション映画の監督として知られる。トム・クルーズとは『オール・ユー・ニード・イズ・キル』という映画でタッグを組んでいる。同作は日本のライトノベルが原作だった。

本作は、大手航空会社TWAでパイロットとして働くバリー・シールが、安定した地位を捨てて、CIAに雇われて偵察任務に就き、その渦中でメデジンカルテルの麻薬密売の仕事を請け負うなどリスクの高い仕事をするようになるという物語である。CIAでの仕事がニカラグアの反政府親米組織コントラに武器を密輸するようになったり、コントラに密輸するはずの武器をカルテルに売るなど、シールの仕事は加速度的に危険度を増していく。そしてバリー・シールの背後には徐々に破滅が忍び寄っていくのだった。

トム・クルーズの若々しい演技は映画に合っていたのか

トム・クルーズは明るく清潔にバリー・シールを演じている。小柄なトム・クルーズは小汚いシャツを着こなし、小悪党を爽やかに演じてみせた。この爽やかさは格別で、トムは飛行機に乗るシーンが多いのだが青年のように見えるので、出世作トップガン』を思い出させるほど。ビデオで自撮りしてメッセージを録画している姿には、デート前かアマチュアバンドのコンサート前かのような可愛らしさがある。五十を過ぎているのに、この爽やかさ・若々しさは貴重であろう。単に身体を鍛えているだけでは、ここまでの若々しさは保てまい。

トム・クルーズの若々しい演技は、しかし、この映画には適していたのか?という疑問も湧く。私はトム・クルーズのファンだけれど、もう少々、彼の演技には狡猾さが表れても良かった。

安定した地位を捨てた理由が不明

本作は演出が今ひとつで、バリー・シールがなにゆえ安定したパイロットの職を捨ててまでCIAや密売の仕事に手を染めたのか分からなかった。元から金に貪欲だったのか、パイロットとして働く過程で金に執着するようになったのか(パイロットは高給のため)、説明が不足していて分からない。だから、映画と見る者との間の距離は開いたままでなかなか溝が埋まることがなかった。バリー・シールはルーシーという妻を愛しているのだが、彼女は金を夫に無心する訳でもなかったし、むしろ安定的なパイロットの妻としての地位に満足しているようだった。いったい、バリー・シールはなにゆえ安定した生活を捨てる必要があったのか不明なのだ。

だから彼が映画の最後で死んでも衝撃を受けることはないし、安定した生活を捨てる理由がないままに行動していくバリー・シールの姿に、理解を示すことができないまま、映画のエンドロールを迎えた。

【映画レビュー】 ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期 監督:シャロン・マグワイア 評価☆☆☆☆★ (英国その他)

スターウォーズ』も『ハリーポッター』も見たことがない

私はヒットした映画を見逃していることがある。『スターウォーズ』『ロード・オブ・ザ・リング』『ハリー・ポッター』シリーズは未だに見ていないし、ジェームズ・キャメロン監督の世界的ヒット作『タイタニック』『アバター』も見たことがない。上記作品の中で『タイタニック』は見ても良いかな…と思うが、それ以外は今も見たいと思えない。これらに共通するのはSF、ファンタジーというジャンルということだ。アクション映画は大作でも好きなのに、SFやファンタジー大作となると途端に見る気が失せる。食わず嫌いということもあろうから、人生のうちでいずれは見るかもしれないが、今のところは見なくて良いと思ってしまう。映画は数限りなく作られているし、どうせ一生かけても全ての映画を見ることなど出来はしないから、タイミングが合わないと見ないだろう。私が好きなミヒャエル・ハネケ北野武の映画だって、全て見ていないのだ。それらを全て見ていないのに、肌に合わないジャンルの映画など見る訳にいくまい。

この文脈の中で『ブリジット・ジョーンズの日記』を挙げることは、いささか不釣り合いかもしれない。なにしろ稼いだ金の額が違うからだ。『アバター』は27億ドル、『タイタニック』は21億ドル、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』は20億ドル、『ハリー・ポッター2』は13億ドル、『ロード・オブ・ザ・リング王の帰還』は11億ドルを稼いでいた。しかし『ブリジット・ジョーンズ』は3作品全て合わせても8億ドルにも満たない。わずか1作品で11億ドルも稼いだ『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズとはケタが違うのだ。もちろん『ブリジット・ジョーンズ』だって、1作品平均で2億ドルを稼いでいるのだから、充分にヒットしたといえる。

そして『ブリジット・ジョーンズ』シリーズは恋愛映画なので、私が苦手なSF、ファンタジー映画とはジャンルが違う。そういうこともあって、今回見るに至ったが、『ブリジット・ジョーンズ』作品の初代が2001年だから、シリーズ初見までにずいぶんと長い時間を要したことになる。やっぱり私はヒット映画を見逃しているかもしれない。

40代の独身女性の等身大の姿を描いた良作

ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』は、英国を舞台にした恋愛映画である。主人公のブリジットも英国人だし、恋人役のマークも英国人だ。もう1人の恋人役のジャックは米国人であるが、英国の文化の中に米国人が入ったという格好である。本作は40代の独身女性の等身大の姿を描いた作品で、コメディの色彩が強いものの、女性の心情を端的に描いていて、見終わった後に静かな感動が訪れる良作となっている。

結婚を焦る独身女性と父親探しの物語

40代となると、結婚を希望する独身女性なら焦るだろう。「早く結婚しなくちゃ」が独身女性同士の合言葉。周りで一人、また一人と結婚する女性が増えていくと焦りは焦燥に変わる。肉体の衰えも気にかかる。若い頃に気にならなかったことが気にかかる。化粧のノリ一つとっても、若い頃とは違う。男性も若い女性に目が行く。40代の私と結婚してくれる男性はいないのではないか?と思う。

ブリジットもそんな女性の一人だが、彼女は二人の男にモテた。一人は行きずりの米国人ジャック。美男子だが、どんな男か全く分からない。彼女は音楽フェスで、間違えてジャックのテントに入り、その場でセックスしてしまう。

もう一人は何年も付き合ったのに結婚に至らなかったマーク。彼は既婚者だが、離婚予定と言っていて、ブリジットはマークとも寝てしまう。

しかし、ブリジットは自分の年齢を考慮して、結婚するなら行きずりの男ではダメだし、何年も付き合ったのに別れ、しかも現在は既婚の男ではダメだ。だから彼女は二人の元を離れるが、どうも体の調子がおかしい。全く生理がこないのだ。まさか?と思って調べると妊娠反応。音楽フェスで一緒だった同僚の女性がおお喜びするが、ブリジットは困惑してしまう。

果たして、父親は誰?ジャック?それともマーク?もちろん避妊はしていたものの、何年も前のコンドームだったので、妊娠に至ってしまったという訳である。

セリフによるギャグの面白さ

ギャグシーンはなかなか面白い。一発ギャグや変顔とか体当たりではなくセリフで笑わせようとしていて、何度か笑ってしまった。

一発ギャグ、変顔や体当たりのようなギャグは、面白いには面白いが、どうしても耐性ができるのが早いので飽きやすいのだ。また、一発ギャグ、変顔や体当たりギャグは、バリエーションを考えるのが難しいであろう。どうしても二番煎じになる。その人の属性になってしまって、異なる一発ギャグや変顔や体当たりギャグをしても、その人の属性との比較になってしまってそんなに笑えない。

その点、セリフによるギャグは、言葉で成り立っているから、バリエーションは考えやすい。むしろ、ある程度バリエーションは底なしといっても良いかもしれない。それと、セリフは言葉だから、それほど属性に縛られることもないだろう。

だから、言葉そのものが面白いのが本作のギャグだけれども、話し方で面白くすることもできる。全盛期のビートたけしの怒濤のような話し方が好例だが、面白い話の構造を更に面白くしたり、あるいは大したことを言っていなくても面白いように感じたりする。

誰が父親か?父親探しと愛の試し

セリフによるギャグの面白さもさることながら、ストーリーも良い。ほんのわずかな期間で二人の男と寝てしまったブリジットは、妊娠を喜ぶ二人の男に、なかなか本音を言えない。言うと落胆するし、そもそも、「誰の子だよ?」と疑心暗鬼になるだろうから。当然DNA検査をして父親を調べることもできるが、ブリジットは検査をしない。父親が誰か?ということは、すなわち、ブリジットの夫が誰か?ということを意味する。二人の男のうち、どちらかを選ばなくてはならないが、夫にふさわしい男を見極めるためにも彼女はDNA検査をしない。

しかし、ある時ジャックが卑怯な行為に出る。マークに対して「自分はコンドームを付けないでセックスした」というのだ。自分が父親という可能性が低くなったことを悟ったマークは、ブリジットの前から姿を消す。

見る者はこの辺りで、マークが夫に選ばれるだろうと予想するが、果たしてその通りになった。卑怯な男は夫には選ばれることはないのだ。

マークは自分の子でなくてもブリジットを愛するといい、結局、ブリジットの愛を勝ち取ることができた。ジャックも似たようなセリフを吐くが、やはり卑怯なことをしない男が選ばれる。

血のつながりがどうのこうのということより、心を込めて愛することはどういうことかを問うているように感じた。この映画には、多様な愛を実践している人物が出てくるが、多様性こそ肯定するのではなく、形式的なものよりも、感情や心情によって愛することを肯定している。