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【書評】 ぼく東綺憚 著者永井荷風 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

 

 

荷風は、ニーチェと共に若い時分の筆者にとって反時代性の象徴のような存在だった。現実に目を背けて江戸戯作に懐旧の念を抱く荷風についても、あるいは、現実の東京を散策して江戸の残り香を発見する荷風についても、どちらも反時代性を体現する、眩しい偶像であった。

30代の現在、荷風は、反時代的であることに変わりはないが、やや苔むした像へと落ちていった。かつては崇拝するほどの偶像であった彼も、時代の流れに適合することの妙味に親しむようになった筆者にとっては、何だか、鬱陶しい存在にさえ感じさせられるほどである。

 

江戸戯作を懐かしむ荷風の姿は、既に現実から消失した風景(これは、文字通り風景のことであり、また、人物が発する言葉の使い方についても、そのほか全て目に見えるものを総称して、ここでは風景と呼ぶ)を懐かしむものであり、現実に目を背けていると言い得る。その行動は反時代的であるが、その反発は強く、江戸の風景がもはやこの世のものではなくなったことへの憎しみ、哀しみを全て含んだ反時代性である。哀しみは、ここでは、嘆きにも換言することができるだろう。江戸の不在の衝撃はそれほどまでに大きい。

かたや、現実の東京を散策してもはや存在しないと思っていた江戸の残り香を発見する荷風の姿からは、必ずしも江戸の不在について憎悪や強い哀切を感じさせるものではない。哀切は存在するものの、現実の東京にも尚残る、江戸の風景を愛でるために帯びる哀切さである。そこには嘆きは無いし、愛でることに哀切さを帯同することでむしろその哀しみを心地よく感じ入っているかのようだ。

 

以上のようなふたつの反時代性は、本書の中にいずれも存在し得る。冒頭における「わたくしは活動写真を一度も見に行ったことがない」という一節やラジオ嫌いの一節には前者の、お雪を通じて示されるのは後者の反時代性である。そしてより一層強く感じられるのは、後者の方である。荷風は現実に目を背けるしぐさを見せるけれども、それだけが彼の全てではなく、むしろ現実の東京の中から発見できる江戸を見ることで、懐旧の念に浸る。その思いの方がより強く、『ぼく東綺憚』には、懐旧と共に帯同される哀しみを、江戸戯作や漢文の知識を感じさせる、乾いた文章に写し出すことで心地よく思い起こしていた。

 

 

『ぼく東綺憚』は荷風のふたつの反時代性が描かれた小説である。先述のように、特に、現実の中に江戸を発見するという反時代性が強く描かれたものである。それには、物語の登場人物が反時代性のために犠牲になっても構わない。従って、物語の軸に置かれる大江匡とお雪との出会いと別れは恋愛であって恋愛ではないようなものなのだ。

 

大江とお雪は情交を続けるけれども、いつの間にか大江はお雪と会わなくなってしまう。彼らの恋愛は燃え上がることもなく、ただ情交としてその場に横たわるに過ぎない。そもそも彼らの関係を恋愛関係と称することが適切か判断し得ない。それほどまでにふたりは、反時代性のためにあっけなく関係を終了する。お雪は無情な大江を呪うことはしない。その幕切れは、激情に駆られるでもなく、無暗に哀情を誘うこともなく、淡々と生じてしまう。彼らはせっかく物語上で出会って別れるのに、そこには恋愛から生じる熱量は感じられない。彼らの出会いと別れは、『ぼく東綺憚』という虚構の中で、さらに、反時代的な懐旧と哀切とを表現するために、出会いと別れの虚構を演じさせられているかのようなのだ。しかも本書は、季節の変遷と共に物語を進行させていくのである。それほどまでに、彼らの関係は、人工的なのだ。

 

そしてそれを見つめているのは、作者である永井荷風そのひとだろう。その視点がグロテスクに映らずにおかれるのは、物語が終了したあとに書かれる作後贅言のせいだ。これが物語のみで終わったのであれば、『ぼく東綺憚』は、女に好かれる大江匡と、美しいお雪との恋愛を作者の都合の良いように描いたに過ぎないようにも読める。それを、作後贅言という、物語とは別な文章を書くことで、大江とお雪との関係を客観視する荷風の視線を読者に感じさせるのである。『ぼく東綺憚』は大江とお雪という主要人物が出てくる物語であるけれども、ふたりの恋愛などは反時代性の犠牲になるのだし、作後贅言が示すように反時代性における懐旧と哀切とを描くことだけが、この小説の狙いなのだから、それは功を奏したと見るべきなのだろう。