2017冬ドラマの感想
1.『A LIFE』
ストーリーは置いといて、豪華キャストが良かった。
浅野忠信が主人公のライバル役で出演し、狂気と純粋さを併せ持つ難しい役柄を演じていて、秀逸。長い前髪がをぶるんぶるんと乱れ咲き、いろいろと暴れます。読者の皆さんは知らないでしょうが、『Forcus』っていう古い映画でほぼ初めて彼を観て以来、浅野には狂った役が一番似合うと思っています。『A LIFE』では内に秘める妻への純粋な愛と、信じ切れない不信との間で、葛藤する複雑な役でしたが、見事に演じ切っています。
ドラマが良い内容なら浅野の代表作の一つになったかもしれませんが・・・
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医師というよりも経営者として暴れまわる壮大役の浅野忠信
あとは井川医師を演じた松山ケンイチが良いです。ぼんぼんの医師で、若干猪突猛進型なんですが、医師としての矜持があるので、主人公沖田医師に影響されてどんどん良い医師になっていきます。
ちょっと役の設定がお粗末だったので今ひとつ注目され難いのですが、木村文乃もまあまあでした。医師にタメ口をきく看護師ってどうなの。研修医相手じゃないんだからと、最初はうざかったけど、やり手の看護師っぽくて良かったです。あと、かわいい笑
主人公役を演じたキムタクは、今ひとつ良くなかった。筆者は、巷で言われているような「何を演じてもキムタク」という評価には反対なんだけど、演技力が物足りないとは思います。特に今回は、感情を抑えた演技に徹するのは良いんだけど、個性が全然出ていないから、主人公が浅野に見えちゃう。職人医師という設定はこなしていたけど・・・
そうそう、キムタクは、このドラマで顔がげっそりしていたんで、SMAP騒動のせいか、だいぶお痩せになられた?とビックリしたが、腕を見るとビシッと太かったんで、単に筋トレをしただけの様子。手術シーンが多いから腕が細かったりぽよぽよだと、みっともないしな。
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で、ストーリーなんですが、最初は面白いかなって思ったんだけど、「壮大の妻・深冬の脳腫瘍手術を治せるかどうか」という一本道のストーリーだけで最後まで持たせようとするのだけど、飽きちゃうよ。どうせ沖田先生が治すのだろうと分かるから、つまらない。【壮大の狂気】だけが楽しかった。そんなドラマでしたね。
院長から解任された時は「おおっ!」と今後の展開に期待したけど、最後は皆良い人で終わっちゃうんだもん。ふざけんじゃないよ。
最終話がご都合主義で、強引なハッピーエンドの展開で、特にひどかった。
ラストはわざわざ感動的なハッピーエンドにする必要はなかったでしょう。副院長の職務を院長に解任された壮大が、復職して尚且つ院長にまでなって、壮大を院長に売った羽村部長が副院長に昇進して壮大と共同経営するのですが、それらをセリフだけで説明しちゃっていました。院長にしても、壮大にしても、そして羽村部長にしても、な~んでこんなに簡単に心変わりするのか意味不明。説得力なし。
羽村部長も心底のワルになりきれておらず、退屈です。普通の感覚なら、壮大を院長に売るような裏切り者を、副院長に昇進させるなんてありえませんね。
だって、また寝首をかかれるかもしれないじゃないですか!そんな男と共同経営なんてできるわけないだろっ。
2.『東京タラレバ娘』
良いドラマかと思ってみていたけれど、ダメだった。今回見ていたドラマで一番つまらない。
何しろ、倫子の心理に一貫性がないし、傍から見ると情緒不安定のように描かれているんです。速水もこみちを好きになってみたり(正確には好きになろうとしていた)、早坂を好きになってみたり、そうかと思えば早々にKEYを好きになってみたり。なんなの?笑
こんな一貫性のない女性は見たことがないのだが。リアリティを追求しないなら構わんけど。
香も涼ちゃんのところに行っちゃうしなぁ・・・これが30代女性のリアルなの。俺の周りの女性たちはこんな現実感のない女性はいませんぜ。もうちょっとハッキリとした意思を示せる女性はいないものですかね。
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このドラマで評価できるのは、友情を大切にしているところだったんですよ。「男なんかくだらねーあたしらは女子会が大事なんだ」って言ってくれた方がまだ面白かったなぁ。もしそういう展開だったら名作と言っても良いな。女子会に始まり、女子会に終わるっていうね。別に恋愛が全てじゃないだろうに。
中盤で、倫子がKEYに、飲み屋で女子会やる楽しさをアピールしてるんですよ。俺もこれは凄く良いシーンだと思いました。だって、男だったら友達とワイワイやるなんてダサいって、かっこつけて「一人」になっちゃうでしょ笑
でも、このかっこつけが男のダメなところなんだよ。弱みを他人に見せられない。
このドラマの女性は、30過ぎてもまだ「女子」とか言ってて馬鹿だなと思うけど、でも女子会できるほど濃密な関係を、30過ぎても築けるのは良いと思う。あの女子会がなかったら東京で生きていけなかったって、倫子は言っていたが、そうだろうなあと思います。
「緊急事態発生、飲み屋に出動」みたいなSNSのメッセージがよく出ていたんですが、こんな良い関係、なかなかないですよ。男より友情を取るっていうのも良いと思うんだけどね。女子会からはじまり、女子会に終わる方が良いなぁ。でもそういう視点では描かれない。
原作を改悪したという意見もネットには転がってますんで、原作は面白いのかもしれません。
3.『相棒15』
及第点だと思います。
最終話は何の事件も起こらないし、一本調子の仲間由紀恵にイライラしましたけど、全般的に良い話が多かった。
視聴率があまり高くないとか言われてるけど、カイトくんのダークナイト事件が尾を引いているんじゃないのかな。それと、『14』がつまらなかったからでは?
『15』は全体的に「へぇ面白い」って思える内容が多かったです。筆者は、個人的にはミッチーが出ていたシリーズと同じくらい『15』は好き。
筆者の中での評価は・・・
ミッチーシリーズ > 15 > カイトくんシリーズ > 亀山薫シリーズ > 14 >>>>>>>>>>>>>>>>>ダークナイト笑
です!!!
4.『カルテット』
なんか疲れて来たんでそろそろ終わりますが、実は一番良かったのがこの『カルテット』。『最高の離婚』と同じ脚本家だそうで。あのドラマも割と好きだったなあ。そういやあれも4人組の話だし、これもそうだな。
最初はミステリーじゃなかったのに、だんだんミステリーになっていく。でも基本は軽井沢における4人組のナンセンスな言葉のやり取りってところが良かったな。
あと、筆者はこのドラマで満島ひかりのファンになりましたので・・・
巷では高橋一生フィーバーの一端かもしれませんが・・・
ああ、あと顔が好みじゃないので松たか子は好きじゃなかったけど、このドラマでは良いパフォーマンスを見せていました。このドラマでの演技は、一番良かったでしょう。松は器用で、外れがないかもしれない。
松田龍平は記憶に残らなかったな。
【書評】 キャラクターズ 著者:東浩紀、桜坂洋 評価☆★★★★ (日本)
批評家・東浩紀とラノベ作家・桜坂洋による共作。小説の体裁を取っているけれど、中身は批評。日本の身辺雑記みたいな私小説が大嫌いな筆者にとって、私小説という小説の体裁と純文学とが等式といえるほど密接な関係になってしまっている現状、純文学なんてどうでも良い存在になっていた。だから筆者は、日本の文学を読みたい時は、既に鬼籍に入った作家の作品を読む。純文学の新作を読むくらいなら、過去の作家の作品の方がよほど読むに耐えるからだ。繰り返し読んでも飽きないと言い得る。
また、大して出来が良いとは思えないが、村上春樹や阿部和重の作品は、私小説ばかりの純文学の世界の中では、私小説に陥っていない(私小説的たろうとしていない)分、マトモな方だろう。
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暴力と死とセックスを描く私小説ばかりの純文学に反旗を翻すため、東と桜坂は、批評のキャラクター化を試みた。そこで東浩紀がラカンの想像界(I)、現実界(R)、象徴界(S)に分けられるというのだが、あまり意味があるとは思えなかった。
小説の途中までは、「東浩紀」という小説中の人物を、東自身が書き、今度は桜坂が書くという、パートに分かれた書き方をしていておもしろかったのだが、東浩紀I・R・Sとかいうふうになるともう分からない。そんなことをすることに戦略性があるとは思えないし、ギャグとしてはもちろん退屈だし、何をしたかったのか不明だった。
阿部和重だの香山リカだの実在の人物が多数出て来るし、東浩紀の評論も具体名で出て来るが、それが何だろう。読んでいてバカバカしくなる。
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暴力と死とセックスを描く私小説ばかりの純文学になんか、別に反旗を翻す必要なんてない。村上春樹も阿部和重もストーリー性の高い小説を書き、純文学として認められている。それで良いじゃないかと思う。つまりストーリー性が高くて、キャラクターがいる小説を純文学で書いて、文壇に認められれば良いだろう。わざわざこんなつまらない、退屈な試みを敢えてしなくても良い。
【書評】 私たちはどこまで資本主義に従うのか 市場経済には「第3の柱」が必要である 著者:ヘンリー・ミンツバーグ 評価☆☆★★★ (カナダ)
私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である
- 作者: ヘンリー・ミンツバーグ,池村千秋
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2015/12/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ヘンリー・ミンツバーグによる脱資本主義論。資本主義を全否定するのではなく、資本主義の再構築を目指した書である。ただし、問題提起は鋭いが、批判の根拠が薄弱なのと、問題の解決策の合理的な説明に今ひとつ納得感の得られない陳腐な内容になってしまっている。経済学への全否定とも言える批判などは、ちょっと目も当てられない。多分現代の多くの経済学には問題があると思うが、ミンツバーグの批判だけでは合点がゆかなかった。門外漢の彼は、もう専門外の本は書かない方が良いと思う。
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彼は社会を政府セクター(政府)・民間セクター(企業)・多元セクター(社会)の三つの領域に分ける。そして現代は、民間セクターの力があまりに強くなりすぎ、利己主義が幅を効かせるようになってしまった。そのために、社会には大きな経済格差が生じた。それを止めるために、本書の副題である「第3の柱」、すなわち多元セクターと、政府セクター、民間セクターの3つがバランスを保つことが重要なのだ。これが本書の解決策。
何となく、正しいような気がするのだが、なぜ正しいか本書では詳らかではない。ミンツバーグも、思いつきで言っているような気さえする。しつこいようだが、その感覚は正しいように思うのだが、やはり根拠薄弱でよく分からない。
3つのバランスという価値観は、著者が自著『マネジャーの実像』でも述べていた。もっとも、こちらはマネジャーがマネジメントに不可欠なバランスのことを言っている(情報の次元、人間の次元、行動の次元)。本書では経済について語っているから内容は異なるが、根本的な考え方は似通っている。
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経営学者ミンツバーグは、経済学に批判的である。
社会科学の中で唯一、経済学だけがノーベル賞に表彰部門があること、そもそも、ノーベル経済学賞なるものは存在しないことなどの瑣末でジェラシーさえ感じさせる批判の他に、「全ての人間が競争し、物欲を追求し、消費するものと決めつける経済学」の【教義】への批判である。前者はどうでも良いが、後者は留保を付ければ聞き耳を立てても良い。全ての経済学がミンツバーグが言うような教義を信奉している訳ではないので、「現代の多くの」とでも付け加えれば良かった。これでは経済学に対する全否定ではないか。
確かに、ミンツバーグが言うように、経済学は市場経済を推進し過ぎた嫌いはあると思う(本書を読む限りはあくまで推測だが・・・)。米国において人口の1%の富裕層への富の偏在がエスカレートした事実は確かに極端な不平等を生んでいる。資本主義が人間に奉仕するための原理であるはずが、いつの間にか人間が資本主義に奉仕する羽目になっているという指摘は鋭い。でもそれが経済学のせいなのか?は、今ひとつピンとこない。推測する限りは、経済学のせいのような気がするが、気がするだけの文章では、ブログやツィッターと変わらない。
ということで、主流派の経済学が民間セクターを強固な存在にしてしまったという論理は、何となくは理解できるのだが、誰のどの経済理論でそうなったのかが明確ではないので、安易に首肯できないのも、事実である。何だってミンツバーグはこのような、粗雑な論理で現代の資本主義や経済学を批判するのだろうか。
以下のような文章をミンツバーグが書いたと思うと落胆させられる。「すべての人とすべての組織」が個人主義の弊害を推進する訳ではないし、最大限の利益を獲得しようとする訳ではない。当然だが、もっと、”経済学的に”非合理的な人間もいるはずなのに、彼は、すべてと言ってしまっている。「1か0か」なんていう思考は論文としては最悪だろう。
自由の尊重という大義名分の下で、私たちは個人主義の弊害に苦しめられている。すべての人とすべての組織が最大限の利益を手にしようと血道を上げるあまり、社会全体のニーズがないがしろにされ、地球が危険にさらされているのだ。
ドストエフスキー『悪霊』1巻・覚書
19世紀のロシアの大家ドストエフスキーの『悪霊』の1巻を読み終わった。通常なら3巻まで読了してから書評を書くべきだが、何しろ1巻だけで500ページもあるので、メモ程度に残したくなった。同じく大作を書く村上春樹だったら、こんなことは思わないのだが、俺の青春時代の師匠(?)たるドスト氏の代表作(の1つ)なので、覚書を書いておきたい。
■一人のセリフが非常に長く、思想もそれぞれに異なる人物が多数出て来る。バフチンのポリフォニー論が示すように、人物の思想が否定されずに尊重されているので、多面的な視点から思想が語られ、また物語の様相が複雑に語られていくプロセスを見ることができる。主人公であるはずのニコライ・スタヴローギンの登場シーンが少ないことも、その多面的視点・複雑なストーリーテリングのプロセスを、物語っているだろう。
■1巻では、主人公ニコライ・スタヴローギンの出番は多くないが、インパクトがものすごい。決闘で人を殺したり、人の耳をかみちぎろうとしたり、やりたい放題である。殴られても平然とした立ち居振る舞いをして、恐怖感ゼロという設定なので、美男子で背も高いものの、異様に不気味なのだ。女たちはニコライに騙されるが、敢えて騙されるようなところも感じさせられる。
徹底したニヒリストとして語られるニコライの描写は、血が通っていない機械人間を見るようで恐ろしく、こんな人間がカリスマ性を持ってしまうこの小説『悪霊』は、これからどうなるのか読みたいような、読みたくないような、そんな曖昧な欲望を抱いてしまう。
■ニコライの母ワルワーラ夫人は、1巻での出番は多い。ヒステリックでかなり強圧的な人物。資産家で、ヴェルホヴェンスキーという知識人を屋敷に住まわせている。この人物のヒステリーが面白い。
■ステパン・ヴェルホヴェンスキーは、ピョートルという息子がいる元大学教授の知識人。この人物もワルワーラ夫人の手玉に乗せられているようで、知識人としての矜持も併せ持つ個性的な男だ。
翻訳は亀山郁夫。彼が解説で述べているように、第一部は「世界がいま崩壊しはじめている、という漠たる予感」によって支配された物語である。その中心の軸にいるのはニコライなのだが、上に挙げた人物のほか、リビャートキン大尉やシャートフ、キリーロフなどの言動によって、世界は混沌としていく。
亀山によれば本作はドストエフスキーの『地獄篇』だという。
自殺者3人、殺される者6人、病死者2人などおびただしい数の人間の死が描かれる。しかも第一部を読み終えるだけでは、まだ悲劇の始まりしか描かれていないというからグロテスク極まりない作品と言えるだろうが、グロテスクさは本作の一側面でしかなかろうが。
【映画レビュー】 セックス・アンド・ザ・シティ 評価☆☆☆☆★ (2008年 米国)
40代女性4人の恋愛観を赤裸々に描いた『セックス・アンド・ザ・シティ』の映画化。自ら観たいとは思わなかったが、妻がドラマ版・映画版共にファンなので、付き合いで鑑賞。主人公はキャリー(サラ・ジェシカ・パーカー)だが、4名それぞれにストーリーがある群像劇となっている。恋愛と共に友情の結び付きも強く描いているのが特徴だ。2時間20分の上映時間はちょっと長い気もしたが、妻が観たいというのに「長いよ!」という訳にもいかず、観ることに。
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ストーリーは、一見おしゃべりやファッションといった、表層的な描写で埋めているように見えて、その核心は、女性の心理描写を、時の移ろいと共に丁寧に描いたものだ。女性同士のおしゃべりのシーンが結構あるけれど、タランテイーノ映画のような無意味な会話ではなく、女性4人の結婚、恋愛、友情、ビジネスに関する意味のある会話が多い。
伏線をいくつか張っていて、最後に至るまでに回収していくのだが、その回収の仕方がおしゃれだ。例えば、結婚したいと思っていた男ビッグに結婚式をドタキャンされたキャリーは、シャーロットの養子リリーに、「シンデレラ」を読んでやる。そこで、「これはおとぎ話よ。現実はそんなに上手くいかない」という。しかし、映画のラスト、ビッグと結婚前に住んでいたマンションに忘れた美しいブルーのヒールを取りに行った彼女を待っていたのはビッグで、二人は晴れて結ばれるのだが、ヒールが「シンデレラ」のガラスの靴のようで、キャリー自身がシンデレラになっていてロマンティック。
もうひとつは、キャリーは、PCが苦手で、メールの整理もアシスタントにやってもらっていたのだが、ビッグからのメールは全て読まずに、パスワードのかかったフォルダに入れていた。ビッグは手紙が苦手で、確かに彼からの謝罪のメールもそっけないものだったので、キャリーは、以降、ビッグからのメールはフォルダに入れてしまって読まないのだった。
しかし、映画のラストで、偶然、ビッグからのメッセージを受け取ることになったキャリーは、ビッグがキャリーに手紙を何通も送っているのに返事がないと言ったことを知る。手紙が苦手だと言っていたビッグが、書いた手紙というのはメールだった。ようやく、メールのいくつかを見てみると、自らを去ったキャリーに対して、別れる前にキャリーが読んでいた「偉人たちのラブレター」という本(という題名だったように記憶)の中から、ベートーヴェンやヴォルテールなどのラブレターを引用して、思いを伝えているのであった。手紙が苦手だというビッグが、キャリーが気に入って読んでいた本から引用して思いを伝えるセンスはなかなかしゃれている。
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もうひとつ俺が気に入ったのが、4人の恋愛観の描き方だ。
4人とも恋愛観が一致している訳ではない。シャーロットは最も家庭的。40過ぎで子宝に恵まれないため、中国からリリーという女児を養女にしている。中盤で妊娠し、無事に出産する。夫との関係も良好。だが別にシャーロットだけが勝ち組って訳でもない。それぞれのキャラクターの恋愛観を尊重する。そこがこの映画の良い所だ。
ミランダも家庭的な方だが、セックスを求める旦那より仕事を取っちゃうので、浮気されてしまう。ミランダのことが大好きな旦那が「セックスの体位を変えたい」と言ったら、彼女から「早く済ませない?」と言われるんだが、もしこんなこと言われたら、悲しくて、確かに浮気したくもなるよなあ・・・(俺はこんなことを言われたことはありませんが)
ミランダは何ヶ月も夫を許せずにいて、謝罪さえ受け付けないが、自分も歩み寄って、NYの橋の上で再び会えたらやり直そうと言って、望みを果たす。
キャリーは格別結婚したかった訳でもないが、10年付き合った超イケメンおじさんのビッグ氏と軽いノリで結婚しようとする。イケメンだけに2度の離婚歴があるビッグは、また失敗しないかと不安になり、電話に出て不安を聞いてくれないキャリーを裏切って結婚式をドタキャンしちゃうのだ。このバカ男!って女性は思うかもしれないが、責任感だけで結婚する訳にはいかんのですよ(笑)
傷心のメキシコ旅行に女友達4人で出掛けたり、アシスタントやミランダたちに話を聞いてもらったりと、キャリーが徐々に心を取り戻していく過程を丹念に描いていく。結果的に、キャリーは、自分は自分のために結婚したかったんだということに自覚して、ビッグとやり直すことを決め始めるのだけれど、この自覚に至るまで心理を掘り下げて描写していて感心した。
あと、メキシコ旅行でキャリーはノーメイク姿を披露するんだが、普段のキラキラメイクと違って、40代女性らしいありのままの顔で、ある意味凄まじいけれど、リアリティがあるとも思える。メキシコ旅行のシーンでは、シャーロットのウンコ漏らしシーンなどもあり、結構好きだ。
サマンサは独身主義の女性なのだが、彼女だけは男と別れて一人になる。一人の男に縛られる生き方ができないので、ようやく解放されて自由になる。これはこれで良いと思う。
この映画は、女性4人の群像劇なのに、女性の視点に偏っていないところが秀逸だ。女性4人が集まって、深い友情で結びつけられると「男なんか分かってくれない」ってなりそうで、確かに序盤はそういう雰囲気を醸し出す。が、キャリーやミランダの例に見られる通り、自分にも悪いところがあったっていう視点がある。きちんと客観的な視点があるのだ。
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ということで、ストーリーは素晴らしかったと思うけど、4人に魅力を感じにくいのが難点。4人の物語なのに残念である。4人が良い女たちだったら☆5つでも良かったのだがねぇ。
んまぁ、女性向けの映画ということで、格別男性観客の視点を意識していないのだろうが、それにしても今一つじゃないの?最近俺が大好きなエマ・ワトソンのような可憐な美女は一人も出てきません。・・・というと女性ファンからは苦笑されそうだが、男の観方は、そんなものである。
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キャリーは背が高くないが、4人の中で最も洗練されている。40歳にしては声もかわいく、美人ではないのにほうっておけない感じは、タレントの梨花みたいな印象なのかな・・・全然タイプじゃないけど、4人の中で主人公然としているのは、納得感はある。篠原涼子みたいな顔だったら良いんだけど。
とはいえ、映画の中でド派手なファッションを披露し続けるキャリーだが、「衣服に着せられている感じ」がしないのが凄い。自分のものにしちゃっている。こういうセンスが女性受けする部分でもあるのかな。普通の人があの人の服装を真似したらチンドン屋みたいになっちゃうから・・・
シャーロットは一番俺の好みの顔をしているが、ビッグに対してキレた時の般若のような顔だけが怖かった。
ミランダはティルダ・スウィントンに似た知性派オバサン。美人ではない。ブサイクな旦那に浮気されちゃう。体はきれいで、映画のラスト、おっぱい丸出しで旦那とセックスしちゃうのが凄い。
サマンサは独身主義者で、4人中最も経済的には成功している。でも映画では49歳という設定で、隣人の男に欲情するオバサンだ。49歳にしては若いが、色恋言ってる年でもねぇよなという感じ。ビジネスで成功している割には色魔みたいでよく分からない。寿司を体に盛り付けて女体盛りを自らやって、彼氏を待つんだけど、馬鹿丸出しだろう。