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【映画レビュー】 ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜 評価☆☆☆★★ (2009年 日本)

 

ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ [DVD]

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昭和初期の作家・太宰治は何度も自殺未遂を繰り返し、遂に玉川上水で愛人と心中して、死んだ。そのせいで常に死にとりつかれていたように思うが、実際に死にたかったのか、生きたかったのかは分からない。何度も自殺未遂を繰り返しては失敗していた彼は、生と死の間で右往左往していたようにも見える。本当に死にたいなら、自殺に何度も「失敗」するはずがないだろうと思うからだ。彼が書いた小説でも自殺しようとする主人公が出てくる。現実でも創作でも彼は死を書いたが、生と死の間で右往左往しているうちに、本当に玉川上水で死んでしまったような気もする。

 

映画『ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ〜』で、主人公の大谷譲治は、愛人と心中未遂を起こすが、水に体が濡れたなどというつまらない理由で生還している。大谷は、常に死にたいと言っていながら、結局生きて返る。彼は、本気で死のうとはしていない。生きていてもつまらないと思い、既婚者でありながら数多くの女性と性関係を持つ大谷は、死を目指すような言葉をたくさん吐く。しかし、簡単には死ねなかったし、死のうとはしていないのだ。

 

そして、大谷と心中未遂を起こした愛人も、生還した後にニコニコ笑って大谷の妻とすれ違うが、彼女も本気で死のうとはしていない。言葉では死を目指すのだが。

 

大谷の妻は、散々夫に不倫され、最後は心中未遂をされる妻である。堕ちるところまで堕ちている妻だが、物語の最後で、彼女が発する台詞は、大谷と妻の生を肯定する。いわく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」と言う。だが、この台詞が物語の最後で語られることによって、筆者には、大谷夫婦以外の人物についても、生を肯定するための台詞となっているように見えた。つまり映画の人物全てについて、妻は生を肯定しているのだ。

 

 

主要人物について見ていくと、思いの他、生の倦怠感や不安に捕らわれていることが分かるだろう。

 

・大谷の妻に言い寄る若い工員の片思いは成就されることなく終わってしまう。

・もう一人、大谷の妻に言い寄る弁護士がいるが、彼は大谷の心中事件を解決してやる代わりに、大谷の妻を抱く。職業は弁護士で、大谷の妻を手に入れたことで欲望は成就しているように見えるが、彼の人生は順風という程でもない。銀行の頭取の娘との見合いをしたというエピソードがあるけれど、その娘は散々アメリカ軍と遊び歩いた娘である。そんな娘をもらわなくてはならない惨めさがある。

・大谷の妻が勤める居酒屋の経営者夫婦にしても、闇酒を扱ったり、おかみの方は大谷と性関係を持ったことがあったりと、商売の方は上り調子だが、日陰者の夫婦であることに変わりはない。

・大谷の愛人たちもどこかはかなげで、いつ死んでもおかしくなさそうな疲労感を表情に持っている。

 

第二次大戦後の日本を舞台にしているということもあろうが、彼らの現状をつぶさに見ていくと倦怠感や不安ばかりのように見える。その象徴が、大谷とその妻、ということになるだけだ。

 

そういった疲れ切った人物たちの言動を見ると、彼らの人生は終わりなのではないかと思う。しかし、大谷の妻が最後に夫に投げ掛ける「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」という台詞によって、この映画の疲労困憊の人物たちの生は肯定される。やや坂口安吾的とも言える生の肯定は、大谷の妻から発せられ、夫に伝播し、そして映画の全ての疲労しきった人物たちへと浸透していくようだ。原作では、大谷の妻は同じ台詞を発するけれども、そこまで生き生きとしてはいない。

 

私は格別うれしくもなく、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえすればいいのよ」と言いました。

 

言わば映画は原作の最後を、原作よりも「生の肯定」をするために一抹の幸福感をもって描いたのだと思う。原作では、妻は「格別うれしくもなく」この台詞を語っていて、台詞とは裏腹、大きく、生を肯定しているとは言えなかった。しかし映画ではもう少し前向きに、堕ちるところまで堕ちた人間たちに対して、それでも生きてさえすればそれでいいと言えていた。

 

 

大谷譲治を浅野忠信が演じているが、太宰治はこんな人だったのではないかと思わせるエロティシズムと知性を感じさせた。知性といっても、太宰の場合、三島由紀夫のような強固でやや近寄りがたい知性ではなく、もっと大衆的である。この映画の場末の人間が「先生」と言い得るような、大衆との接点がある知性だ。だから太宰の知性は、非常に分かり易い。

 

志賀直哉太宰治の代表作の一つ『斜陽』のワンシーンで、貴族の母が庭で小便をする描写に辟易したと言ったのを記憶しているが、文学界の重鎮からすれば、太宰は大衆的過ぎて、劣って見えたことだろう。しかしそれでも大衆から見れば十分に太宰は知的であった。太宰の知性は大衆の中で芽生える知性なのである。

 

その太宰の知性、そしてエロティシズムを体現していた浅野は、男から見ても官能的だ。特に、太宰治の写真としてよく見る、あの、頬杖をついている姿を彼は何度も映画の中で示すのだが、下向きがちで自信がない頬杖は妙に色っぽい。浅野は破滅型の人物を演じるとその人物が乗り移ったかのような、見事なパフォーマンスを見せるが、今作のように、静かな破滅型の人物を演じることは多くないので、内に秘める狂気を顔や言葉、仕草で存分に示してくれて、彼を見ているだけで十分に満足できた。

 

 

ただ、この映画をあまり高く評価できないのは、世界観の構築が安っぽく、NHK連続テレビ小説を見ているかのようなセット感丸出しの舞台設定に嫌気がさしたからだ。

それと、『ヴィヨンの妻』の台詞をそのまま俳優に言わせているので、リアリティが薄れている。学芸会の台詞回しのような堅苦しさだ。もっと原作から自由になって、台詞を言わせても良かったと思うのだが。

【書評】 コンサル一年目が学ぶこと 著者:大石哲之 評価☆☆☆★★ (日本)

 

コンサル一年目が学ぶこと

コンサル一年目が学ぶこと

 

 

『コンサル一年目が学ぶこと』という本書のタイトルを見て、コンサルティング業界で働いていない人は、自分には関係がないと思って本書を書棚に戻すかもしれない。しかし「はじめに」で著者が述べている通り、本書は、コンサル業界に限定して書かれた本ではない。そうではなく、業界もキャリアも問わず、社会人一年目でもベテランでも共通して、ビジネスで使い続けることができる、「思考と技術」のエッセンスが盛り込まれた本だ。

ではなぜ、コンサル一年目というタイトルにしたかといえば、(著者自身もアクセンチュア出身であるが)多方面で活躍する外資系コンサル出身者の、その活躍の源泉がこの「思考と技術」であって、これをコンサルティング業界に限定することなく、広く一般に、業界もキャリアも問わず使える内容だからそういうタイトルにしただけのこと。

 

 

「思考と技術」のエッセンスが書かれているが、著者である大石晢之の実体験を踏まえているのと、実践を目指して書かれているため、仕事で使いたくなる内容がふんだんに盛り込まれていた。

 

特に筆者が良いと思ったのは、以下の項目だ。

・結論から話す

・コンサル流検索式読書術

・スピードと質を両立する

 

 

「結論から話す」というのはビジネスの現場では当たり前のことと思われるかもしれないが、案外にできない。大石もその場を取り繕おうとして言葉を紡ぐが、上司に「わたしの質問に対して、取り繕うように何か言わないでいいですから」と指摘されたというエピソードを紹介している。

 

こんな指摘をされる理由は、「取り繕い」は、ほとんど何も言っていないことと同義だからである。結論から話すことに苦手感を持つのは、自身が結論を持っていないこともあるだろう。結論を持つためにはしっかりと考えなければならない。そのためには取り繕うために何か言うより、相手に時間をもらってでも考え、結論を出した方が良い。

 

著者はこう言う。

 

言葉に詰まる質問を浴びたときは、「1、2分考える時間をください」と言ってから、黙って考え、頭の中を整理し、結論から話す

 

たとえ1、2分考える時間をもらったとしても、思いつきの取り繕いの言葉を発するよりは、考えてから答えを出した方がお互いに、生産的な対話を行うことができる。

 

 

「コンサル流検索式読書術」は、ビジネスにおける読書術である。特に時間が限られている中で、新しい仕事をこなさねばならない時に有用だ。

 

まずは、読書の目的を立てる。

そして、次に、「検索」という言葉に現れているように、ウェブを検索するように本の該当箇所だけを拾っていき、重要な部分だけを読む。そしてウェブでの検索でも、多くの関連記事を参照するように、読書においても多くの関連書籍を読むのである。ただし、深読みはしない。広く、浅く読むのである。

あくまで多くの本を読んで、知識を蓄え仕事に役立てることが目的の読み方なので、目的は仕事の成果にある。

 

本書では、年間800冊の本を読んだコンサルタントの秋山ゆかりのことが事例として挙げられているが、一般的なビジネスの現場でそこまで大量の本を読むようなケースはないだろう。

だが、限られた時間の中で、新しい仕事を捌くために、読書をする必要がある場合に、この読書術は役に立つ。延々と時間があるなら別だが、普通は時間がない。刻々と納期は迫っている。だが、新しい仕事を覚えるためには知識が足らなすぎる。どうしたら良いか。本を読むべきである。そんな時、この読書術は役に立つ。限られた時間の中で効率的な仕事をするためには、この検索式読書術は使える。

ネーミングも良いではないか。ウェブの検察のように、読む。そうすれば、読書も、苦ではないだろう。ウェブの検索を「辛いなあ」と思いながら読む人も少ない。

「へぇ、世の中にはこんな意見があるんだ。発見できて楽しい」と思いながら読むはずだ。そんな風に、読書もできたら、仕事はもっと効率的になるはずである。

 

 

最後に「スピードと質を両立する」。

 

仕事をしている時に、時間がない中で、上司から解決策を考えろとか言われるケースは多々ある。そういう時、最初から完璧を求めない、というのがここで言っていることである。

完璧な解決策を立てることに躍起になるのではなく、多少レベルの低い解決策でも構わないので、時間をかけずに、おおまかな策を出してみる。そこでダメなら仮説検証を多角的に重ねて、迅速に出していく。

 

時間をかけて完璧なものを目指すよりも、多少汚くても構わないので、とにかく早く作る。

 

出された解決策が誤ったものであっても、時間をかけないで出した策なので、軌道修正ができる訳である。じっくり考えに考え抜いて、納期間近になって出された解決策が誤っていたら万事休すである。そうではなく、たとえ6割の出来でも良いので解決策を出す。そして軌道修正をかける。要は、最終的な成果物が10割に近い内容であれば良いのである。最初から100点満点を狙うと、時間だけが無駄になくなることになってしまう。

 

著者はクイックアンドダーティという言葉を使って、「スピードと質を両立する」技術を紹介している。汚くても良いから、さっさと成果物を出せ、ということである。そうすれば、いくらでも修正がきく。最後に良いものができれば良いのだから。

 

 

なかなかの良書なのだが、やはりどうしてもエッセンスであることで、本書だけではビジネスに即座に使えるとは言い切れないのが残念なところだ。

ロジックツリーだの仮説思考だのは、本書にも紹介されているが、これだけで実践するための道具とするのは困難だ。やはり類書を読む必要がある。『仮説思考』なんていう、そのものズバリのビジネス書もあるが、何にせよ詳しくはそちらに…とならざるを得ない向きはある。

このような小さい本にそこまで細かいものを求めるべきではないし、本書は親切にも、類書の紹介もしてくれているので、本書の志向するところも網羅的な紹介ではないことは、意識されている。それこそ、広く浅くではあるが、コンサル一年目が学ぶことの手触りを著者の実体験と共に紹介してくれているのは、エッセンスとしては悪くはない。要は、エッセンスから応用して、手を広げていけば良いからだ。

それと、どうしても気になるのが、数字に対する素朴な信頼である。数字を嘘をつかないというが、数字は嘘をつくためのもっともらしい手段として、飾ることも可能であろうが。

【映画レビュー】 ルーム 評価☆☆★★★ (2015年 カナダ、アイルランド)

 

ルーム [DVD]

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トロント国際映画祭観客賞(ノン・コンペの映画祭なので観客賞は、つまり最高賞)受賞、ブリー・ラーソンがアカデミー主演女優賞受賞。

面白い面白いと人が言う作品を俺が感心することはなかなかないので、『ルーム』も合わないだろうと思って鑑賞したら、案の定合わなかった。物語の導入は悪くないのに、中盤で子どもがあっさり脱出してから落胆し、最後まで退屈なままで終わってしまう。

 

 

ルームという題名の通り、部屋が舞台となる。高校生の時に男に誘拐された女ジョイは、男に強姦され、望みもしない男児を出産させられる。その子がジャックだ。

 

ジョイは、部屋の中でジャックと共に7年も過ごす羽目になる。ジャックは既に5歳となっていた。

 

部屋は、暗証番号によって鍵が掛けられ、中から開けることは出来ない。暗証番号を見ようとすると、男に「見るんじゃない!」と拒まれる。だからどうやっても外に出ることが出来ない。この部屋のことしか知らないジャックは、部屋の外に「外」があるなんていうことを知らない。だから、テレビの中の世界を外だと認識することが出来ないでいるし、唯一外を見ることが出来る天窓も、窓の外とは考えられない。そういった、部屋の中のことしか知らないジャック、外から来たジョイとの「外」を巡る対話は面白い。

 

 

「外」を巡る対話、部屋の中にしかいることが出来ない母と子の描写が連綿と続く中で、観る者の関心は、どうやって二人は外に出ることが出来るのか?というものだ。観る者は、いずれ、二人はずっと部屋の中にいるのではなく外に行ける可能性を想定する。その場合、どのようにして出られるのか?ということに、関心を抱く。

 

しかしその手法が拍子抜けするほどあっさりしていて、二人のことがどうでも良くなってきそうになる。ジョイはジャックに、死んだふりをするように指示する。前日からジャックに、高熱が出ていたという演技をさせていたジョイは、翌日ジャックが死んだことにしようとするのだ。しかしジャックはまだ5歳。死ぬ演技なんか出来っこないし、心臓の鼓動や息遣いを、犯人の男に確かめられたら一巻の終わりである。

 

じゃあどうするのかと思ったら、ジョイはジャックをじゅうたんにぐるぐる巻きにするのだ。じゅうたんにぐるぐる巻きにしておけば、死んでいるかどうかわからないとジョイは言う。「そんなのすぐにバレるだろう」、「バレた後の展開が楽しみだ」と思って観ていると、「バレる」ことなくジャックは部屋の外へと脱出出来てしまう。何しろ男は、ジャックの死体を確かめないからだ。こんな展開では、嘆息と共に大いに落胆せざるを得ない。部屋の中に何年も閉じ込められていたという、オリジナリティの高い設定を台無しにするような稚拙さだ。絶対に暗証番号を見せようとしない犯人が、死体を確認しないというのか?

 

その後、ジャックの証言によってあっという間にジョイが囚われている部屋が特定されるというおまけ付き。ジャックは5歳の子どもである。こんな小さな子が言っている言葉は、ヒントにはなっても真の解まではたどり着けない。つまり部屋の特定などやすやすと出来るとは思えないのだ。まるでこの映画の警察は、人の話を聞いただけで真相にたどり着ける、オーギュスト・デュパンにでもなったかのようだ(『モルグ街の殺人』)。

 

 

この『ルーム』の言わんとしているところは、監禁から脱出されるまでを描いているのではなく、監禁から解放された後の物語である。ゆえに中盤で解放されるのだが、解放されるシーンがスリリングでないことは上記で散々書いた。

 

その後の世界については、望まない妊娠で生まれた子ジャックと、時が止まってしまった7年間を取り戻そうとするジョイとの複雑な関係を描いている。ジョイの実父がジャックのことを正視出来ないことに象徴されるように、監禁前には仲が良かった母子が、望まない妊娠で生まれた息子という現実を直視させられる。時が止まったことにより、そして息子が生まれた現実により、青春時代を失ったジョイの現実。

ジョイ親子はマスコミにも追いまわされ、徐々に精神を病んで行く。ここらへんは、エピソードとしてはまあまあだ。だが取り立てて心を揺さぶられるというほどの描写でもない。でもこれがこの映画の主眼なのだ。

正視出来ない実父が、ジョイ親子を受け入れて行くようなストーリーなら、起伏があって面白いと思うが、この映画はジョイが精神を病んで、身を寄せている母親の家から離れ、ジャックとも離れて、最後にまた戻って来る、というだけだ。もっと印象的なシーンがバンバン出てくれば、この映画にも惹きこまれたと思うが、何しろ『ルーム』は、7年間監禁されたという事実、外の世界を知らない子どもジャックなどという、人目を惹く見てくれを用意するだけである。これで、さあ感動しろといわれても無理があるというものだ。

 

 

主演女優のブリー・ラーソンは普通の演技だが、アカデミー主演女優賞、GG主演女優賞などを獲得するなど高い評価を得た。オスカーは初ノミネートで初受賞だという。なぜだろう?今ひとつ分からない。『ルーム』の舞台が特異だったので、そういう特異性のある世界観に活きる役柄を演じたので、評価されたのか?もちろん下手ということはないが、彼女だから演じられたというものでもないし、絶賛されるほどのパフォーマンスを見せていない。

 

一方で、子役のジェイコブ・トレンブレイは、子どもながら「外の世界」を知らないという難しい役柄を見事に演じ切っていた。ジョイよりも息子のジャック役の方が想像以上に難しいはずだ。彼にアカデミー賞の栄誉を与えるのなら理解出来るのだったが。何とトレンブレイにはノミネートすらなかったというのだから、アカデミーは一体どこに目を付けているのか。

【書評】 テレーズ・デスケルウ 著者:フランソワ・モーリアック 評価☆☆☆☆★ (フランス)

 

テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

テレーズ・デスケルウ (講談社文芸文庫)

 

 

舞台は20世紀前半のフランス。未だ第二次世界大戦もはじまっていない。この地には、自由な精神社会は未だ訪れず、人間の思考回路は伝統に依存している。女性に投票権はないし、女性解放運動などずっと先のことである。それなりに、自らの思考で自由な判断をして、決定をしていくことが出来る現代とは違い、「家柄がふさわしい相手と結婚すること」、「女性は家庭を守る者として存在すべきである」などとしてしか捉えられない時代にあっては、人々の思考は、自らではなく伝統に従って繰り出されるに留まっている(現代でも伝統の強さは消えてなくなってはいないし、伝統が悪者でもないのだが)。

 

『テレーズ・デスケルウ』は、古い伝統に依って立つ思考しか出来ない人々の中でアイデンティティを確立しようとする女性の物語だ。とはいうものの、もはや現代には古過ぎる作品ではない。さっき、現代では自らの思考で自由な判断が出来ると言ったが、「それなりに」と留保を付けた。現代でも、伝統ではないが、思考を阻害する枠組みはある。そのために思考が停滞させられる場面にはいくつも遭遇するだろう。そういう意味で本書は現代にも活きる作品と言えると思った。

 

 

『テレーズ・デスケルウ』の主人公で、聡明な女性テレーズは、結婚対象の男たちの中ではマシな男ベルナールと結婚する。しかしベルナールは、女性であるテレーズよりも自分を高く見せようとして、論理的な思考をするテレーズに、旧弊な考え方を押し付けたり、感情的になったりして黙らせようとする。そうはいっても論理を優先させるテレーズは、夫の思考に納得出来ず、彼女は何度も理屈っぽい自己主張を繰り返す。小説の中で二人は、何度も対話が食い違っていく。読者はテレーズに理知を感じるが、伝統の前では論理さえもひざまづかなければならないのかと嘆息させられる。そしてテレーズの思惑は遂に報われることがなかった。

 

 

テレーズは、夫と生活を共にしていくうちに、アイデンティティは永遠に手に入れられないような気がしてしまう。夫が自信たっぷりに話し、だんだん太ってきたこと、毛が多過ぎることなどの些細な点が、自分のアイデンティティを阻害する全てに見えて来る。夫の存在が、思考を決定づける「伝統」そのものであるかのようだ。このままこの男と生活を続けていれば、自分は自分というものを死ぬまで手に入れることが出来ないままである。事態の転換を図るために、テレーズが取った行動は、夫の毒殺だった。

 

 

結果として夫の毒殺は未遂に終わるのだが、未遂に終わったことが『テレーズ・デスケルウ』の独創性を高からしめる点だろう。

 

未遂となったことでテレーズは、裁判にかけられるが、夫や家族は家の名誉を守るために偽証をしてしまうのだ。それによって無罪放免となった彼女だが、心が不安定なのだということにさせられて、軟禁状態にさせられる。結局、テレーズのアイデンティティを確立する試みは失敗に終わるのだが、物語はこれ以上の悲劇を示そうとはしない。

 

毒殺が失敗に終わったことで、伝統の檻の中に、テレーズをがんじがらめにしようとするベルナール、そしてその家族、あるいは実父。テレーズは物語の最後でタバコを吸い、やや軽快さを取り戻した足取りで前に進もうとする姿が描かれる。テレーズは自殺を試みたこともあるのだが、それでも尚生きることを選択した。最後の軽やかにも見える足取りによって、テレーズは尚生きることを選ぶが、それは、彼女があいもかわらず論理を優先し、アイデンティティを獲得しようとし続けるのではないか?という、疑念と感動とが混合した感情を、読者に与えもするだろう。物語の中で悲劇をこれ以上しめさないことで、未だテレーズが、戦う余力を残しているような気持ちにさせられるのである。

 

 

『テレーズ・デスケルウ』は、カトリック作家モーリアックによって書かれた。モーリアックの代表作で、遠藤周作はこの作品に感銘を受けており、本書の翻訳も手がけている。俺は、遠藤の訳を読んだのは初めてだったが、非常に分かりやすく、メッセージ性のある文体で訳されていたと思う。

 

本書は、上記では触れていないが、多少神の問題が書かれているが主題ではない。カトリック作家のモーリアックが書いたといっても、別段キリスト教の色合いが濃い作品ではないし、本書の解説者が述べている通り護教文学ではない。むしろモーリアックは、カトリック的には異端と言われたことがあって、彼はそういう指摘に悩んでいたほどである。

 

しかしキリスト教的でないからこそ、現代でも本書は普遍性を帯びて我々の前に立ち上って来る。伝統とアイデンティティの問題は、例えばビジネスの現場において、「ルールや仕組み」とアイデンティティと置き換えることが出来る。働きたいのに待機児童が解消されないので失業せざるを得ない女性、あるいは逆に育児に関わりたいのに会社の理解がなくて残業続きの男性、いくらでも会社や国の雰囲気などによる「ルールや仕組み」にアイデンティティを阻害されている人間は、思いつく。

 

『テレーズ・デスケルウ』を、ただ単に夫婦の問題として本書を読むのはもったいない。自らの限界に線を引いてしまうのではなく、ルールや仕組みと毅然として戦ってアイデンティティを獲得しようとする現代の読者にも強い印象を与えるはずであろう。

【映画レビュー】 ソナチネ 評価☆☆☆☆☆ (1993年 日本)

 

ソナチネ [DVD]

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「ケン、ヤクザ辞めたくなったなあ」

「結構荒っぽいことしてきましたからね」

「なんかもう疲れたよ」

「金持ってると嫌になっちゃうんじゃないですか」

 

というような、村川(ビートたけし)とケン(寺島進)とのセリフのやり取りから暗示されるのは死だ。それも、本作『ソナチネ』で出て来る数多くの人物の死ではなく、村川個人の死で、それも自殺である。

 

 

村川は村川組という暴力団の組長を務める。村川組は北島組の傘下にある組織で、親会社・子会社のような関係だ。絶頂とまでは言わなくとも組織の長を担うまでになった村川は、金も女も手に入れたが、ヤクザを辞めたいと言う。もっと出世して欲望を追求することも出来ようが、それを押し留めるものがある。それは全てを手中に収めた後の虚無感であろう。村川は能面のような顔で喜びも怒りも悲しみも示すことなく、半ば強制的に北島組組長の命令の下に、沖縄に赴く。そしてたくさんの人を殺す。

 

村川は沖縄で中松組を支援するため、阿南組のヤクザを殺し続ける。同時に、村川の部下や北島組からの若い衆も、一人ひとり殺されていく。沖縄の静謐な海や砂浜のシーンを取り入れ、多数の人間が死ぬことで、静寂な自然の中で死がぽつぽつと、しかし徐々に村川の肉体に迫ってくるのを描き出す。村川は至って健康体だが、病におかされたかのように、死を意識し、死を求めもする。

 

それは全てを手に入れてしまったからだろうか。もちろん、映画を観ていれば分かるように、北島組組長と、矢島健一演じる北島組の陰険な幹部・高橋の2人体制に、自分は付け入る隙間がないことを自覚して、もう上にあがることが出来ないかのような、諦めの中で、ヤクザを辞めてしまいたいという認識が生じもしよう。だから、全てを手に入れたことと合わせて、もはや自分の到達点はここまでだという諦念があいまって、死を志向するのだろう。村川は、ヤクザを辞めて堅気になるのではなく、辞めてどこにも行けないのであれば、死ぬしかない。この先にどうとも、行くべき道がないのであれば、自ら退路を断ってしまいたい。そう、常に思っているようだ。

 

そのような虚無感を、『ソナチネ』は海、砂浜、久石譲の突き放すようなあるいは引き寄せられるような思いが混在した音楽、突発的な暴力描写により、印象的に描いていく。ドリュラロシェル原作でルイ・マル監督の映画『鬼火』のように自殺したい男の空しい願望を、夢を、コンパクトでショッキングなストーリーと共に表現する。

 

ソナチネ』には、有名な一つのカットがある。村川が自分のこめかみに銃を突きつけるシーンだ。これは戯れのロシアンルーレットのシーンなのだが、村川の自殺願望を象徴的に描いている。結局、映画の中で村川は、高橋のことも殺し、北島組も阿南組も皆殺しにして、車の中でこめかみに銃口を突き付けて自殺するのだ。だからあのシーンは、自殺を先取りした映像ということもできよう。この映画は、登場人物も多いし、ストーリーにも起伏があるが、一貫して、村川の自殺願望を描いているのである。

 

 

この映画は、自殺志願者の男=村川についての個人的な映画である。しかし、それにしては観終わった後にいやな気持ちにはならない。それはなぜだろうか。

ソナチネ』は、美しい太陽や海などの映像とともに、久石の映像に合わせた流麗な曲によって詩情を表現する。そして、キャストの能面のような表情のない顔、まるでセリフをしゃべらされているかのような彼らの朴訥としたセリフによって異様な雰囲気を醸し出す。また、非常に凶暴だが執拗ではない暴力描写などによって、刺激を与え続ける(暴力描写をしつこく描くと観客は暴力に慣れる。突発的に描き、すぐに暴力描写をやめてしまうことで、まるでホラー映画のように「いつどこから暴力描写が始まるのか」という恐怖感を与える。それが刺激となる)。

このように『ソナチネ』は、死をリアルに描きつつも、多方面へのアプローチを繰り出していっている。自然と音楽の詩情、人物の異様さ、暴力による刺激は、自殺志願者の男を描いているにもかかわらず、さほど陰鬱にはさせないのだ。そして、多数の人間の死があまりにあっけなく描かれることで、残酷ではあるが、おかしみを感じさせる。

 

ルイ・マルの『鬼火』は、いくつかのエピソードがあるものの、自殺に向けてのオーソドックスな映画だ。それだけに陰鬱である。何度も観たい映画ではない。『ソナチネ』は多くの人間が死ぬ。生き残る主要人物は二人だけだ。それなのに何度も観たくなるのは、人の死を描きながらも、多角的なアプローチを施しているからだ。美しく、詩情豊かで、残酷、しかし時に笑いを生じさせる。

 

 

キャストも素晴らしい。今では考えられないが、主演のビートたけしが非常に上手い。芸能界で大成功した自身の人生を村川に重ねているせいもあるだろうが。フライデー事件の後の記者会見の時のような凶暴性を感じさせる。

 

北野映画初出演の大杉漣は、村川への忠誠心や微妙な距離感を演じていた。村川組の幹部役なのだが、上司たる村川への進言や部下のマネジメントもしていて、会社の管理職のような役柄なのだろうなと思わせる。優しそうな、ダンディな紳士と思わせておいて怒鳴り散らすシーンは、そのギャップが凄い。『HANA-BI』での演技で国内の賞を多数受賞したが俺は『ソナチネ』の演技の方が好きである。

 

その他、寺島進勝村政信、渡辺哲、矢島健一津田寛治など素晴らしい仕事をしていた。