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【書評】 幸之助論-「経営の神様」松下幸之助の物語 著者:ジョン・P・コッター 評価☆☆☆☆★ (米国)

 

幸之助論―「経営の神様」松下幸之助の物語

幸之助論―「経営の神様」松下幸之助の物語

 

 

 

本書は、松下電器産業の創業者・松下幸之助の伝記である。著者はハーバードの名物教授といわれるジョン・P・コッターという経営学者。

松下電器産業という社名は、現在ではパナソニックという名前に変わっているが、”松下幸之助”を語る上では、現社名のパナソニックより松下電器産業の方が腰の据わりが良い。

松下の名前は、ホンダやフォードのようにブランド名にはならなかった。世界戦略を拡大するためにも、松下電器産業パナソニックに社名を変えたのだろうが、しかし、松下幸之助を語る上で、パナソニックではその本質を語り切れない。自身の名を冠した社名で、日本を代表し、世界に打って出た偉大な電機メーカーを作り上げたのが松下幸之助なのだから。

 

 

松下電器産業は、松下幸之助という、「金なし」「学歴なし」「体力なし(病弱)」という三重苦を背負いながら、むしろ、三重苦があったればこそ、松下電器を、日本を代表する企業に押し上げた。

 

私は、ソニー革新者松下電器産業猿まね(コピーキャットと呼ぶ対比を、快く思っていたことがある。新しい製品を生み出していくことに長けていたソニーに比べて、松下の製品は新しくない。幸之助も言っていたように、松下の製品は、価格がそれほど高くないが、質が良い。そこに長所があるのだが、革新的な製品を生み出すことこそメーカーとして優れていると思っていた私には、松下は猿まねに過ぎなかった。

 

しかし、松下の製品は、日本で浸透しているのである。なぜなのかといぶかしんだ。それで、エアコンや洗濯機などの白物家電を購入してみる。確かに、使ってみると耐久性に優れているのである。新しい製品は出せないが、使っていて安定感があるのである。そうすると、これも試したい、あれも試してみたい、という気になっていく。そうなると我が家の家電は、黒物はソニーだが、白物は松下になっていった。買うと安心する家電メーカー、それが松下電器産業なのかもしれない(安心して買うのではなく、買うと安心する、のである)。「松下なら買っても良いかな」というべき印象だ。

 

そのように、安定感のある製品を継続して作り続けてきた松下電器産業の栄光と苦難を、本書はつぶさに描いていく。

 

最大の苦難は、第二次世界大戦後であろう。

 

松下電器産業は、海外にあった支社を現地に吸収させられ、規模の縮小を余儀なくされた。そればかりか社長を含む役員を会社から追放させられたのである。つまり幸之助も会社を追われたのだ。そして労働組合員を含む、松下の社員の嘆願も奏功して、彼は松下電器産業に復職する。まるで、アップルコンピュータを追われたジョブズのようではないか。

 

幸之助の生涯は、9歳で丁稚奉公に出された少年期から始まり、貧困と病気との戦いであった。それらの障害を乗り越えて、彼は松下電器産業を創業、発展させていくのだが、育てた会社から追放されるほどの障害もないだろう。屈辱で、地団太を踏んだことだろう。松下電器産業は、この時初めて、社員の解雇を行ったのである。それだけ生きるか死ぬかの瀬戸際に追いやられていたのだった。

ソニーはこの時、産声をあげたか否か、という時代である。その時に松下電器産業は、甚大な艱難の時代を迎えたのである。そして、その苦境を見事に乗り越えた。それは幸之助一人の力ではなく、女婿の正治を始めとする役員、そしてなにより社員の奮闘があったからに相違ない。

 

私の大好きな言葉に「艱難汝を玉にす」ということわざがあるが、本書を読むと、まさに幸之助の障害は、この言葉そのものであったということがよく分かる。幸之助は、我が国では「経営の神様」と呼ばれているが、その名の所以が、本書の1頁1頁に、こと細かく描写されている。コッターは米国人でありながら、数多くの幸之助に関する文献を渉猟し、インタビューも行った。そこで出来あがったものは、まさに経営の神様と呼ばれる松下幸之助の苦難と栄光の物語である。

 

本書は、監訳として、神戸大学金井壽宏経営学者)が関わっている。彼は本書の序文を書いていた。この序文も一考に値する名文である。

【書評】 「できる人」の話し方&コミュニケーション術 著者:箱田忠昭 評価☆☆★★★ (日本)

 

「できる人」の話し方&コミュニケーション術 なぜか、「他人に評価される人」の技術と習慣

「できる人」の話し方&コミュニケーション術 なぜか、「他人に評価される人」の技術と習慣

 

 

10年前の冬、会社から採用の仕事をやれと言われて、私は困っていた。春から説明会が始まるのに、あと数カ月しかない。

なぜ悩んでいたのかというと、私は、人前で話すのが苦手だったからだ。緊張してしどろもどろになってしまったり、自分が言っていることがよく分からなかったりする。そういうことを想定すると、私はとても採用の仕事はできないと思った。採用には、会社説明会がつきまとう。就活中の学生の前で、プレゼンテーションをしなければならない。

 

どうしたらいいのか?

 

そんな時に私は、プレゼンのセミナーを探した。ただでは終わりたくなかったからだ。何かしら行動に移してみて、それでもダメなら諦めて良いだろう。そこで出会ったのが、箱田忠昭のセミナーだったのである。タイトルは覚えていないがプレゼンのセミナーである。私はプレゼンが上手くなりたかったからである。

 

そのセミナーではとにかく色々なことを教えてもらった。

 

一番印象的だったのは、プレゼンの時は、聴衆に対して、喫茶店でしゃべるように話せ、ということだった。そうすれば緊張しないで話せるということだ。

 

どういうことかというと、大勢の聴衆の前で話す時、ただ話すだけなら、確かに緊張する。しかし、複数人の前で話すのが苦手でも、喫茶店で「1対1」でなら、話せるだろう。それを、聴衆でも同じ手法で話せ、というのだ。

 

その時は必ず「アイコンタクト」が必要である。聴衆は私の方向を向いている。喫茶店で「1対1」で話すように、聴衆の中で、私の話を熱心に聞いてそうな顔の人間をパッと探す。そしてその人を「アイコンタクト」する。

 

しかしずっと同じ人を「アイコンタクト」する訳にはいかないので、話しながら次の対象を探す。そしてまた次の対象を探す。だいたい5人くらいがいいか。順々にアイコンタクトを変えていけば良い。慣れてくると、まるでアイコンタクトの相手にスポットライトが当たっているように見える。「1対1」の喫茶店方式を、5人くらいの対象に絞って、最初は目の前のあの人、次は奥のあの人、3番目は中央のあの人・・・というように話していけば、確かに緊張しなくて済む。

 

要は、喫茶店で「1対1」で話せる人であれば(訓練が要るが)プレゼンができるようになる、ということなのである。

 

これには瞠目させられた。そこで私はこの方式を用いて会社説明会を行った。

学生は100人くらいいたが、最初は目の前のあの人、次は奥のあの人、3番目は中央のあの人・・・という喫茶店方式でプレゼンしていったら、緊張しないで話すことができた。もっとも、プレゼンの内容自体は、相当な練習が必要だったが、それでも未知の学生を前に話す時には、内容の練習だけをしていても上手く話せない。喫茶店方式の話し方を練習することで、緊張せずに話すことができたのである。アイコンタクトがあれば、聴衆も「見てくれている」という気持ちになるので、説得力も増していく。

現在もこの手法は活用していて、箱田のセミナーで言っていた「ボディランゲージ」や「断定的な話し方」等との相乗効果で、それなりにはプレゼンができるようになってきた。まだまだ改良の余地はあるのだが・・・

 

さて、注意しないといけないのは、自分の話をしかめっ面をして聞いている人を、喫茶店の相手に選んではいけない、ということである。怖い顔で「何の話をしているんだこいつは・・・?」とでも思っていそうな表情の人間に話しかければ、当然、こっちも緊張する。そうなると、アイコンタクトの意味がなくなり、しどろもどろになったり、内容を失念したりする。喫茶店でなら話せるといっても、相手が怖い顔で見ていたら、それはいくら「1対1」でも緊張してしまうだろう。それと同じなのである。

 

だから箱田は、そういう人が視野に入ってしまったら直ぐに視界から外せと言っていた。そしてにこにこしながら熱心に聞いてそうな人を探す。そして気持ちを整えるのである。

 

 

ということで、10年前、セミナーで運命的な出会いを果たした箱田忠昭の著書『「できる人」の話し方&コミュニケーション術』を読んだが、話し方に留まらず、クレーム対応や交渉術までもりだくさんで、ポイントが定まっていないという印象を受けた。この感覚は、最後まで変わらなかった。セミナーは良かったのに、本はこんな程度なのか?

 

要は、詰め込み過ぎなのである。プレゼンならプレゼン、あるいは話し方なら話し方に見定めれば良いのに、クレーム対応や交渉術まで、広く浅く網羅しようとしていたから焦点がぼやけてしまう。底が浅い自己啓発本に陥っている。

 

また、「話し方」が全てとでもいわんばかりに、コミュニケーションさえ上手くできれば出世できるという主張も疑問符が付く。著者はイヴ・サンローランの日本支社長を若干38歳で務めたが、それもコミュニケーションの賜物だと言っている。外資系を裏まで知っているという著者だが、人の「好き・嫌い」で出世が決まると豪語していて、信憑性がないと思ってしまった。欧米では職務等級の人事評価制度が主流だが、好き・嫌いで上の等級に上がるというなら、職能資格と何ら変わらない。そんなにも杜撰な評価運用をしているというのか?

 

あなたの人生は他人が決めている、という主張は良い。それは分かるが、だからといってコミュニケーションだけで仕事ができる→出世できるものでもあるまい。

 

能力×コミュニケーション=できる人という数式もよく分からない。能力とは何なのか?私ならコミュニケーションの項目には「マネジメント」や「リーダーシップ」を入れるが、著者はコミュニケーションと信じて疑わない。こんな単一の要素で「できる人」になり得るとは到底考えられない。

 

経営学者のミンツバーグは『マネジャーの実像』でこう書いていた。

「コミュニケーションを取ることしかしないマネジャーは、なにごとも成し遂げられない」。まさにしかり。

【書評】 こんなオレでも働けた 著者:蛭子能収 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

こんなオレでも働けた (講談社BIZ)

こんなオレでも働けた (講談社BIZ)

 

 

 

私は現在仕事が楽しいが、それでも仕事とが辛いか辛くないかと言われれば、辛い。できれば、やりたくないものである。

仕事とは第一義的に「辛い」ものであり、それが前提としてある。私だってそうだ。だから、仕事は、先ず「辛い」ことが先にくる。その中でも私は自分の好きな仕事をしているのだから、「楽しい」と言い得る。仕事が楽しいというのは、そういう意味である(辛いけど、楽しい)。本当は、仕事は「辛い」のだから、できればやりたくないのである。

 

仕事とは辛いものだ。辛いからどうするのか?辞めるのか。

辞めたところで生活はできない。では、辛い仕事をしながら、何も考えずにずっと耐えるのであろうか?人間だからそんなことはできない。だから、辛い環境下の中で必死に成果を上げて、出世を目指すのであろう。金や名誉が得られれば、辛い環境も乗り越えることができる。あるいは、プライベートで、恋をしたり家族を持ったりするのだろう。

でも、みんな出世できる訳じゃない。みんな良い会社に入社できる訳じゃない。恋も家族も持てないかもしれない。それでも、働かなければ、生きてはいけない。そういう時にどうするのか。

そんな時の癒しの書となるのが、今回紹介する本である。

 

 

漫画家の蛭子能収は、高卒後33歳で漫画家としてデビューするまでの15年間、サラリーマンをしていた。働きながら彼は漫画家としての夢を追い続け、33歳で実現する。蛭子のエッセイ『こんなオレでも働けた』には、夢だけは諦めずに追い続けた彼の活力が描かれているが、今でいえば「GRID」のようなものであろう。

 

サラリーマン生活を経て、漫画家、そしてタレントとして活躍した蛭子が、同書でこう言っている。

 

金を稼ぐためには、自分の仕事がつまらなくても、会社に不満があっても仕方がないのだ。それを我慢しているから、お金が手に入ると割り切った方がいい。

 

そしてこうも言う。

 

オレはサラリーマン時代、勤務時間内は死んでるつもりでいろんなことをやり過ごすことにしていた。会社にいるあいだはとにかく自分を殺そう、オレは、会社に自分の時間をあげることで給料をもらっているのだ。

 

金のためなら死んだふりでいい、ということだ。会社には自分の時間をあげる、ということだ。

 

私だっていつ仕事が「楽しい」から、「退屈」になるか分からない。ずっと楽しい仕事なんて、ない。だから、仕事とは、第一義的に、「辛い」ものなのである。ただし、仕事は辛いが、しかし、仕事をすることで金がもらえるし、生活を成り立たせることができるのだ。仕事のおかげ、なのである。

 

蛭子は金を稼ぐことの厳しさも分かっている。だから、金を稼ぐことに恥ずかしさなんかないし、むしろ積極的に稼ぎたいと、テレビで発言している。だから「蛭子さんってせこいよね」と他のタレントに言われるし、視聴者もそんな風に見ている。でも金を稼ぐって大変なことではないか。

 

私は金を稼ぐことの厳しさと共に、その尊さも感じる。まるで体内を循環する血液のようなものではないか。血がなければ肉体は活動できないように、金がなければ生活が成り立たない。だから稼ぐことは尊いことだと思っている。

 

 

彼は若いうちに結婚して子どもを持っていたので、漫画家になりたいという夢がありながらも、生活を成り立たせねばならないと思っていた。だから自堕落な働き方はせずに、きちんと金を稼いでいたのである。彼は夢のためなら働かなくていいという考えには与しない。しっかり金を稼ぎ、その上で夢を追いかけるべきだというのだ。

 

クズ呼ばわりされることが多い蛭子だが、こんなにもマトモなことを言っているのかと思い、少し尊敬してしまった。蛭子は、「葬式で笑ってしまう」とか、「障害児として生まれた我が子が死産して喜んでしまう」とか、常人が理解し得ない感性を持ってはいる。だが労働に関しては、私は彼を支持する。

 

本書はかなり薄い本で、1時間もあれば読み終えてしまう本である。だが金を稼ぐことの厳しさ・尊さを考えている私にとって、本書は何度も読み返すほど好きな本である。もっとも、蛭子自身はビジネスで成功した人ではないから、底の浅さは否めない。仕事は金をもらうために行うのだから割り切る。それはそうだが、その先は見えない。だがそれは蛭子の本に求めることでもないだろう。

 

さて、仕事はやっぱり辛いし、嫌だ。Hawaiiとか沖縄なんかの南国に行くと思うのだが、もう何もせずに、ここで一生を過ごしたいという気になる。でもそうはいかない。Hawaiiや沖縄に行けるのも働いているからだ。そのためには、辛いけど仕事をしなくてはならない。死んだふり、会社に時間をあげる、その感覚で良い。

【書評】 仮面の告白 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆ (日本)

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

三島由紀夫の『仮面の告白』を数年振りに再読。本作は、三島の半自伝的小説と言われている。詩的で精緻な文体は既に完成されていた。この作品を書き上げたのが僅か24歳というから、彼の早熟な智性に瞠目させられる。24歳にして、三島の代表作といえるほど高い完成度を誇る。

主人公はほぼ三島と同年齢の青年。体は貧弱で細い。幼年期から女言葉を使うなど、既に同性愛的資質が仄かに見える。貧弱な体を持っているからこそ、強靭な肉体を有する少年に対しては強い性欲を感じるのである。少年期には、近江という不良な同級生を愛して、彼の雄々しい体に魅惑されていく。近江は不良な態度を取り過ぎて放校処分となるのだが、この少年こそ、主人公が欲望する男性の象徴的モデルである。

主人公は若く逞しい男の死に様を夢想して悦に浸る。それは、幼い頃に読んだ絵本から始まっていた。主人公は、絵本に描かれる「人間やモンスターに殺されていく凛々しい男たちの死に様」に昂奮を覚えるのである。あたかもこれは、三島がボディビルを始め、その肉体が衰えきる前に死を選んだ自らの人生の結末を予見しているかのようだ。肉体を鍛えた男は、老いてはならず、死ななければならないとでも言っているかに見えた。

本書のエピグラフには『カラマーゾフの兄弟』の美に関するエピグラフが載っているが、美の極限は、三島にとってはエネルギーが漲る若い男の肉体なのであろう。三島は後年、ナショナリズムに接近し、「盾の会」という民兵を結成した。彼らの制服は軍服のようであるが、制服もまた男性的な美の具体化である。男性的な美と、ナショナリズムとを混交させることで、三島は『仮面の告白』で描いた、肉体を鍛錬させた男の死を、身をもって体現するのである。そういう意味では、本書は三島由紀夫の死を予見する作品ということもできるだろう。本書にはない、ナショナリズムの理論を連結させれば、『仮面の告白』で主人公が憧憬した男の死は、まさに三島自身の死なのである。

本書は主人公の同性愛的資質を描いている。その資質は男性的な美を欲望するあまりに、性愛へと結びつく。男と男とが肌を交わすような場面はないが、主人公の自慰という行動で、それは何度も言及されていく。男性器を刺激するというような、露骨な表現を使わずに、自慰行為を詩的に描くあたりは、三島由紀夫の高い美学を感じられた。

性愛ではなくても、主人公が近江を愛し、その愛が相手に伝わってしまった時の場面は臨場感があり、作者の体験ではないかとすら思えるくらいである。

反面、園子という、京都の大学に通う友人の妹との疑似的な恋愛は、三島の思い入れが少ないのか、やや淡白に感じる。しかし、これには理由がある。
園子という女性が主人公を愛し、彼女の方で婚約を勝手に考えるまでに思い詰めたにもかかわらず、主人公は彼女を捨ててしまう。結局、園子は主人公にとって、男の代わりにはなり得ないのである。ダンスやその他の場面で雄々しい男たちの肉体美に欲望するシーンが随所に出てくるが、園子と交流している時よりも、主人公は男の方が良いのである。そのために、園子は淡白な描かれ方をする。園子は、主人公にとっては、恋の戯れといおうか、男性に到達するまでの布石でしかないのである。

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【映画レビュー】 スーパー! 評価☆☆★★★ (2010年 アメリカ)

 

 

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完全なるバカ映画とはこういうものをいうのか。マーブルコミックスに本当にあるのかどうか分からないホーリーなんたらというコミックのヒーローになりきる中年男の物語。主演のレイン・ウィルソンは、さえない195センチの中年男を自然に演じていた。

しかしこの映画で本来主役になるべきはリビー/ボルティー役のエレン・ペイジだ。彼女は素晴らしい。狂気的な演技で、完全に主役を食っている。この映画にはケビン・ベーコンも出ているが、ペイジの狂気に比べれば大人しく見えるくらいだ。ケビン・ベーコンよりもイカれている女優がいるとは!

調べれば、ペイジは『ジュノ』においてアカデミー賞にノミネートされたこともあるという。オスカー俳優であっても退屈な演技をする者がいる中、彼女は今後の活躍を期待できそうである。この映画は大して評価できる映画ではないが、ペイジ見たさに観ても良い。それにひきかえ、リヴ・タイラーは何だ。ただ美人なだけで何もない。年を取ってもきれいなのはさすがだが、それじゃモデルと変わらない。

 

 

妻サラ(タイラー)をギャングのジョック(ベーコン)に奪われた、冴えない中年男のフランク(レイン・ウィルソン)は、ある日コミックショップに立ち寄る。そこでホーリー何とかというコミックを買う。店員のリビー(ペイジ)はそのコミックをバカにする。

 

 

フランクは、夢を見る。そして、日本のエロアニメの触手もの(夢の前に主人公はTVで触手ものを見ている)を思わせる触手が、家の中に入ってきた。そして体をがんじがらめにされて、頭部を切り取られて脳漿を丸出しにされた彼は、神の指に脳味噌を触られる。

これを啓示と勘違いしたフランクは、自らホーリー何とかをイメージした「クリムゾンボルト」となって悪を倒していく。といってもSFみたいに何か武器がある訳じゃないので、基本的には、レンチで悪を倒す。遂にはジョックを倒し、妻を奪還するという物語である。

だが、一人ではジョックを倒せないので、コミックショップの店員リビーを相棒のボルティーとして組む。しかしこのボルティーが、一応正義のために悪に暴力を振るっているクリムゾンボルトとは違って、暴力そのものに異常な執着を持つ、サド女だったのだ。

 

 

ボルティーの異常性は最初から露わである。彼女が目星を付けた悪党に、「アハハハッ!アハハハッ!」と笑いながら暴力を振るい、殺害しそうになるのだ。慌てて止めたフランクに、彼女は「あっ、ごめん殺しちゃ駄目だった?」とか言う。なにこいつ・・・異常過ぎ。

 

ガソリンスタンドで、フランクを殺そうとしたジョックの部下を助けようと、車を衝突させた時も、ボルティーは「アハハハハハーッ!」と笑いながら車を相手にぶつける。「骨が粉々になった」と言って有頂天になる彼女。暴力を振るうことが楽しくて仕方がない様子。まるでこれじゃ、人を殺すためにヒーローになったものじゃないか!

 

とかなんとか、最初から最後までこういう始末で、暴力を振るうことに執着するサド女・ボルティーがすさまじい活躍を見せる。

 

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最初はかわいい店員だったリビーだが・・・

 

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舌の根も乾かぬうちに、このキチガイぶり。今まさに殺さんとしているところ。あたしはクリムゾンボルトの相棒、ボルティーよっ☆オーイェー!!・・・このバカが笑

 

ジョックの家に入り込み、済々と敵を殺せると意気込むボルティーはこの表情。

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静かにしないとジョック一味に見つかるというのに、相も変わらず「アハアハ」言って大騒ぎして、敵を殺しまくるボルティー。一応の物語の目的は、フランクの妻サラを奪還することなのに、ボルティーの異常な暴力への執着が強烈で、彼女が主人公のようだ。

なのに、あっさりとジョックの家で一味の一人にぶっ殺されてしまうから、残念でならない。

 

私が監督なら、フランクをここで殺してしまうだろう。そして、サラの奪還なんかどうでもよくしてしまう。そしてとことんまで、ボルティーの異常で暴力的な活躍を見せることに終始する。そして、最後は連邦政府とボルティーの一騎打ち。それでも死なない異常者・ボルティー。みたいにぶっ飛んでしまったら面白かったのだが。

期待通りの(?)妻の奪還なんて、別に見たくなかった。本作の監督は、エレン・ペイジの狂った演技を見て、「えーい、彼女を主役に置き換えちゃえ!」って思わなかったのか。中年男のバカみたいなヒーローものより、異常なサド女・ボルティーの活躍の方が面白いのに。

 

 

どうでもいいが、主演のレイン・ウィルソンって中川家礼二に似てるな・・・

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