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【書評】 サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆ (日本)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

『サド侯爵夫人』は三島戯曲の代表作

普段、映画は見るのに演劇を見ない私が戯曲を活字で読むはずがない。それでも読んだのは、三島由紀夫の著作だからである。三島由紀夫のあまたの長編小説を読んできた私は、彼の小説の地の文の詩的なレトリックに酔わされていた。同時に彼は、小説のセリフにも意識を込めて書いていた。詩情、諧謔がセリフの端々に満ちている。戯曲はセリフとセリフで構成される。俳優の織り成す演技が物語を展開せしめるために、セリフは重要なパーツである。戯曲に関心がなかった私が三島の戯曲なら読んでみようと思ったのは、小説のセリフに感心していたからだ。

三島由紀夫のライフワーク『豊穣の海』を読み終え、三島のほとんどの長編小説を読了した私は彼の戯曲に手を伸ばす。何を読んだら良いか。三島由紀夫は劇作家としても著名だった。『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』『近代能楽集』『黒蜥蜴』など多数がある。どれを読んでも良いが、『サド侯爵夫人』が気になった。この作品は、女性6人の会話劇で『サド侯爵夫人』というタイトルなのにサド侯爵本人が出てこない作品なのである。これは面白そうだと思った。

すぐに引き込まれた。サド侯爵とは作家マルキ・ド・サドのことで、彼の作品はサディズムという言葉の由来となった。サドは小説でサディスティックな暴力描写を描いただけでなく、実生活でも性的に乱れた生活を送った。性犯罪や暴力の廉で長い間投獄生活を送った18世紀のフランスの作家である。

『サド侯爵夫人』は、サド侯爵夫人ルネの謎に迫った作品である。謎というのは、ルネは18年近くに亘り貞節を守り、誰からサドを悪く言われようとも夫を信じてきたのに、サドが牢屋から解放され自宅である城に帰ってきたら絶縁するという謎だ。その謎の解明を試みると共に、女6人の会話だけでその場にいないサド侯爵の人物像を語る傑作である。私は他の三島戯曲を読んでいないのに、『サド侯爵夫人』が三島戯曲の代表作だと感じた。

女6人の会話だけでサド侯爵を語る術

舞台はパリのモントルイユ夫人邸のサロンである。戯曲は3幕で時代の流れを経るが、舞台はずっとサロンで変わりない。そこに、サド侯爵夫人ルネ、ルネの母モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、サン・フォン伯爵夫人、シミアーヌ男爵夫人、そして家政婦シャルロットの6人がいる。登場人物は彼女ら6人のみで、サド侯爵本人は現れない。6人の会話だけでサド侯爵の人物像を語るのだ。

それぞれの人物は何かを象徴している。サド侯爵夫人ルネは貞淑、モントルイユ夫人は法・社会・道徳、アンヌは無邪気・無節操、サン・フォン伯爵夫人は肉欲、クリスチャンであるシミアーヌ男爵夫人は神、シャルロットは民衆を象徴する。

モントルイユ夫人は厳格な母親である。牢獄からの解放を願う娘ルネの心情を汲み取り、サン・フォン伯爵夫人に要請して解放してもらおうとする。しかし、モントルイユ夫人は画策してサドを再逮捕させてしまうのだ。彼女は法・社会・道徳を重んじる女性なので、ルネにはサドと離婚して欲しかったのである。それを知ったルネは激怒し、モントルイユ夫人は秩序に外れた人間を憎悪し絶対に許さないのだと言った。

このように、モントルイユ夫人は法・社会・道徳を重んじる余り、サドには辛らつである。サドを再逮捕させるまでに厳格に接する訳だ。一方、サド侯爵夫人ルネはサドに貞淑を近い、戯曲の最後の方まで彼を信じる。サン・フォン伯爵夫人は肉欲に象徴され、サドに近い人物として共感的に語る。シミアーヌ男爵夫人はクリスチャンで、サドについてはキリスト教の立場から達観的に語る。シャルロットは民衆を代表して、フランス革命後に、ルネの引導を渡す役を担う。

女6人の会話だけを通じて、サド侯爵を多面的に描き出す三島由紀夫の手腕は非常に冴えていた。サドはただの一度も舞台には上がらないのに、彼の存在感は圧倒的なのである。

人物像は主観によっていかようにも変わる

私は『サド侯爵夫人』を読んで、人物に対するイメージ(人物像)がいかに主観に捉えられているかを改めて知った。女6人の価値観が異なれば、人物像がいくらでも変わるのだ。サドに対するイメージは、肉欲とか反道徳が近いだろう。だからモントルイユ夫人やサン・フォン伯爵夫人の主観がサド侯爵の人物像に近い。しかし、そこにルネ、シミアーヌ男爵夫人が関わってくると人物像にも多面性が備わってくる。

サド侯爵が放埓な生活を送り、犯罪者として投獄されようとも、ルネは彼を信じる。サドは娼婦と寝るばかりか、妹のアンヌとまで性交するような、獣のような男である。そんな男に対して貞淑を誓うルネがいることは、サドにも貞淑性なるものが帯同しているように思える。サドを巡る時にルネが関わることで、サドの人物像にも貞淑性を感じさえするのだ。

貞淑の徹底、「ジュスティーヌは私だ」

『サド侯爵夫人』は、最終幕で大きな変化を見せるように見える。ルネは浮浪者のようにみすぼらしい姿で自宅を訪れたサドに、会わないと断言するのだ。家政婦シャルロットに命じ、「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と伝えさせる。これは、サド侯爵夫人ルネが貞淑ではなくなったことを意味するように思うが、そうではない。ルネの貞淑は最後まで変わることはない。むしろ貞淑の徹底した姿が、この別離の宣言に現れているのだ。

それを知るには、別離の前のシーンを見るべきだ。ルネは母親のモントルイユ夫人と話している時に、サドが獄中で書いた『ジュスティーヌ』という小説を引き合いに出す。この小説は姉妹の物語で、美徳を守り続けた妹ジュスティーヌが不幸に遭い続け悲惨な最期を遂げるという結末になっていた。ルネは、「ジュスティーヌは私だ」と悟る。そして、自分はサドの創り出した物語の住人に過ぎないと感じた。さらにルネは、神がサドに命じてこのような世界を創り出した(サドの創った世界に支配される)かもしれないとも思う。

それゆえルネは、修道院に入って、神に残りの人生を捧げることにしたのだ。神に人生をささげれば、神がサドに世界を創らせようとしたか否かが分かるだろうから。ルネには、サドを愛さなくなったのではなく、サドの創り出した世界から脱することをもくろむ訳でもなく、むしろその世界に安住することを選択している。ルネはサドとの別離を選んだが貞淑ではなくなったのではなく、彼女はむしろ貞淑を徹底している。

サドとは何者か

『サド侯爵夫人』の特異性は、人物像が他者の主観によっていかようにも変わる点にあるが、読者が、そもそも人物像とは、本当に捉えられるのか?という疑念を抱くことにもある。つまり他者がどのように人物像を捉えても、そこには対象となる相手(サド)は蚊帳の外にあるような気がするのだ。

「ジュスティーヌは私だ」と言うルネと、サド侯爵とが面と向かってコミュニケーションを取る場面は遂に現れない。サドが、「私はそんな人物じゃない」と言えば、そこで人物像は変遷を迫られるか、あるいは瓦解することもあろうが、サドが出てこないので、本当の人物像は分からないともいえる。だが、サドが出てきたところで、人物像を解釈するのは「この私」なのだから、永遠にサドとは何者かということは、分からないかもしれない。だから、「そもそも人物像とは、本当に捉えられるのか?」という疑念を抱いたところで、サドが出てきても人物像はつかめないかもしれないのだ。

だから『サド侯爵夫人』が取った人物像の多面性は、1つの理解の仕方であるが、そこにサド本人が出てきても、出てこなかったとしても、サドの人物像は永遠に分からないかもしれない。人物像のつかめなさを、この戯曲はじっくりと教えてくれる。

『朱雀家の滅亡』は小品

『サド侯爵夫人』と同時に収録されている『朱雀家の滅亡』は、天皇に対する忠義を描いた作品。朱雀侯爵という華族の家柄に生まれた長子・経広(つねひろ)が、戦時中、自ら危険な任地に赴いて戦死する姿を描く。

伯父の光康、女中だが経広の実母であるおれい等は、経広の危険な任地への赴任を回避する方法を画策する。しかし、経広と経広の父である経隆(つねたか)は、何としてでも天皇への忠義を徹底しようとするのだった。

『朱雀家の滅亡』は小品である。経広の天皇への思いは感じるのだが、経広の死後、おれいによる経隆への批判、同じく、経広の恋人による経隆への批判はくどくどしくて、退屈だった。物語は経広の死をもってピークに達し、そこから物語が変遷する訳でもない。戦後の日本に対する著者の批判めいた表現は興味深く読めたが、経広亡き後の『朱雀家の滅亡』の物語の深まりはなかった。

『朱雀家の滅亡』と共に語られる三島の短編『憂国』は、主人公夫妻の死をもってピークに達して結末を迎えるので緊張感を持って終わるのだが、『朱雀家の滅亡』は緊張の糸が切れて、あとはだらだらと物語を無理やり長引かせているような気がしてならなかった。評価☆☆☆☆☆は、『朱雀家の滅亡』に対するもの。