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ドストエフスキー『悪霊』2巻・覚書

 

悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

非常に長く、光文社文庫版で700ページもある。こんなに長大なボリュームにする必要はあったのか疑問なところだが、世界文学の頂点に位置するドストエフスキーに対しては誰も文句を言わないのかもしれない。だが筆者は一般人なので言う。長い。もっと省略すべきところがあったはずだ。

特に演劇調の会話はややうんざりするのだが、19世紀のロシア人はこういう喋り方をしていたのか?誰も彼も丁寧語で、長ったらしく、奇妙なまでに激情的な喋り方をするのだが・・・こういう喋り方が自然だと思って翻訳してしまうところは、今一つ納得感に欠ける。

 

とはいっても、ストーリーとテーマ性は重厚で読み始めると止まらないインセンティヴがあるのは確かである。キリスト教社会主義、キリーロフの人神思想等の思考も随所に出てくるが、思想を描くことに汲々とすることなく、自然に書かれ、それでいてテーマの重要な部分を担っているため読者の心に響くように、文章に言葉として置かれている。こういった思考を文章に的確に置く技術は見事なもので、『悪霊』が思想小説として高い境地に達していることが理解されるだろう。

1巻も充分に良い作品だったが、ややプロローグ的なところがあった。2巻はあまたの思想を、「思考」と「行動」によって多数表現することに成功している。思想は、作者によって絶対的に否定も肯定もされないまま残されているので、バフチンのいうポリフォニーは2巻で強い印象で読者の前に立ち現われることだと思う。

 

また、亀山郁夫の翻訳はシンプルで無駄がなく、自然な日本語なのですっと読むことが出来る。彼の訳は、『ドルジェル伯の舞踏会』における堀口大學の翻訳とは違って、実務的に訳すところが良い。堀口は詩人という別の顔を持った翻訳家なので、文章に酔うところがある。「のだった」などという末尾の言葉の多用にも表れているが、そういう自己陶酔による翻訳は見るも無残な結果を招く。

村上春樹も小説家としてより、翻訳家として筆者は高く評価するが、彼も亀山と同じで自然な日本語に訳出して、あくまで実務的に、つまり(恐らく)原文に忠実に訳して、自らは黒子に徹しているところが良いのである。村上春樹のような世界的な(通俗)作家でも、自らの色を全面に出さないところは、翻訳家の役割を理解している証拠だろう。

 

■本邦初訳の「チーホン」はなかなか面白い。スタヴローギンの告白は迫力がある。伝え聞くところと違って、スタヴローギンは少女を強姦したのではなさそうなのだが、信仰のある少女と性関係を持つことが罪だということである。結果的に少女は自ら首を吊って死んでしまうのだから。

少女と関係を持つ文章は露骨には描かれていない。さらりとしていて、関係を持ったのか否か分からないような描かれ方である。

スタヴローギンは、告白によると何人も人を殺している悪漢だ。悪漢にもかかわらず自責の念がまるでないところが非常に恐ろしい。本書『悪霊』における悪霊とは2人いて、スタヴローギンとヴェルホヴェンスキーの息子ピョートルだと、訳者が解説で書いているが本当の悪霊はスタヴローギンだと訳者が言っている。筆者も、2巻まで読んだところでは、その通りだと思う。

この「チーホン」で、有名な「完全な無神論は完全な信仰へと向かう道である」というチーホンのセリフを読むことが出来る。

 

■2巻では、ヴェルホヴェンスキーの息子ピョートルが革命組織を作って暴れまわり、シュピグリーン工場の労働者をけしかけて暴動を起こす。社会主義革命をフィクションで見ているようで非常な緊迫感がある。

革命家たちがスパイを殺すとか殺さないとか議論しているシーンは、日本の新左翼内ゲバを想起させる。実際に3巻でスパイを殺すようなので、いやはや時代を先取りするドストエフスキーに感服させられる。

内ゲバはどの組織でも行われるもので、別段左翼の専売特許ではないから、組織内における内ゲバが行われる度に、ドストエフスキーの『悪霊』は、参照されるのではないだろうか。

 

 

rollikgvice.hatenablog.com

 

HRカンファレンス2017 -春-

日本の人事部「HRカンファレンス2017-春-」

 

HRカンファレンス2017(春)の申し込みが開始されました。

無料で人事関係の多くの講演を聞ける良い機会です。

時節柄、採用関連が多く見受けられる他、ダイバーシティもあります。日本政府も問題視している「日本の労働生産性」の講演もあります。

 

今年は、5/16(火)~5/19(金)の4日間の開催です。場所は例年通り大手町サンケイプラザになります。

 

俺は5/16の「女性管理職育成のカギを握るのは? ~普通の女性社員が管理職になっても良いと思う秘訣」に行こうと思っています。講師は、株式会社サクセスボードの藤崎さん。

 

まあ、このHRカンファレンスって、商品紹介の講演が多いので、必ずしも良いと思える講演に出会えないのが現実的なところなんですけれどね笑

【映画レビュー】 グラディエーター 評価☆☆★★★ (2000年 米国)

 

グラディエーター [Blu-ray]

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将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)が、皇帝コモドゥスホアキン・フェニックス)から逃れてグラディエーターとなり、皇帝を倒すまでを描いた歴史大作。アカデミー賞作品賞および主演男優賞を受賞した他、監督のリドリー・スコットやフェニックスもオスカーにノミネートされた。筆者はフェニックスのファンである。

マキシマス役のクロウは、筋肉はあるが少し体が小さい印象。痩せているとは言わないが、細マッチョの体型であり、迫力にやや欠ける。日本人的な体型。

 

ということで観てみたのだが、ストーリーに粗が目立ち最後まで楽しむことが出来なかった。前皇帝を殺害したコモドゥスに反旗を翻すために、コモドゥスの握手を拒んだことで、マキシマスは、死刑を宣告され、子どもを殺され、妻はレイプされた上に殺害されるのだが、握手を拒まなければこんなことにならなかったのでは?なぜこのような激情に駆られてしまったのか、政治的なセンスが全くない振る舞いにイライラさせられた。

 

また、死刑から逃れるシーンも、あまたあるアクション映画の焼き直しで見るべくもない。死刑という、もはや死ぬしかない極限の場面で、どのように逃げるかが要点だが、兵士が愚鈍でこれなら確かに逃げられるだろうという状況だ。黒澤明の時代劇の主人公みたいに、剣の達人だということが如実に分かるような演出(『椿三十郎』とか)を見せてくれれば納得感もあるのに。

 

当初は、皇帝コモドゥスの目から逃れていたマキシマスだが、グラディエーターとして皇帝の目の前に出てしまうと、早々に正体がバレてしまう。何でバレてしまうような設定にしたのか理解に苦しむ。バレないようにグラディエーターとして勝ち進んでいって、最後の最後で正体が暴かれるというなら、スリリングな展開で評価出来るのだが、これではダメだ。いつ正体が皇帝に知られるか・・・知られたら最後、殺されるという緊張感がない。

 

正体が暴かれて、皇帝がマキシマスを殺そうとすると、大衆が反対して殺せない。仕方なくその場を去る皇帝だが、その後でいくらでも殺せる場面を作れるはずなのに、全然殺さない。脚本家、出て来い!こんな幼稚なストーリーでよくアカデミー賞作品の栄誉に与ったものである。

 

そして、最後に、『グラディエーター』というタイトルそのままに、皇帝コモドゥスと、将軍マキシマスの決闘が、聴衆に見られる中で行われるのだが、こんなことがあるのか?殺される可能性のある戦いを敢えてやる皇帝なんているのだろうか?コモドゥスは狂人であるが、政治家として抜け目の無いところがあった。だが、彼の設定はストーリーの犠牲になってしまった。もちろん、コモドゥスはマキシマスに敗れて、死ぬ。なんだこりゃ。

 

この映画で良いのは、ラッセル・クロウの熱演と、ホアキン・フェニックスの狂人的な演技である。複雑な性格を演じたフェニックスのパフォーマンスの方が良かったが、アカデミーはクロウにのみ、オスカーを与える。

アメリカ人は、下から這い上がって勝つ人間像が本当に好きなようだ。いや、もちろん筆者も好きであるが、こんないい加減なストーリーでは、下から這い上がれるとは思えないから、評価は出来ない。

戦闘シーンも評価が高いようだが、剣の打ち合いの効果音がキンキンと安っぽく、日本の時代劇ドラマを見ているようだ。

青山ブックセンター本店を訪問

青山ブックセンター本店を訪問。冴えない品揃え。

↓ エスカレーターを降りていく

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↓ ここが店構え

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しかし、目当ての本はありませんでした。
ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』を買いに行ったのですが、これだけがない。『薔薇の名前』も『フーコーの振り子』も『プラハの墓地』も『開かれた作品』もありましたが、『ヌメロ・ゼロ』はない。
ハイエクの『隷属への道』もなかったです。
漫画ならあるかな?と思い、『こんなブラックジャックはイヤだ』も探しましたが、ありません。
マイナーすぎるんですかね。

ちょっと歩いて渋谷まで行き、東急百貨店の中にある大型書店まで足を伸ばせば全部あるでしょうけれどもね。そこまでの気力がないので、諦めました。

青山にある本屋ってことで、まあ、雰囲気は良いんだけど、ただそれだけかなぁ。
ビジネス書も『GRIT』はあるけど、行動経済学系の読み物はなかった。ただの一冊も。青山学院大学が近くにあるけれど、経済学や経営学を専攻する学生は来ないのかもしれないね。
思想系はちらほらある。民俗学のコーナーまであった。

【書評】 斜陽 著者:太宰治 評価☆★★★★ (日本)

斜陽 (角川文庫)

斜陽 (角川文庫)

『斜陽』は太宰治の代表作のひとつで当時のベストセラー小説にして、筆者が最も嫌いな小説だ。もうひとつの代表作『人間失格』はまあまあだったので、これも面白いのかと思って手に取ったら、読んだ自分を軽蔑したくなるほど退屈な作品だった。

何より嫌なのは文章が堕落しきっていることである。谷崎潤一郎のように、地の文において気品のある日本語を多用して、上流階級を描くことに太宰は関心を示さない。ひたすら名詞に「お」を付けることで、主人公かず子一家と、平民との格の違いを惨めにも表現しようとするのだ。敬語が発達している日本語ならいくらでも上流階級らしさを表現し得るのに、太宰は「お」を付ける程度でお茶を濁す。仮にも小説家なら豊富な語彙力によって文章に技巧を凝らすべきだ。


また、主人公かず子の行動は極めて軽薄で、吐き出されるセリフが不快感を催すほどに下劣である。

何しろ人生を評して、「人生は恋と革命のためにある」というのだから。
こんなセリフは、ギャグとして言うか、少年少女が若気の至りで書いてしまう時のセリフであろう。しかし太宰は、40歳近くにもなって、一切の恥じらいもなく主人公のセリフとして語らせる。こんな厚顔無恥の感性は、筆者には無い。このように自分に酔っているだけの駄文の連続には、1分1秒でも時間を費やしてはならない。

かず子は直治という愚弟が尊敬する作家に、手紙を書く。結びの差出人のところがM・Cとしているのだが、その意味が手紙ごとに変化していって、「マイ・チェーホフ」だの「マイ・コメディアン」など、気取り過ぎも良いところだ。これは『斜陽』が象徴する気取りであって、自分に酔った文章が連綿と続く。それが『斜陽』だ。

働かないで暮らしているかず子一家なのだが、金がないから結婚するだの、モノを売って生活の足しにするだの、労働を軽侮する行動には極めて不快だ。かず子の労働に対する価値観を読むごとに、罵倒してしまいたくなるほどである。別に筆者は働かないことがいけないとは思っていない。かず子が、労働を軽侮しているところが気に入らないのだ。働かなくて生活ができたり、敢えて働かない生き方を選ぶのは構わないが、労働を軽侮してどうする。かず子は、現実から離れて、夢の中に生きる人間のようである。

このように、虫唾が走るところは枚挙に暇がない。

鹿嶋田真希の『六〇〇〇度の愛』とか青山七恵の『ひとり日和』も駄作だが、太宰治の『斜陽』を前にしてはまだ読む価値がある。

この小説で褒められる点は1点だけ。

筆者が読んだ『斜陽』は角川文庫版で、解説は角田光代なのである。角田は、かつて太宰の小説が好きで読んでいたが、『斜陽』の良さだけは分からなかった。また、年を経ると共に太宰の作品を読むことを恥ずかしく思うようになり、遂には読まなくなってしまった。

しかし、二十代、三十代となり、様々な人生経験を経て『斜陽』の良さに気付くことが出来た。その気付きを軸に、味わい深く解説にしている。あたかも小さなエッセイのような苦さと軽やかさが混合した、良い解説だと思う。こんな短い文章でも角田らしい個性を出せるのは凄い。

筆者は太宰の『斜陽』の良さを三十代の現在でも理解出来ないが、角田が太宰作品を読み、読むことを止め、そして再び読むようになった過程はセンシティブで面白く、理解することが出来る。『斜陽』を読むことは、虚無的な気持ちに陥らされるけれども、角田光代の解説文は、読むことで意味があると思う。この解説文が読めることが、唯一本書を評価出来る点だ。