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【書評】 新版 動機づける力 モチベーションの理論と実践 編訳:DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部 評価☆☆☆☆★ (米国その他)

 

【新版】動機づける力―モチベーションの理論と実践 (Harvard Business Review Anthology)

【新版】動機づける力―モチベーションの理論と実践 (Harvard Business Review Anthology)

 

 

「働く意欲」の向上、すなわち動機づけについての論文集。「二要因理論」で高名なF.ハーズバーグの他、8本の論文を収める。全9本。日本人の論文は無し。

論文といってもビジネス誌に発表されたものなので、それほどアカデミックなものではないから読み易い。脚注も非常に少ない。ただし、文章は読み易いが内容が薄っぺらではなく、アイディアはしっかりと考え抜かれたものなので、ビジネスの参考になること請け合いである。

 

2章の著者が言う通り、「厳しい環境であっても、社員たちに最高の仕事をさせるのは、マネジャーにとって永遠の、そしてなかなか実現できない目標の一つである」。仕事をさせるという言葉には「動機づけ」が含意されている。

“最高”の仕事でなくても良いかもしれないが、動機づけを高めるにはどうすれば良いか、碩学により思考された施策は星の数ほどある。それらを仮に、全て読み込んだとしても、自社に最良の動機づけの施策は、構築できないかもしれない。国・ビジネスの環境あるいは時代はそれぞれ違い、会社も経営者も、会社で働く社員も生きている。その中にある1社の動機づけ対策として、まるでパズルのピースのように、かっちりとあてはまる施策など、いかなる論文の中にも、転がっている訳ではないからだ。それが、自然科学と違うビジネスにおける解答を生み出す難しさで、似たような業態・規模・社風の会社であっても、A社にはこれが有効なのにB社には無効であるという風に、必要な施策は異なるのである。

 

そういう意味で考えると本書に収められた論文が、9本が9本とも違った施策を提出しているのは至極当然とも言える。その中から自社に見合った論文(施策)をあてはめて見るのも良いし、合わなければ裁縫し直すのも一手だ。

 

 

私が面白いと思ったのは5章と6章。

 

5章では、ピグマリオン効果という心理学の用語をマネジメントに援用し、「期待が人を育てる」として、マネジャーの期待に合わせて部下の成績が上下することを解説する。

期待による業績への影響について、著者は実験結果を例示し、平均的な業績のグループが生産性を上げ、高い業績を果たしたことの原因を分析する。それがマネジャーの期待で、マネジャーは部下と打ち合わせをする時、「みんなは優れた潜在能力を持っている。ただ経験が不足しているだけだ」と発破をかけた。するとメンバーは労働生産性を高めることに成功したのである。まさにマネジャーの期待の成果だ。

 

オードリ-・ヘプバーンの映画『マイ・フェア・レディ』では、レディとしての自己イメージを持った主人公イライザ(ヘプバーン)が、他者から花売り娘として見られることを拒否してレディとなっていく有様を描いているが、例示した平均的なグループも同様で、「平均的」と見られることを拒否して、高業績を上げていくのである。

 

一方で、平均的で充分だと思ったり、平均的な自己イメージを脱することができなかったりする可能性もありうるが、それは、後半に指摘がある通り、期待が高業績を生み出すには「上司の能力」に依存するのである。部下に潜在的な能力があっても、それに気付けない上司や、それを教育して延ばすことができない上司ではいくら「期待」を部下に投げ掛けても意味がない。意欲的な部下は、上司に幻滅して自己の成長に後ろ向きになってしまうだろう。従って、企業にとって急務なのは、ピグマリオン効果を効果的に実現するためには、上司の底上げをするということだと、著者は提言する。この論文は1969年に書かれたものだが、この提言が今も尚効果的だというのは、喜ぶべきか悲しむべきか。

 

6章では、権力動機が高いマネジャーが優秀なマネジャーであると解説した。権力動機とは誤解を招きそうな名であるが、権力動機の意味するところは、マネジャー個人の権力を拡大することよりも、人を動かすことに熱心で、「組織全体の利益となるよう、自らを律し、コントロール」できるマネジャーの動機のことである。従って、マネジャーが権力を追求するというイメージとは遠い。

 

一方で、達成動機という概念もある。これは、「いままで以上に優れて、かつ効率的に物事を達成したいという願望」のことで、権力動機と反対に、組織の強化よりもまず自分の進歩に関心があるので、行動の動機は常に自分である。組織を運営し、部下を活用するマネジャーにとって、組織より自分を優先するマネジャーでは、組織目標の達成はおぼつかない。権力動機に動かされるマネジャーは自分よりも組織、部下が優先される。著者がいう通り、優秀なマネジャーは、部下にエネルギーと責任感を漲らせて、秩序ある組織を整える人を指すからである。

もうひとつ、親和動機なる概念もあり、こちらは部下に好かれたいという欲求のことである。

 

これらの概念を活用して著者は、マネジャーには3つのタイプがあり、組織志向マネジャーこそが良いと提案する。

組織志向マネジャーとは権力動機が高く、親和動機が低く、抑制力が高い。彼らは組織的な権力に関心を抱き、部下を動機づけ、生産性を向上させるタイプのマネジャーである。親和志向マネジャーは、親和動機が権力動機より高く、抑制力が低いマネジャーである。個人権力志向マネジャーは、権力動機が親和動機より高いが、抑制力が低いマネジャーである。

 

親和志向マネジャーは、理性よりも感情で判断するので仕事の手順が曖昧になり、整然とした組織力を構築し得ない。また、個人権力志向マネジャーは、親和志向よりはマネジメントの効果が見込めるものの、上司の権限を追求するために、部下は、組織よりも上司に心を尽くそうとしてしまう(つまり上司のために働く)。反面、組織志向マネジャーは、明確で整然とした組織づくりを志向するので、部下のモラルも高まり、業績も向上するであろう。部下は上司ではなく組織のために尽くすように仕向けられているから、上司が異動したり退職したりしても部下のモラルは変化し難いであろう。

 

組織志向マネジャーのプロフィールを最後に紹介しておく。

1.組織中心に物事を考える。すなわち、多くの組織に加わって、それらの組織を築き上げることが自分に課せられた責任だと感じる傾向がある。権力を集中させることが重要だと考えている。

2.仕事が好きである(労働量を減らしたがる達成動機の高い人と差異がある)。

3.自分の利益を犠牲にし、自分が働いている組織の繁栄のために尽くしたいという意欲にあふれている。

4.強い正義感の持ち主である。

 

 

5・6章ほどではないが8章の「Y理論は万能ではない」も面白く、マクレガーのX理論・Y理論を批判的に活用し、事例を元に、Y理論ではなくコンティンジェンシー理論、その核となるセンス・オブ・コンピタンスを提言する。

センス・オブ・コンピタンスは、業務にまつわる能力・スキルを高めるセンスのことで、自分の仕事や環境に慣れ親しみ、技能が向上することでもたらされる満足感の積み重ねのことである。

すなわち技能の向上に限界がないのと同様に、このセンスを身に着け、技能向上による満足感の蓄積は、限りなく積み重ねられる。したがって、このセンスを活用すれば社員の動機づけとして、強力なツールとなるだろう。著者がいうように、「センス・オブ・コンピタンスは一度満たされても、これで満足することはない。つまり、ある目標を達成すると、次の一段と高い目標が設定されるからである」。何だか、フロー理論をテニスの学習効果で説明した時のチクセントミハイの口ぶりと似ているが、動機づけの施策には、限界があってはならないのだろう。

【書評】 燃えよ剣 著者:司馬遼太郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈下〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈下〉 (新潮文庫)

司馬遼太郎歴史小説は、私の会社の同僚が好きで、よく読んでいるらしい。まあ司馬遼太郎が好きな会社員は多いだろうが、私はそれほど得意ではない。そもそも、大衆文学全般に言えるが文章が陳腐で飽き飽きしてしまうのだ。私は谷崎潤一郎のような純文学的な歴史小説なら読むのに、大衆文学的な歴史小説は苦手なのだが、それは、後者には物語を展開することに関心が置かれ、そのために文章が考え抜かれておらず、美しさを感じないからである。今回読んだ『燃えよ剣』もやはり同じ感想で、筆が乗って書かれていることは分かるが、どうも垢抜けない。本書は、近藤勇のことを野暮ったいと説明するが、本書の文体もまず洗練されてはいないだろう。美しい日本語によって、物語を創作するという意思は、本書からは感じられなかった。

しかし、大衆文学というものがそもそも瀟洒な文による物語の創作ということに関心を置いていないということで諦めればどうなるか。つまり文章をカッコに入れて物語だけを読むことにすれば、本書は充分に良い小説と言える。標準的な水準を超えているだろう。司馬遼太郎という、一時代を築いた作家の小説は、その物語から何か得られるものがあるということなのだろう。ゆえに他の小説も読んでみたいと思った。大衆文学でそんなことを思わせる小説家は、私には司馬遼太郎が初めてだ。
燃えよ剣』で面白く感じるのは、司馬の小説にはキャラクターを通じて思想を語らせ得る点であろう。それだけ人物の描写も丁寧で抜かりがない。

本書は、新撰組副長である土方歳三を主人公に、近藤勇というオモテに立つ男と、ウラから組織を支える男・土方の対比的な描写が良い。土方は洞察力、政治力に優れ、常に思索している。行動力もあるが、近藤の影にいつも控えている。なぜなら土方は新撰組という組織を支えるがゆえに、身を犠牲にすることを厭わないからである。資質からすれば、近藤よりも土方の方がリーダーに向いているような気がしないでもない。

だが土方は陽ではない。組織を牽引するための他者との親和性に欠けるのである。明るければ良いというものではないが、ひねもす考え抜いている陰気な思索家がリーダーに向いているかといえば否であろう。土方は直ぐに人を嫌うし、それゆえに相手からも嫌われやすいが、その点、近藤は明快だし、部下からも慕われている。近藤のためにという部下もいる。だが、組織は、リーダーのためだけでは継続しきれないことを理解しているのが土方で、彼はいかに新撰組という組織が、組織として自律的に存在するための方向性を獲得し得るかを、思索し、言葉にし、自らの身を投じて行動した人物である。最期の散り際も武士らしく戦って死ぬが、決して畳の上では死なぬ士道が彼の行動に伴われているように見える。

私は同じ新撰組を扱った『幕末の青嵐』(木内昇)でも感じたが、本書を読んでも、近藤勇よりも土方歳三の方が私は好みである。近藤が嫌という訳ではないが、土方は企業のマネジャーとして学ばされるところがあり、それはひとえに、土方の行動の多くに、組織を支えるマネジャーであるかのように読み取ることができることではあるまいか。

土方は組織を強化することを目的に新撰組をマネジメントするが、その支柱となるのは剣に対する深い信念である。土方は以下のように語る。

兵書を読むと、ふしぎに心がおちついてくる。(略)孫子、暮子といった兵書はいい。書いてあることは、敵を打ち破る、それだけが唯一の目的だ。

【書評】 武州公秘話 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

武州公秘話 (中公文庫)

武州公秘話 (中公文庫)

乱世の時代、武州公という武将の変態的性欲を赤裸々に描いた歴史物語。

13歳の少年時代、武州公は人質に取られていたのだが、ある時、戦で勝ち取った敵の首を整える女性たちの元へ行ったことがあった。そこで彼は、その首を見つめる一人の美しい女性を見つけた。彼女は武州公よりも身分が下であるが、女性に対して強い美を感じる彼は、身分などは関わりなく美を愛し得る。女性は首を見ながらニタニタと薄ら笑いを浮かべているのである。それを見た武州公は、自らもその首になりたいかのような被虐的な性欲を感じる。ある時彼は、女性が鼻のない首を見て微笑を浮かべているのを見た。不具の顔を見て一層の性欲を感じた彼は、自らも殺人を犯して、鼻を削いだ上で女性の前に首を差し出し、女性の微笑を見たいと思ったのである。

そして武州公は、ある時人目を忍んで戦地へと赴き、睡眠中の武将を殺害し、鼻を削いだのである。本当は首を切り取りたかったが、追手に追われて鼻を削ぐだけに留まった。

これが物語の発端で、武州公が仕える武士が迎える妻というのが、この殺害された武将の娘で、武州公が仕える武士というのも何をトチ狂ってそのような振る舞いに出たのかと思うが、この妻が実は虎視眈々と夫に対して父の復讐の機会を狙っているという物語が、素早い筆さばきで書かれて殊更にスリリングである。物語は純文学的な文芸の美しさというよりも、物語の運びに執着したエンターテインメントとしての面白さを追求している。

妻の名は桔梗といい、彼女は夫の鼻を削ぎ、父と同じ容貌にしたいと企んでいた。そして、手慣れの部下を使い、弓を放って夫の鼻を狙う。失敗して夫を兎唇にしてしまった。しかし一度目の弓で下手人が武州公に殺害され、袂に入った手紙から桔梗のことが露見してしまうというのは、物語を迅速に進めるためには必要だろうが、私には思慮が足りないように思えた。下手人が、間が抜けているようにしか思えなかったからである。

そして新たな下手人が夫の耳を砕き、またも鼻を削ぐことに失敗するのだが、徐々に、顔が損傷していく様を描きたいためにこのような設定にしているように思えてならず、谷崎のグロテスクな嗜虐性が伺われる。別に、さっさと鼻を削いでしまえば良いのに、そして結局、鼻は削がれるにもかかわらず、損傷が徐々に行われるのだから。

武州公と桔梗とは、やがて手を取り合って桔梗の夫の鼻を削ぐことに執心するのだが、この背景がどうもよく分からない。桔梗の家に入るために厠を伝って入るというのも奇妙で薄気味悪く、そんな男をなぜ信用するだろうか。

仮にも夫に仕える男が、主を裏切って桔梗側に付くことを許すというのは、なぜか?桔梗の心理がつかめない。結局、物語の最後、桔梗は夫に詫びる心で貞淑な妻に変わるというのも、取ってつけたようで全く関心しなかった。夫への復讐を目指すなら最後は悪事が露見して殺害されれば面白いものを、単なる善人に終わっている。しかも、解せないのは武州公が桔梗の父を殺して鼻を削いだ張本人なのに桔梗にはそれがバレないまま物語が終わることである。私はいつバレるのかと思ったし、バレたらどんな仕打ちを武州公が受けるかと想像したが、何もないのである。このような展開なので、多いに興を削がれてしまった。

幼い頃に見たニタニタ笑いの美女にしても桔梗にしても、サロメのような女性像である。これはいかにも谷崎らしいもので、本書の解説で正宗白鳥が言うように「谷崎好みの題材を谷崎式手法で活写しているだけ」というのは確かにその通りである。私も正宗と並んで、この怪異な物語に驚かされはしなかった。何よりも物語の構成が特段よろしくないのである。

【映画レビュー】 マイ・プライベート・アイダホ 評価☆☆☆★★ (1991年 米国)


 

マイ・プライベート・アイダホ [DVD]

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『マイ・プライベート・アイダホ』は、リヴァー・フェニックスキアヌ・リーヴス主演の青春映画。『エレファント』や『ミルク』のガス・ヴァン・サント監督作。自らもゲイであることを告白しているガス・ヴァン・サントが20代の男優二人を美しく撮っている。リヴァーもキアヌも男娼の役だ。リヴァーは映画の冒頭で薄汚いオッサンにフェラチオをされている。顔だけの演技で快感に浸っているのだが、アイドル的な顔立ちのリヴァーがこんな恍惚の表情をされるとこちらが顔を赤らめてしまう。女よりも色っぽいリヴァーは必見である。リヴァー・フェニックス、僅か21歳(1970年生まれ)にして孤高の存在感を見せる。

 

キアヌも凛々しくて良いが、本作が代表作となったリヴァーが可憐で美しい。彼はこの演技でヴェネチアの男優賞に輝いた。もっと長生きしていれば良い俳優になったと思う。といっても、リヴァーに似ていると言われたディカプリオのような成功の仕方はなかっただろうが(世界的なヒット作『タイタニック』に出演するというようなスターにはならなかっただろう)。リヴァーはディカプリオのような陽のスターではなく、ジョニー・デップのような陰翳のあるスターなのである。デップもリヴァーの友人であった。

私も子どもの頃にリヴァー・フェニックスをビデオ屋の切り抜き記事で見て知って、子どもながら憧れたものだ。髪型を真似したりしたが、その時点では夭折していたとは知らなかった。私は早世している芸術家に憧れがちで、三島由紀夫とかクイーンのフレディ・マーキュリーなどが好きだが、リヴァーもその一人だった(今は、三島やフレディみたいに好きではないが)。共通項でいえば、三島もフレディも同性愛的、リヴァーも本作ではゲイを演じているのは偶然なのか・・・早世で同性愛的な芸術家を好むという結果になってしまうが。長生きしたゲイのW.S.バロウズも好きだが・・・

 

リヴァー・フェニックスには、容貌が全然似ていないホアキン・フェニックスという、映画俳優の弟がいる。リヴァーは僅か23歳で亡くなってしまったので、確かに演技が上手いことは上手いが、道半ばという感じである。弟のホアキンは器用な俳優ではないが、個性が強く存在感に溢れ、映画俳優としては、もはや兄よりもだいぶ高みにいるようだ。キャリアが長いので単純には比べられないけれども。そういえば弟のホアキンも兄同様に、ヴェネチアで男優賞を受賞している(『ザ・マスター』によりフィリップ・シーモア・ホフマンと同時受賞)。

 

共演のキアヌも今やアクションスターとしての地歩を確立しており、リヴァーの夭折が悔やまれる。リヴァーは孤独感たっぷりの繊細な演技をして、映画ファンを魅了したことだろう。私も彼の陰鬱で美しい容貌を銀幕で見ていたかった。

  

『マイ・プライベート・アイダホ』は、マイク(リヴァー・フェニックス)という20歳くらいのゲイの孤独な物語である。前半はポートランドやアイダホの沈滞した場面が続く。後半はマイクの母探しの物語となり、母が働いていたホテルや、遠くイタリアにまで旅をするロードムービーとなる。前半・後半のいずれにも一貫するのが孤独感だ。前半においてマイクは、男娼をしながら金を稼ぎ、スコット(キアヌ・リーヴス)を始めとする仲間との変わり映えのしない日常を淡々と過ごしている。マイクは終始浮かない表情をしており、突如としててんかんのような発作を起こして意識を失うこともある。

 

マイクは同じく男娼をしているスコットを愛しており、彼に思いを打ち明けるが、スコットには受け入れられない。スコットと共に母探しの旅に出る後半で、マイクはイタリアに赴く。そこで母の消息は、アメリカに戻ったということだけで途切れてしまう。慨嘆する間もなく、スコットはイタリアで女性の恋人を見つけ、マイクの目の前でいちゃいちゃするし、マイクが寝ている部屋の近く(上の階か?)でベッドをぎしぎしと音を立てて恋人と激しい性交に耽るので、マイクの哀しみはいかばかりかと察せられる。その煩わしい音を聞きながらマイクは哀しい目を開けて虚空を見ているのが何とも切ない。

 

スコットはアメリカ時代から男娼をしているのでゲイなのかと思われたが、実態はバイセクシュアルで、イタリアに渡って彼は女性の恋人を見つけ、人生の方向性を女性と歩むことを決定づけるのである。マイクの好意を明確に知りながらも、スコットは露骨にマイクの前で女と愛し合うのは人生の方向性を決定づけたことを自らに、強硬に植え付けるための行為だったのだろうか?スコットはマイクと、イタリアに同行するほど優しい男であるが、自らの意思はマイクよりもずっと強い。

 

アメリカに戻ったマイクとスコットは、完全に人生が分かれる。市長の息子であるスコットは父の死後その後を継ぎ、イタリアで出会った女性の恋人を連れ、ゲイであった過去を打ち消すかのように襟を正す。マイクは相変わらず男娼を続けるが彼は女性を愛さないゲイだからである。スコットはバイセクシュアルなのである。この性的志向の差異を人生の方向性において、鮮烈に描かれることで、ゲイであり人生を方向づけられないマイクの悲哀ぶりが一層深く、えぐりだされる。映画の最後、道の真ん中で例の発作を起こして倒れ込み、1台の車に追剥に遭い、次に来た2台目の車のドライバーによって車の中にひきずりこまれたマイクは、一体どこに向かうのだろうか。自らの人生を方向づけられないマイクはまたもや、他者(ドライバー)によってかじ取りをしてもらっているように見えた。スコットが正ではないしマイクが誤ではないが、自らの意思を貫徹できないマイクはいつまでも停滞するままである。その停滞の悲哀は、この映画の最初から最後まで、リヴァー・フェニックスの演技によって一貫していた。

 

本作は、詩的な映像は美しいものの、淡々とした物語の流れによって、映画に感情を繋ぎとめきれなかった。よって、私にとって本作はさほど好ましい映画ではない。ただ、リヴァーが演じたマイクはリヴァーと一心同体のように見えた。あたかもマイクは、リヴァー・フェニックスを撮ったドキュメンタリーの主人公のように見え、リヴァーはマイク役に憑依していたのだろうが、それだけに、確かに彼の演技は素晴らしく代表作と言えるにふさわしい作品である。

 

ちなみに、本作『マイ・プライベート・アイダホ』については、リンクのレビューが一読の価値があると思う。レビュアーはゲイの方のようで私情を孕ませながら書かれた文章は印象的である。

 

blog.goo.ne.jp

TUMIのバッグを初めて買った

私は夏のセールでTUMIのビジネスバッグを買った。実態は、セールといってもまったく安くなっていないから、単に「セール期間中に買った」というに過ぎないが・・・

 

買ったのはこれだ。

セネカ スリム・ブリーフというやつ。

 

 

私はTUMIのバッグのデザインが好きではなく、「一生、縁がないブランドだろうな」と思っていた。しかしたまたま、TUMIが夏のセールをやっていたので、覗いてみたら、良いものがなかった。案の定。

 

そう思っていたら、新作コーナーが目に入ったので見てみると、↑のバッグが目に付いた。これは・・・これならカッコイイ。そう思って買ったのだった。

 

もともと、TUMIのバッグは、デザインは好みではないながらも、頑丈さについてはお墨付きであるのを知っていて、関心はあった。だが、世のビジネスマンが持っているTUMIのバッグは何だか大学生が持っているブリーフバッグみたいでとにかく私の好みじゃない。

 

でも、もしかしたら好みのデザインのバッグを開発しているかもしれないとは思っていて、いつの日か購入する日がくるのではないかと念じていた。

 

それで買ってみたら確かにカッコイイ。黒色でシンプルなところも、ビジネス向けで良いし、マットな色感がとても素敵である。こんなに味わいのあるバッグを自分の仕事用に仕えるとなると、テンションが上がるし、嫌な通勤も楽しくなろうというものだ。まあ、薄いデザインなので、パソコンと書類と文庫本でも入れたらもうあまり入らないし、入れ過ぎるとせっかくのデザイン性を損なうので、モノを入れる場合には向かないが。

 

ついでに、新作コーナーをよく見てみると、結構良いデザインのバッグがあるのが分かる。

 

* ラップトップブリーフバッグ *

www.tumi.co.jp

 

黒とネイビーの2色あるが、黒はダメだ。ネイビーが良い。

実は先日、オフィス街を散歩していたらこれのネイビーを持っていたビジネスマンがいたので、「あっ!」と思った。まるで強盗を働く前触れかのようにじっと見てしまった。それくらい素敵だった。

 

* スリム・ブリーフ *

www.tumi.co.jp

 

なんだかオロビアンコみたいなデザインで、個性抜群である。私が買ったセネカはシンプルなので持っている人もいるだろうが、この「スリム・ブリーフ」はなかなかいないのでは。人と違うバッグを持ちたい、という人にはぜひ薦めたくなる。