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【映画レビュー】 マイ・プライベート・アイダホ 評価☆☆☆★★ (1991年 米国)


 

マイ・プライベート・アイダホ [DVD]

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『マイ・プライベート・アイダホ』は、リヴァー・フェニックスキアヌ・リーヴス主演の青春映画。『エレファント』や『ミルク』のガス・ヴァン・サント監督作。自らもゲイであることを告白しているガス・ヴァン・サントが20代の男優二人を美しく撮っている。リヴァーもキアヌも男娼の役だ。リヴァーは映画の冒頭で薄汚いオッサンにフェラチオをされている。顔だけの演技で快感に浸っているのだが、アイドル的な顔立ちのリヴァーがこんな恍惚の表情をされるとこちらが顔を赤らめてしまう。女よりも色っぽいリヴァーは必見である。リヴァー・フェニックス、僅か21歳(1970年生まれ)にして孤高の存在感を見せる。

 

キアヌも凛々しくて良いが、本作が代表作となったリヴァーが可憐で美しい。彼はこの演技でヴェネチアの男優賞に輝いた。もっと長生きしていれば良い俳優になったと思う。といっても、リヴァーに似ていると言われたディカプリオのような成功の仕方はなかっただろうが(世界的なヒット作『タイタニック』に出演するというようなスターにはならなかっただろう)。リヴァーはディカプリオのような陽のスターではなく、ジョニー・デップのような陰翳のあるスターなのである。デップもリヴァーの友人であった。

私も子どもの頃にリヴァー・フェニックスをビデオ屋の切り抜き記事で見て知って、子どもながら憧れたものだ。髪型を真似したりしたが、その時点では夭折していたとは知らなかった。私は早世している芸術家に憧れがちで、三島由紀夫とかクイーンのフレディ・マーキュリーなどが好きだが、リヴァーもその一人だった(今は、三島やフレディみたいに好きではないが)。共通項でいえば、三島もフレディも同性愛的、リヴァーも本作ではゲイを演じているのは偶然なのか・・・早世で同性愛的な芸術家を好むという結果になってしまうが。長生きしたゲイのW.S.バロウズも好きだが・・・

 

リヴァー・フェニックスには、容貌が全然似ていないホアキン・フェニックスという、映画俳優の弟がいる。リヴァーは僅か23歳で亡くなってしまったので、確かに演技が上手いことは上手いが、道半ばという感じである。弟のホアキンは器用な俳優ではないが、個性が強く存在感に溢れ、映画俳優としては、もはや兄よりもだいぶ高みにいるようだ。キャリアが長いので単純には比べられないけれども。そういえば弟のホアキンも兄同様に、ヴェネチアで男優賞を受賞している(『ザ・マスター』によりフィリップ・シーモア・ホフマンと同時受賞)。

 

共演のキアヌも今やアクションスターとしての地歩を確立しており、リヴァーの夭折が悔やまれる。リヴァーは孤独感たっぷりの繊細な演技をして、映画ファンを魅了したことだろう。私も彼の陰鬱で美しい容貌を銀幕で見ていたかった。

  

『マイ・プライベート・アイダホ』は、マイク(リヴァー・フェニックス)という20歳くらいのゲイの孤独な物語である。前半はポートランドやアイダホの沈滞した場面が続く。後半はマイクの母探しの物語となり、母が働いていたホテルや、遠くイタリアにまで旅をするロードムービーとなる。前半・後半のいずれにも一貫するのが孤独感だ。前半においてマイクは、男娼をしながら金を稼ぎ、スコット(キアヌ・リーヴス)を始めとする仲間との変わり映えのしない日常を淡々と過ごしている。マイクは終始浮かない表情をしており、突如としててんかんのような発作を起こして意識を失うこともある。

 

マイクは同じく男娼をしているスコットを愛しており、彼に思いを打ち明けるが、スコットには受け入れられない。スコットと共に母探しの旅に出る後半で、マイクはイタリアに赴く。そこで母の消息は、アメリカに戻ったということだけで途切れてしまう。慨嘆する間もなく、スコットはイタリアで女性の恋人を見つけ、マイクの目の前でいちゃいちゃするし、マイクが寝ている部屋の近く(上の階か?)でベッドをぎしぎしと音を立てて恋人と激しい性交に耽るので、マイクの哀しみはいかばかりかと察せられる。その煩わしい音を聞きながらマイクは哀しい目を開けて虚空を見ているのが何とも切ない。

 

スコットはアメリカ時代から男娼をしているのでゲイなのかと思われたが、実態はバイセクシュアルで、イタリアに渡って彼は女性の恋人を見つけ、人生の方向性を女性と歩むことを決定づけるのである。マイクの好意を明確に知りながらも、スコットは露骨にマイクの前で女と愛し合うのは人生の方向性を決定づけたことを自らに、強硬に植え付けるための行為だったのだろうか?スコットはマイクと、イタリアに同行するほど優しい男であるが、自らの意思はマイクよりもずっと強い。

 

アメリカに戻ったマイクとスコットは、完全に人生が分かれる。市長の息子であるスコットは父の死後その後を継ぎ、イタリアで出会った女性の恋人を連れ、ゲイであった過去を打ち消すかのように襟を正す。マイクは相変わらず男娼を続けるが彼は女性を愛さないゲイだからである。スコットはバイセクシュアルなのである。この性的志向の差異を人生の方向性において、鮮烈に描かれることで、ゲイであり人生を方向づけられないマイクの悲哀ぶりが一層深く、えぐりだされる。映画の最後、道の真ん中で例の発作を起こして倒れ込み、1台の車に追剥に遭い、次に来た2台目の車のドライバーによって車の中にひきずりこまれたマイクは、一体どこに向かうのだろうか。自らの人生を方向づけられないマイクはまたもや、他者(ドライバー)によってかじ取りをしてもらっているように見えた。スコットが正ではないしマイクが誤ではないが、自らの意思を貫徹できないマイクはいつまでも停滞するままである。その停滞の悲哀は、この映画の最初から最後まで、リヴァー・フェニックスの演技によって一貫していた。

 

本作は、詩的な映像は美しいものの、淡々とした物語の流れによって、映画に感情を繋ぎとめきれなかった。よって、私にとって本作はさほど好ましい映画ではない。ただ、リヴァーが演じたマイクはリヴァーと一心同体のように見えた。あたかもマイクは、リヴァー・フェニックスを撮ったドキュメンタリーの主人公のように見え、リヴァーはマイク役に憑依していたのだろうが、それだけに、確かに彼の演技は素晴らしく代表作と言えるにふさわしい作品である。

 

ちなみに、本作『マイ・プライベート・アイダホ』については、リンクのレビューが一読の価値があると思う。レビュアーはゲイの方のようで私情を孕ませながら書かれた文章は印象的である。

 

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