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【書評】 花ざかりの森・憂国 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆★ (日本)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

三島由紀夫の自選短編集『花ざかりの森・憂国

『花ざかりの森・憂国』は、三島由紀夫の自選短編集である。なんと解説まで三島由紀夫なのだ。収録作品は表題作「花ざかりの森」「憂国」の他、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」「詩を書く少年」「百万円煎餅」など13編である。私は三島の短編を好んで読まないが、三島自身も解説で次のように書いている。

文庫形式で自選短編集を出すほど、私は、短編という文学ジャンルに対して、すでに疎遠になってしまったのを感じる。(略)自然に短編の制作から私の心が遠ざかって行ったのである。そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入ったものと思われる。

その通りで、私が三島の短編を好んで読まないのは、短編には、長編小説におけるほど三島の創作の強い意欲を感じないからだ。三島は論理的な文体を使ったが、文体同様に小説の構造についてもしっかりとした結構を持った作品を書いた。そしてそれは、短編のような短い形式ではなく、長編小説のように語を多く使用できる長い形式にこそ適しているだろう。

だが、そんな中でも『花ざかりの森・憂国』のいくつかは、面白いと思うので、読んでみたのだった。

三島由紀夫の代表的短編「憂国

憂国」は三島の短編小説の中で私が特に評価する作品だ。二・二六事件の外伝的物語で、30歳の武山信二とその妻で23歳の麗子の自決までの「愛」「性愛」「憂国」などを丹念に描いている。

武山信二は、二・二六事件に親友たちが反乱軍に加担したことを知る。信二は軍人としてやがて反乱軍を討たねばならないことを覚悟したが、そんなことはできない。二・二六事件が起こったのは武山夫妻が結婚してわずか半年。親友たちは、信二が新婚であることを考慮して事件に誘わなかったのである。もし信二が新婚でなければ誘った可能性があるだろう。信二は、いずれ死の道を歩まねばならぬ身である。もちろん軍人の妻たる麗子も後を追わねばならない。

親友との義理を守らないことは、軍人として許されない。それは日本の軍人ではない。それでは信二は軍人としてどういう行動を取るべきか。自刃しかないのだ。大義のために死す。

そこで信二は事件の三日目に切腹することを決意する。軍人の妻として、常に死を間近に考えている妻・麗子は「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」と言って自刃を決意するのだ。

日本という国に使える軍人として、信二・麗子の思考は清冽であり、言葉は凄味を帯びている。二人の思考の傍らには、常に死がそこにある。引き金を引けば、いつなんどきでも死ぬ覚悟ができている。それゆえに死に対して一瞬の迷いもなかった。三島は信二・麗子の死を好意的に描く。この時私は三島由紀夫が『葉隠入門』で書いた文章を思い出す。

生きているものが死と直面するとは何であろうか。「葉隠」はこの場合に、ただ行動の純粋性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定している。

憂国」における執拗な性愛、そして自決の描写

憂国」は大義のために死ぬ信二・麗子という若い軍人夫婦を描いた。しかし、大義憂国だけを描いているかというと、そうではない。自決のその直前まで性愛が描かれているのだ。結婚して半年という短さもあろうが、厳格な家庭に育ったと思しき貞淑な妻麗子が、荒々しく強靭な肉体に掻き抱かれた時、それによく応じたという描写がある。

また、いざ自決する時の信二の肉体が滅んでいく様は、グロテスクなまでに執拗だ。介錯がいないゆえに、信二は深く腹に刀を突き刺し、最期は力を振り絞って刃に体を投げかけて項(うなじ)をつらぬかせて絶命するのだ。腹に刀を突き刺して、ただれおちる血液、はみ出てしまう腸などの描写は、ただただ、奇怪なだけでなく、大義のために死ぬ軍人の死に様としか例えようがない。軍人である夫の死をきちんと見届けるよう命じられた麗子は、彼の死を確認してから自害する。彼女は喉元に刃をあてるが、うまくいかない。何度かやって、成功し、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通して絶命した。

三島は「憂国」について、「三島のよいところ悪いところをすべて凝縮したエキスのような小説」と言っている。確かに、「憂国」は三島由紀夫作品を体現しているかのような、濃密な小説である。

憂国」以外の短編は小粒ぞろい

憂国」以外の短編はそう出来が良いものではない。特に表題作の「花ざかりの森」は今一つで、習作の域を出ない。三島も同作を愛さないという。その通りだろう。「詩を書く少年」「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」あたりがまだ読めるだろうか。

【書評】 仮説思考 BCG流問題発見・解決の発想法 著者:内田和成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

「仮説思考」のエッセンスを実践的に伝えている

著者の内田和成は、2000〜2004年までBCG(ボストンコンサルティンググループ)の日本代表を務めた。その他早稲田大学商学学術院教授(初版当時)。

本書『仮説思考』は、仮説思考のエッセンス、そしてその実践方法について、学生が読んでも理解できるように平易な言葉で書かれている。理論を披歴するに留まらず、ビジネスの問題解決の場で、仮説思考を実践することの重要性を説く。一朝一夕で仮説思考が身につくものではないので、あたかもスポーツの練習のように鍛錬を重ねること。ゆえに、社会に出る前に読むのも良いが、ぜひ就職した後にこそ、本書を読んで実践した方が良いだろう。

多くの情報を集めても正しい答えが出るとは限らない

仮説思考は問題解決の現場で力を発揮する。例えば、仕事上で何らかの問題が生じた。その問題を解決する時、ビジネスパーソンはどのような方法で意思決定をするのだろうか?

多くの情報を収集して決定するか。

あるいは、わずかな情報で決定するか。

確かに多くの情報があった方が意思決定に役立つように見える。しかし多くの情報を収集するには時間がかかる。著者は多くの情報を収集することの非効率性について次のように書いている。

情報収集しているうちにどんどん時間が過ぎていき、結局、肝心の意思決定は「エイヤーッ」でやらざるを得なくなったり、いざ物事を決める段階になって、必要なデータがそろっていないことに気づいたりする。要するに、あらゆる情報を網羅的に調べてから答えを出していくには、時間的にも資源的にも無理があるということである。

特にビジネスの世界は速度が速く、情報を網羅的に調べた上で意思決定しても、既にその決定事項が使えないことがある。つまり鮮度が古くなり、使いものにならなくなっているのだ。

仮説思考を用いて最短で解を求めよ

情報を網羅的に調べて意思決定しても、その決定事項が使えないことがある。むしろ、そもそも網羅的に調べること自体、現実的には難しいといえる。では、どうしたら良いのか。

著者は、ビジネスの問題解決においては、「仮説思考」という思考法を用いるべきだという。「仮説思考」とは「物事を答えから考えること」。あるいは、「ベストな解を最短で探す方法」のこと。仕事の進め方でいえば、「課題を分析して答えを出すのではなく、まず答えを出し、それを分析して証明するのである」と書く。

仮説は検証し、進化させていく

仮説は間違っていても構わない。むしろ間違いを恐れるがゆえに、情報収集に走って時間を浪費することこそ、慎むべきである。仮に仮説が誤っていたとしても、間違いに早く気づけば立て直しができる。しかし、延々と情報収集に勤しんでいて時間を空費し、結果、意思決定をした時に既にその決定事項が使いものにならなくなっていた…ということに比べたら、早い段階で間違いに気づき、立て直せた方が良い。

仮説は、正しいのか、誤っているのかを検証する。そして仮説を進化させていく。著者は、検証の手段として「実験」「ディスカッション」「分析」の3つを挙げていた。そして検証の結果、仮説を進化させていけば良い(進化させていけば良いというのは、最初に立てた仮説が必ずしも正しい仮説ではないからだ)。

どんな意思決定が良いか?多くの情報を元に分析して、その分析結果を元に意思決定をしていては遅くなる。それよりも仮説思考を用いて仮説・検証を繰り返し、より早く、正しい意思決定に持ち込むこと。他の人が情報収集に右往左往している間に、仮説思考を実践している人は、さっさと仮説を立てて検証し、掘り下げ、それを進化させていく。おのずと、その人の仕事のスピードは早くなることだろう。

多くのビジネスパーソンに共通する「仮説思考」

本書は副題にあるように、コンサルタントとしての実践を元に書かれたビジネス書だ。仮説思考の啓蒙書といっても良い。ビジネスパーソンなら、誰だって仕事の問題はある。問題のないビジネスパーソンはいない。たとえ新卒だって問題は抱える。そんな時にこの仮説思考の考え方は大いに参考になろう。

繰り返すが、仕事の問題解決に取り組む際に、多くの情報を収集してから、「さあ、意思決定しよう!」というのでは、もはや時すでに遅し、となっていることがある。それに、そもそも、情報を網羅的に収集することなどできないのだ。情報を網羅しているように思い込んでいるだけなのである。

それよりも、仮説思考を用いて、短期間で仮説を立てて検証していった方が、早く解にたどり着ける。意思決定の際にもスピード感があり、本質的な意思決定ができる。これを大いに活用しない手はない。非常に良い本だ。著者の文体も、知的な意匠はひかえめに、コンサルタントとしての経験による自信により、読者に「仮説思考」を実践させる力を持っている。

【書評】 葉隠入門 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠』と三島由紀夫

小説家・三島由紀夫による『葉隠』についてのエッセイ。『葉隠入門』とある通り『葉隠』の入門書であるが、同時に三島由紀夫の思想を追想できる作品となっている。

三島の『葉隠入門』は次のような書き出しで始まる。

若い時分の心の伴侶としては、友だちと書物とがある。しかし、友だちは生き身のからだを持っていて、たえず変わっていく。ある一時期の感激も時とともにさめ、また別の友だちと、また別の感激が生まれてくる。書物もある意味ではそのようなものである。
<略>
しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本棚の一隅に見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃だらけになって、がんこに守っている。

そして、三島由紀夫にとって重要な作品であるラディゲや上田秋成作品は、かつて三島を文学的に虜にしたが、徐々に彼の「座右の書ではなくなっていった」という。しかし、そんな中にあって三島の座右の書とでもいうべき作品は、山本常朝(じょうちょう)の『葉隠』なのである。しかも『葉隠』は、「世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わった」後、かえって三島の心を捉えた。三島にここまで言わしめる『葉隠』はいかに重要か。『葉隠』は彼の小説を解く鍵となっていることだろう。

三島由紀夫の『葉隠』を実践すること

三島由紀夫は小説家でありながら、ボディビルや空手を習い肉体を鍛えた。三島の小説には明晰な論理性と、美への強い意識がある。しかし三島は『葉隠』に耽溺するうちに「文学の中には、どうしても卑怯なものがひそんでいる」という、以前から抱いていた疑惑を表面に出すようになってきた。ゆえに彼は文武両道を必要とするようになった。彼の「肉体を鍛えること」への執着は『葉隠』の実践、すなわち文武両道からきている考えなのだろう。

三島は本書の中で、「芸術というものは芸術だけの中にぬくぬくとしていては衰えて死んでしまう」と言っている。なぜなら、文学は生そのものを材料として成り立っているからだ。

芸術はつねに芸術外のものにおびやかされ鼓舞されていなければ、たちまち枯渇してしまうのだ。それというのも、文学などという芸術は、つねに生そのものから材料を得て来ているのであって、その生なるものは母であると同時に仇敵である。

死の哲学を説いた『葉隠

三島は本書の終盤において、生の哲学を説いた西洋哲学、そして輪廻転生を説いた仏教と対置して『葉隠』を置く。

葉隠』は人間が死と直面した時に、「ただ行動の純粋性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定している」。だから人の死について他者の評価はあてにならず、例えば先の大戦の神風特攻隊も、必ずしも犬死ではなく彼らの行動が純粋であり、情熱の高さと力とがあれば、それは価値ある死であろう。

思想や理論のために死ななくても、何の意味もない死であっても、人間の死としての尊厳がある。そこに『葉隠』の真髄があるのであろう。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないといって三島は擱筆する。

このヒューマニズム的な死の価値観は、生の価値観を対置して考えるほどに独創的とは思えず、『葉隠』という書物に対する興味が殺がれる結果となってしまった。まして三島が座右の書とするほどの書物なのか…という疑惑が首をもたげて、私はページを閉じた。

【書評】 愛の渇き 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

愛の渇き (新潮文庫)

愛の渇き (新潮文庫)

陳腐で退廃的な美を描いた『愛の渇き』

『愛の渇き』というややセンチメンタルなタイトルの小説は、三島由紀夫の作品の中で傑作でもなければ、駄作でもない。とりたてて褒めるべきところも多くないので、凡作というべきなのだが、それでも読後の感想は悪くない。それは悦子という未亡人が舅との性的関係を築くということ、そして未亡人が園丁に恋をするということ、最後に園丁を未亡人が殺害してしまうことなどによる、陳腐だが退廃的な美に快楽を感じるからだろう。

【書評】 郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 著者:東浩紀 評価☆☆☆★★ (日本)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

『郵便的不安たちβ』は東浩紀の90年代の仕事を収めた評論集

評論家・作家である東浩紀の評論集。90年代の主要な文章を収める。東といえば『存在論的、郵便的』が有名だが、最近は何をやっているのかサッパリ分からなかった。本書を概観してみると哲学に関する文章、文芸そして文化、サブカルチャーに関する文章が並ぶが、面白いのは哲学もしくは哲学用語を使った文章である。東は哲学だけではなくアニメも好きなのだろうが、彼が書いたアニメに関する文章を読むと面白いのもあるし、つまらないのもある。つまらないのはアニメに寄り過ぎている文章だ。これは無理しているな…と感じる。

東浩紀は哲学が好きだろうし、哲学と接してこそ良い文章を書ける人だ。今更言っても仕方がないが、大学に籍を置きながら、哲学用語を用いて文化を批評していた方が良かったんじゃないかと感じる。あるいは『存在論的、郵便的』のように哲学だけを論じるとか…私は本書を読んで、改めて、『存在論的、郵便的』のような著作を、彼には再び期待したいと思った。

「郵便的不安たち」

本書には多数の評論もしくは講演、インタビューなどが収められているが、私が一番好きなのは、表題にもなっている「郵便的不安たち」である。これは彼の代表作『存在論的、郵便的』の発刊記念の講演である。それゆえに著者は、『存在論的、郵便的』で使われた概念「コンスタティヴ」「パフォーマティヴ」に言及する。

「コンスタティヴ」は「言葉や文章が文字どおりの意味を指し示す働きを意味」する。だから、例えば私が誰かに対して「君はバカだ」と言ったらそこでは文字どおり、「君はバカだ」という事実がこの文章によって指示されている訳である。一方、「パフォーマティヴ」は「修辞や言い回しの力のこと」である。例えば私が誰かに対して「君のことが好きだ」と言っても、その行為によってその人をバカにすることもできる。

しかし、書かれた文章そのままを受けとってもらうことができず(つまりコンスタティヴ的に読まれない)、違う意味で受けとられてしまう(パフォーマティヴ的に読まれる)という現象が普遍性を持っているかのように書かれると、理論優先で現実を見ていないように感じる。文字や音楽や映像が本来持っている「意味」の力が社会的に保証されないとも言っているが、本当にそうなのか?それこそ、自分の書いた文章に立ち止まって考えて欲しいものだが。

なぜ東は哲学、文芸、あるいはサブカルチャーを横断したのか?

また、この評論では東浩紀がなぜ哲学・文芸・サブカルチャーを横断したのか?が書いてあるように思えるので、大変興味深い。

東は、ラカン象徴界というキーワードを用いた上で、現代社会においては象徴界の力が衰えているという。彼によれば、象徴界というのは、「言語的コミュニケーションを成立させる場」のことで、具体的には「社会的制度や国家」のことを指す。その象徴界の力が衰えている。哲学は、かつて世界全体の上に立つメタ理論で、大衆もそれを求めていた。しかし象徴界の力が衰えたことで、上向きの超越論が難しくなった。つまり哲学が多くの人からの関心を得られなくなった訳だ。

東はそのように現代社会を分析した上で、「象徴界なしのコミュニケーション、上向きではない横向きの超越論性について考え、またそれを実践すること」を考えるべきだと提案する。これを、実践したのが、著者自身だというのは、哲学に限らず文芸やサブカルチャーにまで手を広げた、彼の活動が物語っているだろう。

後の方で彼は、社会という後ろ盾がない新しい言葉の力を目指すべきだと言っているが、よく分からない。それは横に突き抜けるような言葉の可能性を目指すことだといい、それがまさに東の実践なのだろうが、私が東を「何をやっているのかサッパリ分からない」と言ったように迷走しているように思う。東は哲学研究に活動のスタートを切った。それは成功したが、文芸やサブカルチャーに寄り過ぎた彼の作品は決して面白いものとは言えない。斎藤環みたいに、精神分析や哲学の用語を用いて文化を語りつつ、立ち位置は相変わらず医師のまま、という方が東が言う横に突き抜ける言葉の可能性を実践できたということになるのではないか…?

平野啓一郎作品をオタク作品と同列視

尚、この「郵便的不安たち」では、作家の平野啓一郎のことが悪く書かれていて面白い。平野が芥川賞を受賞して華々しくデビューした頃の評論ゆえに、著者の皮肉が効いている。例えばこんな風に(カッコ書きは私)。

彼(平野啓一郎)はボードレール三島由紀夫を独自のやり方で読み、勝手に答えを出し、しかもそれを公表し恥じることがない。

パフォーマティヴ的に、本当は「平野、お前少しは恥じろよ」とでも言いたげな文章につい笑ってしまう。東浩紀にかかると平野啓一郎は、「形而上学的」志向を持ったオタク作品と同列視されてしまっている。

「棲み分ける批評」を読んで思う横断の虚しさ

「棲み分ける批評」、これは著者の初期の評論。加藤典洋浅田彰福田和也など著名な評論家の名前が出てくるが、言っていることは「郵便的不安たち」と同じ。アカデミズムとジャーナリズムでは話が噛み合わないので、横断する新しい言葉が必要だというもの。加藤典洋が文芸批評の特権性を信じているというのは、加藤ならありそうだな…と思って笑った。文芸批評は、私には非論理的な芸術に読めるので、小説と同様に感覚的に読めばいいので、特権性は剥奪すべきだということ。だから横断する必要もない。

特権性をいまだに信じている加藤のような人には、「文芸批評には特権性はない」と指摘するしかないだろう。

哲学も同様で、もはや特権性はないので、地味に哲学を研究し続けてもらう他にないというだけだろう。経済学や経営学などの実学も、哲学よりは人目を惹くが、その程度の相対的なものである。世の中の上に立つメタ理論は存在しない。それは分かるが、哲学・文芸・サブカルチャーが乱立している現代社会については、それぞれの個性を認めてあげればいいだけのことだったんじゃないか。横断なんてしなくて良かったんじゃないか。そう思う。