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【書評】 郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 著者:東浩紀 評価☆☆☆★★ (日本)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

『郵便的不安たちβ』は東浩紀の90年代の仕事を収めた評論集

評論家・作家である東浩紀の評論集。90年代の主要な文章を収める。東といえば『存在論的、郵便的』が有名だが、最近は何をやっているのかサッパリ分からなかった。本書を概観してみると哲学に関する文章、文芸そして文化、サブカルチャーに関する文章が並ぶが、面白いのは哲学もしくは哲学用語を使った文章である。東は哲学だけではなくアニメも好きなのだろうが、彼が書いたアニメに関する文章を読むと面白いのもあるし、つまらないのもある。つまらないのはアニメに寄り過ぎている文章だ。これは無理しているな…と感じる。

東浩紀は哲学が好きだろうし、哲学と接してこそ良い文章を書ける人だ。今更言っても仕方がないが、大学に籍を置きながら、哲学用語を用いて文化を批評していた方が良かったんじゃないかと感じる。あるいは『存在論的、郵便的』のように哲学だけを論じるとか…私は本書を読んで、改めて、『存在論的、郵便的』のような著作を、彼には再び期待したいと思った。

「郵便的不安たち」

本書には多数の評論もしくは講演、インタビューなどが収められているが、私が一番好きなのは、表題にもなっている「郵便的不安たち」である。これは彼の代表作『存在論的、郵便的』の発刊記念の講演である。それゆえに著者は、『存在論的、郵便的』で使われた概念「コンスタティヴ」「パフォーマティヴ」に言及する。

「コンスタティヴ」は「言葉や文章が文字どおりの意味を指し示す働きを意味」する。だから、例えば私が誰かに対して「君はバカだ」と言ったらそこでは文字どおり、「君はバカだ」という事実がこの文章によって指示されている訳である。一方、「パフォーマティヴ」は「修辞や言い回しの力のこと」である。例えば私が誰かに対して「君のことが好きだ」と言っても、その行為によってその人をバカにすることもできる。

しかし、書かれた文章そのままを受けとってもらうことができず(つまりコンスタティヴ的に読まれない)、違う意味で受けとられてしまう(パフォーマティヴ的に読まれる)という現象が普遍性を持っているかのように書かれると、理論優先で現実を見ていないように感じる。文字や音楽や映像が本来持っている「意味」の力が社会的に保証されないとも言っているが、本当にそうなのか?それこそ、自分の書いた文章に立ち止まって考えて欲しいものだが。

なぜ東は哲学、文芸、あるいはサブカルチャーを横断したのか?

また、この評論では東浩紀がなぜ哲学・文芸・サブカルチャーを横断したのか?が書いてあるように思えるので、大変興味深い。

東は、ラカン象徴界というキーワードを用いた上で、現代社会においては象徴界の力が衰えているという。彼によれば、象徴界というのは、「言語的コミュニケーションを成立させる場」のことで、具体的には「社会的制度や国家」のことを指す。その象徴界の力が衰えている。哲学は、かつて世界全体の上に立つメタ理論で、大衆もそれを求めていた。しかし象徴界の力が衰えたことで、上向きの超越論が難しくなった。つまり哲学が多くの人からの関心を得られなくなった訳だ。

東はそのように現代社会を分析した上で、「象徴界なしのコミュニケーション、上向きではない横向きの超越論性について考え、またそれを実践すること」を考えるべきだと提案する。これを、実践したのが、著者自身だというのは、哲学に限らず文芸やサブカルチャーにまで手を広げた、彼の活動が物語っているだろう。

後の方で彼は、社会という後ろ盾がない新しい言葉の力を目指すべきだと言っているが、よく分からない。それは横に突き抜けるような言葉の可能性を目指すことだといい、それがまさに東の実践なのだろうが、私が東を「何をやっているのかサッパリ分からない」と言ったように迷走しているように思う。東は哲学研究に活動のスタートを切った。それは成功したが、文芸やサブカルチャーに寄り過ぎた彼の作品は決して面白いものとは言えない。斎藤環みたいに、精神分析や哲学の用語を用いて文化を語りつつ、立ち位置は相変わらず医師のまま、という方が東が言う横に突き抜ける言葉の可能性を実践できたということになるのではないか…?

平野啓一郎作品をオタク作品と同列視

尚、この「郵便的不安たち」では、作家の平野啓一郎のことが悪く書かれていて面白い。平野が芥川賞を受賞して華々しくデビューした頃の評論ゆえに、著者の皮肉が効いている。例えばこんな風に(カッコ書きは私)。

彼(平野啓一郎)はボードレール三島由紀夫を独自のやり方で読み、勝手に答えを出し、しかもそれを公表し恥じることがない。

パフォーマティヴ的に、本当は「平野、お前少しは恥じろよ」とでも言いたげな文章につい笑ってしまう。東浩紀にかかると平野啓一郎は、「形而上学的」志向を持ったオタク作品と同列視されてしまっている。

「棲み分ける批評」を読んで思う横断の虚しさ

「棲み分ける批評」、これは著者の初期の評論。加藤典洋浅田彰福田和也など著名な評論家の名前が出てくるが、言っていることは「郵便的不安たち」と同じ。アカデミズムとジャーナリズムでは話が噛み合わないので、横断する新しい言葉が必要だというもの。加藤典洋が文芸批評の特権性を信じているというのは、加藤ならありそうだな…と思って笑った。文芸批評は、私には非論理的な芸術に読めるので、小説と同様に感覚的に読めばいいので、特権性は剥奪すべきだということ。だから横断する必要もない。

特権性をいまだに信じている加藤のような人には、「文芸批評には特権性はない」と指摘するしかないだろう。

哲学も同様で、もはや特権性はないので、地味に哲学を研究し続けてもらう他にないというだけだろう。経済学や経営学などの実学も、哲学よりは人目を惹くが、その程度の相対的なものである。世の中の上に立つメタ理論は存在しない。それは分かるが、哲学・文芸・サブカルチャーが乱立している現代社会については、それぞれの個性を認めてあげればいいだけのことだったんじゃないか。横断なんてしなくて良かったんじゃないか。そう思う。