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【書評】 教養としての官能小説案内 著者:永田守弘 評価☆★★★★ (日本)

教養としての官能小説案内 (ちくま新書)

教養としての官能小説案内 (ちくま新書)

本書のどこに教養があるのか分からない。タイトルの選定を誤ったのではないかと思うばかり。特に学術的な裏付けがある訳でもなく、そもそも学問へのなんらの言及がある訳でもなく、古今東西の文学との比較がある訳でも、社会学的な見地から述べている訳でもなく、大部分を官能小説の歴史と称して、淡々と小説を紹介するだけの本書に教養があるとは思えない。しかも、紹介されている官能小説は、文章が稚拙であまりエロいとは感じられないものばかりだ。これらのどこが官能小説なのか…著者の小説に対する選定ミスなのか。

面白いと思ったのは、引用された小説家の中でマシだと思われた(つまり官能を刺激された)のは、女性作家だったということ。男性作家の小説で引用されたものは、恣意的で、野暮ったくて、官能的ではなかった。リアリティも感じられない。官能小説は文芸の一種だから、それなりの知性とか、臨場感のある描写が書けないと書けないのだろう。谷崎潤一郎の『鍵』を、久しぶりに読みたくなった。

【映画レビュー】 ビューティフル・デイ 監督:リン・ラムジー 評価☆☆☆☆★ (英国その他)

ビューティフル・デイ [Blu-ray]

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渋谷は神山町が良い

ホアキン・フェニックス主演の犯罪スリラー『ビューティフル・デイ』を見た。場所は渋谷のヒューマントラストシネマ。以前もこの劇場には足を運んだ経験があるが、何を見たのか全く覚えていない。しかし、今回見た映画『ビューティフル・デイ』は良い映画だったので、覚えていることだろう。

渋谷駅東口のココチビルというところ。好きなビルである。このビルの周辺は人通りが多いが、駅前に比べると少し大人っぽい。私は学生時代、この近くにあるアドルフォ・ドミンゲスというアパレルに通ったことがあった。それだけ、落ち着きがあって好きなエリアなのである。そしてココチビルの8階に劇場があって、エレベーターで行くか、エスカレーターで行くかを選べる。私はだんぜん、エスカレーター派。エレベーターの方が早く着くが、狭いし、見知らぬ人と顔を突き合わせるのが好きではない。それと、このビルのエスカレーターは天井がひろびろとしていて、一見、吹き抜けのように感じられる。

渋谷にはたまに行く。といっても映画を見るか、東急本店の7階にある大型書店に行くか、タンタンメンの亜寿加(あすか)に行くくらいだ。学生時代は渋谷TSUTAYAとかイメージフォーラムとか、あるいはマルイなんかにも行ったが、最近はそれらのどこにも行けていない。渋谷で服なんか絶対に買いたくない。

渋谷は、駅前は大して面白くないのだ。ココチビルの近辺も良いけれど、東急本店から神山町を通って代々木公園まで歩く道のりが好きである。道すがら、こじんまりとした店舗がいくつも並んでいる。アパレルの路面店があったり、飲み屋があったり、ビストロがあったりする。そのどれもがかっこよく、あるいは美味そうに見える。渋谷はほとんど文化の匂いがしないが、奇しくもBunkamuraという名が付いた東急本店近辺から神山町に赴くあたりには、文化的な匂いがする。その、どれもが、どことなく懐かしい。ぜんぜん、最先端な感じはしないが、それが良い。表参道とか青山のちょっと道を外れたところにある「おや、こんなところにこんな店!」というようなじわっとした驚きに出会えると思う。こういうのが分からない女性とは歩きたくないよな笑

第70回カンヌ映画祭男優賞、脚本賞受賞

前置きがあまりに長くなったが、『ビューティフル・デイ』は良い映画だった。私はホアキン・フェニックスのファンなので、だいたい、彼の映画は見たくなるのだが今回は映画も良い。監督はリン・ラムジーという女性の監督だが、女性っぽさは特に感じられない。グロテスクなシーンもそれなりにあって、執拗な描写はないにしても、それなりにリアリティがあった。昨年(2017年)の第70回カンヌ映画祭で男優賞(フェニックス)、脚本賞ラムジー)を受賞。フェニックスはヴェネチアでも男優賞を受賞したことがあるので、3大映画祭を2つ制したことになる。ちなみに兄のリバー・フェニックスも『マイ・プライベート・アイダホ』でヴェネチアの男優賞を獲っている。兄弟で3大映画祭の一角を制したのは凄い。

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犯罪スリラーの名を冠した心理的な映画

ビューティフル・デイ』は犯罪スリラーというジャンルに位置されるだろうが、この映画については、ジャンルと内容は必ずしも一致しないようだ。東浩紀流にいえばパフォーマティヴな映画ということになろうか。フェニックスが演じるジョーは、退役軍人で元FBI捜査官で現在は、殺人も辞さない「女児を探す仕事で生計を立てる男」。PTSDにさいなまれる男の役だが、彼がかつて主演した『ザ・マスター』で演じた役も似たような印象だった。『ザ・マスター』と違って、本作におけるジョーは、強靭な肉体を誇り、同時に繊細さを併せ持っている。

ビューティフル・デイ』は犯罪スリラーの名を借りた心理的な映画で、ジョーの過去の戦争の記憶、そして幼少期の記憶がフラッシュバックされていく。母を殺害した男を銃で痛めつけつつも、フロアに寝ころんで語り合うような男、それがジョーである。彼は映画の終盤で、自分を弱い男だと嘆いているのだが、その嘆きは彼の繊細な心の現れでもある。銃も使うが、ジョーが用いるのは決まってハンマーだ。ハンマーも幼少期の記憶に結び付けられている。

ビューティフル・デイ』には、2度ほど笑ってしまった。1度目は、ジョーが母親と暮らしているシーンである。殺人も辞さない凶暴な男が母親と暮らす。それのみならず母親とギャグのようなシーンも演じるのだ。母親は、ジョーが帰宅した時に眠っているふりをする。それに、ジョーがまんまとだまされてしまい、2人で笑い転げるというもの。凶暴な男にこういう一面があるところに、強いユーモアとリアリティを感じた。確かに、殺人者だってユーモアはあるし現実の生活があるはずだ。

2度目に笑ったのは最後のシーンだ。ニーナという美しい少女(ヒロインだが)と朝食を摂ろうと、店に入ったジョー。ニーナは売春宿で働かされたり、殺人も犯してしまうのだが、ニーナの苦しい経験に、ジョーは自分を重ね合わせている。ニーナも心を病んでしまっているが、ジョーには親近感があるようだ。

2人は朝食を摂ろうと店に入る。ジョーは、突如、銃口を顔にあてて自殺してしまう…しかしこれは、彼の妄想。席を外していたニーナが戻ってきて、「今日は良い天気(ビューティフル・デイ)」と言って、にやにや笑う。ジョーもそれに続けて、笑う。良い天気だからなんだというのでもないし、数多くの傷を負ってしまった彼女がこれから順風満帆の人生を歩めるとも思えないが、それでもなお、今日は良い天気と、邦題にかけてあっけらかんと言ってしまえるところが良い。そして、それに対するジョーの肯定的な表情。ここで私は、2度目の笑いに包まれ、惜みつつも劇場を後にした。…

【書評】 データ・ドリブン・マーケティング 最低限知っておくべき15の指標 著者:マーク・ジェフリー 評価☆☆☆☆★ (米国)

データ・ドリブン・マーケティング―――最低限知っておくべき15の指標

データ・ドリブン・マーケティング―――最低限知っておくべき15の指標

Amazon社員の教科書『データ・ドリブン・マーケティング

アメリカの実業家・経営学者・コンサルタント、マーク・ジェフリーによるデータ・ドリブン・マーケティングについての啓蒙書。本書は、アメリカ本国では2010年に発売され好評を博した。AmazonのCEOジェフ・ベゾスが選ぶビジネス書12タイトルに選出されたこともあるという。Amazon社員の教科書と宣伝されることもあるくらいだから、同社ではよほど浸透しているのだろう。

日本では昨年、2017年にようやく翻訳出版された。私が本書を知ったのは池袋のジュンク堂書店だった。マーケティング関連の本を探していたら、本書が平置きされていたのである。タイトルが目を引いたのと、データを使ったマーケティングに少し関心があったので、手に取ったのだった。

データ・ドリブン・マーケティングって?

データ・ドリブン・マーケティングとは、データ分析に基づくマーケティングのことである。フォーチュン500社の業績上位20社に共通するのは、このデータ分析に基づくマーケティングを使って意思決定しているということ。いうなれば、データ・ドリブン・マーケティングを活用しなければ市場では勝てないというのが著者の主張である。

データ・ドリブン・マーケティングを活用している企業と、そうでない企業との間には「マーケティング格差」があると、著者は明言する。それは、本書の冒頭から刺激的な数値を使って説明される。しかし、疑問に思うのは、なぜマーケティング格差が生じてしまうのか?ということと、データ・ドリブン・マーケティングに基づいた意思決定ができないのか?ということだ。著者はその原因を、次のように書いている。

私の経験上、多くのマーケティング担当者は大量のデータに圧倒され、成果を向上させるための効果測定についてはどこから手をつければよいのかがわからない、という状態にある。加えて、55%の管理職が自分の部下はNPVやCLTVといった指標を理解していないと回答している。

経験といわれてもちょっと根拠に乏しいが、データをどう活用するかが分からない状態で、大量のデータを前にすれば、確かに足がすくむ思いはするだろう。データ・ドリブン・マーケティングを活用した意思決定ができていない企業でも、本書の15のマーケティング指標を知れば、データの前で足がすくんでマーケティング格差に苦しむこともないんだとか。

マーケティング格差の実態

著者は、マーケティング格差の実態を調査した。それにより、次のことが分かった。業績上位企業はマーケティングにかける投資の総額も違うし、投資の対象も、業績下位企業とは異なるということである。

・業績上位企業のマーケティング費用は、平均の20%上回っている
マーケティングにカネをちゃんと使っている)
・業績上位企業は、下位企業に比べて、需要喚起にはそれほどカネを使わない
(下位企業が58%使うところ、上位企業は48%に留めている)
・業績上位企業は、ブランディングCRMにもカネを使っている
(上位企業は、合計27%使っているのに、下位企業は18.5しか使っていない)
・業績上位企業は、マーケティングインフラにしっかりカネを使っている
(下位企業が10%しか使っていないのに、上位企業は16%使っている)

野放図にマーケティングに投資するのではなく、投資すべき対象を見極めて投資すべきだということなのだろう。ただ、マーケティング費用にかける投資の総量については、多くかけるべきなのだろう。

15の指標〜正味現在価値が面白い〜

15の指標については、個々に紹介することは割愛するけれど、私が特に面白いなと思ったのは「7.正味現在価値(NPV)」と「10.顧客生涯価値」である。

まず正味現在価値から。

よく経済学でもやるけれど、今日の1万円と、1年後の1万円って価値が違うよねっていう問題。これが本書では現在価値という概念で使われていて、式で書くとイメージが付くが、面倒なので本書の146ページを読んで欲しい。要は、1万円の現在価値は、1年あたり(1+r)倍になる時間価値の分を割り引くことで、計算されるというものである。

これをマーケティング費用を使って応用したのが「正味現在価値」である。考え方は現在価値と同じで、当初はマーケティングの「初期費用」だけ発生する。あとは、1年ごとに、「売り上げ」から「マーケティング費用」をマイナスしていき、「現在価値」同様に、(1+r)倍の時間価値の分を割り引いていくというものだ。だから、将来の利益は現在の利益よりも価値が低い、ということになる。

これをデータ・ドリブン・マーケティング的に使うと、「正味現在価値」の値がプラスならば投資を実行できるし、もしマイナスなら投資を止めよう、という意思決定ができる。

15の指標〜顧客生涯価値が面白い〜

顧客生涯価値も面白い。これについては章をまるごと割いて説明している。

これも、上の「正味現在価値」と同じ考え方である。顧客の「正味現在価値」という訳だ。企業を経営して得られる「顧客データ」を活用して、意思決定を行う。マーケティング格差がある企業だって「顧客生涯価値」をうまく使えば、格差を乗り越えていける!そうな笑

「顧客生涯価値」については、セインズベリー、3M、コンチネンタル航空など多くの企業事例を用いて説明されていて、納得感が強かった。他の指標についてもこれくらい事例があると良いのに、と思ったくらいである。

まとめると

15の指標については第2部をまるまる使っていて、お腹いっぱいになるくらい丁寧な説明があって良い。読者が紙と鉛筆を使って、「事例研究」を一緒になって行えば、マーケティングドリル(?)を解いているみたいで楽しい。著者の経験では…という語り口が少々気になるところだが、事例は豊富だし、根拠は明確なのだろうと思う。私はマーケティング担当者ではないが、マーケティングには関心がある。そういう人は、一度、手に取ってみると結構引き込まれてしまうはず。私も電車の中で夢中で読み、降車駅を間違えたことは数知れず…ジェフ・ベゾス恐るべしって違うか。マーク・ジェフリー恐るべし、か。

ちなみに、本書をいきなり読むよりも、牧田幸裕の『デジタルマーケティングの教科書』を読んでから本書にとりかかった方が、理解は早いと思う。

デジタルマーケティングの教科書

デジタルマーケティングの教科書

【書評】 復活(上) 著者:レフ・トルストイ 評価☆☆☆☆★ (ロシア)

復活(上) (岩波文庫)

復活(上) (岩波文庫)

『復活』はロシアの文豪トルストイの晩年の長編小説

『復活』は、ロシアの文豪トルストイの晩年の長編小説。ネフリュードフ公爵が犯した罪と贖罪を描く。日本ではサイレント期に何度も映画化されている。高名な溝口健二も映画化したそうであるが、私は未見。

トルストイの小説は、私は余り読んでいない。教条的な小説なのではないか?と思ったためだ。ドストエフスキーにも思想は出てくるが、ミハイル・バフチンがいうように、それはポリフォニーで、登場人物は独立していて、作者の手を離れているように見えるのだ。だからドストエフスキーの小説で思想が出てきても、教条的には思えない。

一方、トルストイは、やや教条的である。例えば私が読んだ『クロイツェルソナタ』では禁欲的な愛を説いたが、モラルを押し付けられたような気がしたものだ。だから彼の小説を読むのは躊躇したのだが、『復活』は贖罪というテーマが面白そうで読んだ。まだ上巻を読んだ程度だが、ネフリュードフの犯罪と贖罪への丁寧な描写、ネフリュードフのせいで堕落したカチューシャの狂った言動等、興味を惹かれる描写が多かった。

ネフリュードフの犯罪を描く『復活』

ネフリュードフはロシアの最高級の貴族である。若い頃、叔母の家に遊びに行った。そこでカチューシャという少女を愛した。カチューシャは私生児で、小間使いのような扱いを受けていたが、魅力的だった。カチューシャもネフリュードフを愛した。そして、ネフリュードフは軍務に就き、再びカチューシャの元を訪れた時、彼は変わっていた。純粋な気持ちは消え、愛欲にも飢えるようになっていたのだ。そうとは知らないカチューシャは、ネフリュードフに尽くし、無償の愛を提供する。しかしネフリュードフはカチューシャを欲望のまま愛して妊娠させてしまう。彼はカチューシャにわずかばかりの金を恵んで、追いすがる彼女を振り払って彼女の眼前から去っていく。

それからカチューシャはネフリュードフの子を身ごもり、出産するが、赤ん坊は直ぐに死んでしまった。失意の中、カチューシャは「娼婦」にまで身を落とし、10年あまりが過ぎた。

ネフリュードフは公爵の身の上で、生活は安泰である。婚約者がいるが、人妻と姦淫するなど、奔放な生活を送っていた。カチューシャのことはつゆほども思い出さない。 

ネフリュードフの罪の贖いを描く『復活』

ある時、ネフリュードフは陪審員として出廷した。そこでは、ある殺人事件が扱われていた。男が金品を盗まれた上に毒殺されたのだ。3人の被告がいたが、その中にカチューシャがいた。

ネフリュードフはカチューシャのことが思い出された。彼は自分のせいで娼婦に身を落とし、遂には殺人事件の被告にまで落ちぶれたことを知る。最初は、ネフリュードフは利己的で、自分とカチューシャどの関係が人に知られなければ良いと思っていた。

しかし、無実の罪でカチューシャが懲役刑を言い渡されると、罪の意識に苛まれ、神に祈る。すると彼の願い(神の元へと立ち返りたいという願い)は聞き届けられ、彼はカチューシャを助けようと奔走する。

カチューシャに対して罪悪感を覚えるようになってからのネフリュードフは、ひたすら彼女を救おうと贖罪のために走っていく。あらゆる人手を辿り、彼女の救済を願う。

救済というのは、単に無実の罪を晴らすだけではない。彼女がキリスト教的な神の元へと返るように働くということである。それは、ネフリュードフ自身が歩んだ道を、彼女にも歩ませようとするということだ。

だが、娼婦にまで身を落とし、善への希望を捨てている彼女は、自分を酷い目に遭わせたネフリュードフを許せないし、彼の言うことなど聞くはずもない。下巻はネフリュードフとカチューシャとの関わりがどうなっていくか、復活はどのようになされるかが問われるだろう。

【書評】 たんぽぽ 著者:川端康成 評価☆☆☆★★ (日本)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

『たんぽぽ』は川端康成の最後の長編小説

『たんぽぽ』は川端康成の最後の長編小説である。『眠れる美女』『片腕』の系列に連なる作品で、最後まで書かれることなく、川端康成の自殺により絶筆となってしまった。眼前の人間の体が見えなくなる「人体欠視症」という奇病に冒された稲子と、その母、そして稲子の恋人・久野の物語。非常に会話の多い小説である。

『たんぽぽ』は1964年より書かれ、川端の死により絶筆となった。川端は長い思考を重ねて長編を書くことがあり、名作『雪国』も14年に亘って書き継がれた。『雪国』にしろ『たんぽぽ』にしろ、数年単位の長い期間に亘って書かれたとは思えないほど、作品の質には揺らぎがない。長い年月をかけて書かれたそれらの小説に、著者の漲る緊張感が一貫しているのである。

他者の体が見えなくなるという狂気

稲子は「人体欠視症」という奇病に冒されている。これは目の前の他者の体が見えなくなるという病気である。そして稲子は自分の体を見ることができ、彼女の体は、他者には見られているのである。ただ、稲子自身が他者を見ることができない。そして、彼女は精神病院に入れられてしまうのだった。

この狂気は何を意味するのだろうか?

本書の解説者は稲子の主体のはく奪と書いている。見ることが主体性であるとすれば、確かに稲子は他者に見られるのに自分は見ることができないので、主体のはく奪なのだろう。

稲子の存在が物語の存在を成り立たしめる

しかし久野にしても稲子の母にしても、稲子がいなければ二人の存在が成り立たないではないか。つまり彼らが語る言葉は、稲子を抜きにしては語り得ないのではないか。

会話の多い『たんぽぽ』という小説において、確かに、稲子は二人の会話の中には現れるが、今ここには、ついに姿を見せない。しかし『たんぽぽ』は稲子と彼女の「人体欠視症」という狂気を抜きにしては存在し得ない。

もし稲子がいなければ、何らのテーマもない会話の交流に過ぎない。稲子は、今ここには姿を見せないが、その存在は大きく、主体は、むしろ絶対的に大きい。物語の全てを治めるほどに。

惜しむらくは、本書が未完に終わったところである。川端康成の長編小説は、唐突に終わる生命のように突発的な終局を迎えるが、『たんぽぽ』は、それにしても、川端康成の自殺による終局が唐突で作品の質を高くしない。