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【書評】 外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏 著者:ドイチェ・アセット・マネジメント株式会社 評価☆☆☆★★ (日本)

外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏

外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏

投資信託とは何か?工場見学風に解説する入門書

何気なく手に取った本が面白いということは、読書を愛する者にとって望外の喜びである。ここ数年ずっと、私はAmazonやメルカリで古本を買うことがほとんどになっていた。古本を古本屋に行ってまで買わなくなっていたのだ。Amazonはレビューを信じて買ったり品揃えも良いし、メルカリは品揃えは期待できないが金額が安かったり出品者に値下げを求めることもできる。そういう訳で私は、古本は店頭で買わなくなっていたのだ。

だが、今回、ふとしたことで高田馬場ブックオフに行った。日が上っている時間から始まった飲み会が高田馬場であったので、帰りにふらっと寄ってみた。すると本書が目に止まった。『外資系運用会社が明かす投資信託の舞台裏』。あまり面白くなさそうなタイトルだ。そう思って帯を見ると「お金を殖やす工場見学へようこそ」とある。さらに目次を見ると第三章に「投資信託の工場見学」とあるではないか。これは意外と良いかもしれないと思って買ってみる。すると、思ったほどに工場見学という切り口は強く活かされておらず、よくある入門書の類ではあったが、それでも工場見学という切り口そのものは印象的だったし、図やグラフ、写真などが多用されていて読み易かった。もしタイトルだけ見ていたら平凡な本だと思って、ネットでは買わなかったかもしれない。店頭でページをぱらぱらとめくって初めて出会える本。これは、ネットでは味わえない「本を買う」という行為の重要なポイントかもしれない。

投資信託業界に就職したい学生にも向いている

本書は投資信託の舞台裏を外資系運用会社が解説している。投資信託のイロハを学んで投資の勉強したい人に限らず、投資信託業界を就職先として考えている学生が読んでも面白いと思う。

投資信託の職種というとファンドマネージャーが思い浮かび、学生も、投資家にとってファンドマネージャーがどんなファンドに投資しているかは気になるはずで、自分もそんなカリスマ性を持ったファンドマネージャーになりたいと思うだろう。だが本書は、それは米国のファンドマネージャーのイメージで、日本では「ファンドマネジャー個人が前面に出ることは少ないように」思うと言っている。我が国の資産運用会社では「チーム運用」をしているケースが多い。つまりは個人の能力よりもチームとしての「投資哲学や投資判断が重視される傾向」にある。

それと、ファンドマネージャーの黒子に徹する企業アナリストという職種がある。企業アナリストは、「ファンドマネジャーになるための登竜門のような位置付けになっている会社も多く、比較的若い社員が就く傾向がある」ということから、花形と見られるファンドマネージャーになるためのプロセスも読むことができる。さらに、本書の執筆者であるドイチェの日本人スタッフのインタビューが付いていて、投資信託の運用会社へ就職したい学生が志望動機を作る上でも参考になるはずだ。

アセットアロケーションが9割

本書の4章は投資信託の実践編である。「投資成果」の9割はアセットアロケーション(資産配分)で決まるという。これは米国のゲーリー・ブリンソンらが発表した論文(パフォーマンスの決定要因)に起因する考え方。要は、どのファンドを選ぶか考える前に、投資対象となる「資産の特徴」を理解し、自分に合った資産配分を決めることである。本書はアセットアロケーションに基づき株式、債券、REITといった投資対象資産についてざっくりとした説明を行っている。

アセットアロケーションが9割。では残り1割は?ということの説明もポイントを押さえた簡潔な説明がなされている。アセットアロケーションが9割といっても、同じ期間で同じ金額で投資を行った場合に限られ、「もし、投資タイミングや金額を調整できるとしたら、それは投資成果に大きな影響を与える要素」となり得ることについても、指摘を忘れていない。入門書であるがゆえにどうしても説明はざっくりとしていて、理解を深めるには他書を当たるほかないのだが、それでも投資運用会社が書いた本らしく、押さえるべき点は押さえている点は良い。

投資信託をファンを増やすために書かれた誠実な入門書

あとがきに、本書を執筆するにあたって意識したのは、「投資信託のファンを増やすことと、投資信託のできることとできないことをきちんと伝える」ことの2つだとある。本書を読み終わって感じるのは「誠実さ」である。例えば4章の冒頭には以下の文章がある。

投資家のリスクに対する考え方が違えば、投資戦略も違ってくるはずです。その意味で、当書で具体的に「このファンドを買うべき」と書き述べるのは、投資信託という金融商品に過度な期待を背負わせることになりかねません。

本書全体を通じて感じるのはこの「誠実さ」で、資産運用というとどうしてもカネの臭いがぷんぷんしてインチキ臭いのも事実なのだが、本書にはそれがない。金融本来の知的さが充溢している感じがあった(数学はほとんど出てこないがそれは入門書の持つ知性ではない)。投資信託のファンを増やすために書かれたとあとがきで書いている通り、誠実に、丁寧に、投資信託の魅力を語り、成功しているとは言い違いものの「工場見学」としての運用会社の裏側を見せることで、多少なりともファンを増やせるのではないかと思う。

【書評】 貧しき人々 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆★★ (ロシア)

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

『貧しき人々』はドストエフスキーの処女長編

『貧しき人々』は、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの処女長編。24歳の時の作品。ドストエフスキーは、本書をもって、当時の著名な批評家であったベリンスキーに激賞されて華々しくデビューした。ベリンスキーはドストエフスキーに対して「あなたは自分で、どんなものを書いたのか、わかっているのですか!」と言って彼を賛美したというが、訳者が本書の解説で述べている通り「ドストエフスキーのその後の大作を知る私たちにとっては、いささか大袈裟」であろう。だが、しがない九等官であるマカールと、貧しい文学少女ワーレンカとの心の交流を「書簡体小説」で描いた本作からは、清冽な感動が呼び起こされ、「その後の大作」と比較しなければそれなりに面白い長編であった。特にマカールが徐々に文体を使い分けていく様は、とても24歳の青年が書いたとは思えぬほど”成熟”している。

単純な小役人マカールの教養小説的な『貧しき人々』

『貧しき人々』は、貧しくも美しいワーレンカと、激しやすい性格の中年男マカールとの間に交わされる手紙の交流を描く、書簡体小説である。「文学と書物」というキーワードで2人の人物を区別すると、ワーレンカは文学や書物に親しみ、文学に対して一定の価値観を持っているのに、マカールにはそれがない。彼は三文小説のラタジェフは好きだが、ワーレンカが勧めたゴーゴリの『外套』は分からない。『外套』に描かれている物語が自分のことを描いているようだといって憤慨するくらいなのだ。また、マカールは、プーシキンの『ベールキン物語』はその中に含まれている「駅長」が好きであるが、作者のドストエフスキーとは『ベールキン物語』に対する好意の意味が異なる。というように、マカール自身の文学的理解には危ういものがあるのだが、彼が徐々に、ワーレンカによって徐々に「変化」していく様は、その手紙の文体が時を経るにつれて良い文章に変わることによって明らかとなる。

ゆえに本書は、ワーレンカによるマカールの教養小説的な意味合いを持っているのだ。ただ、マカールが単純な中年男であるだけに、彼の成長ぶりも洗練されたものではない。手紙の文体は事象を的確に表したり、感情を素直に文章で表現できるように成長している。だが、彼の文体が巧くなってもそこに美があったり詩があったりする訳ではない。マカール自身も冴えなくて、精神的な成長はするものの、変わらず貧乏で、職場では蔑まれている毎日だ。ワーレンカのことを娘のように愛していたが、彼女はブイコフという、金持ちだがつまらない男と結婚して、マカールの目の届く範囲から離れてしまうのだった。

書簡体小説ゆえの分かりづらさもある

『貧しき人々』は書簡体小説である。だから、どうしても、会話と会話の交流によって小説が構成されているように見える。もちろん、ワーレンカが自身の初恋の時を思い出してマカールに語った時の描写は緻密で情景が思い浮かぶ。だが、基本的には書簡体小説という構成上、読者の想像力が必要になる。ワーレンカがなぜ愛してもいないブイコフの求婚を受け入れたのか、彼女はマカールをどう思っていたのか、そしてマカールは本当にワーレンカを娘と思っていたのか等、ジャンルの難しさゆえ仕方ないだろうが小説の真の姿がつかめないような分かりづらさがあったのも事実だ。

ワーレンカはマカールほど成長が見られず、悲劇的な女性である

マカールと、もう1人の主人公ワーレンカは、マカールほどの変化はない。彼女の境遇は、好きでもない、暴君のブイコフとの結婚という悲哀を受け入れるということで大きく変わるが、彼女自身が精神的成長を遂げたという表現はない。既に成長しきっているのかもしれないが、マカールの精神を高めようと導く格好になるワーレンカには、自身を高めるよりも相手を高めることに意識が向いているようだ。もし現実の彼女が自分を高めんとするならば、ブイコフとの結婚は、マカールが言うように破局にしてしまって、ブイコフが言うところの未亡人とでも、ブイコフが結婚するように仕向ければ良い。何しろブイコフがワーレンカと結婚しなければならないのは、取るに足らない理由で彼女を愛しているがゆえのものではないのだ。

そんな男と結婚せざるを得ないほどにワーレンカが精神的に落ちてしまったとも言える。後年の『罪と罰』には娼婦という社会の底辺で働きながら神への信仰を捨てないソーニャという女性が出てくるが、彼女と比べてワーレンカはなんという違いであろうか。ワーレンカは娼婦のような汚れた仕事はしていないし、資産家ブイコフの妻ということで社会的には認められた地位にいすわるであろう。だが、いかに社会の目はごまかせても、小説を通して彼女らの精神面を見てしまっている読者の目は騙せない。ワーレンカはマカールが願ったように、ブイコフとの結婚を断れば良かったものを、彼女は頑なに安定的な地位へと赴こうとする。どんなに、自分を悲劇的な女性にしてしまうことが、あらかじめ、分かっていたとしても。社会的にはマカールもワーレンカも貧しいが、精神的にはどうだったのか、彼らを一括りにできるのか、思案させられる作品であった。

【書評】 日本経済論・入門 戦後復興からアベノミクスまで 著者:八代尚宏 評価☆☆★★★ (日本)

日本経済論・入門 新版 -- 戦後復興からアベノミクスまで

日本経済論・入門 新版 -- 戦後復興からアベノミクスまで

教科書的な現代日本経済史である。TPPやアベノミクスを盛り込んである。時系列的に、教科書的な現代日本経済史を学びたい人に向いている。それ以上でも、それ以下でもないが。

【書評】 ユリゴコロ 著者:沼田まほかる 評価☆☆★★★ (日本)

ユリゴコロ (双葉文庫)

ユリゴコロ (双葉文庫)

読者の頭が「?」になる設定が鼻につく

幼少の頃から理由なく殺人を犯してきた女性・美沙子。彼女はミチルちゃんという女の子が事故で池に落ちたのに、助けもせず見殺しにした。それから彼女は理由なく殺人を犯していくのだが、その理由は最後まで語られない。理由なき殺人をテーマにしている訳でもないので、殺人の理由を記述しない「理由」が分からない。

その後、彼女は成人して結婚、出産した後まで自分の殺人が他人にバレることがないのだが、突発的に殺人を犯すシーンが多いのになぜ他人にバレないのか理解に苦しむ。警察はとってつけたように、美沙子が殺した同僚のことについてようやく動き出すのだが、これまで美沙子の殺人を見逃していた癖にどうして今頃動き出すのだろうか。それと、美沙子が殺害した同僚は、スチール製のごみ箱で殺されてしまうのだが、なぜそこまで軟弱な体を持っているのだろうか。美沙子は物語の最後まで殺人を続けて、裁かれることがないが、大して魅力的に描かれている訳ではなく、逆に異常な殺人鬼としてグロテスクに描かれている訳でもないのに、なぜ生き長らえるのだろうか。

しかも、ラストは理不尽なまでに平凡なハッピーエンド。作者は一体、どういう頭の構造をしているのかサッパリ分からない。

作者は文章が上手いが、上記のように読んでいて頭が「?」になる設定が鼻についたので、標準的な評価は与えられない。

設定が凝り過ぎ!リアリティが薄くて退屈なミステリー

小説という表現形式は、確かにフィクションだとはいえ、読者にリアリティを感じさせなければ絵空事に過ぎない。誰が書いたか分からない「ノート」を主人公である亮介が見つけ、次第にそれは「母」が書いたものではないかと疑っていく展開は良い。亮介には両親がいるが、母は事故死して、父は末期のすい臓がんに侵され、祖母は認知症を患っている。亮介が見つけたノートは家の中に隠されていて、男性が書いたか女性が書いたか分からないのと、事実か虚構か分からないという展開も緊張感があって良い。

だが、事故死したはずの母親は実は叔母で、叔母は亮介の父のことが愛していて、殺人者の姉を殺害して妻の座におさまっていたという展開が理解できない。姉妹で1人の男を好きになっても良いけれど、姉が連続殺人者という衝撃的な事実を受け入れること自体、相当な心理的困難が想像されるはずだ。殺人者を生んだ家になど、一時たりともいたくないと思うだろう。どれだけ姉の夫(亮介の父)を愛していたのか小説では分かりにくいが、それでも殺人者の夫だった男である。関わりたくないと思うのが自然ではないか。妹が家と縁を切らなくても構わないが、結婚しようとまでは思うまい。自然に後釜に収まったと小説では説明しているが、そういう事態を生むことが不自然極まりない。

しかも、姉は、実は殺害されておらず生きていて、亮介が経営する喫茶店で働きながら亮介を見守っていたという設定には嘆息せざるを得ない。恐らく作者は、主人公の母の結末【殺されておらず生きている】【亮介の傍にいる】【亮介の代わりに彼の恋人の仇を殺す】【ずっと亮介の父を愛していて、末期がんに侵された父と旅行に行く】などを先にイメージして、そこから逆算してストーリーを書いていったのではないかと想像する。確かに母の結末としては衝撃的なのだが非現実的に過ぎる。

警察は一体、その間何をしていたのか?美沙子が、日本の警察の網をかいくぐって、連続殺人を続けられるほどの知性を持っているという描写がないのに、警察はとってつけたように登場するだけ。警察はそこまで無能なのか。しかも、最後の最後まで美沙子は殺人を犯している。自分の主体的な気持ちだけで殺人を犯している彼女にはほとんど共感できない。こんなに共感できないのに自分が愛する亮介の父とは相思相愛で、最後は、父の最期の旅行に付き添えるという、ハッピーエンド。ずいぶんと恵まれた人生である。

作者の想像力は評価できる

上記の通り、ストーリーの粗い構成には不快感を禁じ得ないが、作者の妄想癖は評価して良い。家の中に残されたノートの作者が父なのか母なのかと疑い、ノートに書かれたことが真実か虚構かと疑い、現実があたかもノートに導かれるように展開されていく様はスリリングだ。ストーリーが粗すぎて読んでいてヤキモキさせられるのが残念極まりないが、作者の想像力は評価して良い。あと、文章は割りと上手かった。

【書評】 構造改革と日本経済 著者:吉川洋 評価☆☆☆★★ (日本)

構造改革と日本経済

構造改革と日本経済

サプライサイドの構造改革だけではダメだ

日本における構造改革という時、何を思い浮かべるだろうか。小泉内閣構造改革を想起する人も多いかもしれない。本書『構造改革と日本経済』は2003年に発売。まさに小泉内閣時代のことだ。小泉内閣構造改革を推進したが、小泉純一郎にまとわりついて離れない既成概念を打破するようなイメージが先行して、彼の内閣が推進した構造改革を支持したくなる。とりあえず、既成の枠組みを取っ払ってくれそうな気がする訳だ。既成概念を打破するエネルギーは私も肯定するが、しかし、その対象はどこへ向かうのか?つまり既成概念を打破するエネルギーが行き着く先は?それがサプライサイドだけではダメだというのが本書の問題提起の1つ。

著者は、ケインズ有効需要シュンペーターイノベーションの概念を手がかりにして何冊かの一般向けの経済評論を書いている。本書もその系譜に連なるが、サプライサイドの構造改革だけでは不十分という問題提起や、「いつもの」主流派マクロ経済学を批判する口ぶりからすると、有効需要の方に軸足が置かれているようである(もっとも有効需要のことばかり書かれている訳ではない)。サプライサイドの構造改革だけでは不十分なら、何が足りないのかといえば、ディマンドサイドの構造改革があれば、パズルは完成する。だが、それを、主流派マクロ経済学は認めようとしない。

著者はアメリカの著名な経済学者ポール・クルーグマンを引き合いに次のように書く。

日本経済が直面している問題はこのように需要サイドの問題なのに小泉政権は「構造改革」というサプライ・サイドの政策を推し進めている。小泉首相は、一九三〇年代深刻な不況の最中に緊縮財政を行ったアメリカのフーバー大統領の轍を踏もうとしている。クルーグマン(二〇〇二)はこう「構造改革」を批判した。

日本経済の問題が需要の不足にあるということは、著者が本書で、あるいは他の書籍の中で何度も繰り返し述べていることである。

需要創出型イノベーションの重要性

著者は需要不足が日本経済の問題であることには、クルーグマンに同意しながらも彼には「持続的な需要の成長」をどのようにして生み出すかの批判がない、と批判する。では著者の提言は?というと、小題目にも書かれている通り需要創出型イノベーションである。著者の経済評論を読むのも本書で5冊目くらいなので、さすがに需要創出型イノベーションという提言には見飽きているのだが、初見の読者には興味を惹かれると思う。

3章の図3-4「新しい需要と経済成長のパターン」は、著者は気に入って本書の後半でも引用しているのだが、そんなに良いのか分からない。需要の伸びの大きい新しい財・サービスを次々に生み出す経済成長のパターンを、イメージ的に表した図なのだが、本書に限らず、著者が多くの経済評論で言及している「ケインズシュンペーターを足して二で割った」需要創出型イノベーションの図になっていて、要は両者のいいとこ取りをしているということだ。次々にイノベーションが湧いたら苦労はしないが、そこまでしないと経済成長が望めないのか。所与のパイを分け与えるだけの日本の野党的経済成長論よりは良いが、著者の言っている需要創出型イノベーションはどうも楽観的に過ぎるように見えてならない。

シニカルな笑い

ケインズに関する著者がある吉川洋だけに、経済学者らしいクールな文体で書かれていても、ケインズへの敬慕のような感情はしっかりと伝わってくる。著者の以下のようなシニカルな文章を読むとほくそ笑んでしまう。

ケインジアン」というと、財政赤字など一切気にせずムダな公共投資でもよいからとにかく積極的な財政政策をとるべきことを主張する放漫財政容認派のことだ、という粗っぽい議論が後を絶たない。困ったものである。無駄な公共投資をやめるべきだというようなことはケインジアン、反ケインジアンを問わない「常識」だろう。

有効需要を生み出すためには「穴を掘って埋めればよい」という『一般理論』の一節がよく引き合いに出される。しかしもとよりこれはケインズ一流の警句であり、後世文字どおりにこれを実行しようとする愚者が出現しようとはケインズは想像だにしなかったに違いない。

著者がケインズを引き合いに出して経済評論を書くのは、上記のようなシニカルな文章を書くに留まらない、というより、こういう描写は「おふざけ」のようなもので、著者がよく批判の対象としている主流派マクロ経済学への批判の理論的根拠としてケインズを持ち出す訳だ。だが、『デフレーション』という書物の終盤にも書かれていた通り、彼の「おふざけ」は相手を一笑に付すような嫌味ったらしいもので、学者なのに文芸評論家みたいな書き方をすると思う。それだけ著者の主流派マクロ経済学への強い批判的感情がさせることなのだろうが、やっぱり、笑ってしまう。