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【書評】 復活(上) 著者:レフ・トルストイ 評価☆☆☆☆★ (ロシア)

復活(上) (岩波文庫)

復活(上) (岩波文庫)

『復活』はロシアの文豪トルストイの晩年の長編小説

『復活』は、ロシアの文豪トルストイの晩年の長編小説。ネフリュードフ公爵が犯した罪と贖罪を描く。日本ではサイレント期に何度も映画化されている。高名な溝口健二も映画化したそうであるが、私は未見。

トルストイの小説は、私は余り読んでいない。教条的な小説なのではないか?と思ったためだ。ドストエフスキーにも思想は出てくるが、ミハイル・バフチンがいうように、それはポリフォニーで、登場人物は独立していて、作者の手を離れているように見えるのだ。だからドストエフスキーの小説で思想が出てきても、教条的には思えない。

一方、トルストイは、やや教条的である。例えば私が読んだ『クロイツェルソナタ』では禁欲的な愛を説いたが、モラルを押し付けられたような気がしたものだ。だから彼の小説を読むのは躊躇したのだが、『復活』は贖罪というテーマが面白そうで読んだ。まだ上巻を読んだ程度だが、ネフリュードフの犯罪と贖罪への丁寧な描写、ネフリュードフのせいで堕落したカチューシャの狂った言動等、興味を惹かれる描写が多かった。

ネフリュードフの犯罪を描く『復活』

ネフリュードフはロシアの最高級の貴族である。若い頃、叔母の家に遊びに行った。そこでカチューシャという少女を愛した。カチューシャは私生児で、小間使いのような扱いを受けていたが、魅力的だった。カチューシャもネフリュードフを愛した。そして、ネフリュードフは軍務に就き、再びカチューシャの元を訪れた時、彼は変わっていた。純粋な気持ちは消え、愛欲にも飢えるようになっていたのだ。そうとは知らないカチューシャは、ネフリュードフに尽くし、無償の愛を提供する。しかしネフリュードフはカチューシャを欲望のまま愛して妊娠させてしまう。彼はカチューシャにわずかばかりの金を恵んで、追いすがる彼女を振り払って彼女の眼前から去っていく。

それからカチューシャはネフリュードフの子を身ごもり、出産するが、赤ん坊は直ぐに死んでしまった。失意の中、カチューシャは「娼婦」にまで身を落とし、10年あまりが過ぎた。

ネフリュードフは公爵の身の上で、生活は安泰である。婚約者がいるが、人妻と姦淫するなど、奔放な生活を送っていた。カチューシャのことはつゆほども思い出さない。 

ネフリュードフの罪の贖いを描く『復活』

ある時、ネフリュードフは陪審員として出廷した。そこでは、ある殺人事件が扱われていた。男が金品を盗まれた上に毒殺されたのだ。3人の被告がいたが、その中にカチューシャがいた。

ネフリュードフはカチューシャのことが思い出された。彼は自分のせいで娼婦に身を落とし、遂には殺人事件の被告にまで落ちぶれたことを知る。最初は、ネフリュードフは利己的で、自分とカチューシャどの関係が人に知られなければ良いと思っていた。

しかし、無実の罪でカチューシャが懲役刑を言い渡されると、罪の意識に苛まれ、神に祈る。すると彼の願い(神の元へと立ち返りたいという願い)は聞き届けられ、彼はカチューシャを助けようと奔走する。

カチューシャに対して罪悪感を覚えるようになってからのネフリュードフは、ひたすら彼女を救おうと贖罪のために走っていく。あらゆる人手を辿り、彼女の救済を願う。

救済というのは、単に無実の罪を晴らすだけではない。彼女がキリスト教的な神の元へと返るように働くということである。それは、ネフリュードフ自身が歩んだ道を、彼女にも歩ませようとするということだ。

だが、娼婦にまで身を落とし、善への希望を捨てている彼女は、自分を酷い目に遭わせたネフリュードフを許せないし、彼の言うことなど聞くはずもない。下巻はネフリュードフとカチューシャとの関わりがどうなっていくか、復活はどのようになされるかが問われるだろう。

【書評】 たんぽぽ 著者:川端康成 評価☆☆☆★★ (日本)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

たんぽぽ (講談社文芸文庫)

『たんぽぽ』は川端康成の最後の長編小説

『たんぽぽ』は川端康成の最後の長編小説である。『眠れる美女』『片腕』の系列に連なる作品で、最後まで書かれることなく、川端康成の自殺により絶筆となってしまった。眼前の人間の体が見えなくなる「人体欠視症」という奇病に冒された稲子と、その母、そして稲子の恋人・久野の物語。非常に会話の多い小説である。

『たんぽぽ』は1964年より書かれ、川端の死により絶筆となった。川端は長い思考を重ねて長編を書くことがあり、名作『雪国』も14年に亘って書き継がれた。『雪国』にしろ『たんぽぽ』にしろ、数年単位の長い期間に亘って書かれたとは思えないほど、作品の質には揺らぎがない。長い年月をかけて書かれたそれらの小説に、著者の漲る緊張感が一貫しているのである。

他者の体が見えなくなるという狂気

稲子は「人体欠視症」という奇病に冒されている。これは目の前の他者の体が見えなくなるという病気である。そして稲子は自分の体を見ることができ、彼女の体は、他者には見られているのである。ただ、稲子自身が他者を見ることができない。そして、彼女は精神病院に入れられてしまうのだった。

この狂気は何を意味するのだろうか?

本書の解説者は稲子の主体のはく奪と書いている。見ることが主体性であるとすれば、確かに稲子は他者に見られるのに自分は見ることができないので、主体のはく奪なのだろう。

稲子の存在が物語の存在を成り立たしめる

しかし久野にしても稲子の母にしても、稲子がいなければ二人の存在が成り立たないではないか。つまり彼らが語る言葉は、稲子を抜きにしては語り得ないのではないか。

会話の多い『たんぽぽ』という小説において、確かに、稲子は二人の会話の中には現れるが、今ここには、ついに姿を見せない。しかし『たんぽぽ』は稲子と彼女の「人体欠視症」という狂気を抜きにしては存在し得ない。

もし稲子がいなければ、何らのテーマもない会話の交流に過ぎない。稲子は、今ここには姿を見せないが、その存在は大きく、主体は、むしろ絶対的に大きい。物語の全てを治めるほどに。

惜しむらくは、本書が未完に終わったところである。川端康成の長編小説は、唐突に終わる生命のように突発的な終局を迎えるが、『たんぽぽ』は、それにしても、川端康成の自殺による終局が唐突で作品の質を高くしない。

【書評】 花ざかりの森・憂国 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆★ (日本)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

三島由紀夫の自選短編集『花ざかりの森・憂国

『花ざかりの森・憂国』は、三島由紀夫の自選短編集である。なんと解説まで三島由紀夫なのだ。収録作品は表題作「花ざかりの森」「憂国」の他、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」「詩を書く少年」「百万円煎餅」など13編である。私は三島の短編を好んで読まないが、三島自身も解説で次のように書いている。

文庫形式で自選短編集を出すほど、私は、短編という文学ジャンルに対して、すでに疎遠になってしまったのを感じる。(略)自然に短編の制作から私の心が遠ざかって行ったのである。そして少年時代に、詩と短編小説に専念して、そこに籠めていた私の哀歓は、年を経るにつれて、前者は戯曲へ、後者は長編小説へ、流れ入ったものと思われる。

その通りで、私が三島の短編を好んで読まないのは、短編には、長編小説におけるほど三島の創作の強い意欲を感じないからだ。三島は論理的な文体を使ったが、文体同様に小説の構造についてもしっかりとした結構を持った作品を書いた。そしてそれは、短編のような短い形式ではなく、長編小説のように語を多く使用できる長い形式にこそ適しているだろう。

だが、そんな中でも『花ざかりの森・憂国』のいくつかは、面白いと思うので、読んでみたのだった。

三島由紀夫の代表的短編「憂国

憂国」は三島の短編小説の中で私が特に評価する作品だ。二・二六事件の外伝的物語で、30歳の武山信二とその妻で23歳の麗子の自決までの「愛」「性愛」「憂国」などを丹念に描いている。

武山信二は、二・二六事件に親友たちが反乱軍に加担したことを知る。信二は軍人としてやがて反乱軍を討たねばならないことを覚悟したが、そんなことはできない。二・二六事件が起こったのは武山夫妻が結婚してわずか半年。親友たちは、信二が新婚であることを考慮して事件に誘わなかったのである。もし信二が新婚でなければ誘った可能性があるだろう。信二は、いずれ死の道を歩まねばならぬ身である。もちろん軍人の妻たる麗子も後を追わねばならない。

親友との義理を守らないことは、軍人として許されない。それは日本の軍人ではない。それでは信二は軍人としてどういう行動を取るべきか。自刃しかないのだ。大義のために死す。

そこで信二は事件の三日目に切腹することを決意する。軍人の妻として、常に死を間近に考えている妻・麗子は「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」と言って自刃を決意するのだ。

日本という国に使える軍人として、信二・麗子の思考は清冽であり、言葉は凄味を帯びている。二人の思考の傍らには、常に死がそこにある。引き金を引けば、いつなんどきでも死ぬ覚悟ができている。それゆえに死に対して一瞬の迷いもなかった。三島は信二・麗子の死を好意的に描く。この時私は三島由紀夫が『葉隠入門』で書いた文章を思い出す。

生きているものが死と直面するとは何であろうか。「葉隠」はこの場合に、ただ行動の純粋性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定している。

憂国」における執拗な性愛、そして自決の描写

憂国」は大義のために死ぬ信二・麗子という若い軍人夫婦を描いた。しかし、大義憂国だけを描いているかというと、そうではない。自決のその直前まで性愛が描かれているのだ。結婚して半年という短さもあろうが、厳格な家庭に育ったと思しき貞淑な妻麗子が、荒々しく強靭な肉体に掻き抱かれた時、それによく応じたという描写がある。

また、いざ自決する時の信二の肉体が滅んでいく様は、グロテスクなまでに執拗だ。介錯がいないゆえに、信二は深く腹に刀を突き刺し、最期は力を振り絞って刃に体を投げかけて項(うなじ)をつらぬかせて絶命するのだ。腹に刀を突き刺して、ただれおちる血液、はみ出てしまう腸などの描写は、ただただ、奇怪なだけでなく、大義のために死ぬ軍人の死に様としか例えようがない。軍人である夫の死をきちんと見届けるよう命じられた麗子は、彼の死を確認してから自害する。彼女は喉元に刃をあてるが、うまくいかない。何度かやって、成功し、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通して絶命した。

三島は「憂国」について、「三島のよいところ悪いところをすべて凝縮したエキスのような小説」と言っている。確かに、「憂国」は三島由紀夫作品を体現しているかのような、濃密な小説である。

憂国」以外の短編は小粒ぞろい

憂国」以外の短編はそう出来が良いものではない。特に表題作の「花ざかりの森」は今一つで、習作の域を出ない。三島も同作を愛さないという。その通りだろう。「詩を書く少年」「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」あたりがまだ読めるだろうか。

【書評】 仮説思考 BCG流問題発見・解決の発想法 著者:内田和成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法

「仮説思考」のエッセンスを実践的に伝えている

著者の内田和成は、2000〜2004年までBCG(ボストンコンサルティンググループ)の日本代表を務めた。その他早稲田大学商学学術院教授(初版当時)。

本書『仮説思考』は、仮説思考のエッセンス、そしてその実践方法について、学生が読んでも理解できるように平易な言葉で書かれている。理論を披歴するに留まらず、ビジネスの問題解決の場で、仮説思考を実践することの重要性を説く。一朝一夕で仮説思考が身につくものではないので、あたかもスポーツの練習のように鍛錬を重ねること。ゆえに、社会に出る前に読むのも良いが、ぜひ就職した後にこそ、本書を読んで実践した方が良いだろう。

多くの情報を集めても正しい答えが出るとは限らない

仮説思考は問題解決の現場で力を発揮する。例えば、仕事上で何らかの問題が生じた。その問題を解決する時、ビジネスパーソンはどのような方法で意思決定をするのだろうか?

多くの情報を収集して決定するか。

あるいは、わずかな情報で決定するか。

確かに多くの情報があった方が意思決定に役立つように見える。しかし多くの情報を収集するには時間がかかる。著者は多くの情報を収集することの非効率性について次のように書いている。

情報収集しているうちにどんどん時間が過ぎていき、結局、肝心の意思決定は「エイヤーッ」でやらざるを得なくなったり、いざ物事を決める段階になって、必要なデータがそろっていないことに気づいたりする。要するに、あらゆる情報を網羅的に調べてから答えを出していくには、時間的にも資源的にも無理があるということである。

特にビジネスの世界は速度が速く、情報を網羅的に調べた上で意思決定しても、既にその決定事項が使えないことがある。つまり鮮度が古くなり、使いものにならなくなっているのだ。

仮説思考を用いて最短で解を求めよ

情報を網羅的に調べて意思決定しても、その決定事項が使えないことがある。むしろ、そもそも網羅的に調べること自体、現実的には難しいといえる。では、どうしたら良いのか。

著者は、ビジネスの問題解決においては、「仮説思考」という思考法を用いるべきだという。「仮説思考」とは「物事を答えから考えること」。あるいは、「ベストな解を最短で探す方法」のこと。仕事の進め方でいえば、「課題を分析して答えを出すのではなく、まず答えを出し、それを分析して証明するのである」と書く。

仮説は検証し、進化させていく

仮説は間違っていても構わない。むしろ間違いを恐れるがゆえに、情報収集に走って時間を浪費することこそ、慎むべきである。仮に仮説が誤っていたとしても、間違いに早く気づけば立て直しができる。しかし、延々と情報収集に勤しんでいて時間を空費し、結果、意思決定をした時に既にその決定事項が使いものにならなくなっていた…ということに比べたら、早い段階で間違いに気づき、立て直せた方が良い。

仮説は、正しいのか、誤っているのかを検証する。そして仮説を進化させていく。著者は、検証の手段として「実験」「ディスカッション」「分析」の3つを挙げていた。そして検証の結果、仮説を進化させていけば良い(進化させていけば良いというのは、最初に立てた仮説が必ずしも正しい仮説ではないからだ)。

どんな意思決定が良いか?多くの情報を元に分析して、その分析結果を元に意思決定をしていては遅くなる。それよりも仮説思考を用いて仮説・検証を繰り返し、より早く、正しい意思決定に持ち込むこと。他の人が情報収集に右往左往している間に、仮説思考を実践している人は、さっさと仮説を立てて検証し、掘り下げ、それを進化させていく。おのずと、その人の仕事のスピードは早くなることだろう。

多くのビジネスパーソンに共通する「仮説思考」

本書は副題にあるように、コンサルタントとしての実践を元に書かれたビジネス書だ。仮説思考の啓蒙書といっても良い。ビジネスパーソンなら、誰だって仕事の問題はある。問題のないビジネスパーソンはいない。たとえ新卒だって問題は抱える。そんな時にこの仮説思考の考え方は大いに参考になろう。

繰り返すが、仕事の問題解決に取り組む際に、多くの情報を収集してから、「さあ、意思決定しよう!」というのでは、もはや時すでに遅し、となっていることがある。それに、そもそも、情報を網羅的に収集することなどできないのだ。情報を網羅しているように思い込んでいるだけなのである。

それよりも、仮説思考を用いて、短期間で仮説を立てて検証していった方が、早く解にたどり着ける。意思決定の際にもスピード感があり、本質的な意思決定ができる。これを大いに活用しない手はない。非常に良い本だ。著者の文体も、知的な意匠はひかえめに、コンサルタントとしての経験による自信により、読者に「仮説思考」を実践させる力を持っている。

【書評】 葉隠入門 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠入門 (新潮文庫)

葉隠』と三島由紀夫

小説家・三島由紀夫による『葉隠』についてのエッセイ。『葉隠入門』とある通り『葉隠』の入門書であるが、同時に三島由紀夫の思想を追想できる作品となっている。

三島の『葉隠入門』は次のような書き出しで始まる。

若い時分の心の伴侶としては、友だちと書物とがある。しかし、友だちは生き身のからだを持っていて、たえず変わっていく。ある一時期の感激も時とともにさめ、また別の友だちと、また別の感激が生まれてくる。書物もある意味ではそのようなものである。
<略>
しかし、友だちと書物との一番の差は、友だち自身は変わるが書物自体は変わらないということである。それはたとえ本棚の一隅に見捨てられても、それ自身の生命と思想を埃だらけになって、がんこに守っている。

そして、三島由紀夫にとって重要な作品であるラディゲや上田秋成作品は、かつて三島を文学的に虜にしたが、徐々に彼の「座右の書ではなくなっていった」という。しかし、そんな中にあって三島の座右の書とでもいうべき作品は、山本常朝(じょうちょう)の『葉隠』なのである。しかも『葉隠』は、「世間から必読の書のように強制されていた戦争時代が終わった」後、かえって三島の心を捉えた。三島にここまで言わしめる『葉隠』はいかに重要か。『葉隠』は彼の小説を解く鍵となっていることだろう。

三島由紀夫の『葉隠』を実践すること

三島由紀夫は小説家でありながら、ボディビルや空手を習い肉体を鍛えた。三島の小説には明晰な論理性と、美への強い意識がある。しかし三島は『葉隠』に耽溺するうちに「文学の中には、どうしても卑怯なものがひそんでいる」という、以前から抱いていた疑惑を表面に出すようになってきた。ゆえに彼は文武両道を必要とするようになった。彼の「肉体を鍛えること」への執着は『葉隠』の実践、すなわち文武両道からきている考えなのだろう。

三島は本書の中で、「芸術というものは芸術だけの中にぬくぬくとしていては衰えて死んでしまう」と言っている。なぜなら、文学は生そのものを材料として成り立っているからだ。

芸術はつねに芸術外のものにおびやかされ鼓舞されていなければ、たちまち枯渇してしまうのだ。それというのも、文学などという芸術は、つねに生そのものから材料を得て来ているのであって、その生なるものは母であると同時に仇敵である。

死の哲学を説いた『葉隠

三島は本書の終盤において、生の哲学を説いた西洋哲学、そして輪廻転生を説いた仏教と対置して『葉隠』を置く。

葉隠』は人間が死と直面した時に、「ただ行動の純粋性を提示して、情熱の高さとその力を肯定して、それによって生じた死はすべて肯定している」。だから人の死について他者の評価はあてにならず、例えば先の大戦の神風特攻隊も、必ずしも犬死ではなく彼らの行動が純粋であり、情熱の高さと力とがあれば、それは価値ある死であろう。

思想や理論のために死ななくても、何の意味もない死であっても、人間の死としての尊厳がある。そこに『葉隠』の真髄があるのであろう。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないといって三島は擱筆する。

このヒューマニズム的な死の価値観は、生の価値観を対置して考えるほどに独創的とは思えず、『葉隠』という書物に対する興味が殺がれる結果となってしまった。まして三島が座右の書とするほどの書物なのか…という疑惑が首をもたげて、私はページを閉じた。