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【書評】 構造改革と日本経済 著者:吉川洋 評価☆☆☆★★ (日本)

構造改革と日本経済

構造改革と日本経済

サプライサイドの構造改革だけではダメだ

日本における構造改革という時、何を思い浮かべるだろうか。小泉内閣構造改革を想起する人も多いかもしれない。本書『構造改革と日本経済』は2003年に発売。まさに小泉内閣時代のことだ。小泉内閣構造改革を推進したが、小泉純一郎にまとわりついて離れない既成概念を打破するようなイメージが先行して、彼の内閣が推進した構造改革を支持したくなる。とりあえず、既成の枠組みを取っ払ってくれそうな気がする訳だ。既成概念を打破するエネルギーは私も肯定するが、しかし、その対象はどこへ向かうのか?つまり既成概念を打破するエネルギーが行き着く先は?それがサプライサイドだけではダメだというのが本書の問題提起の1つ。

著者は、ケインズ有効需要シュンペーターイノベーションの概念を手がかりにして何冊かの一般向けの経済評論を書いている。本書もその系譜に連なるが、サプライサイドの構造改革だけでは不十分という問題提起や、「いつもの」主流派マクロ経済学を批判する口ぶりからすると、有効需要の方に軸足が置かれているようである(もっとも有効需要のことばかり書かれている訳ではない)。サプライサイドの構造改革だけでは不十分なら、何が足りないのかといえば、ディマンドサイドの構造改革があれば、パズルは完成する。だが、それを、主流派マクロ経済学は認めようとしない。

著者はアメリカの著名な経済学者ポール・クルーグマンを引き合いに次のように書く。

日本経済が直面している問題はこのように需要サイドの問題なのに小泉政権は「構造改革」というサプライ・サイドの政策を推し進めている。小泉首相は、一九三〇年代深刻な不況の最中に緊縮財政を行ったアメリカのフーバー大統領の轍を踏もうとしている。クルーグマン(二〇〇二)はこう「構造改革」を批判した。

日本経済の問題が需要の不足にあるということは、著者が本書で、あるいは他の書籍の中で何度も繰り返し述べていることである。

需要創出型イノベーションの重要性

著者は需要不足が日本経済の問題であることには、クルーグマンに同意しながらも彼には「持続的な需要の成長」をどのようにして生み出すかの批判がない、と批判する。では著者の提言は?というと、小題目にも書かれている通り需要創出型イノベーションである。著者の経済評論を読むのも本書で5冊目くらいなので、さすがに需要創出型イノベーションという提言には見飽きているのだが、初見の読者には興味を惹かれると思う。

3章の図3-4「新しい需要と経済成長のパターン」は、著者は気に入って本書の後半でも引用しているのだが、そんなに良いのか分からない。需要の伸びの大きい新しい財・サービスを次々に生み出す経済成長のパターンを、イメージ的に表した図なのだが、本書に限らず、著者が多くの経済評論で言及している「ケインズシュンペーターを足して二で割った」需要創出型イノベーションの図になっていて、要は両者のいいとこ取りをしているということだ。次々にイノベーションが湧いたら苦労はしないが、そこまでしないと経済成長が望めないのか。所与のパイを分け与えるだけの日本の野党的経済成長論よりは良いが、著者の言っている需要創出型イノベーションはどうも楽観的に過ぎるように見えてならない。

シニカルな笑い

ケインズに関する著者がある吉川洋だけに、経済学者らしいクールな文体で書かれていても、ケインズへの敬慕のような感情はしっかりと伝わってくる。著者の以下のようなシニカルな文章を読むとほくそ笑んでしまう。

ケインジアン」というと、財政赤字など一切気にせずムダな公共投資でもよいからとにかく積極的な財政政策をとるべきことを主張する放漫財政容認派のことだ、という粗っぽい議論が後を絶たない。困ったものである。無駄な公共投資をやめるべきだというようなことはケインジアン、反ケインジアンを問わない「常識」だろう。

有効需要を生み出すためには「穴を掘って埋めればよい」という『一般理論』の一節がよく引き合いに出される。しかしもとよりこれはケインズ一流の警句であり、後世文字どおりにこれを実行しようとする愚者が出現しようとはケインズは想像だにしなかったに違いない。

著者がケインズを引き合いに出して経済評論を書くのは、上記のようなシニカルな文章を書くに留まらない、というより、こういう描写は「おふざけ」のようなもので、著者がよく批判の対象としている主流派マクロ経済学への批判の理論的根拠としてケインズを持ち出す訳だ。だが、『デフレーション』という書物の終盤にも書かれていた通り、彼の「おふざけ」は相手を一笑に付すような嫌味ったらしいもので、学者なのに文芸評論家みたいな書き方をすると思う。それだけ著者の主流派マクロ経済学への強い批判的感情がさせることなのだろうが、やっぱり、笑ってしまう。

【書評】 罪と罰(3) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

誰しもが心に抱く「罪と罰」についての洞察

罪と罰』最終巻は、2人の殺人を犯した元大学生ロジオーン・ラスコーリニコフの運命を辿る。物語のエピローグで、元役人マルメラードフの娘・娼婦ソーニャによって、ラスコーリニコフは復活する。ここでの復活はキリスト教的な意味で復活するといった方が妥当だろうが、罪と罰と、贖罪とは一般化されて書かれていて、キリスト教的な意味に限定されていない。即ち、殺人という大罪を犯した人間が罪を悔い改め、その帰結としてソーニャが持つ福音書に彼自ら進んで触れていくので、帰結に対する描写よりもプロセスを重要視して書かれているのだ。従って、本書では、キリスト教的思想を読者に押しつけるような教条的な文章は使われていないから、人間の内奥にある罪悪感、贖罪の観念などを経験した読者であれば、ラザロの復活等のキリスト教的な知識がなくても理解できる。

罪と2回向き合うということ

ラスコーリニコフは警察に自首してシベリア送りになるが、懲役期間は8年間という短いものだった。いくつかの条件が絡んで寛大な措置になったのである。ラスコーリニコフは1度、自首しようと警察に行くのだが、うまく自首できずに警察を後にしてしまう。すると、彼を自首するようにすすめ、彼が初めて罪を告白した娼婦ソーニャが警察の前に立って、無言でこちらを見つめているのだ。そして彼は思い直して、今度は本当のことを警察に話す。自分が殺人者であると。

ラスコーリニコフは、警察に自首する前、ソーニャから地面に頭をつけて「自分が殺人者だ」と大衆の面前で告白すべきだと言われていたが、できなかった。地面に頭をつけることはできたのだが、その先、「自分が殺人者だ」と告白することができずにいた。この時、彼は、まだ、深く自分の罪と向き合っていなかったように見える。それゆえにこそ、1度、自首できずに警察から出てきてしまうのだ。

しかし、罪と深く向き合う機会は、もう1度訪れる。彼は既に懲役刑になった頃のことだ。彼は悪夢を見たり重篤な病気になったりした後、彼は久しぶりにソーニャに会った(ソーニャは軽い病気に罹っていた)。そこで彼はようやく罪と深く向き合う。泣いて、彼女の足元に身を投げ出している。ソーニャはラスコーリニコフに会う時は常におびえてびくびくしていたが、この時の彼女は彼が変化したことを知った。彼がようやく、罪と深く向き合うことができたのだと思ったのだろう。

彼女の目に、かぎりない幸せが輝きはじめた。彼女はわかったのだ、彼女にとって、それは疑いようのないものだった、彼は自分を愛している、かぎりなく愛している、そして、とうとうそのときが来たのだ、と……。

訳者への謝意

ドストエフスキーの『罪と罰』を読むのは2回目だ。最初は10年以上前の学生時代に読んだ。その時は新潮文庫版の『罪と罰』を読んだのだが、私の読解力の不足もあっただろうが、当時は今一つ良い感触を得られないままに終わってしまった。新潮文庫版では上下巻、光文社古典新訳文庫は全3巻と、長大な小説なので、社会人になって読む機会が訪れるとは思っていなかった。そもそも、ドストエフスキーの小説で良いと思ったのは『地下室の手記』くらいのものだったし、ドストエフスキーは日本の文学者が愛好していて、誰しも世界最大の作家と認めるような文豪なので、天の邪鬼の私はドストエフスキーに触れることはないだろうと思っていた。ドストエフスキーに触れてから10年以上、私はいかにも人が読みそうな作家を避けていた。そして、そういった作家こそが私に合っていると思っていた。

だが、昨年、図書館でたまたま光文社古典新訳文庫の『悪霊』を借りて読んだ時、ドストエフスキーの小説ってこんなに面白かったのか!と、清冽な感動を覚えたのだった。清冽というのは、登場人物が活き活きとしていて、主人公であるはずのスタヴローギンを押しのけるような活躍を見せることがあって、まるで自分が神にでもなって人間世界を覗きこんでいるような錯覚を覚えたということなのだ。しかも神でありながら、同時に人間であるかのような、覗きこむと同時にその世界に自分が直接的に立ってしまっているかのような錯覚を覚えることができた。こういう読書体験はそうそう滅多にあることではない。

『悪霊』を読んだのは昨年が初めてだったのだが、いつか『罪と罰』に再挑戦してみたいと思った。しかも、訳者は『悪霊』と同じく亀山郁夫が良いと思った。亀山の訳には誤訳があるという指摘があるそうだが、戯曲かと思わせるほどにセリフが多いドストエフスキーの小説を、あたかもリアリティのある映画を見るかのような臨場感に溢れた日本語に訳した手腕は評価すべきと思う。私が『悪霊』を読んでドストエフスキーの小説に清冽な感動を覚えたのは、彼の訳のおかげである。

そして今回、『罪と罰』の全3巻を読んだが、亀山郁夫の訳の映画的臨場感に溢れた日本語は健在だった。目の前にラスコーリニコフが、ソーニャが、ラズミーヒンがいるような気がした。リアリティの高い映画は人間の視覚に訴えることで、鑑賞後も、映画の世界が続いているかのような幻覚を与えることがある。そのくらい、映画のリアリティは強烈で、人間の感覚に侵入し、時には圧倒してくる。だが優れた小説においても、映画同様の強烈な印象、侵入してくること、圧倒的存在感などが際立つことがある。特に登場人物が魅力的に描かれ、具体的で、存在が確立している時にそう思う。『罪と罰』はまさにそういう小説であったが、そうさせてくれたのは亀山郁夫の翻訳に寄与するところが大きい。時折、まるでビートたけしの映画を見ているかのような罵詈雑言が出てくることがあって、「おいおい、ここまで口汚く罵るシーンがドストエフスキーの小説にあるのかよ!?」と苦笑してしまうほどに口汚いのだが、憤りが頂点に達した人間が吐く言葉は美しいはずがないし、むしろ汚くあるべきであろうし、リアリティの高い人物描写を好むドストエフスキーは言葉の美しさだけではなく、汚わいに満ちた、暴力的な言葉をも、書くことにためらいがないのだ。

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【書評】 作家論 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

私は芸術的な批評が苦手だ

三島由紀夫の批評は読んだ記憶がない。もっとも、私は彼の小説を愛好しているので、批評も読んだことがあるはずだが、今ひとつ記憶に残っていない。

本書は作家論になるが、論文とか評論のたぐいではなく、まさに批評なので三島の主張や意見の元となる根拠があいまいである。だから、読んでいるとどうしても、なぜか?と疑問符がついて回る。もちろん批評という表現形式が芸術の一種であるから、あいまいな根拠でも仕方ないというより、むしろ「合法」的なのだろうが、批評は小説なり映画なり芸術を論じることで成立しているので、論じることは論理的であるべきだから、根拠があいまいだと、その主張にしろ意見にしろ、その信ぴょう性を疑ってしまう。それでも批評は、感覚的に芸術を捉えて感覚的な文章として表す芸術の表現形式だといえば、根拠があいまいであっても、主観的に過ぎるとしても成立するのであろうが、私は苦手だ。

『作家論』はあくまで芸術的な批評である

三島由紀夫の『作家論』もまた、批評であるがゆえに芸術的な文章で構成される。川端康成の小説を評して抒情のロマネスクであることが通念だと言われても「本当なのか?」と立ち止ってしまう。その後に出てくる○○のロマネスク…という一群も唐突で分かりにくい。三島は巧みな文章を書いたし、意見の根拠があいまいでも文章そのものは明晰で論理的だからすんなりと読めてしまう。それでも、読後は掴みどころのない感覚が頭の中を浮遊しており、三島は本書で何を言いたかったのか?と訝しむ。

作家三島由紀夫がエッセイでも書くように、愛好する作家について言葉を連ねて好意や詩情を曝け出すと読むしかない。そしてそう読んでいくと、そこそこに面白い批評になっていると言えよう。

尚、本書は、林房雄論を除いて書籍の解説として書かれた批評を集めたものだ。

川端文学への鋭い直観が垣間見える

三島由紀夫川端康成の弟子のような存在だが、若い頃に川端に評価されて以来、三島は川端に親しみすぎるほど親しんだ。その蜜月も川端のノーベル文学賞受賞で終わったかに見えるが、川端康成の文学については良き理解者であったのだろう。本書には川端論が書かれているが、前述のロマネスク云々は不明瞭な見解であるにしても、三島らしい美的なレトリックで記述された批評は興趣に富む。例えば以下の文章である。

沈没した潜水艦の艦内で、刻一刻、酸素が欠乏してゆくのを味わうような胸苦しさは、それに近い作品を思いうかべてみても、辛うじてカフカの小説が比べられる位であった。

これは川端康成の傑作短編『眠れる美女』に対するものだが、やや表現に潤いが不足しているように感じられるものの、人形のように眠らされている美女たちを愛玩する老人の物語に対する批評としては、感覚的に掴みやすく合点がゆく表現だろう。

川端康成の他にも、谷崎潤一郎泉鏡花、さらには私小説作家の尾崎一雄上林暁などの名がある。本書は三島が愛好する作家を論じる体裁になっている。谷崎や鏡花を三島が評価していたことは知っているが、私小説作家を評価していたとは知らなかった。そう思うのは三島が私小説作家の太宰治に向かって「僕は太宰さんの文学が嫌いなんです」と言ったセリフが独り歩きしているからだ。そういう意味で本書は私にとっては驚くべき作品であろう。

【書評】 罪と罰(2) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

罪と罰〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

日の目を見るはずがなかったラスコーリニコフの殺人の動機

罪と罰』の1巻で私は、ラスコーリニコフの金貸し老婆殺人の動機が分からなかった。しかし第3部でラスコーリニコフはその殺人の動機を語る。厳密には動機らしいものである。

彼は「犯罪論」という論文を書いていた。それは雑誌に投稿されたものだが、雑誌は廃刊になっており別の雑誌に合併されていた。しかし後続の雑誌ではラスコーリニコフの「犯罪論」を掲載していたのだ。それをポルフィーリーという人物が直接、ラスコーリニコフに教える。ラスコーリニコフは雑誌廃刊は知っていたが、まさか自分の論文が後続の雑誌に掲載されているとは知らなかったのだ。

「犯罪論」は犯罪者の心理状況を分析した論文である。ポルフィーリーはその論文の終わりにさりげなく書かれている「思想」に注目する。

ラスコーリニコフは「犯罪論」の中で、人間を「凡人」と「非凡人」のグループに分ける。凡人は従順に生きなくてはならず、法を踏み超える権利を持っていない。普通、人間は皆、ルールや方針に従順に生きるし法を踏み超える権利が自分にあるとは思わないだろう。だが、ラスコーリニコフは凡人に対して非凡人がいるというのだ。非凡人にはある権利を持っているという。その権利というのは、非凡人が思想を持っていて、その思想の実行にあたって法の踏み越えが必要になる時に限って、法を踏み超える権利があるというものだ。ラスコーリニコフケプラーニュートンによる偉大な発見を例えに引き、以下のような思想を披瀝する。

思うに、ケプラーとかニュートンとかの発見が、いろんな事情がかさなり、もうどうしても世間に知られそうにない、ということになったとします。しかし、それが、発見のさまたげだとか、障害とかになって立ちふさがっているひとりの人間、もしくは十人、百人、あるいはそれ以上の人間の生命が犠牲になることで世間に知られるようになるとしたら、ニュートンは自分の発見を全人類の前に明らかにするため、その十人なり百人なりの人間をなきものにする権利がある。いや、それどころか、彼の義務といってもいいくらいなんですね。

良心にしたがって罪を犯す

ラスコーリニコフは、その後のセリフで、非凡人は「心のなかで良心にしたがって、流血を踏み越える許可を自分にあたえることができる」とまで言っている。「良心」にしたがって罪を犯す許可を自分が自分に与えるという思想は、独裁者の思想のようで恐ろしいが、これをラスコーリニコフはあたかも正当な理論であるかのように語っている。

私は第3部におけるラスコーリニコフの殺人の動機は、何度も読み返した。何度読み返しても、慄然とさせられる。これが架空の人間が語ったセリフであれ、ドストエフスキーの筆によるリアリスティックな表現であらわされると、恐れとともに慄く。ケプラーニュートンによる偉大な発見を持ち出し、そのためなら罪を犯す権利があるし、むしろ罪を犯すことは「義務」だとまで語る訳だ。しかもそれが十人なり百人なりの人間をなきものにするとは、正気の沙汰ではない。

だが、この正気の沙汰ではない、思想の実行のためなら罪を犯し得る非凡人の権利という思想が、ラスコーリニコフに老婆殺人に赴かせた思想なのだと考えられる訳である。身震いするくらいに恐ろしい思想だ。そもそも、良心があるのだから罪を犯すことを正当化しないはずなのだが、ラスコーリニコフは、非凡人なら許されると解く。ここでは、罪を犯す者の行動と良心、思想との関わりはどのようなものになっているのか。思想のためなら、良心は犠牲になってもいい、ということではないのか。そうでなければ、良心に従って罪を犯すなどという詭弁が正当化されるはずもない。良心に従い罪を犯すというのはナンセンスに見えて、良心よりも、行動(罪を犯す)よりも、思想が最優先と考えれば、必ずしもナンセンスではない。非凡人にとって、思想の実行こそ、なににもまして重要なポイントなのだから。

美しきソーニャ

罪と罰』においては、ソーニャという娼婦が重要な人物として登場している。彼女は前巻で死んだ役人の娘で、飲んだくれて家に金を入れない父親を持ち、生活のために売春をしていた。彼女はラスコーリニコフに、自分たちは呪われた者同士だと言われている。しかし、ソーニャは娼婦でありながら教会に通い聖書を読むような人物なのだ。娼婦のまま、呪われた者のまま、一生を終わるつもりはないのだ。

ラスコーリニコフはソーニャに、聖書の「ラザロ復活」の箇所を読んでくれと懇願した。彼女が読み終わった後、ラスコーリニコフはなにやら決心をしたような、謎めいたセリフを彼女に吐く。金貸し老婆の妹を殺した犯人が誰なのか、教えてやるというのだ(妹もラスコーリニコフが殺している)。ここから先は3巻を手に取る他にないが、単なる「贖罪」とか「懺悔」などでは終わらぬ、ソーニャに対するラスコーリニコフの罪の告白がどのようなものになっているか楽しみである。

ポリフォニックな群像劇は圧巻

前巻同様、ポリフォニックな群像劇が凄まじい。いったい誰が主人公なのかと思ってしまうほどだ。もちろん主人公はラスコーリニコフなのだが、彼が出てこなくてもストーリーは回る。ラスコーリニコフの思想は作者とイコールではない。彼は、ソーニャ、妹、母親、ラズミーヒンなどの影響を受けて思想や行動を変化させていく(思想といっても非凡人としての思想はやすやすと変わらない)。ポリフォニックな群像劇であるゆえんである。それにしても、ラスコーリニコフの思想にはたまげたが、ストーリーをポリフォニックな群像劇で進めるドストエフスキーには舌を巻く。世界のどの作家も太刀打ちできないんじゃないか?と思ってしまうくらいにドストエフスキーは冴えている。

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【書評】 初恋 著者:イワン・トゥルゲーネフ 評価☆☆☆★★ (ロシア)

初恋 (光文社古典新訳文庫)

初恋 (光文社古典新訳文庫)

16歳の少年の悲恋物語

『初恋』は、19世紀ロシアの作家イワン・トゥルゲーネフの中編小説。初恋のエピソードを友人に語る、主人公ウラジミールの手記という体裁である。

16歳の少年ウラジミールは、隣人の娘ジナイーダという美しい21歳の女性に恋をする。彼女は美しく聡明で、しかし、コケティッシュで何人かの男の「崇拝者」を持っていた。どんな男も彼女を手中に収めようと試みるが、上手くいかない。ウラジミールもその一人で、ジナイーダを恋い求める。彼女はウラジミールに一定の好意を持っているように見せかけていた。ウラジミールとはしゃいだり、じゃれあったりするのだが、決して心を寄せることはなく、ウラジミールも結局は「崇拝者」の一人に過ぎぬ扱いを受けることとなった。

ある時、ジナイーダが誰かに「恋」をしていることに気づいたウラジミールは、その相手を探っていく。そして突きとめた相手は自分の父親であった。その事実に衝撃を受けたウラジールだが、どうにもならない。自宅では母が父の不倫に感づいているらしく、喧嘩が絶えないでいた。いつしかウラジミール一家は引っ越しをして、ジナイーダと別れることになる。もう二度と彼女に会えないと思っていたウラジミールだが、ある時、父とジナイーダが密会している場面に遭遇するも、その後父は死に、ジナイーダは別の男と結婚した。しかし、ジナイーダは妊娠中に若くして死んでしまう。

年上の女性にあこがれる男子

年上の女性にあこがれるという感覚は、中学・高校くらいの男子であれば、わりと共通して抱いている感覚であるかもしれない。年上の女性というだけであこがれる感覚だ。それを恋といって良いのか分からないが、「初恋」とはそういうものかもしれない。ウラジミールの初恋も、成就しないし、成就したところで大した恋愛には至らなかっただろう。女性との間で、恋愛をするということは、初めての恋でいきなり上手くいく訳ではない。ウラジミールもジナイーダに感情をもてあそばれてしまう。

物語の序盤で、ジナイーダと遊んで、彼女と「王様ゲーム」的な遊びをしているところなど、男の感覚からしたら、恍惚としてしまうが、ジナイーダのような若く、美しい年上の女性は、そういう男の感性を見抜いた上で翻弄するのである。そういったところは『初恋』は上手く描けていたと思う。年上の女性にあこがれる男子が翻弄される様、数限りない失敗等、男子なら誰しも、多かれ少なかれ体験するであろう、多くのエピソードが丁寧に描かれている。

一方、ジナイーダが恋する男が主人公の父という設定は、少女マンガ的というか、父親が恋敵というのは衝撃的なエピソードではあろうが、陳腐さは否めない。ジナイーダのように男を手玉に取る女性というのは、確かに、年上で落ち着いた男性にあこがれがちではあるが、ウラジミールの父親になってしまうと、恣意的に衝撃性を狙ったかのようでリアリティを感じなかった。

過去に愛した人こそ理想の女性

ジナイーダはウラジミールにとって永遠の女性像なのかもしれない。16歳の時にあこがれながら、父に奪われ、しかも、若くして死んでしまったのだから。だが、この結末も恣意的に感じられて仕方ない。演劇的というか、安っぽい感じがするのだ。ウラジミールは、ジナイーダについては悪い感情を抱いていないし、若く美しい状態で死んだことで、詩的に高められているようだ。

だが、ウラジミールは、友人たちにジナイーダに対する初恋を語る時には既に年を取っていて40代になっているのだ。40代になって、昔の初恋を懐かしんでも構わないが、これが至上の恋のような最後の描写は、「現在を至上とする」私には到底理解できないものだった。