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【映画レビュー】 隠された記憶 評価☆☆☆☆☆ (2005年 フランス、オーストリア他)

 

隠された記憶 [DVD]

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ミヒャエル・ハネケ監督作品。彼の作品を鑑賞するのは『ファニーゲーム』に続いて2本目。2本続けて筆者好みの作品だったので、ハネケ作品は全て網羅してみようかと考えている。『ファニーゲーム』はメタミステリーだったが、今回はミステリーの体裁を利用して、思考における一面的な視線を批判し、物事を多面的に見つめる視線の必要性を感じさせていた。

したがって、一応ミステリーの体裁を持つ作品ゆえに「犯人探し」のストーリーが描かれるが、犯人は最後まで、映画の中では断定されないのである。代わりに、観る者が憶測するしかない。しかし、映画というメディアが断定的な口調で「犯人は誰それである」と言わずに、観る者に、想像し、憶測させるという文脈は、物事は一面的には捉え切れずに多角的に見るべきであるとのメッセージを伝えずにはおかない。

劇中のビデオテープが見せるメディアの映像によって、思考の一面性を批判的に捉える仕方は、メディアが思考を一面的にしやすいという傾向を示唆してもいる。

 

 

本作はカンヌ映画祭監督賞受賞作。出演はダニエル・オートゥイユジュリエット・ビノシュ。ビノシュは世界3大映画祭全てで女優賞に輝いた他、米アカデミー賞を受賞するなど国際的に評価の高い女優。オートゥイユはパトリス・ルコントの映画で観たことがあったので、久しぶりの再会のような印象。

 

 

トーリーは、ある日、テレビキャスター・ジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)の元に1本のビデオテープが送られてくるところから始まる。映像は固定カメラで撮られていて、自宅を長時間に渡って隠し撮りされたものだった。テープは何度か送り届けられ、テープには、不気味な絵が添えられてくる。3本目のテープにはジョルジュの生家と共に「鶏の首を切られた絵」が添えられてきたことで、ジョルジュは過去の罪を思い出す。

それと共に、ジョルジュはテープを送ってきた犯人に目星がついてきた。それは、かつて彼が幼い頃、生家で養っていたアルジェリア人のマジッドだ。マジッドに彼は「鶏を殺させる」などして凶暴な子に見せかけ、施設に預けさせてしまうのだった。

彼の居場所を尋ねるとマジッドは知らぬ存ぜぬを繰り返し、一向に非を認めない。その後も継続してテープが送り続けられるが、ある時ジョルジュがマジッドの家を訪ねた時が大きなストーリーの転回だ。彼は「俺は犯人じゃない」と言いつつ、首を切ってジョルジュの目の前で自殺して果てるからだ。

マジッドの息子はジョルジュの心理的な罪を指摘し、ジョルジュが抱える「疚しさ」を露わにする。但し彼も「俺は犯人じゃない」と言っている。

物語の最後、学校が映っている。そこには何も映っていないかに見えて、マジッドの息子とジョルジュの息子ピエロが映っているのだ。彼らは接点がないはずなのに親しげに話している。そしてその映像はビデオテープそっくりの固定カメラで撮られた映像であった。

 

 

『隠された記憶』のストーリーには2つの柱がある。

 

1つは冒頭に述べたように「思考の一面性」だ。2つ目の柱は、タイトルにあるように、記憶に「隠された疚しさ」や「罪」だろう。ジョルジュは、マジッドが自殺しても尚、自分には罪も疚しさもないと思っている。マジッドの息子には疚しさを見抜かれているが、贖罪しようとはしない。仕事の邪魔だと、彼を押しのけるに過ぎない。

 

但しこの隠された記憶という映画のタイトルには、二人分の記憶がある。つまりジョルジュと、マジッドの記憶だ。マジッドは、テレビで活躍するジョルジュを見て、言いしれぬ不快感を覚えたと言っている。忘れようとしても忘れられぬ記憶だが、ジョルジュをテレビで見たことで、思い出された、隠された記憶なのである。

マジッドが犯人か否かは分からないとはいえ、彼も、ジョルジュと同じく、疚しさや罪を認めようとはしないことは興味深い。その身振りは、ジョルジュと同様のものだからである。

ジョルジュはビデオテープで、マジッドはテレビで、それぞれメディアを通じて隠された記憶を呼び覚ました。そして二人とも疚しさも罪も認めない(否認する)。

 

しかし、二人のどちらかが、もし仮に否認を止めたらどうなるだろうか。ジョルジュが否認を止め、過去の罪の許しをマジッドに請うたら?

しかし、ジョルジュはマジッドを何とも思っていないことは明らかだ。彼が自殺しても一切の贖罪の観念が出て来ないからである。だから、彼が否認を止めることは原理的にあり得ない。

あるいは、マジッドが否認を止め、ビデオテープを送ったのは俺だと言って許しを請うたら?

しかし彼も否認を止めることはない。彼は自らの死をもってしても、俺はビデオテープを送っていないと抗弁したからである。

死という、そこで全てのコミュニケーションを断絶してしまう現象を前にしても、否認の否認の可能性を否定してしまう(ヘンテコな表現で恐縮だが)二人の間に、否認を止めてお互いに歩み寄るような姿勢はいささかもない。従って、隠された記憶はジョルジュとマジッドの間でただ横たわるだけで、二人の間に何も生産的なコミュニケーションは行われない。幼い頃に、ジョルジュが行った行為は、永遠に、二人に共通の理解を与えることがなく、終わってしまう。

 

*

 

もし仮に、否認を止めれば、物事の別な真相が見えてくるかもしれない。それは相手を理解することに繋がる。相手を理解し、こんな風に考えていたのかと思える。だがそんな展開にはならない。

 

ここで、ストーリーの柱の1つである「思考の一面性」は、ジョルジュとマジッドの思考にも共通するものであることが分かるだろう。ジョルジュとマジッドは、メディアではなく、人と人との間のコミュニケーションにおいて、思考の一面性から逃れることが出来ないでいるのだ。

 

 

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