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【映画レビュー】 羅生門 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (1950年 日本)

 

羅生門 デジタル完全版 [DVD]

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羅生門』は、黒澤明の代表作の一つで、1950年公開の映画である。ヴェネチア映画祭において、日本映画初の最高賞を受賞、米アカデミー賞でも名誉賞(現在の外国語映画賞に相当する)を受賞して、敗戦から5年、復興に向けて進む日本人を勇気づけた。黒澤明が1998年に亡くなった時にテレビで放映された本作を観たが、当時は私もガキだったし、内容がよく分からなかった。最近、Amazonプライムで『羅生門 デジタル完全版』が観られるというのを知って、片手間に観てみたら非常に良かった。この映画は、黒澤の代表作に留まらず、日本映画史上に燦然と輝く名作だろう。このブログでの評価は☆5が最高だったが、『羅生門』は最上位を超える評価という意味を込めて☆7とした。

 

映画は、土砂降りの雨が、崩れた羅生門に打ちつけるシーンから始まるが、これが白黒映画ゆえの凄まじさで、墨汁が雨雲から滝のように降ってくるかのようだ。また、当時はタブーであった太陽を直接撮った場面では、林の葉の間から照りつける太陽の強い光が、これから生起する、あるいは既に生起した罪を象徴し、怪しさを増大させていく。

 

この冒頭の雨のシーンを見ると退廃的な美を感じるが、『羅生門』が描こうとするのは美ではない。言葉の持つ危うさだ。本作は、芥川龍之介の小説『藪の中』と『羅生門』を題材にしていて、特に前者を中心的題材としている。

 

平安時代の乱世、多襄丸という盗賊が、武士夫婦を見かけ、妻を強姦した。そして夫が何らかの理由で死んだという事件が起こる。そして検非違使が多譲丸、武士の妻、死んだ武士の3人に事件の内容を聞くと、3人とも全く異なった証言をする。まさに真相は「藪の中」という物語である。

 

多襄丸が武士の妻を強姦したという事実だけは両人とも共通している。問題になっているのは武士はどのようにして死んだのか、という点である。

 

●多襄丸は、強姦後、武士の妻が、決闘して勝った方と一緒になるとそそのかすので、武士と決闘して殺害したと証言する。

●武士の妻は、多襄丸は妻を強姦した後、夫を殺さずに逃げたと証言する。そして妻は、体を汚されたことで彼女を軽蔑的な目で見る夫のために狂乱し、短刀で自分を刺すように言った。だが彼女は夫の侮蔑的な視線に耐え切れなくなり、気絶してしまう。目覚めると夫には短刀が刺さっていた。彼女が殺したものか、夫が自害したものか定かではない。

●武士は、巫女の唇を通して証言する。武士の妻は多襄丸に強姦された後、多襄丸と共に行くと言い、その代わり夫を殺してくれと要求した。しかし多襄丸はそれには答えず去り、妻もいなくなる。絶望した夫は短刀により自ら果てるのであった。

●3人が3人とも違う証言をするが、杣売りも実はこの事件を見ていたのである。杣売りも検非違使に呼ばれながらそれを証言できなかったのは、彼は武士の妻の短刀を盗んでいたからである。

短刀を盗んだことが検非違使にばれたくないと思い、言えずにいた。しかし、羅生門では、彼は僧侶と下人に、意を決して彼が見たそのままを話した。

 

その内容を語る前に多襄丸、武士の妻、そして武士の証言内容を見てみると、彼らはそれぞれ、自分に都合の良いように語っていた。つまりエゴイズムである。そのために真相が隠されていたのだが、杣売りが見たという事件が真相かといえば、そうとも断言できない。杣売りは真実だというが、彼は短刀を盗んだことを隠すために検非違使の前で証言せずに黙っていた人物である。だから杣売りの話にエゴイズムがないとどうして言えようか。

 

●杣売りの証言は、多襄丸が武士の妻を強姦した後、多襄丸は武士の妻を求めたが、彼女は拒否するというものだ。武士は、こんな女のために命を捧げるのは馬鹿げていると言う。武士の妻は、多襄丸に、私が欲しいなら夫を殺せと言い、夫には、男なら妻を強姦した男を殺して私を殺せと言って、2人を挑発する。誘いに乗った2人は間抜けな死闘を繰り広げ、結果的に武士が死ぬ。

 

結局、4人とも違う物語を語り、真相は分からない。ある人間が関わった事件において、その真相を知るには、関与した人間の言葉を聞くことでこそ知れるはずだが、『羅生門』は、人間の言葉が必ずしも真相を語っていないと言っているのである。4人ともエゴイズムに囚われているので誰が真相を語っているか、あるいは全員が嘘を吐いているか、分からないからである。従って真相は、人間の言葉を聞けば聞くほど分からなくなる訳だ。言葉によってしか真相を知り得ないのに、言葉によっては、真相を語り得ないようにも思われる。全員の言葉が疑わしいとなれば、誰を信用したら良いのか。

 

羅生門』はこういった言葉の持つ危うさを、4人の言葉をもって描く。言葉が信用できないなら、誰を信用したら良いのか。その答えを映画は、僧侶による倫理的な言葉で締めくくる。言葉が信用ならないなら、人間が信じることができるのは、感情なのである。映画で出てくる感情は、杣売りによる、捨てられた赤ん坊を引き取る心に表れる。それさえも信用できないとなれば、人間は心底、誰も信用できないであろうとでも言うように、杣売りの小さな愛、あるいは優しさは、言葉を超越するものとして提示され、映画は終わる。

 

 

多襄丸役として三船敏郎が出演しているが、素晴らしい名演で最後まで目が離せない。彼は世界のミフネと呼ばれたが、私は黒澤映画をあまり観ていないから、彼がどれほどの俳優か分からなかった。『羅生門』での多襄丸は、物語をかき乱すキーとなる盗賊で、もし彼がいなければ何も起こらなかった武士夫婦に、人生の分け目となる危機的な状況をもたらす。

 

多襄丸は夏の暑い林の中で、武士の妻を強姦したいという欲望に駆られ、その欲望を抑制しきれず事に及んでしまうのであった。その漲る生のエネルギーを爆発させる多襄丸を演じた三船は、役になり切ることを超えて、役を作り出しているかに見える程である。これほどの名優が日本にいたことを私は誇らしく感じるくらいである。