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【書評】 罪と罰(1) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰』は、人間の滑稽さや暴力性、シニカルさを活写する

19世紀のロシアにフョードル・ドストエフスキーという作家がいた。彼は処女長編『貧しき人々』で華々しく作家デビューを果たす。しかし社会主義サークルの一員になった廉で死刑判決を受けて10年間、シベリアで懲役生活を送った。地上に抜け出た後、彼は『死の家の記録』を書き作家として再出発する。そして『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの五大長編を物して60歳で死ぬ。遺作長編は『カラマーゾフの兄弟』だ。
作品はミハイル・バフチンによりポリフォニーと呼ばれ、キャラクターが自身の思想をもって自律的に動き対話を重ねることで、現実の多面性を体現していた。

…とまあ、味気ない紹介がドストエフスキーのような完全なる大作家にはお似合いであろう。フョードル・ドストエフスキーは、誰が何と言おうと大作家で、特に五大長編のいくつかは、世界文学の最高峰なのだ。読むまでもない。文学史上の定石通りに、ドストエフスキーは紛うことなき大作家であるから、読むまでもなく傑作に違いない。それで良いのである。そして作品に対するイメージは物々しく厳粛で高貴である。

私もそう思っていた。五大長編の持つテーマはそれぞれ異なるが、とにかく傑作なのであろうと。しかし亀山郁夫訳の『罪と罰』(1)を読んでみると何かが違う。確かに【紛うことなき傑作】には違いない。しかし単なる傑作とは思えない。『罪と罰』というタイトルにイメージされる厳粛な雰囲気、高貴さ、物々しさはそれほどクローズアップされていない。むしろ登場人物が演じる馬鹿馬鹿しい笑いや、血みどろのグロテスクな暴力シーン、生活臭がぷんぷん匂う人間のシニカルなセリフなどの方が際立つ。その奥底に感じられるのは人間の利己的な価値観である。人間は自身の欲望を満たすために合理的に行動する、と、あたかも経済学の一説を想起したくなるほどだ。徹底した利己主義の体現者が『罪と罰』には出ている。

さしたる動機もなく殺人を犯すラスコーリニコフ

罪と罰』の主人公はロジオーン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ。元大学生で頭はキレる。彼は独自の思想をもって殺人を犯す訳だが、1巻では動機については深く掘り下げられていない。さしたる動機もなく、殺人を犯したような塩梅である。

留意したいのは、ラスコーリニコフが必ずしも必然的に殺人を犯したのではないということである。亀山郁夫も書いているように本書は「運命の書」で、ラスコーリニコフは「重なりあうさまざまな偶然によって」殺人を犯すのである。彼は高利貸しの老婆を殺しにいくが、それ自体、本来、必然性はなかった。ラスコーリニコフは老婆に対する殺意は、心の底に抱いていた。しかし、彼が広場でたまたま耳にした偶然が、最終的に犯行を決定づけることになる。それは老婆と同居している妹リザヴェータがある日のある時間に自宅を不在にする、という情報だった。それを聞いたラスコーリニコフは、その機会を逃すまいと犯行を決意する。そして彼は老婆を殺害するのだが、殺害後、本来はいるはずのない妹リザヴェータが自宅に帰ってきてしまうのだ。なぜなら、「ある日のある時間に自宅を不在にする」というのは、ラスコーリニコフの聞き間違いだったようなのである。

まるで悪魔が、ラスコーリニコフを殺人という大罪まで誘ってしまうかのごとき、運命の恐ろしさは筆舌に尽くしがたいが、彼の動機が1巻では容易に語られないところが不気味である。明るく世渡りがうまいラズミーヒンに比べると、婚約者に死なれて大学も辞めて貧乏なラスコーリニコフは、ひとりよがりの殺人者に過ぎないように見える。1巻でのラスコーリニコフは、ドストエフスキー作品の主人公らしい振る舞いが見られない。すなわち、何らかの思想をもって世界や他者と対峙するような側面がない。それは2巻以降で明らかになるのだろうか。

明るく世渡りがうまいがシニカルなラズミーヒン

ラスコーリニコフと対照的な友人として描かれるのがラズミーヒンだ。彼は明るく世渡りが上手く、翻訳のバイトをやっている。この青年が口が悪くてシニカルで私好みの男で、電車で『罪と罰』を読んでいたら、彼のセリフの箇所で何度笑ってしまったか分からない。亀山郁夫の喜劇的なボキャブラリーにも驚かされる。

・そいつが、出版事業みたいなことをやっててさ、自然科学ものの本なんか出してるんだが、これがかなりの売れ行きなんだよ!タイトルからしてふるってんのさ!そういや、きみはこのおれをいつもバカあつかいしていたけどね、いやあ、おれ以上のバカがいるらしいよ!
・おい、アルコールで頭をやられたんとちがうか!
・いつまでそういうばかげたお芝居つづける気だ!こっちまでおかしくなるぜ……いったいなんのためにわざわざここに来やがった?ちくしょう?

極め付けはナスターシャとのやりとりだ。

ラズミーヒン「おう、ナスターシャがお茶をもってきた。ほんとうにフットワークのいい女だぜ!ナスターシャ、ビール、飲むかい?」
ナスターシャ「まあ、罰あたるわよ!」
ラズミーヒン「じゃ、お茶はどうだ?」
ナスターシャ「お茶ならいいわ」
ラズミーヒン「自分で注げ。ちょいと待った、おれが注いでやる。そこにすわってな」

ラズミーヒンはビールを飲むか?と、自分からナスターシャに聞くが「罰があたる」と言われると今度は「お茶はどうだ?」と尋ねる。相手が「いいわ」と答えたのに今度は「自分で注げ」という始末。このやりとりは堪らない。コントを見ているような気分にさせられる。まさかドストエフスキーの小説を読んで笑わされるとは思わなかった。

まるでブコウスキーのようなドストエフスキー

最後に。脇道に逸れるが、ドストエフスキーという作家は賭博に狂ったことがある。訳者の亀山郁夫の「読書ガイド」によると、以下のようなエピソードがあるらしい。

彼は、おもに債権者の追っ手を逃れるため、六五年七月、三度目の外国旅行に出た。旅のさなか、またしてもルーレットの誘惑に陥った。当時、彼が恋人や友人たちに宛てて書いた手紙は、読むに耐えない、無残な内容に満ちている。
「ホテルを一歩も出られない。借金で八方ふさがりだ」
「即金で三百ルーブル送ってくれるところがあれば、どこでもいいから契約したい」

亀山郁夫は、上記のようなどん底状態があったればこそ、ドストエフスキーが『罪と罰』を生み出したのだと導いている訳だが、借金してまで賭博に狂うとは異常である。こんなエピソードを聞いてしまうと、ドストエフスキーには悪いがパルプ作家のブコウスキーを思い出してしまう。飲んだくれのアメリカの作家・ブコウスキーは、賭博というより酒に狂ったが、似た者同士のような気がする。どっちも最低だ!笑