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【映画レビュー】 ジョーカー 監督:トッド・フィリップス 評価☆☆☆☆☆ (米国)

映画『ジョーカー』の概要

映画『ジョーカー』はアメリカの映画監督トッド・フィリップスの作品。フィリップスは主にコメディ映画を監督してきた人で、『ハング・オーバー』シリーズのヒットで一躍有名になっている。『ジョーカー』の前作『ウォー・ドッグス』(日本では劇場未公開)もコメディ映画であった。そのフィリップスがホアキン・フェニックスを主演に迎えて作ったシリアスな映画が本作だ。『バットマン』の悪役ジョーカーをモデルにしながらも、全編を通じてシリアスなストーリーで笑えるシーンは1つもない。

フィリップスはジョーカーの誕生秘話として、オリジナルのストーリーを作った。主人公のアーサー(ホアキン・フェニックス)はフリーの大道芸人でその日暮らしをしている。『ジョーカー』は、経済的困窮の中にありながらも親思いで優しかったアーサーが、いかにして『バットマン』シリーズの最強の敵ジョーカーになったかを描いた作品である。批評家に評価され、第76回ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

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世界中で大ヒットを記録

『ジョーカー』は『バットマン』シリーズのジョーカーをモチーフに描いたアメコミ映画である。アメコミ映画はヒットする。今年に入って、『アベンジャーズ/エンドゲーム』が世界興行収入1位の座を10年ぶりに塗り替えたことが記憶に新しい。しかし『ジョーカー』はR指定作品だ。いくらアメコミ映画といえどもR指定映画がどこまで記録を伸ばせるのか。直接的な暴力描写もある。しかもヴェネチアで最高賞を受賞したことからも、エンタメというよりはアート系映画の印象を持たれる。アメコミ映画だからといって、ヒットするのか。しかし『ジョーカー』は、世界興行収入が10億ドルを突破する記録を打ち立てたのだ。

R指定映画の全世界興行収入ランキングは、1位の座に『デッドプール2』(2018)が7億8,500万ドルで輝いていた。『ジョーカー』は公開3週目にしてあっさりと『デッドプール2』から首位の座を奪った。しかも『ジョーカー』は、2019年11月には10億ドルの興行収入を叩き出す。これはR指定映画として初の快挙となる。しかも中国では未公開。にもかかわらず『ジョーカー』は世界中で大ヒットを記録しているのである。

ホアキン・フェニックスの圧倒されるほどの名演

『ジョーカー』はヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。金獅子賞の選考結果について、映画祭の選考委員は主演のホアキン・フェニックスを高く評価した。例えば審査員のメアリー・ハロン(映画監督)は、「金獅子賞を授賞したため、(ホアキンによる)その演技に賞を贈ることはでき」なかったが、圧倒されるほど素晴らしい演技だと絶賛している。それほどまでにフェニックスの演技は素晴らしかったのだが、一体どれほどのものだったというのだろうか。

ホアキン・フェニックスが演じる抑圧された者の孤独

フェニックスが演じたアーサーは、大道芸人スタンドアップ・コメディアンとして成功したいと夢見ている。彼はTV司会者のマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)に憧れていた。アーサーは経済的には困窮を極め、認知症気味の母と2人で暮らす。NYにそっくりのゴッサムシティで生きる彼は、貧困・差別・病気・福祉からの排除等といった抑圧にさらされていた。そしてアーサーは徐々に狂気を帯びていく。その狂気が外部に発露したのは職場の同僚からもらった銃である。アーサーは、地下鉄の車内で自分を嘲笑した裕福な乗客3人を射殺するのだ。貧困・差別・病気、そして福祉からの排除といった抑圧により、アーサーは孤独に陥った。

道端に落ちている石がある。その石は踏みつけられる。そして蹴られる。通行の邪魔であるとして、あるいは通行中の暇つぶしとして、もしくは子どもの遊び道具として。いずれにしても取るに足らない存在である。だが、貧困・差別・病気・福祉からの排除といった抑圧にされされた孤独なアーサーとは、まさに路傍の石ではなかろうか。そして、アーサーを演じたホアキン・フェニックス路傍の石を体現しているのだ。

アーサーがピエロの恰好をしてゴッサムシティに立ちサンドイッチマンをしている時、若者が看板を奪う。看板を追いかけるアーサー。だが、それは若者に壊されてしまった。看板がなければサンドイッチマンになれない。上司に叱責されるアーサーのうなだれた姿。また、ゴッサムシティが財政難であることから、アーサーは福祉センターからのカウンセリングを受けられなくなる。それをカウンセラーから通告された時、煙草を燻らせながら嘆息するアーサーの哀しい顔。また、アーサーはトゥレット症候群を患い、他者から気味悪がられている。電車の中でつい笑いが止まらなくなる彼に乗客は奇異の目を向ける。笑いつつも、この笑いを誰かに止めて欲しいという苦悶が聞こえてきそうな、アーサーの声。

アーサーは路傍の石である。つまらない、取るに足らない石ころだ。通行の邪魔になれば蹴られ、踏みつけられる存在だ。戯れに面白がられて子どもに蹴られて遊ばれることもあるが、それも一時のこと。誰かに愛される訳でもなく、粉々に砕かれたとしても、たかが路傍の石のことを誰にも気に留めることはないだろう。その孤独な路傍の石を真正面から受け止めて演じ切ったホアキン・フェニックスには称賛を惜しまない。確かに彼の演技は圧倒的であり彼がいなければ『ジョーカー』は成り立たなかったと言えるだろう。

ホアキン・フェニックスが演じる抑圧された者の狂気

『ジョーカー』の主人公アーサーは、孤独であるが銃を手にしてウェイン証券のエリートサラリーマンを3人殺害したことから、不気味な自信を持ち始める。そして、メディアを通じてアーサーの凶行を知った貧困者たちは、殺害されたのがエリートだったという情報から犯人を称え彼のようにならんとする。犯人がピエロの恰好をしていたことから、彼の真似をしてピエロの恰好をしてデモンストレーションを行っていく。貧しい大衆が立ち上がり、いつの間にかアーサーは、正体を明かさぬまま、反権力の象徴となった。

アーサーは路傍の石である。路傍の石は取るに足らない存在である。蹴られて踏みつけられる存在である。しかし、その石ころが狂気を持って「銃とメディア」を武器にした時、大いなる岩となった。アーサーの持つ狂気とは内に秘めた狂気ではなく、行動そのものである。エリートを殺害し、同僚を殺害し、実母をも殺害するほどの彼の行動にこそ狂気が宿っていた。そして最後に彼がテレビカメラの前で殺したのは、敬愛する司会者のフランクリンである。彼が1人殺す度に狂気の階段を一歩ずつ歩み、最後にテレビカメラの前で殺害することで彼の狂気は大衆に伝播した。彼と同様に抑圧された孤独な者たちに。アーサーの行動に影響を受けた大衆の1人は、バットマンの父であるウェイン夫妻を殺害した。

言葉による狂気だけでなく、殺人という行動を示すことで狂気を体現していくアーサーに、アーサー同様に孤独な者たちは影響されていく。テレビを通じた狂気の行動が孤独な者たちに伝播されることで、アーサーは路傍の石から大いなる岩へと変貌を遂げる。そして、その変貌を演じきったホアキン・フェニックスには、またも、称賛を惜しむことができない。

抑圧される者の存在証明はどこにも見つからなかった

『ジョーカー』の主人公アーサーは、自らを路傍の石だと分かっていた。貧困・差別・病気・福祉からの排除によって抑圧された彼は、自分は取るに足らない人間だと思っている。しかし、どこかに、自分は「意味のある人間」なのではないかという思いがあった。その思いを繋ぎとめているのは、母の存在だ。母はかつて資産家トーマス・ウェイン(バットマンの父)の家で家政婦として働いていたのだが、母によるとアーサーはウェインの子どもだというのだ。

その希望を頼りにアーサーはウェイン家に行き、トーマスの息子ブルース・ウェインに会い、そしてトーマスにも会って自分が彼らの一員であることに期待する。しかし、アーサーが母親が入院していた病院から無理やり奪った診断書を見てみると、アーサーは母親の養子でありトーマス・ウェインとも血縁関係がないことが判明する。結局、トーマス・ウェインの息子という期待は廃棄せざるを得ず、母親の実子でもないことが分かったアーサーには、絶望しかなかった。抑圧される者の生きる意味などなかった。彼は意味のある人間ではなく、ナンセンスで、路傍の石でしかなかったのである。

彼が「意味のある人間」であることを求めたのは、彼が抑圧された者だからである。不自由ない収入を得て、家庭や自宅を持っている人間にとっては、別段、自分が「意味のある人間」であることを求める必要もない。「意味のある人間」であることを期待しなくても、不満を感じることがないからだ。それは、彼ら彼女らが抑圧されず、孤独でもないからだ。しかしアーサーのように、貧しく、差別され、病気を持ち、福祉から排除された人間にとって、「意味のある人間」であることは、彼の存在証明だった。にもかかわらず、その希望が潰えた時、彼はジョーカーとならざるを得なかったのではあるまいか?

『ジョーカー』の持つ共感力の怖さ

『ジョーカー』は抑圧される者の孤独と狂気を描いている。誰しもが共感できる孤独ではないし、狂気ではないだろう。しかし『ジョーカー』は、アーサーの孤独と狂気に大衆からの支持があるように描写した。ここに映画『ジョーカー』の持つ不気味さ、恐ろしさ、怖さがある。アーサーを必ずしもネガティブに描いていない『ジョーカー』。本作は、アーサーに共感し彼を仰ぎ見る大衆も描いていた。本作がアーサーを仰ぐ大衆を描いたことで、観客が大衆と接続されて、アーサーに共感する人も出てくる。

なぜ観客が大衆と接続されるのかというと、既に、アーサーを支持する大衆を描く前に、アーサーの持つ孤独に共感させているからだ。アーサーのように貧困に陥る者、差別される者、病気に罹った者、福祉に排除された者は、『ジョーカー』が丁寧に描くアーサーの孤独に共感する。あるいは、抑圧された経験を持つ者も共感するかもしれない。あるいは、抑圧者を助けている者も共感するかもしれない。あらゆる観客が『ジョーカー』に共感することはない。だが、本作が描いたような孤独に関わる人たちに対して共感させる力を、本作は持っている。本作は、アーサーの持つ孤独が行動する狂気に繋がり、そして大衆の支持を取り付けたプロセスを描いたことで、映画が持つ共感力の怖さを示してくれる。

【映画レビュー】 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 監督:クエンティン・タランティーノ 評価☆☆☆☆☆ (米国)

クエンティン・タランティーノについてのおさらい

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、アメリカの映画監督クエンティン・タランティーノの9作目の作品。タランティーノは、1992年、『レザボア・ドッグス』でデビュー以来、『パルプ・フィクション』でオムニバス形式を用いて物語を解体する映画を作り、『イングロリアス・バスターズ』で反歴史的映画を作った。彼の監督作は批評家の評価も高く、『パルプ・フィクション』でカンヌ映画祭パルムドール、米アカデミー賞脚本賞、『ジャンゴ』で2度目の米アカデミー賞脚本賞を受賞している。

タランティーノは自身が映画マニアを自称しているだけあって、彼の監督作品にはオタク的な映画の知識が散りばめられている。作品も一般大衆に受けるというよりはマニア向けの作品という印象を観客に抱かせるだろう。とはいえ彼の作品はマニア向けといいながらヒット作も生まれていて、『ジャンゴ』で4億2千万ドル、『イングロリアス・バスターズ』で3億2千万ドルの興行収入を挙げている。

尚、タランティーノは、かねてより映画を10本撮ったら引退すると公言しており、その公言通りならあと1本で引退することになる。

タランティーノによる映画に関するおとぎ話

タイトルの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とは、「昔々ハリウッドで・・・」という意味。おとぎ話でいうところの「昔々あるところに・・・」の語り口のようであるが、その通りで、本作はタランティーノによる映画に関するおとぎ話である。本作は1969年に発生したハリウッド女優シャロン・テート殺害事件を題材として、テレビ俳優リック・ダルトンと、彼のスタントマンであるクリフ・ブースという2人の架空の人物を主軸にした物語。「昔々ハリウッドで・・・」語られるおとぎ話とは、過ぎし日のハリウッド映画界に対するタランティーノ流の賛歌である。

シャロン・テート殺害事件とは?

シャロン・テートは、米テキサス州出身のハリウッド女優。非常に美人でセクシーな魅力を持っていた。1968年、『ローズマリーの赤ちゃん』『テス』『戦場のピアニスト』等で知られるロマン・ポランスキー監督と結婚した。彼女は1969年に、カルト指導者チャールズ・マンソンの信奉者たちによって殺害された。当時、彼女は妊娠8カ月であり、ポランスキー監督の子どもを宿していたがお腹の子どもと共に殺害されてしまった。このことを知ったポランスキー監督は、滞在中の英国で泣き崩れたという。

本作ではシャロン・テート殺害事件という悲劇を題材としており、この事件を知っていることを前提として作られている。もしシャロン・テート殺害事件を知らないまま映画を見ると、単なるスリラー映画としてしか受け止められず、タランティーノがタイトルに込めた「昔々ハリウッドで・・・」というおとぎ話の意味合いは薄れてしまうことだろう。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のキャスト紹介

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』には多くのキャストが出演している。主演はレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの2人、シャロン・テート役にマーゴット・ロビー。ディカプリオとピットは映画初共演。

レオナルド・ディカプリオ

レオナルド・ディカプリオはテレビ俳優リック・ダルトン役で出演。彼がタランティーノの映画に出演するのは『ジャンゴ』以来2度目である。本作では、落ち目の俳優リック・ダルトンを余裕たっぷりに演じる。ダルトンは架空の人物。

ダルトンはテレビ俳優から映画俳優への移行がうまくできずに悩んでいた。仕事がうまくいかないことからアルコール中毒躁鬱病に悩む。撮影時に台詞を忘れたり、控室の車内で鏡に映る自分に向けて大声で怒鳴ったり、そうかと思えばハイテンションになったりと精神的に不安定であった。ダルトンは落ち目の中、イタリア映画に出演することを勧められ「イタリア映画なんかに!」と落胆する。しかし共演した子役との会話を通じて演技への情熱をふるいたたせたダルトンは、悪役として凄絶な演技を見せ監督から絶賛される。そしてイタリアへと旅立つのであった。

ブラッド・ピット

2人目の主人公クリフ・ブースを演じるのはブラッド・ピットである。ブースは架空の人物。ピットがタランティーノの映画に出演するのは『イングロリアス・バスターズ』以来2度目である。

ブースは精神的にタフな男である。ブースは常にヘラヘラと笑っていて穏やかそうだが、妻殺しのエピソードや、ブルース・リーを叩きのめしたシーンなどから、彼には不気味な暴力性を感じる。ブースの役柄は『イングロリアス・バスターズ』のレイン中尉よりももう少し凶暴である。むしろブラッド・ピットが過去に演じた、ガイ・リッチー監督作『スナッチ』のミッキー・オニールの方が似ている。クリフ・ブースが、映画のラストで活躍する犬を飼っているのも、『スナッチ』の犬を思い出させた。

ブースは俳優ダルトンのスタントマンで、時にはドライバーや雑用係などを務める。ダルトンにとってブースは親友である。ブースは、普段はキャンピングカーに住んでいてそこで犬を飼っている。犬は凶暴だがブースに忠実である。ダルトンの動と対照的にブースは静である。妻殺しを理由に相手から罵倒されても意に介さない。チャールズ・マンソンのカルト集団を訪れて、メンバーの不気味なたたずまいを見ても動じない。見ている私たちはハラハラしているのだが、彼はカルト集団の中をずんずんと歩いていく。この精神面のタフさがブースという男の柱である。

マーゴット・ロビー

3人目の主人公といっても良いシャロン・テートを演じるのは、マーゴット・ロビーというオーストラリア出身の女優。キャリアの初期に、マーティン・スコセッシ監督作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でディカプリオと共演した経験がある。ロビーがタランティーノの映画に出演するのは初めて。シャロン・テートは実在の人物で、ハリウッド女優であった。美しい女優でロビーの美貌はテートに劣らない。身長もロビーとテートはほぼ同じである。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の物語はシャロン・テート殺害事件を題材としている。映画を見る者は、シャロン・テートがいつ死ぬのか、どのようにして殺されるのかを気にかけながら見ることだろう。

テートは映画の中で、映画の女神のような存在として描かれている。街を闊歩する姿、パーティで楽しく踊る姿、そして、シャネルのカバンを持って自身の映画を見に行き「出演者なんだけど割引になる?」と聞く姿、劇場の観客の反応を聞いて喜ぶ姿など、彼女のかわいらしさは際立っている。こんなに魅力的な女性がマンソン・ファミリーによって惨殺される結末が待っているかと思うと、見る者としてはやりきれない気持ちにもなる。

アル・パチーノ

私が好きな俳優の1人、アル・パチーノタランティーノ監督初参戦。御年79歳とは思えぬ渋さで潤いでプロデューサー役を演じた。

ラファル・ザビエルチャ

ロマン・ポランスキーは映画監督でシャロン・テートの夫。テートはポランスキー以前に婚約していた男がおり、彼もポランスキーも小柄だったことから、テートの好みは知的で小柄な男と評される。作中では、ポランスキーは重要な人物としては描かれない。

マーガレット・クアリー

カルト集団の1人で、クリフ・ブースをリクルートしようとするかわいい女性。ヒッチハイクのために何度かブースの車にジェスチャーした。数度の失敗の果てにヒッチハイクに成功し、ブースにフェラチオをしようとするが「子どもと性的行為をして逮捕されたくない」と軽くあしらわれる。プッシー・キャットを演じたのはマーガレット・クアリー。

ダコタ・ファニング

赤毛の女と呼ばれる女性で、カルト集団の1人。クリフ・ブースの旧友であるジョージの愛人のような女性。リネット・フラムを演じたのは名子役として知られたダコタ・ファニングである。ファニングは、ショーン・ペンの娘役で出演した『アイ・アム・サム』での演技が評価された女優であった。子どもの頃のかわいらしい顔つきと違って、カルト集団の1人として存在しても違和感のない風貌に変わっている。威圧的な存在感は流石であった。

ジュリア・バターズ

最後はトルーディという、リック・ダルトンの共演者を演じたジュリア・バターズについて語ろう。彼女はリック・ダルトンに演技者としての誇りを思い出させる8歳児の天才子役である。トルーディを演じるジュリア・バターズの演技力が破壊的で、役者論を語ったり、ディズニーの伝記を読みながらダルトンに解説してみせたりする。彼女との会話で、ダルトンは演技者としてどうあるべきかを悟った訳なので、トルーディは重要な人物だ。

その他のキャスト

その他、タランティーノ作品の常連であるティム・ロスマイケル・マドセンカート・ラッセルが出演しているが、私はマドセンにしか気付かなかった。さらにタランティーノ監督自身もカメオ出演しているようだが、全く気付かなかった。

虚構が現実を虚構にさせること

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、テレビ俳優リック・ダルトンと彼のスタントマンであるクリフ・ブースの2人を軸に描かれる。シャロン・テートの自宅の隣がダルトンの自宅という設定で、テートとポランスキー夫妻は、映画俳優への移行に失敗するダルトンとは対照的に、明るく、これからの時代を象徴するかのように描かれていた。

ダルトンとブースはいつも一緒にいる。ダルトンはアル中と躁鬱病に悩み、仕事があるのに酒をたくさん飲んでしまって台詞が飛び、後悔するあまり控室で鏡の中に写る自分を徹底的に罵倒する。彼は映画俳優への移行がうまくできない現状を憂い、理想的な俳優像を描いている。イタリア映画には出たくないと嘆くが、子役のトルーディとの会話によって演技者としての誇りを取り戻し凄みのある演技を見せる。

ブースはダルトンのスタントマンで、精神的にタフな男だ。妻殺しの噂がある男で、ヘラヘラ笑って穏やかそうに見える中にも狂気が垣間見える不気味な男である。だから、彼はチャールズ・マンソン率いるカルト集団の中に入っていっても動じることがない。旧友のジョージに会いたいというが、カルト集団たちは寝ているからダメだというのに無視して会いに行こうとする。「寝ているから」という言葉の裏には、ブースにジョージには会わせたくない意図があるのは明白なのに、ブースは意に介さない。この傲岸不遜の態度は恐ろしく、ブースの周りで何かしらの出来事が起こる予感を感じさせた。

ダルトンとブースの物語は虚構である。彼ら2人が架空の人物なのだから。しかし、虚構の2人がいることで『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中の”映画史”を塗り替える。彼らの存在こそが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』において現実を虚構にしてしまう魔術が行われる引き金になる。

映画史を塗り替えるタランティーノ監督の魔術

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、実在の事件を題材にしている。それも、シャロン・テート殺害事件という痛ましい事件を題材にした。シャロン・テートロマン・ポランスキー監督の妻で、お腹の子もろとも、カルト集団に惨殺されてしまうのだ。

私たちはその事実を知った前提で、本作を見ている。2時間40分という長さの中で、いつ、どこでシャロン・テートが殺害されるのかが気にかかっているのだ。リック・ダルトンの俳優としての苦しいキャリアも、クリフ・ブースの不気味な笑顔も、シャロン・テートの艶やかな姿態も、全てがシャロン・テート殺害事件に行き着くことを予想する。問題は、いつ・どこでテート殺害事件が発生するのかである。

しかし、私たちは予想を覆されてしまう。シャロン・テートは殺されないのだ。現実の世界でシャロン・テートを殺したカルト集団たちは、リック・ダルトンの家に押し入るのである。現実の世界では、カルト集団はシャロン・テートの家に押し入るのだが、映画ではダルトンの家に押し入る。そして、カルト集団がダルトン、ブースを殺してテートを殺すのかと思いきや、クリフ・ブースとの激闘を経て返り討ちに遭うのだ。

映画のラスト、リック・ダルトンシャロン・テートの家を訪れる。テートの元婚約者が「何かあったのか?」とダルトンに聞いたからだ。ダルトンは紳士的に元婚約者とテートに接する。今まで隣人同士、一度も顔を合わせたことがなかったテートとダルトンは、ここで初めて顔を合わせた。いつ・どこで殺されるのか?と思っていた私たちの予想を覆し、これからの時代を象徴するテートと古い時代を象徴するダルトンが邂逅する。タランティーノは古い時代も新しい時代も、双方の映画史を愛する。そのためには、誰にも新しい時代を象徴するテートを殺させない訳だ。私は、タランティーノ監督の映画の魔術が、ここに表現されていると感じた。

もし、リック・ダルトンとクリフ・ブースがいなかったら?シャロン・テートは殺されていただろう。カルト集団が押し入った家がダルトン家であったとはいえ、これまで抑制していたクリフ・ブースの暴力性が開花することで、カルト集団は無残にも返り討ちにあったのだから。映画史では、シャロン・テートは殺される。それは映画史にとってむごたらしい現実だ。しかしタランティーノ監督が2人の男を想像することで、映画史は塗り替えられる。この結末はタランティーノ作品の中では異色で、ほのぼのと暖かみのあるエンディングであった。

【書評】 トラペジウム 著者:高山一実 評価★★★★★ (日本)

トラペジウム

トラペジウム

いやぁキツかった。通勤中に読もうと思っていたのだが、全て読み切ることが叶わなかった。タレントが書いた小説で感心したことはないが、本作に比べれば又吉直樹の『火花』は良い。『火花』は文章になっていて最後まで読むことができたからだ。しかし『トラペジウム』は無理だった。

rollikgvice.hatenablog.com

セリフも地の文もこなれておらず、ゲラの状態で出版してしまったかのようだ。高1の女子の一人称の小説なのに、「榊原郁恵のようだ」とか「お蝶夫人」とかいう比喩が出てくる。アラフォーの私でさえ、榊原郁恵を思い出すのに時間がかかるのに、16歳の女子が比喩として使うタレントとしてどうなんだろうか。まあ、私がほとんどテレビを見ないせいもあるが、16歳の女子にとって榊原郁恵はメジャーなタレントなのだろうか。

『暗黒ハローワーク』もひどい文章だったが、あれは最後まで読ませてくれた。なぜなら、『暗黒ハローワーク』の文章はブログのような文章だったからだ。ブログの文章は、細部まで読むかどうか分からないが、とりあえずざっと最後までは読ませてくれる勢いがある。しかし本作にはそれが見当たらない。Amazonの批判的レビューを読むと、本書を「ラノベ」だと言って批判している人がいたが、『暗黒ハローワーク』を読んだ後ではラノベの方がまだマシかもと思える。少なくとも『暗黒ハローワーク』は、小説の設定に面白さを感じたからだ。

著者は乃木坂46のメンバーだそうだ。乃木坂はAKBよりはかわいい女の子がいると思う。だから私もひいき目に見て本書を図書館から借りたのだが・・・。危なかった。もしお金を出して買っていたら破り捨てていただろう。それにしても、本書の帯に名前を載せている中村文則羽田圭介はどういうつもりで帯を書いたんだろう。どっちも私の嫌いな作家だからどうでも良いんだが。

ということで、『官能小説を書く女の子はキライですか?』と並んで本作を歴代最下位に推す。

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【書評】 暗黒ハローワーク 俺と聖母とバカとロリは勇者の職にありつきたい 著者:久慈マサムネ 評価☆☆★★★ (日本)

文章は酷い

『暗黒ハローワーク』という奇異なタイトルに興味を持って読んでみた。ライトノベルらしく文章は退屈。ネットに転がっているブログ記事みたいで素人が書いたような文章だ。
文章を読んでも情景をイメージすることが難しいし、平板なセリフの数々からはキャラクターの魅力を捉えにくい。文章を読んで何かをイメージしたり感興を引き起こされるというよりも、紙芝居のように淡々とストーリーを追っていく感じだ。これでは小説の意味を成さない。小説として世に出す意味が分からないのだ。

『暗黒ハローワーク』はアニメのシナリオである

小説の意味を成さないのに、小説として世に出ている本作は、いったい何なのか。小説としては存在する価値はないが、紙芝居のように淡々とストーリーを追っていくという、本作の消費のされ方から考えると、小説ではなくアニメのシナリオとして考えれば良い。小説は、文章を読むことで情景をイメージしたり感情を刺激されたりする。だが『暗黒ハローワーク』の文章は、生起した事実を無味乾燥な文章で書き連ねているため、情景のイメージや感情への刺激はほとんど起こらない。

もしこの文章がアニメで描かれるとするなら、キャラクターの台詞は声優がしゃべり、BGMが付いたりするので、小説として存在する価値がない『暗黒ハローワーク』も、多少は面白みを帯びるかもしれない。しかしなぜわざわざ私は小説として価値がない小説に、別の価値を見出そうとしたのか。答えは『暗黒ハローワーク』の設定に多少の興味をそそられたからである。

ファンタジーのノリで就活を描く

本作は小説としては面白くないが、設定が興味深い。主人公たちは就活中の学生。しかし目指すべきは大手企業ではなく、勇者。そして勇者としてホワイトなファンタジー世界へ送り込まれたいと思っている。ホワイトなファンタジー世界というのが、現実でいえばホワイトな大手企業なのだろう。

主人公たちは東京ビッグサイトに行って、説明会に行く。そこは会社説明会ではなく勇者説明会なのである。そこでいかに自分達が勇者として優れているかをアピールし、ホワイトなファンタジー世界へ行こうとするのだ。誰しも一度は通る、就活の道。現実の就活をファンタジーに置き換えることで、読者の興味を引きながら本作の世界観へ浸からせていく。ファンタジーのノリで就活を描いているのだ。

だから、設定の価値を優先的に考えれば、小説としては紙くずのような本作も蘇生する余地があるように思えた。それは、アニメである。アニメとして「転生」できれば、『暗黒ハローワーク』は設定を活かして世に羽ばたくことも不可能ではない。本作は、そういう奇妙な期待を抱かせる作品である。

【書評】 黒い家 著者:貴志祐介 評価☆☆☆☆★ (日本)

黒い家 (角川ホラー文庫)

黒い家 (角川ホラー文庫)

『黒い家』はホラー小説の良作

『黒い家』は貴志佑介のホラー小説。1997年発表。1999年に森田芳光によって映画化され、2008年に韓国でも映画化されている。貴志佑介の後の傑作『悪の教典』同様に、共感性が欠落した人物をテーマとしている。犯人の菰田幸子が主人公を追跡してくるシーンが強烈な印象を残し、ホラー小説として良作と言える。デビュー後、最初の長編小説がこのレベルなのだから、貴志佑介は期待された作家だったのだろう。実際、貴志は『悪の教典』という傑作を発表したのだから、その期待に大いに答えた作家であろう。

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あらすじを簡単に述べる。

主人公の若槻慎二は、大手生命保険会社「昭和生命」京都支社で働いている。有能だが、現在の仕事にはそれほどやりがいを感じておらず、なんとなく日常を過ごしている。恵という院生の恋人がいるが、セックスしようと思っても萎えてしまってできないでいた。ある時、菰田重徳という不気味な男から自宅に来るように言われた慎二は、自宅で重徳の子どもの首吊り死体を発見してしまう。事件性を感じる慎二だったが警察は自殺と断定する。しかし慎二は、重徳の犯行であると睨んでいた。

ただそこに座っているだけで恐怖を与える男

『黒い家』は、菰田重徳という男の家に、主人公の若槻慎二が訪れるところから恐怖が始まる。重徳の家は黒い家と称したくなるほど深い闇に捉われていた。慎二はそこで重徳の子どもの首吊り死体を発見する。重徳による殺人だと察した慎二は、警察による逮捕を望んでいた。

一方、重徳は、子どもに昭和生命の生命保険をかけていた。しかし警察が重徳の子どもの死因を断定しないために、なかなか保険金は支払われない。重徳は昭和生命に毎日のように赴き、昭和生命のスタッフに心理的なプレッシャーを掛け続けていく。特に慎二は重徳の保険金の担当者なので、重徳の陰湿なプレッシャーに苛まれていった。重徳が慎二に与えるプレッシャーは、動的なものではなく静的である。ただ、昭和生命の京都支社の客用の椅子に座っているだけで、怒ったり恫喝したりすることがないのだ。落ち着いた対応で「保険金はまだか」と聞くのみである。しかし、毎日のように来る。そして死体のように死んだ目をしていて、客観的に見て不気味である。

重徳の心理的なプレッシャーは怖かった。私は本書を読んでいて、菰田重徳なら保険金のために子どもを殺しかねないとすら思った。それくらい彼の慎二に与える心理的な抑圧は異常だ。ただ会社の椅子に座っているだけで恐怖を与える存在は稀有であろう。それは、慎二がいくら、殺人を犯した容疑者が重徳だと思っても、犯罪が明確でない以上は「お客様」なのである。だから当然無碍にもできないし「警察の判断が未だなんです」と言い続けるしかない。重徳の戦法は、保険会社にポジティブなアクションを取らせないということである。ここで、重徳が攻撃性を見せてくれれば、慎二は彼を別室に案内してなだめるという行動を取れる。しかし「保険金はまだか」と聞くだけなら、「警察の判断が未だだ」という他にないだろう。何らのポジティブな行動を取らせないことで、相手の心理をじわじわと追い詰める重徳の恐怖は一級品であった。

前半は菰田重徳が不気味で、終盤で菰田幸子の狂気が開花する

実は、真犯人は重徳ではなく妻の幸子である。『黒い家』の悪の焦点は幸子ではなく重徳に合ったので、菰田幸子が犯人だと知った時、私は少し面喰った。ずっと菰田重徳の不気味な行動に恐怖感を味わっていたかったと思ったので、幸子が犯人として出てくるのがもったいなく感じた。子ども時代の文集を見ても、重徳の意味不明な作文は慄然とさせられる。菰田幸子は重徳と違って暴力性を発揮するので、悪人として分かりやすく、重徳ほどの恐怖を感じなかった。私は重徳が懐かしく思えた。

だが、終盤、菰田幸子が誰もいない保険会社に潜入し、若槻慎二を追い詰める展開には驚愕した。重徳の陰湿な不気味さと同じくらいの恐怖を味わった。もっとも、静的な恐怖の重徳と、動的な恐怖の幸子とでは、恐怖の質が違うことは付言しておく。

特に幸子の狂気的な恐怖が開花したのは、エレベーターでの慎二との対決であろう。慎二は推理力を巡らしてエレベーターを使って階下に降りるのだが、その判断が間違っていたことに、エレーベーターに乗りながら気付いてしまう。このタイミングで気付かせる作者の嫌らしさは、新人作家らしくなく、筆が冴えていた。そして慎二がエレベーターのドアを開け、即座にエレベーターのドアを閉めようとするが、幸子が刃物を使って閉めかかるドアをこじ開けた。

この辺りの描写は非常に怖い。菰田幸子は人間であるが、金のためにいくらでも人を殺せる異常性を有する。他者に対する共感性を全く有しない人物なのだ。心が欠如していると言っても良い。それゆえに、相手に対する同情など一切せず、容易に殺してしまうのだ。だからこそエレベーターのドアを幸子がこじ開けた時、慎二が死の淵に瀕しているように思って、読者は恐怖するのだ。なお共感性の欠如は著者が好むテーマらしく、『悪の教典』でも使われている。『悪の教典』で完成度が最高に達したのでもう使わないような気もするが。

女性の描き方が画一的なのが残念

本書『黒い家』においては女性の描写が画一的である。その画一的な女性の描写とは、主人公の恋人である黒沢恵について感じるのである。彼女は、いかにもな女性言葉を使い、女性らしく控え目であるが、内面がほとんど描かれていない。恵はステレオタイプな女性像を著者に押し付けられているようで、どうにも窮屈だった。主人公の若槻慎二の脇に寄り添っているだけの存在である。

もっとも、恵がいることで『黒い家』は菰田幸子の悪夢から解放された後の癒しとなるのだが。とはいえ、恵は慎二の恋人であり重要な人物なのだから、画一的な描写は気になるところである。

とはいえ、『黒い家』は菰田幸子・重徳夫妻の行動による恐怖が強烈である。そもそも恋愛小説ではないから、女性描写の画一性をもって大きく評価を下げることはしまい。