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【書評】 眠れる美女 著者:川端康成 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 『眠れる美女』(新潮文庫)は川端康成の短編集で、表題作の他に、『片腕』および『散りぬるを』の2編が収められている。解説において三島由紀夫が傑作と称して絶賛する『眠れる美女』が白眉で、この作品だけなら☆5である。

 

10代の少女(多くは処女)を全裸のまま布団に眠らせて、男性としての力を失った老人たちを、少女たちと共に泊まらせる奇怪な家が舞台である。老人が処女と共に眠り、セックス以外の何をしても許容される関係は、極めて醜悪に想像されるにもかかわらず、そして事実、少女と共に眠りながら頓死してしまう老人のエピソードもあるのだが、そういった関係は外的には相当にグロテスクであるはずが、川端の筆にかかるとただ不気味なだけに留まらず、純粋に美しいとは言えないまでも、処女の美しさ、老人のあさましさ、そして死を前にした過去の幻影の到来などによって、複雑な様相を呈する。それは美しい、とは、単純に言い切れないけれども、汚らしい醜悪さと清冽な美しさとがあいまって、美とも醜とも言い切れない奇怪な世界が現れる。

 

主人公の江口老人の眼を通して物語が語られていく。江口は少女を前にして、過去の女性との交情を思い返し、陶酔させられるものもあれば、淡々と事実を想起するものもあり、あるいは苦渋の表情を共にしなければ思い出せない追憶もある。それらの幻影は詩的であり、あるいは現実的でさえあるのだが、目の前に眠る少女がただ寝ているに過ぎないにもかかわらず、肉体や寝息、あるいは裸体の少女が布団に眠る構図を通じて、種々の追憶が思い出され、幻影は色を変えていくのである。

 

老人は処女と思われる少女を前にセックスを試みるが、本当に処女であることに心づいて止めてしまう場面がある。老人は、勃起しなくなった老人の客の中にあって、自分だけはセックスが出来ると思っているのだが、いざ少女を前にすると処女である事実を前に、先へと進むことが出来ない。彼は恐らくセックスが可能な状態で、少女の体を見たのだろうが、この少女に犯し得ない神秘を感じて、精神的にも物理的にも前へと進めないままに終わってしまうのである。

 

三島が解説の中で、眠れる美女を愛する老人たちを、ネクロフィア(死体愛好者)と言っているが、私もそう思う。明らかに少女らは生きているのだが、どんな薬を用いているのか、一向に起きない。そして、江口老人は睡眠薬を服用して朝まで眠るが、江口が起きても少女は寝たままなのである。死んでいるのではないか?と思って触れば、確かに肌は温かい。しかし江口は一度も少女が起きているところを見たことがない訳である。そして、江口は家の女主人に、「起きているところを見たい」というけれども、許されない。

少女たちに江口は触るし、けがらわしいこともするけれども少女たちは起きない。布団には暖房が入っているが、それを切ると、全裸なので寒がるので生きてはいるが、一向に目は覚まさないのである。眠り続けて目を覚まさない彼女たちは、死体のようであり、少女を愛する老人はネクロフィアである。

 

だから、物語の終盤で少女が本当に死んでしまった時、江口老人はネクロフィアたることを許されなくなったかのようである。死んでしまった少女は、江口の前から運び出されて、この家で死んでいなかったことにされる。実は江口は、この時、ふたりの少女と眠っていたのだが、そのうちの一人が死んでしまったのである。そこで家の女主人は江口に、「もう一人いるではないですか」と言うのである。ネクロフィアたることは、少女の死によって断絶されるという逆説が働くことが印象的だが、もう一人の女がいることで、またもネクロフィアは継続される。江口は家の中で頓死した別の客のように、この家に通い続けるのだろうか。または、神秘的な処女性を破壊しても尚、セックスを行使し、現実性を持ちこむのだろうか。

 

 

『散りぬるを』は私の好みではなかったが、他に収録されている『片腕』も印象的な作品である。ある女性が、自らの片腕を外して男に貸すというシチュエーションは、『眠れる美女』よりも非現実的であるが、『眠れる美女』よりはグロテスクではなく、清冽な美しささえ感じさせる。

女性の片腕は会話をし、男の腕と付け替えることも出来る。片腕は何かを象徴しているように見えてただその強い存在感をもって、無意味性を色濃くするものであり、会話をするだけに『眠れる美女』の少女のような死体性は帯びていないものの、生き物というよりはモノのような違和感がある。”彼女”というには人間の女性らしくはないし、といってモノそのものではないところが片腕の存在の不確かで、不可解な点だろう。