好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【映画レビュー】 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド 監督:クエンティン・タランティーノ 評価☆☆☆☆☆ (米国)

クエンティン・タランティーノについてのおさらい

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、アメリカの映画監督クエンティン・タランティーノの9作目の作品。タランティーノは、1992年、『レザボア・ドッグス』でデビュー以来、『パルプ・フィクション』でオムニバス形式を用いて物語を解体する映画を作り、『イングロリアス・バスターズ』で反歴史的映画を作った。彼の監督作は批評家の評価も高く、『パルプ・フィクション』でカンヌ映画祭パルムドール、米アカデミー賞脚本賞、『ジャンゴ』で2度目の米アカデミー賞脚本賞を受賞している。

タランティーノは自身が映画マニアを自称しているだけあって、彼の監督作品にはオタク的な映画の知識が散りばめられている。作品も一般大衆に受けるというよりはマニア向けの作品という印象を観客に抱かせるだろう。とはいえ彼の作品はマニア向けといいながらヒット作も生まれていて、『ジャンゴ』で4億2千万ドル、『イングロリアス・バスターズ』で3億2千万ドルの興行収入を挙げている。

尚、タランティーノは、かねてより映画を10本撮ったら引退すると公言しており、その公言通りならあと1本で引退することになる。

タランティーノによる映画に関するおとぎ話

タイトルの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』とは、「昔々ハリウッドで・・・」という意味。おとぎ話でいうところの「昔々あるところに・・・」の語り口のようであるが、その通りで、本作はタランティーノによる映画に関するおとぎ話である。本作は1969年に発生したハリウッド女優シャロン・テート殺害事件を題材として、テレビ俳優リック・ダルトンと、彼のスタントマンであるクリフ・ブースという2人の架空の人物を主軸にした物語。「昔々ハリウッドで・・・」語られるおとぎ話とは、過ぎし日のハリウッド映画界に対するタランティーノ流の賛歌である。

シャロン・テート殺害事件とは?

シャロン・テートは、米テキサス州出身のハリウッド女優。非常に美人でセクシーな魅力を持っていた。1968年、『ローズマリーの赤ちゃん』『テス』『戦場のピアニスト』等で知られるロマン・ポランスキー監督と結婚した。彼女は1969年に、カルト指導者チャールズ・マンソンの信奉者たちによって殺害された。当時、彼女は妊娠8カ月であり、ポランスキー監督の子どもを宿していたがお腹の子どもと共に殺害されてしまった。このことを知ったポランスキー監督は、滞在中の英国で泣き崩れたという。

本作ではシャロン・テート殺害事件という悲劇を題材としており、この事件を知っていることを前提として作られている。もしシャロン・テート殺害事件を知らないまま映画を見ると、単なるスリラー映画としてしか受け止められず、タランティーノがタイトルに込めた「昔々ハリウッドで・・・」というおとぎ話の意味合いは薄れてしまうことだろう。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のキャスト紹介

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』には多くのキャストが出演している。主演はレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの2人、シャロン・テート役にマーゴット・ロビー。ディカプリオとピットは映画初共演。

レオナルド・ディカプリオ

レオナルド・ディカプリオはテレビ俳優リック・ダルトン役で出演。彼がタランティーノの映画に出演するのは『ジャンゴ』以来2度目である。本作では、落ち目の俳優リック・ダルトンを余裕たっぷりに演じる。ダルトンは架空の人物。

ダルトンはテレビ俳優から映画俳優への移行がうまくできずに悩んでいた。仕事がうまくいかないことからアルコール中毒躁鬱病に悩む。撮影時に台詞を忘れたり、控室の車内で鏡に映る自分に向けて大声で怒鳴ったり、そうかと思えばハイテンションになったりと精神的に不安定であった。ダルトンは落ち目の中、イタリア映画に出演することを勧められ「イタリア映画なんかに!」と落胆する。しかし共演した子役との会話を通じて演技への情熱をふるいたたせたダルトンは、悪役として凄絶な演技を見せ監督から絶賛される。そしてイタリアへと旅立つのであった。

ブラッド・ピット

2人目の主人公クリフ・ブースを演じるのはブラッド・ピットである。ブースは架空の人物。ピットがタランティーノの映画に出演するのは『イングロリアス・バスターズ』以来2度目である。

ブースは精神的にタフな男である。ブースは常にヘラヘラと笑っていて穏やかそうだが、妻殺しのエピソードや、ブルース・リーを叩きのめしたシーンなどから、彼には不気味な暴力性を感じる。ブースの役柄は『イングロリアス・バスターズ』のレイン中尉よりももう少し凶暴である。むしろブラッド・ピットが過去に演じた、ガイ・リッチー監督作『スナッチ』のミッキー・オニールの方が似ている。クリフ・ブースが、映画のラストで活躍する犬を飼っているのも、『スナッチ』の犬を思い出させた。

ブースは俳優ダルトンのスタントマンで、時にはドライバーや雑用係などを務める。ダルトンにとってブースは親友である。ブースは、普段はキャンピングカーに住んでいてそこで犬を飼っている。犬は凶暴だがブースに忠実である。ダルトンの動と対照的にブースは静である。妻殺しを理由に相手から罵倒されても意に介さない。チャールズ・マンソンのカルト集団を訪れて、メンバーの不気味なたたずまいを見ても動じない。見ている私たちはハラハラしているのだが、彼はカルト集団の中をずんずんと歩いていく。この精神面のタフさがブースという男の柱である。

マーゴット・ロビー

3人目の主人公といっても良いシャロン・テートを演じるのは、マーゴット・ロビーというオーストラリア出身の女優。キャリアの初期に、マーティン・スコセッシ監督作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でディカプリオと共演した経験がある。ロビーがタランティーノの映画に出演するのは初めて。シャロン・テートは実在の人物で、ハリウッド女優であった。美しい女優でロビーの美貌はテートに劣らない。身長もロビーとテートはほぼ同じである。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の物語はシャロン・テート殺害事件を題材としている。映画を見る者は、シャロン・テートがいつ死ぬのか、どのようにして殺されるのかを気にかけながら見ることだろう。

テートは映画の中で、映画の女神のような存在として描かれている。街を闊歩する姿、パーティで楽しく踊る姿、そして、シャネルのカバンを持って自身の映画を見に行き「出演者なんだけど割引になる?」と聞く姿、劇場の観客の反応を聞いて喜ぶ姿など、彼女のかわいらしさは際立っている。こんなに魅力的な女性がマンソン・ファミリーによって惨殺される結末が待っているかと思うと、見る者としてはやりきれない気持ちにもなる。

アル・パチーノ

私が好きな俳優の1人、アル・パチーノタランティーノ監督初参戦。御年79歳とは思えぬ渋さで潤いでプロデューサー役を演じた。

ラファル・ザビエルチャ

ロマン・ポランスキーは映画監督でシャロン・テートの夫。テートはポランスキー以前に婚約していた男がおり、彼もポランスキーも小柄だったことから、テートの好みは知的で小柄な男と評される。作中では、ポランスキーは重要な人物としては描かれない。

マーガレット・クアリー

カルト集団の1人で、クリフ・ブースをリクルートしようとするかわいい女性。ヒッチハイクのために何度かブースの車にジェスチャーした。数度の失敗の果てにヒッチハイクに成功し、ブースにフェラチオをしようとするが「子どもと性的行為をして逮捕されたくない」と軽くあしらわれる。プッシー・キャットを演じたのはマーガレット・クアリー。

ダコタ・ファニング

赤毛の女と呼ばれる女性で、カルト集団の1人。クリフ・ブースの旧友であるジョージの愛人のような女性。リネット・フラムを演じたのは名子役として知られたダコタ・ファニングである。ファニングは、ショーン・ペンの娘役で出演した『アイ・アム・サム』での演技が評価された女優であった。子どもの頃のかわいらしい顔つきと違って、カルト集団の1人として存在しても違和感のない風貌に変わっている。威圧的な存在感は流石であった。

ジュリア・バターズ

最後はトルーディという、リック・ダルトンの共演者を演じたジュリア・バターズについて語ろう。彼女はリック・ダルトンに演技者としての誇りを思い出させる8歳児の天才子役である。トルーディを演じるジュリア・バターズの演技力が破壊的で、役者論を語ったり、ディズニーの伝記を読みながらダルトンに解説してみせたりする。彼女との会話で、ダルトンは演技者としてどうあるべきかを悟った訳なので、トルーディは重要な人物だ。

その他のキャスト

その他、タランティーノ作品の常連であるティム・ロスマイケル・マドセンカート・ラッセルが出演しているが、私はマドセンにしか気付かなかった。さらにタランティーノ監督自身もカメオ出演しているようだが、全く気付かなかった。

虚構が現実を虚構にさせること

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、テレビ俳優リック・ダルトンと彼のスタントマンであるクリフ・ブースの2人を軸に描かれる。シャロン・テートの自宅の隣がダルトンの自宅という設定で、テートとポランスキー夫妻は、映画俳優への移行に失敗するダルトンとは対照的に、明るく、これからの時代を象徴するかのように描かれていた。

ダルトンとブースはいつも一緒にいる。ダルトンはアル中と躁鬱病に悩み、仕事があるのに酒をたくさん飲んでしまって台詞が飛び、後悔するあまり控室で鏡の中に写る自分を徹底的に罵倒する。彼は映画俳優への移行がうまくできない現状を憂い、理想的な俳優像を描いている。イタリア映画には出たくないと嘆くが、子役のトルーディとの会話によって演技者としての誇りを取り戻し凄みのある演技を見せる。

ブースはダルトンのスタントマンで、精神的にタフな男だ。妻殺しの噂がある男で、ヘラヘラ笑って穏やかそうに見える中にも狂気が垣間見える不気味な男である。だから、彼はチャールズ・マンソン率いるカルト集団の中に入っていっても動じることがない。旧友のジョージに会いたいというが、カルト集団たちは寝ているからダメだというのに無視して会いに行こうとする。「寝ているから」という言葉の裏には、ブースにジョージには会わせたくない意図があるのは明白なのに、ブースは意に介さない。この傲岸不遜の態度は恐ろしく、ブースの周りで何かしらの出来事が起こる予感を感じさせた。

ダルトンとブースの物語は虚構である。彼ら2人が架空の人物なのだから。しかし、虚構の2人がいることで『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の中の”映画史”を塗り替える。彼らの存在こそが、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』において現実を虚構にしてしまう魔術が行われる引き金になる。

映画史を塗り替えるタランティーノ監督の魔術

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、実在の事件を題材にしている。それも、シャロン・テート殺害事件という痛ましい事件を題材にした。シャロン・テートロマン・ポランスキー監督の妻で、お腹の子もろとも、カルト集団に惨殺されてしまうのだ。

私たちはその事実を知った前提で、本作を見ている。2時間40分という長さの中で、いつ、どこでシャロン・テートが殺害されるのかが気にかかっているのだ。リック・ダルトンの俳優としての苦しいキャリアも、クリフ・ブースの不気味な笑顔も、シャロン・テートの艶やかな姿態も、全てがシャロン・テート殺害事件に行き着くことを予想する。問題は、いつ・どこでテート殺害事件が発生するのかである。

しかし、私たちは予想を覆されてしまう。シャロン・テートは殺されないのだ。現実の世界でシャロン・テートを殺したカルト集団たちは、リック・ダルトンの家に押し入るのである。現実の世界では、カルト集団はシャロン・テートの家に押し入るのだが、映画ではダルトンの家に押し入る。そして、カルト集団がダルトン、ブースを殺してテートを殺すのかと思いきや、クリフ・ブースとの激闘を経て返り討ちに遭うのだ。

映画のラスト、リック・ダルトンシャロン・テートの家を訪れる。テートの元婚約者が「何かあったのか?」とダルトンに聞いたからだ。ダルトンは紳士的に元婚約者とテートに接する。今まで隣人同士、一度も顔を合わせたことがなかったテートとダルトンは、ここで初めて顔を合わせた。いつ・どこで殺されるのか?と思っていた私たちの予想を覆し、これからの時代を象徴するテートと古い時代を象徴するダルトンが邂逅する。タランティーノは古い時代も新しい時代も、双方の映画史を愛する。そのためには、誰にも新しい時代を象徴するテートを殺させない訳だ。私は、タランティーノ監督の映画の魔術が、ここに表現されていると感じた。

もし、リック・ダルトンとクリフ・ブースがいなかったら?シャロン・テートは殺されていただろう。カルト集団が押し入った家がダルトン家であったとはいえ、これまで抑制していたクリフ・ブースの暴力性が開花することで、カルト集団は無残にも返り討ちにあったのだから。映画史では、シャロン・テートは殺される。それは映画史にとってむごたらしい現実だ。しかしタランティーノ監督が2人の男を想像することで、映画史は塗り替えられる。この結末はタランティーノ作品の中では異色で、ほのぼのと暖かみのあるエンディングであった。

【書評】 トラペジウム 著者:高山一実 評価★★★★★ (日本)

トラペジウム

トラペジウム

いやぁキツかった。通勤中に読もうと思っていたのだが、全て読み切ることが叶わなかった。タレントが書いた小説で感心したことはないが、本作に比べれば又吉直樹の『火花』は良い。『火花』は文章になっていて最後まで読むことができたからだ。しかし『トラペジウム』は無理だった。

rollikgvice.hatenablog.com

セリフも地の文もこなれておらず、ゲラの状態で出版してしまったかのようだ。高1の女子の一人称の小説なのに、「榊原郁恵のようだ」とか「お蝶夫人」とかいう比喩が出てくる。アラフォーの私でさえ、榊原郁恵を思い出すのに時間がかかるのに、16歳の女子が比喩として使うタレントとしてどうなんだろうか。まあ、私がほとんどテレビを見ないせいもあるが、16歳の女子にとって榊原郁恵はメジャーなタレントなのだろうか。

『暗黒ハローワーク』もひどい文章だったが、あれは最後まで読ませてくれた。なぜなら、『暗黒ハローワーク』の文章はブログのような文章だったからだ。ブログの文章は、細部まで読むかどうか分からないが、とりあえずざっと最後までは読ませてくれる勢いがある。しかし本作にはそれが見当たらない。Amazonの批判的レビューを読むと、本書を「ラノベ」だと言って批判している人がいたが、『暗黒ハローワーク』を読んだ後ではラノベの方がまだマシかもと思える。少なくとも『暗黒ハローワーク』は、小説の設定に面白さを感じたからだ。

著者は乃木坂46のメンバーだそうだ。乃木坂はAKBよりはかわいい女の子がいると思う。だから私もひいき目に見て本書を図書館から借りたのだが・・・。危なかった。もしお金を出して買っていたら破り捨てていただろう。それにしても、本書の帯に名前を載せている中村文則羽田圭介はどういうつもりで帯を書いたんだろう。どっちも私の嫌いな作家だからどうでも良いんだが。

ということで、『官能小説を書く女の子はキライですか?』と並んで本作を歴代最下位に推す。

rollikgvice.hatenablog.com

【書評】 暗黒ハローワーク 俺と聖母とバカとロリは勇者の職にありつきたい 著者:久慈マサムネ 評価☆☆★★★ (日本)

文章は酷い

『暗黒ハローワーク』という奇異なタイトルに興味を持って読んでみた。ライトノベルらしく文章は退屈。ネットに転がっているブログ記事みたいで素人が書いたような文章だ。
文章を読んでも情景をイメージすることが難しいし、平板なセリフの数々からはキャラクターの魅力を捉えにくい。文章を読んで何かをイメージしたり感興を引き起こされるというよりも、紙芝居のように淡々とストーリーを追っていく感じだ。これでは小説の意味を成さない。小説として世に出す意味が分からないのだ。

『暗黒ハローワーク』はアニメのシナリオである

小説の意味を成さないのに、小説として世に出ている本作は、いったい何なのか。小説としては存在する価値はないが、紙芝居のように淡々とストーリーを追っていくという、本作の消費のされ方から考えると、小説ではなくアニメのシナリオとして考えれば良い。小説は、文章を読むことで情景をイメージしたり感情を刺激されたりする。だが『暗黒ハローワーク』の文章は、生起した事実を無味乾燥な文章で書き連ねているため、情景のイメージや感情への刺激はほとんど起こらない。

もしこの文章がアニメで描かれるとするなら、キャラクターの台詞は声優がしゃべり、BGMが付いたりするので、小説として存在する価値がない『暗黒ハローワーク』も、多少は面白みを帯びるかもしれない。しかしなぜわざわざ私は小説として価値がない小説に、別の価値を見出そうとしたのか。答えは『暗黒ハローワーク』の設定に多少の興味をそそられたからである。

ファンタジーのノリで就活を描く

本作は小説としては面白くないが、設定が興味深い。主人公たちは就活中の学生。しかし目指すべきは大手企業ではなく、勇者。そして勇者としてホワイトなファンタジー世界へ送り込まれたいと思っている。ホワイトなファンタジー世界というのが、現実でいえばホワイトな大手企業なのだろう。

主人公たちは東京ビッグサイトに行って、説明会に行く。そこは会社説明会ではなく勇者説明会なのである。そこでいかに自分達が勇者として優れているかをアピールし、ホワイトなファンタジー世界へ行こうとするのだ。誰しも一度は通る、就活の道。現実の就活をファンタジーに置き換えることで、読者の興味を引きながら本作の世界観へ浸からせていく。ファンタジーのノリで就活を描いているのだ。

だから、設定の価値を優先的に考えれば、小説としては紙くずのような本作も蘇生する余地があるように思えた。それは、アニメである。アニメとして「転生」できれば、『暗黒ハローワーク』は設定を活かして世に羽ばたくことも不可能ではない。本作は、そういう奇妙な期待を抱かせる作品である。

【書評】 黒い家 著者:貴志祐介 評価☆☆☆☆★ (日本)

黒い家 (角川ホラー文庫)

黒い家 (角川ホラー文庫)

『黒い家』はホラー小説の良作

『黒い家』は貴志佑介のホラー小説。1997年発表。1999年に森田芳光によって映画化され、2008年に韓国でも映画化されている。貴志佑介の後の傑作『悪の教典』同様に、共感性が欠落した人物をテーマとしている。犯人の菰田幸子が主人公を追跡してくるシーンが強烈な印象を残し、ホラー小説として良作と言える。デビュー後、最初の長編小説がこのレベルなのだから、貴志佑介は期待された作家だったのだろう。実際、貴志は『悪の教典』という傑作を発表したのだから、その期待に大いに答えた作家であろう。

rollikgvice.hatenablog.com

あらすじを簡単に述べる。

主人公の若槻慎二は、大手生命保険会社「昭和生命」京都支社で働いている。有能だが、現在の仕事にはそれほどやりがいを感じておらず、なんとなく日常を過ごしている。恵という院生の恋人がいるが、セックスしようと思っても萎えてしまってできないでいた。ある時、菰田重徳という不気味な男から自宅に来るように言われた慎二は、自宅で重徳の子どもの首吊り死体を発見してしまう。事件性を感じる慎二だったが警察は自殺と断定する。しかし慎二は、重徳の犯行であると睨んでいた。

ただそこに座っているだけで恐怖を与える男

『黒い家』は、菰田重徳という男の家に、主人公の若槻慎二が訪れるところから恐怖が始まる。重徳の家は黒い家と称したくなるほど深い闇に捉われていた。慎二はそこで重徳の子どもの首吊り死体を発見する。重徳による殺人だと察した慎二は、警察による逮捕を望んでいた。

一方、重徳は、子どもに昭和生命の生命保険をかけていた。しかし警察が重徳の子どもの死因を断定しないために、なかなか保険金は支払われない。重徳は昭和生命に毎日のように赴き、昭和生命のスタッフに心理的なプレッシャーを掛け続けていく。特に慎二は重徳の保険金の担当者なので、重徳の陰湿なプレッシャーに苛まれていった。重徳が慎二に与えるプレッシャーは、動的なものではなく静的である。ただ、昭和生命の京都支社の客用の椅子に座っているだけで、怒ったり恫喝したりすることがないのだ。落ち着いた対応で「保険金はまだか」と聞くのみである。しかし、毎日のように来る。そして死体のように死んだ目をしていて、客観的に見て不気味である。

重徳の心理的なプレッシャーは怖かった。私は本書を読んでいて、菰田重徳なら保険金のために子どもを殺しかねないとすら思った。それくらい彼の慎二に与える心理的な抑圧は異常だ。ただ会社の椅子に座っているだけで恐怖を与える存在は稀有であろう。それは、慎二がいくら、殺人を犯した容疑者が重徳だと思っても、犯罪が明確でない以上は「お客様」なのである。だから当然無碍にもできないし「警察の判断が未だなんです」と言い続けるしかない。重徳の戦法は、保険会社にポジティブなアクションを取らせないということである。ここで、重徳が攻撃性を見せてくれれば、慎二は彼を別室に案内してなだめるという行動を取れる。しかし「保険金はまだか」と聞くだけなら、「警察の判断が未だだ」という他にないだろう。何らのポジティブな行動を取らせないことで、相手の心理をじわじわと追い詰める重徳の恐怖は一級品であった。

前半は菰田重徳が不気味で、終盤で菰田幸子の狂気が開花する

実は、真犯人は重徳ではなく妻の幸子である。『黒い家』の悪の焦点は幸子ではなく重徳に合ったので、菰田幸子が犯人だと知った時、私は少し面喰った。ずっと菰田重徳の不気味な行動に恐怖感を味わっていたかったと思ったので、幸子が犯人として出てくるのがもったいなく感じた。子ども時代の文集を見ても、重徳の意味不明な作文は慄然とさせられる。菰田幸子は重徳と違って暴力性を発揮するので、悪人として分かりやすく、重徳ほどの恐怖を感じなかった。私は重徳が懐かしく思えた。

だが、終盤、菰田幸子が誰もいない保険会社に潜入し、若槻慎二を追い詰める展開には驚愕した。重徳の陰湿な不気味さと同じくらいの恐怖を味わった。もっとも、静的な恐怖の重徳と、動的な恐怖の幸子とでは、恐怖の質が違うことは付言しておく。

特に幸子の狂気的な恐怖が開花したのは、エレベーターでの慎二との対決であろう。慎二は推理力を巡らしてエレベーターを使って階下に降りるのだが、その判断が間違っていたことに、エレーベーターに乗りながら気付いてしまう。このタイミングで気付かせる作者の嫌らしさは、新人作家らしくなく、筆が冴えていた。そして慎二がエレベーターのドアを開け、即座にエレベーターのドアを閉めようとするが、幸子が刃物を使って閉めかかるドアをこじ開けた。

この辺りの描写は非常に怖い。菰田幸子は人間であるが、金のためにいくらでも人を殺せる異常性を有する。他者に対する共感性を全く有しない人物なのだ。心が欠如していると言っても良い。それゆえに、相手に対する同情など一切せず、容易に殺してしまうのだ。だからこそエレベーターのドアを幸子がこじ開けた時、慎二が死の淵に瀕しているように思って、読者は恐怖するのだ。なお共感性の欠如は著者が好むテーマらしく、『悪の教典』でも使われている。『悪の教典』で完成度が最高に達したのでもう使わないような気もするが。

女性の描き方が画一的なのが残念

本書『黒い家』においては女性の描写が画一的である。その画一的な女性の描写とは、主人公の恋人である黒沢恵について感じるのである。彼女は、いかにもな女性言葉を使い、女性らしく控え目であるが、内面がほとんど描かれていない。恵はステレオタイプな女性像を著者に押し付けられているようで、どうにも窮屈だった。主人公の若槻慎二の脇に寄り添っているだけの存在である。

もっとも、恵がいることで『黒い家』は菰田幸子の悪夢から解放された後の癒しとなるのだが。とはいえ、恵は慎二の恋人であり重要な人物なのだから、画一的な描写は気になるところである。

とはいえ、『黒い家』は菰田幸子・重徳夫妻の行動による恐怖が強烈である。そもそも恋愛小説ではないから、女性描写の画一性をもって大きく評価を下げることはしまい。

【映画レビュー】 ビッグ・リトル・ライズ シーズン1 監督:ジャン=マルク・ヴァレ 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (米国)

『ビッグ・リトル・ライズ シーズン1』は米国のテレビドラマである。『セックス・アンド・ザ・シティ』『ゲーム・オブ・スローンズ』を手掛けたHBOが贈るサスペンス。シーズン2は製作中で、米国では2019年に放送される模様。日本での放送日は2019年7月31日(水)ということが決まっている。シーズン2にはメリル・ストリープがキャストに入っている。

待望の最新シーズン!『ビッグ・リトル・ライズ2』7月31日(水)日本最速放送決定 | サスペンス | ニュース | 海外ドラマNAVI

本作はドラマなので、映画レビューで紹介すべき作品ではないのだが、傑作だったので紹介していこう。

作品のプロフィール

『ビッグ・リトル・ライズ』の監督を務めたのはジャン=マルク・ヴァレというカナダの映画監督だ。彼が監督した映画には『ヴィクトリア女王世紀の愛』『わたしに会うまでの1600キロ』などがあるそうだが、私はどれも知らない。『ビッグ・リトル・ライズ』が傑作で、同作をヴァレ監督が最初から最後まで監督しているので、彼の監督作には注目していきたくなるほどだ。

『ビッグ・リトル・ライズ』の製作総指揮には、主演でもあるリース・ウィザースプーンニコール・キッドマンが名を連ねた。どちらもアカデミー主演女優賞の栄誉を受けている。ちなみにウィザースプーンはヴァレ監督の『わたしに会うまでの1600キロ』にて主演、アカデミー主演女優賞にノミネート。

ウィザースプーンははっきりとした価値観を持ち、その観点に合わない者には攻撃的になる女性を演じた。キッドマンは美しく聡明な元弁護士を演じている。双子を設け、美形で高身長で仕事ができる弁護士を夫に持つ。幸せな女性に見え、友だちにも幸せな生活を送っているように演じるが、実態は夫に虐待されていた。本作では上半身ヌードをさらしている。

その他のキャストでは、シェイリーン・ウッドリーローラ・ダーンアレクサンダー・スカルスガルドなど。ウィザースプーン、キッドマン、ウッドリー、ダーン、スカルスガルドの演技はおしなべて素晴らしかった。なおダーンはウィザースプーン同様に『わたしに会うまでの1600キロ』に出演している。

『ビッグ・リトル・ライズ』は第75回ゴールデングローブ賞・テレビムービー部門(2018年)にて4部門(作品賞・主演女優賞・助演女優賞助演男優賞)で受賞した。原作はリアーン・モリアーティという作家の小説。創元推理文庫で『ささやかで大きな嘘』というタイトルで発売されている。原作の方が良いタイトルだ。

誰かが殺された!しかしその誰かが誰なのかは、最後まで分からない

『ビッグ・リトル・ライズ』では、1話にて誰かが殺された事実が明かされている。しかし殺された誰かとは何者かについて、また、殺人者については一切触れられていない。しかも、事実を語るのはパーティの出席者であり、警察への質問に応える形で語っているのだ。一体誰が、誰に、殺されたというのか?この謎は最終話まで語られることがなかった。

パーティの出席者が語るのは、誰かが殺されたことについてだけではない。ストーリーが進むにつれて、主要キャストについてエピソードを語っていく。彼ら彼女らが警察の質問に応える形でしゃべっているのは、噂話である。だが、パーティの出席者が語る噂話という構図は、『ビッグ・リトル・ライズ』の世界観が噂話で成り立っていることを象徴する。

『ビッグ・リトル・ライズ』の舞台は、アメリカ・カリフォルニア州モントレーにある高級住宅街。マデリン、セレステ、レナータはセレブ女性である。マデリンもセレステもレナータも、一見、幸せそうに見える。だが、噂話に象徴されるように彼女らには裏の顔がある。徐々に剥がされていく幸せの仮面。「幸せ以外は、ぜんぶある。」という本作のキャッチコピー(公式HP)をなぞるように、セレブ女性の裏の顔が見えてくる。そんなセレブな住宅街に引っ越してきたのはジギー。「幸せ以外は、ぜんぶある。」というキャッチコピー。新参者のジギーも例外ではない。

噂話や登場人物の行動によって、徐々に明らかになる人間の深い闇。誰かが殺され、その誰かが誰であり、殺人者が誰であるかという、メインのストーリーを追いつつも、登場人物たちの陰鬱な過去の出来事や心理状態などがエピソードとして描かれることによって、マデリン・セレステ・ジギー・レナータ等を取り巻く闇は、いっそう深くなる。

映像の美しさに心惹かれていく

『ビッグ・リトル・ライズ』を見ていて、映像の美しさに感嘆した。モントレーは海沿いにあるのか、浜辺のシーンが出てきたり登場人物の邸宅の目の前が海だったりする。マデリン、セレステ、レナータ等の邸宅が瀟洒である。また、マデリンがセレステやジギーと一緒にお茶をしに行くカフェの雰囲気が良い。マデリンを演じるのはリース・ウィザースプーンなのだが、存在感が抜群である。強い自論を持っていて、思考が合わない人は徹底的にののしる。だが、マデリンはあまり下品にならずに、セレブ妻の矜持を保っていた。彼女を演じたウィザースプーンの演技力が高かった。仲の悪いレナータ(ローラ・ダーン)のことを愚痴っているだけで絵になるのである。

あとはセレステを演じたニコール・キッドマンは、元弁護士で、今は専業主婦に収まっている知的な美人を演じた。彼女は夫のペリー(アレクサンダー・スカルスガルド)に虐待されているのだが、精神科医以外には言えないでいる。親友であるはずのマデリンにさえも、仲の良い夫婦と目されているくらいだ。理想と現実に懊悩し、誰にも言えないでいる美人をキッドマンは演じる。キッドマンが出てくるだけで溜息が出るほど、美しかった。

闇が人の心の奥底に落ちていく

『ビッグ・リトル・ライズ』はミステリーを題材にしているが、トリックがある訳でもないし、どんでん返しがある訳でもない。最終話を見れば誰が殺されて、誰が殺人者なのかは、直ぐに分かる。だからミステリーを題材にしているけれども、ミステリーとしての価値が高い訳ではない。むしろ本作は、人の心をじっくりと描いた作品と言った方が良いだろう。それゆえに、本作は再見に耐える。

不倫、DV、子ども同士のいじめ、他者への悪口(マウンティング)など、家庭生活を送っていれば、ありふれた出来事が次から次へと降ってくる。だが、それら、ありふれた出来事によって人の心は闇に蝕まれる。出来事を契機として、闇が人の心を食んでいくのだ。それは、被害者も加害者も同じである。例えばセレステを殴っているペリーの顔には悲しみが漂っている。ペリーには暴力を振るうことへの快楽は微塵も感じられない。ペリーは、暗く、淀んだ生を生きているかのようだ。

だが、だからといって『ビッグ・リトル・ライズ』に描かれた登場人物がおしなべて暗い訳では決してない。明るくしゃべったりするし、バカ騒ぎをしたりもする。しょっちゅう闇に蝕まれている訳ではないのが人間であろう。ただし、ペリーとセレステだけはちょっと別だが。

『ビッグ・リトル・ライズ』には子どもも出てくる。突然キレてしまうジギーの息子。ジギーにいじめられたと訴えるレナータの娘。早熟なマデリンの娘。本作の子どもはステレオタイプ的な子どものイメージから離れて、心の赴く先があっちへ行ったりこっちへ行ったりと揺れ動いている。だが、本来、子どもというのはそういうものだ。「子どもは残酷だ」「子どもは純粋だ」というようなステレオタイプから離れて、残酷になったり純粋になったりするのが子どもだ。つまり、大人とそう変わりないということ。

闇が人の心の奥底に落ちていく過程を丹念に描いた『ビッグ・リトル・ライズ』。登場人物のそれぞれが、善と悪が混交した複雑な人物像になっている。それゆえに、映像でありながら彼ら彼女らの立ち振る舞いは現実的であり、どこか自分の知己の物語を見ているような気にさえ、なってくる。