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【映画レビュー】 ニュー・シネマ・パラダイス[完全オリジナル版] 評価☆☆☆☆☆ (1989年 イタリア、フランス)

 

ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画 『ニュー・シネマ・パラダイス』には複数のバージョンがあって、私が観たのは完全オリジナル版というものだ。これは2時間程度の劇場公開版と違って、主人公の恋愛シーンを多く取り入れ、3時間の大作となっている。私がかつて観たのは劇場公開版なのだが、本作を観ても特に違和感がなかった。滅多に手放しで映画を褒めない私だが、この映画は美しく詩情感溢れる映像と音楽によって、私は何度も涙を誘われた。映画の全編に亘ってエンニオ・モリコーネの叙情的な音楽が流れている。モリコーネの流麗な音楽の力を借りて、映画の主題は、観る者の心情に深く刻み込まれていく。主題というのは郷愁で、映画と愛に対する郷愁を描いていた。映画と愛は故郷に結び付けられている。

 

物語は40代後半と思しき、高名な映画監督サルヴァトーレ(ジャック・ペラン)の元に、シチリアの村に住む母から一本の電話が掛かってくるところから始まる。サルヴァトーレは30年間も故郷に帰ったことがないのだが、母はあることを知らせるために電話を掛けたのである。それはアルフレードフィリップ・ノワレ)の死を知らせる電話だった。電話を受けたのはサルヴァトーレの恋人で、恋人からアルフレードの死を聞いた彼は、故郷へと向かうために飛行機に乗った。アルフレードは10歳の頃から映画劇場で働く映写技師で、かつてサルヴァトーレもアルフレードの教えを受けて映写技師の仕事を務めていたが、失恋をきっかけに、アルフレードの言葉に乗ってローマへと旅立っていく。その後、一度も故郷に帰ることなく映画監督として花開いたサルヴァトーレは、30年の時を経て故郷に戻ってきた。そして彼は故郷の村の思い出に浸る。

 

映画の大半は追憶の物語である。少年期から青年期に至るまでの長い時間を極めて丹念に描いていく。時代背景は第二次大戦後間もないシチリアの小さな村で、映画だけが人々の唯一の娯楽であった。サルヴァトーレは、顔もよく覚えていない父を戦争に取られたが彼はまだ戻ってこない。母は父の帰りをじっと待っている。サルヴァトーレは映画館に入り浸り、映写技師のアルフレードと戯れる毎日である。サルヴァトーレは何よりも映画を愛しており、母からは、サルヴァトーレは映画とアルフレードの話しかしないと言われるほどだ。父は結局戦死したことが伝えられ、母は失意に陥る。母の存在はアルフレードほど強調されていないが、「なぜ再婚しなかったか」というサルヴァトーレの質問に対して「あなたたちが大切だからよ」と答え、アルフレードの死を一番にサルヴァトーレに知らせるなど、重要な役割を担っていた。

 

アルフレードは事故により失明することとなり、映写技師の仕事はサルヴァトーレが引き継ぐ。映画を愛するアルフレードが光を失うことの悲しみは強く、子がいないアルフレードは、映写技師の仕事を永遠にサルヴァトーレに務めて欲しい気持ちがあったと想像するが、そうするとサルヴァトーレの夢の選択肢が狭められてしまうことを憂い、村を出よ、と諭すのである。自分のエゴイズムを超えてサルヴァトーレの仕事の成功を願う彼は、戦死してこの世にいない父の代わりに、サルヴァトーレに「言葉」を付与したのである。「村を出る」という言葉をである。

 

青年時代のサルヴァトーレは、恋をする。銀行家の娘エレナである。この少女はブロンドの髪と碧眼を持った美少女で、サルヴァトーレはすぐに恋に落ちてしまう。エレナはあなたのことを好きではないと言って振るが、サルヴァトーレは諦め切れない。アルフレードから聞いた兵士と王女の恋物語を真似して、エレナの家の前に立ち続け、雨の日も寒い日もクリスマスの日も新年の日も立ち続け、遂にエレナはアルフレードの思いに応える。しかし、貧しい労働者階級のサルヴァトーレでは、エレナの両親が交際を許さない。二人は別れさせられるのだが、サルヴァトーレはいつまでもエレナを忘れられず、成人して大成した彼は、何度も女性を変えてはエレナの面影を追い求めてしまうのであった。

 

現代のサルヴァトーレは村に戻ってアルフレードの葬儀に参加する。懐かしい面々。サルヴァトーレが働いていた映画館「パラダイス」は6年前に閉館となり、まさに取り壊されようとしていた。ぐうぜん、エレナとうりふたつの少女を見かけたサルヴァトーレは彼女をエレナと間違うが、彼女はエレナの実子だったのである。そこでエレナと再会して一夜を共にしたアルフレードは、エレナもまた、彼をずっと思っていたことを知り、二人で涙に暮れた。二人の恋愛がこれから再燃することを願ったサルヴァトーレだが、エレナは静かに拒絶し、一夜だけの夢だと言う。サルヴァトーレは悲しみ、スタッフが自身の映画が何らかの賞の受賞を知らせても、彼は茫然としている。

映画のラスト、サルヴァトーレは、ローマの映画館でアルフレードが遺した映画を観る。そこには、クラシック映画のラブシーンだけを集めた映画が映っていた。エンニオ・モリコーネのノスタルジックな音楽を背景に、サルヴァトーレは再び、追憶の余韻に浸っていた。

 

 

映画のラストで、アルフレードが編集したクラシックのラブシーン映画が上映されることには、どんな意味があるのか。

 

映画の序盤で、アルフレードは、神父によって、上映する映画の中でキスシーンやラブシーンなどをカットしていた。公序良俗に反するというのか、神父は観客にラブシーンを見せないのである。サルヴァトーレもこれを知っている。

サルヴァトーレと、エレナとが別れたのには、エレナの両親が関与してはいるが、実はアルフレードも関与していたのだった。アルフレードは、サルヴァトーレに村に留まって無為な生活を送って欲しくないと思っていて、そのためにはエレナが障壁だった。エレナのことを思って、サルヴァトーレが村に留まる可能性を憂慮したのである。これは、後年、サルヴァトーレがエレナと再会した時に彼女自身の唇から聞いた事実であった。

 

アルフレードがラブシーンだけを集めた映画を編集したのは、映画と愛のためだったのではないか。

映画というのは、映画を映写技師が編集してはならず、自然な状態のまま観客に見せるべきとの矜持からもたらされるもの。

愛というのは、仕事で成功させるために、エレナとサルヴァトーレを別れさせることになってしまったので、その哀切な感情からもたらされるもの。アルフレードは映画と愛についてサルヴァトーレに対する遺書のように、映画を編集したのではなかろうか。それはすなわち『ニュー・シネマ・パラダイス』という映画の主題である「映画と愛」そのものである。3時間もの長い時間を掛けて、本作が語ってきたのは、サルヴァトーレとう男の半生だけれども、そこには常に映画と愛があった。アルフレードの遺書のようなラブシーンが集まった映画を見て、主題が凝縮されたように感じられたのである。私は静かな心地よさを感じながら、エンドクレジットを見ていた。

 

 

郷愁とか追憶とかいった心情は、時間の流れと共に心に雪のように積み重なっていく。それは何かの拍子に意識されるものである。サルヴァトーレであれば母の掛けた一本の電話がきっかけであった。この電話を恋人から聞いたことで彼は、母に何か、自ら言葉を発するチャンスを失い、記憶を揺り動かされることになる。ここでサルヴァトーレが電話で母と話していたら、何かしらの言葉を発することになっただろう。言葉を発せずにただ記憶を思い出させることにより、彼は映画と愛についてふたたび考える機会を得られたのである。アルフレードは、ノスタルジー(郷愁)はダメだと言っていたが、それは仕事で大成するためには必要な戒めであろうが、ふとしたきっかけでそれは人の心を酷く揺さぶるのである。本作ではそれが、ノスタルジーはダメだと言ったアルフレードその人の死であった。


さて、本作にはキリスト教の象徴的な描写がいくつか描写される。幼い頃、サルヴァトーレは神父の手伝いをする。十字架やマリア像が画面のそこかしこに平然と置かれている。それはイタリア人の生活の一部であるかのようだ。成長した壮年のサルヴァトーレが家に戻ると、いくつかの写真と共に十字架が掛けられている。だが、現在のサルヴァトーレの部屋には、それらの象徴は、あっただろうか。キリスト教も、既に失われた映画や愛の如く、追憶の対象になっているのである。

 

本作における郷愁は映画と愛に関するものだが、これらは故郷と結び付いている。モリコーネのノスタルジックな音楽と共に、故郷に対する心情は優しさと温かさをもって、人の心に浮かんでくる。殊更映画にも愛にも関心がない者であっても、故郷に対する郷愁がある人であれば、この叙情に必ずや揺さぶられることだろう。私が死ぬ時にはこの映画を見ながら死にたいとすら思わせるほどの、温かく優しい追憶の詩情に満ちた芸術である。