海と毒薬
遠藤周作の『海と毒薬』。『沈黙』に比べると評価は落ちるが、「良心を持たない日本人」について描いた作品として、現代でも充分に読む価値はある。
■良心を持たない日本人への批判的作品
ストーリーはよく知られているように、戦時中、九州帝大医学部で行われた米軍捕虜に対する生体実験に取材したフィクション。本作は、講談社文庫版の解説でも述べられているように、生体実験を告発する作品ではない。生体実験は醜悪な犯罪だが、それを告発するのではなく、何となくその場の空気で生体実験を行ってしまう日本人の良心を批判的に捉えたものだ。
日本人に対比されるのは欧米人で、欧米人のキリスト教観は、一神教の下での倫理観に基づく。これをしては良くて、あれをしてはダメという、絶対的な基準に基づく倫理観だ。しかるに日本人には、絶対的な基準がない。一神教ではなく、八百万の神だからだ。
神道、儒教、仏教といった価値観はあるかもしれない。しかしそれらは絶対性を持たない。共通の価値観ではないからだ。Aさんは儒教でBさんは仏教を信仰する。欧米をキリスト教国家と言えるように、日本を儒教国家ないしは仏教国家とは言えない。日本人に信仰を尋ねて困惑されるのと同様だ。
何となくその場の空気でというのは、日本人なら「何となく」理解できるだろう。本作でも描かれているように、出世のために軍部におべっかを使おうと生体実験を行う教授(おやじと呼ばれる)、幼い頃から悪行を繰り返すも罪悪感を覚えないまま医師になった戸田、そして本作の中で最も意思がなく、何となく生体実験に加わる勝呂。俺の見立てでは最も意思がない勝呂を、遠藤は問題視していると思う。
三者三様であるが、いずれも強い倫理観があれば生体実験に加わることなく済んだはずである。なぜなら生命の危機があってやむを得ず生体実験をしなければならなかったという訳ではないからだ。出世だの、何となくその場の空気でだの、到底理解できるものではない。
これがキリスト教的な絶対的な価値観を持つ欧米人と、日本人との違いである。
生体実験とは悪のことである。悪を行わないためには、歯止めを設けなければならない。繰り返すがそれが絶対的な価値観だ。
物語では、誰も糾弾されることなく結末を迎える。あぶり出された悪と悪を行った日本人は「何となく」俺たちの鏡像のようにも見えるのだ。
日本の教育を見ても、どこにも倫理を教えてはくれない。倫理という教科としてはあれど、それを絶対的な基準として教えてはくれないのだ。かつては教育勅語というものがあったが、それもない。だから復活しろというのではないが、何もないよりは、あった方が良い。
もちろん欧米人だって皆が皆キリスト教徒ではない。絶対的な基準から選んだ結果がカトリックでありプロテスタントであり仏教であり、あるいは無神論である。それなら良いと思う。だが日本人は選ぶべきものが何もない。単に自由に情報があふれているだけだ。
本作はそんな感じで、我々の倫理観に一石を投じる。こうあってはならない、こうあるべきである、というような価値観がない日本人。それで良いのか。
誤解しないで欲しいのは、全ての日本人がこうであるとか、そういうことではないということだ。こういう面が日本人に「一側面」として存し、それを批判的に描写しているに過ぎない。
そしてキリスト教的価値観を持つ欧米人と俺は言ったが、遠藤が無批判に彼らを持ち上げている訳ではない。本作では混乱を招くので欧米人への批判はないが、『沈黙』で描かれているように、フェレイラのような神学者を遠藤は批判する。
ホントに蛇足だが、若い看護師がセックスに走るシーンは自然でとても良い描写だった。
■面白くない点
『沈黙』に比べて面白くないのは、キリスト教的価値観がちょっと薄いところだ。敢えて薄くしてしまったところに本作の問題がある。読後に印象を残さないのだ。もっと強くキリスト教的価値観を描き、日本人の価値観と対比すれば本作は名作たりえただろう。それがとても惜しい。
あとは構成に問題がある。章仕立てになっているのだが、最初は現代から始まる。
現代で気胸を患う男が、勝呂医師の下に診察を受けに来る。変な医者だなと思って印象に残るが、ある時、勝呂医師について奇妙な噂を耳にする。それは生体実験に関わっていたという噂だ。
だが、こんな最初のシーンがとても邪魔に見える。
読後、何でこんなシーンを入れたのか疑問に見える。小説を読んでいるうち、どこかで現代に戻るかと思えば戻らない。読者に何かしらのメッセージを残さないままなのだ。こういう宙づりの状態にしているところが気に入らない。