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【映画レビュー】 エレファント 評価☆☆☆☆☆ (2003年 米国)

 

エレファント デラックス版 [DVD]

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ガス・ヴァン・サントの映画を観たのは『グッドウィル・ハンティング』以来だから、およそ20年振りの鑑賞になる。リヴァー・フェニックスの代表作『マイプライベートアイダホ』とマット・デイモンの出世作『グッドウィル』、そして本作を合わせて、ようやく3本の映画を観たことになる。『ドラッグストア・カウボーイ』も『ミルク』も、悪名高い『サイコ』も観たことがないのである。本作『エレファント』はヴァン・サントの作品の中でも特に有名だが、観る気になれなかった。

なぜそこまで観たことがなかったかというと、『エレファント』の事前情報を聞くと観る気にならなかったからである。本作の事前情報は、カンヌ国際映画祭パルムドールと監督賞を同時受賞、そして米国のコロンバイン高校銃乱射事件をテーマにしているということだ。カンヌ映画祭パルムドール・監督賞同時受賞作品というと、仰々しい気がする。しかしそれ以上に、コロンバイン高校銃乱射事件は1999年に発生した事件で、確かに世界を震撼させはしたが、筆者は日本人だし、銃規制をいつまでもやらない米国の方針に嫌気がさしているので、観たくないと思っていた。日本人も米国で銃の犠牲になっている。米国は何をしているのだろうか?

事件も18年も前のことで、記憶からも忘れかけている。この映画を、筆者は社会派の映画だと思っていたので、流行に乗り遅れた気がして、それもあって観る気になれないでいた。

しかし今頃になって観る気になったのは、彼の新作『追憶の森』に渡辺謙が出ていたので観ようと思ったのと、カンヌ映画祭パルムドールを受賞した監督の作品を観ている(ハネケ、ダルデンヌ兄弟)と筆者の趣味に合ったため、銃乱射事件をテーマにしていることには関心を引かれないながらに、『エレファント』を観たのである。

 

 

『エレファント』という映画は、一口には語り切れない映画である。銃乱射事件は、確かにコロンバイン高校銃乱射事件のように発生するし、事件をもって映画は終わるけれども、本当にそれだけなのか。

筆者が映画を観終わった時の感想は、あまり社会性を感じなかったということだ。それだけに、コロンバイン高校銃乱射事件をテーマにしているという設定から離れて、この映画は、高校生のリアルな日常の描写、そして高校生一人ひとりに強い個性を与えることで、登場人物すべてが主人公であるかのような存在感をもって、観る者に語り掛けてくる。そして最後に、銃乱射事件で幕を閉じるのだが、高校生の統御できない不安定な精神が、銃乱射を行った少年二人(アレックスとエリック)を主軸として、名前のある登場人物すべてに貫いていく。銃乱射というテーマがありながらも、社会性に終わらずに、高校生の持つ、無軌道にあっけらかんとしながらも、淀んでいて、どこに向かうとも分からない心理を、彼らの台詞や行動に的確に表現させていた。

 

 

『エレファント』は、黄色いTシャツを着た金髪の少年ジョンが出てくるところから始まる。ジョンは酔っ払いの父親から車の運転を変わり、高校へと向かう。着くと彼は、父を車に残して鍵を預けに事務室に行く。

そしてすぐさまカメラは変わり、イーライという長身の写真部の少年を映す。彼は同世代と思われる男女のカップルを撮影する。そして彼も高校へと向かう。

筆者は誰が犯人なのかを確かめずにこの映画を観た。少年二人が銃乱射事件を起こすことは知っていたから、このジョンとイーライの二人が銃乱射事件の犯人かと思ったのである。最初に物語に登場したからそう思ったのだが、期待は破られる。この二人は重要な登場人物であるが、犯人ではない。それは、『エレファント』がどんどんカメラを動かしていき、被写体をジョンからイーライ、ネイサン、3人組の女の子たち等へと、変えていくことで分かる。犯人二人がどこで出てくるか予想もつかないところが、この映画のストーリー展開の巧みなところである。

 

そしてさらにカメラは変わり、ネイサンという女子に人気のある少年を映す。彼は噂話に花を咲かせる女子3人の色目を無視して、美しい恋人の元へと向かう。

カメラは変わり、ある女の子を映す。彼女は「異性同性愛の会」(?)という話し合いに行く。黒人の男性教師がいて、彼が話し合いをまとめる役を担っている。

またカメラは変わり、ミシェルというメガネをかけた「ダサい女の子」を映す。彼女は他の女子から露骨に「ダサい」と嫌味を言われる少女で、体育の時に短パンを履きたがらない。彼女は図書館へと向かう。

そしてカメラが変わり、ようやく犯人のうちの一人、黒髪のアレックスが現れる。彼は物理の授業を受けている時、消しゴムのようなものを投げつけられていた。いじめられているシーンはここだけである。あとは想像するしかない。また、彼の自宅のシーンでは、もう一人の犯人・金髪のエリックが出てくる。エミネムのような外見でいじめられそうにないし、イジメのシーンは無いが、犯人なのだからいじめられていたと想像する。実際、銃を持ちながら校長を恫喝するシーンで、「学校にイジメの相談をしても受け入れてもらえなかった」と言っていたから、彼もいじめられていたことが明確になる。

 

 

アレックスとエリックが出てきてもすぐさま物語は銃乱射事件には移行しない。その間もジョンやイーライ、ネイサン、噂好きの女子3人組、ミシェルなど多くの人物が代わる代わる出てくる。興味深いのは、一つのシーンを多角的な視線で撮影しているところだ。例えば、校内を歩いているイーライが、金髪の少年ジョンを見つける。そして撮影したいと言うシーンがある。それを、ジョン、イーライ、そしてカメラを構えるイーライの後ろを走り抜けるミシェルの視点で何度も描くのだ。まるでクエンティン・タランティーノの初期の作品を観るようだ。この多角的な視線を本作が欲するのは、銃乱射事件という結末に収束するために、いかに高校生活の日常があふれているかを示し、その数限りない日常が二人の少年によって、殺戮へと突入してしまうことの悲劇を強調するためだろう。そして、犯人二人にのみカメラがクローズアップするのではなく、数多くの人物に対して、あたかも主人公が多数いるかのように焦点をあてることで、たかが81分ほどの映画は豊饒の海であるかのように深みを増している。

 

噂話をしていた女の子3人組も、ミシェルも、校長も、「異性同性愛の会」の女の子も、みな殺されてしまう。終盤に出てきた黒人の少年ベーニーは、出てきてすぐに殺害されてしまう。

主要人物のイーライはどうだったのか定かではないのだが、金髪の少年ジョンは外に出ていて、犯人二人から銃を向けられずに済んだ。彼は「地獄を見せる」と言った犯人たちに危険を感じ、校内に入ろうとする人間に「入るな」と言って回る。ジョンだけが、この映画では少し高い位置にいるように見えなくもない。彼は父に悪態をつくこともなく、運転を代わってやり、校内の銃の乱射音が聞こえたにもかかわらず父がいないので探し回り、他人に校内に「入るな」と言う。ジョンは、犯人から「入るな」と言われたくらいである。もちろん犯人も、ジョンが校内にいたらためらわずに殺しただろうが、外にいたジョンを殺すことなく、逃がしていた。ジョンだけは、少しだけ高い位置にいるように見えたゆえんである。

といっても、それは彼がたまたま生き残ったからそう見えるだけのことで、さっきも書いたように、彼が校内にいたら、間違いなく犯人に殺害されたはずである。あくまでもジョンは、生き残ったから高い位置にいるようだが、実際は、殺された多くの高校生とも、犯人とさえも、等価である。

無軌道にあっけらかんとしながらも、淀んでいて、どこに向かうとも分からない心理が、犯人を含めて、名のある登場人物すべてに貫かれていることこそ、この映画の肝だろう。それが可能になるのは、被写体がどんどん変わるカメラの変転のせいだ。被写体Aが映ったかと思えば、被写体Bを映す。そしてさらに被写体Cが映る。そうして、学校の騒々しさがリアルに描かれていくのだが、この映画の主人公は、名のある登場人物すべてである。

ドストエフスキー『悪霊』2巻・覚書

 

悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

非常に長く、光文社文庫版で700ページもある。こんなに長大なボリュームにする必要はあったのか疑問なところだが、世界文学の頂点に位置するドストエフスキーに対しては誰も文句を言わないのかもしれない。だが筆者は一般人なので言う。長い。もっと省略すべきところがあったはずだ。

特に演劇調の会話はややうんざりするのだが、19世紀のロシア人はこういう喋り方をしていたのか?誰も彼も丁寧語で、長ったらしく、奇妙なまでに激情的な喋り方をするのだが・・・こういう喋り方が自然だと思って翻訳してしまうところは、今一つ納得感に欠ける。

 

とはいっても、ストーリーとテーマ性は重厚で読み始めると止まらないインセンティヴがあるのは確かである。キリスト教社会主義、キリーロフの人神思想等の思考も随所に出てくるが、思想を描くことに汲々とすることなく、自然に書かれ、それでいてテーマの重要な部分を担っているため読者の心に響くように、文章に言葉として置かれている。こういった思考を文章に的確に置く技術は見事なもので、『悪霊』が思想小説として高い境地に達していることが理解されるだろう。

1巻も充分に良い作品だったが、ややプロローグ的なところがあった。2巻はあまたの思想を、「思考」と「行動」によって多数表現することに成功している。思想は、作者によって絶対的に否定も肯定もされないまま残されているので、バフチンのいうポリフォニーは2巻で強い印象で読者の前に立ち現われることだと思う。

 

また、亀山郁夫の翻訳はシンプルで無駄がなく、自然な日本語なのですっと読むことが出来る。彼の訳は、『ドルジェル伯の舞踏会』における堀口大學の翻訳とは違って、実務的に訳すところが良い。堀口は詩人という別の顔を持った翻訳家なので、文章に酔うところがある。「のだった」などという末尾の言葉の多用にも表れているが、そういう自己陶酔による翻訳は見るも無残な結果を招く。

村上春樹も小説家としてより、翻訳家として筆者は高く評価するが、彼も亀山と同じで自然な日本語に訳出して、あくまで実務的に、つまり(恐らく)原文に忠実に訳して、自らは黒子に徹しているところが良いのである。村上春樹のような世界的な(通俗)作家でも、自らの色を全面に出さないところは、翻訳家の役割を理解している証拠だろう。

 

■本邦初訳の「チーホン」はなかなか面白い。スタヴローギンの告白は迫力がある。伝え聞くところと違って、スタヴローギンは少女を強姦したのではなさそうなのだが、信仰のある少女と性関係を持つことが罪だということである。結果的に少女は自ら首を吊って死んでしまうのだから。

少女と関係を持つ文章は露骨には描かれていない。さらりとしていて、関係を持ったのか否か分からないような描かれ方である。

スタヴローギンは、告白によると何人も人を殺している悪漢だ。悪漢にもかかわらず自責の念がまるでないところが非常に恐ろしい。本書『悪霊』における悪霊とは2人いて、スタヴローギンとヴェルホヴェンスキーの息子ピョートルだと、訳者が解説で書いているが本当の悪霊はスタヴローギンだと訳者が言っている。筆者も、2巻まで読んだところでは、その通りだと思う。

この「チーホン」で、有名な「完全な無神論は完全な信仰へと向かう道である」というチーホンのセリフを読むことが出来る。

 

■2巻では、ヴェルホヴェンスキーの息子ピョートルが革命組織を作って暴れまわり、シュピグリーン工場の労働者をけしかけて暴動を起こす。社会主義革命をフィクションで見ているようで非常な緊迫感がある。

革命家たちがスパイを殺すとか殺さないとか議論しているシーンは、日本の新左翼内ゲバを想起させる。実際に3巻でスパイを殺すようなので、いやはや時代を先取りするドストエフスキーに感服させられる。

内ゲバはどの組織でも行われるもので、別段左翼の専売特許ではないから、組織内における内ゲバが行われる度に、ドストエフスキーの『悪霊』は、参照されるのではないだろうか。

 

 

rollikgvice.hatenablog.com

 

HRカンファレンス2017 -春-

日本の人事部「HRカンファレンス2017-春-」

 

HRカンファレンス2017(春)の申し込みが開始されました。

無料で人事関係の多くの講演を聞ける良い機会です。

時節柄、採用関連が多く見受けられる他、ダイバーシティもあります。日本政府も問題視している「日本の労働生産性」の講演もあります。

 

今年は、5/16(火)~5/19(金)の4日間の開催です。場所は例年通り大手町サンケイプラザになります。

 

俺は5/16の「女性管理職育成のカギを握るのは? ~普通の女性社員が管理職になっても良いと思う秘訣」に行こうと思っています。講師は、株式会社サクセスボードの藤崎さん。

 

まあ、このHRカンファレンスって、商品紹介の講演が多いので、必ずしも良いと思える講演に出会えないのが現実的なところなんですけれどね笑

【映画レビュー】 グラディエーター 評価☆☆★★★ (2000年 米国)

 

グラディエーター [Blu-ray]

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将軍マキシマス(ラッセル・クロウ)が、皇帝コモドゥスホアキン・フェニックス)から逃れてグラディエーターとなり、皇帝を倒すまでを描いた歴史大作。アカデミー賞作品賞および主演男優賞を受賞した他、監督のリドリー・スコットやフェニックスもオスカーにノミネートされた。筆者はフェニックスのファンである。

マキシマス役のクロウは、筋肉はあるが少し体が小さい印象。痩せているとは言わないが、細マッチョの体型であり、迫力にやや欠ける。日本人的な体型。

 

ということで観てみたのだが、ストーリーに粗が目立ち最後まで楽しむことが出来なかった。前皇帝を殺害したコモドゥスに反旗を翻すために、コモドゥスの握手を拒んだことで、マキシマスは、死刑を宣告され、子どもを殺され、妻はレイプされた上に殺害されるのだが、握手を拒まなければこんなことにならなかったのでは?なぜこのような激情に駆られてしまったのか、政治的なセンスが全くない振る舞いにイライラさせられた。

 

また、死刑から逃れるシーンも、あまたあるアクション映画の焼き直しで見るべくもない。死刑という、もはや死ぬしかない極限の場面で、どのように逃げるかが要点だが、兵士が愚鈍でこれなら確かに逃げられるだろうという状況だ。黒澤明の時代劇の主人公みたいに、剣の達人だということが如実に分かるような演出(『椿三十郎』とか)を見せてくれれば納得感もあるのに。

 

当初は、皇帝コモドゥスの目から逃れていたマキシマスだが、グラディエーターとして皇帝の目の前に出てしまうと、早々に正体がバレてしまう。何でバレてしまうような設定にしたのか理解に苦しむ。バレないようにグラディエーターとして勝ち進んでいって、最後の最後で正体が暴かれるというなら、スリリングな展開で評価出来るのだが、これではダメだ。いつ正体が皇帝に知られるか・・・知られたら最後、殺されるという緊張感がない。

 

正体が暴かれて、皇帝がマキシマスを殺そうとすると、大衆が反対して殺せない。仕方なくその場を去る皇帝だが、その後でいくらでも殺せる場面を作れるはずなのに、全然殺さない。脚本家、出て来い!こんな幼稚なストーリーでよくアカデミー賞作品の栄誉に与ったものである。

 

そして、最後に、『グラディエーター』というタイトルそのままに、皇帝コモドゥスと、将軍マキシマスの決闘が、聴衆に見られる中で行われるのだが、こんなことがあるのか?殺される可能性のある戦いを敢えてやる皇帝なんているのだろうか?コモドゥスは狂人であるが、政治家として抜け目の無いところがあった。だが、彼の設定はストーリーの犠牲になってしまった。もちろん、コモドゥスはマキシマスに敗れて、死ぬ。なんだこりゃ。

 

この映画で良いのは、ラッセル・クロウの熱演と、ホアキン・フェニックスの狂人的な演技である。複雑な性格を演じたフェニックスのパフォーマンスの方が良かったが、アカデミーはクロウにのみ、オスカーを与える。

アメリカ人は、下から這い上がって勝つ人間像が本当に好きなようだ。いや、もちろん筆者も好きであるが、こんないい加減なストーリーでは、下から這い上がれるとは思えないから、評価は出来ない。

戦闘シーンも評価が高いようだが、剣の打ち合いの効果音がキンキンと安っぽく、日本の時代劇ドラマを見ているようだ。

青山ブックセンター本店を訪問

青山ブックセンター本店を訪問。冴えない品揃え。

↓ エスカレーターを降りていく

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↓ ここが店構え

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しかし、目当ての本はありませんでした。
ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』を買いに行ったのですが、これだけがない。『薔薇の名前』も『フーコーの振り子』も『プラハの墓地』も『開かれた作品』もありましたが、『ヌメロ・ゼロ』はない。
ハイエクの『隷属への道』もなかったです。
漫画ならあるかな?と思い、『こんなブラックジャックはイヤだ』も探しましたが、ありません。
マイナーすぎるんですかね。

ちょっと歩いて渋谷まで行き、東急百貨店の中にある大型書店まで足を伸ばせば全部あるでしょうけれどもね。そこまでの気力がないので、諦めました。

青山にある本屋ってことで、まあ、雰囲気は良いんだけど、ただそれだけかなぁ。
ビジネス書も『GRIT』はあるけど、行動経済学系の読み物はなかった。ただの一冊も。青山学院大学が近くにあるけれど、経済学や経営学を専攻する学生は来ないのかもしれないね。
思想系はちらほらある。民俗学のコーナーまであった。