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【映画レビュー】 羅生門 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (1950年 日本)

 

羅生門 デジタル完全版 [DVD]

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羅生門』は、黒澤明の代表作の一つで、1950年公開の映画である。ヴェネチア映画祭において、日本映画初の最高賞を受賞、米アカデミー賞でも名誉賞(現在の外国語映画賞に相当する)を受賞して、敗戦から5年、復興に向けて進む日本人を勇気づけた。黒澤明が1998年に亡くなった時にテレビで放映された本作を観たが、当時は私もガキだったし、内容がよく分からなかった。最近、Amazonプライムで『羅生門 デジタル完全版』が観られるというのを知って、片手間に観てみたら非常に良かった。この映画は、黒澤の代表作に留まらず、日本映画史上に燦然と輝く名作だろう。このブログでの評価は☆5が最高だったが、『羅生門』は最上位を超える評価という意味を込めて☆7とした。

 

映画は、土砂降りの雨が、崩れた羅生門に打ちつけるシーンから始まるが、これが白黒映画ゆえの凄まじさで、墨汁が雨雲から滝のように降ってくるかのようだ。また、当時はタブーであった太陽を直接撮った場面では、林の葉の間から照りつける太陽の強い光が、これから生起する、あるいは既に生起した罪を象徴し、怪しさを増大させていく。

 

この冒頭の雨のシーンを見ると退廃的な美を感じるが、『羅生門』が描こうとするのは美ではない。言葉の持つ危うさだ。本作は、芥川龍之介の小説『藪の中』と『羅生門』を題材にしていて、特に前者を中心的題材としている。

 

平安時代の乱世、多襄丸という盗賊が、武士夫婦を見かけ、妻を強姦した。そして夫が何らかの理由で死んだという事件が起こる。そして検非違使が多譲丸、武士の妻、死んだ武士の3人に事件の内容を聞くと、3人とも全く異なった証言をする。まさに真相は「藪の中」という物語である。

 

多襄丸が武士の妻を強姦したという事実だけは両人とも共通している。問題になっているのは武士はどのようにして死んだのか、という点である。

 

●多襄丸は、強姦後、武士の妻が、決闘して勝った方と一緒になるとそそのかすので、武士と決闘して殺害したと証言する。

●武士の妻は、多襄丸は妻を強姦した後、夫を殺さずに逃げたと証言する。そして妻は、体を汚されたことで彼女を軽蔑的な目で見る夫のために狂乱し、短刀で自分を刺すように言った。だが彼女は夫の侮蔑的な視線に耐え切れなくなり、気絶してしまう。目覚めると夫には短刀が刺さっていた。彼女が殺したものか、夫が自害したものか定かではない。

●武士は、巫女の唇を通して証言する。武士の妻は多襄丸に強姦された後、多襄丸と共に行くと言い、その代わり夫を殺してくれと要求した。しかし多襄丸はそれには答えず去り、妻もいなくなる。絶望した夫は短刀により自ら果てるのであった。

●3人が3人とも違う証言をするが、杣売りも実はこの事件を見ていたのである。杣売りも検非違使に呼ばれながらそれを証言できなかったのは、彼は武士の妻の短刀を盗んでいたからである。

短刀を盗んだことが検非違使にばれたくないと思い、言えずにいた。しかし、羅生門では、彼は僧侶と下人に、意を決して彼が見たそのままを話した。

 

その内容を語る前に多襄丸、武士の妻、そして武士の証言内容を見てみると、彼らはそれぞれ、自分に都合の良いように語っていた。つまりエゴイズムである。そのために真相が隠されていたのだが、杣売りが見たという事件が真相かといえば、そうとも断言できない。杣売りは真実だというが、彼は短刀を盗んだことを隠すために検非違使の前で証言せずに黙っていた人物である。だから杣売りの話にエゴイズムがないとどうして言えようか。

 

●杣売りの証言は、多襄丸が武士の妻を強姦した後、多襄丸は武士の妻を求めたが、彼女は拒否するというものだ。武士は、こんな女のために命を捧げるのは馬鹿げていると言う。武士の妻は、多襄丸に、私が欲しいなら夫を殺せと言い、夫には、男なら妻を強姦した男を殺して私を殺せと言って、2人を挑発する。誘いに乗った2人は間抜けな死闘を繰り広げ、結果的に武士が死ぬ。

 

結局、4人とも違う物語を語り、真相は分からない。ある人間が関わった事件において、その真相を知るには、関与した人間の言葉を聞くことでこそ知れるはずだが、『羅生門』は、人間の言葉が必ずしも真相を語っていないと言っているのである。4人ともエゴイズムに囚われているので誰が真相を語っているか、あるいは全員が嘘を吐いているか、分からないからである。従って真相は、人間の言葉を聞けば聞くほど分からなくなる訳だ。言葉によってしか真相を知り得ないのに、言葉によっては、真相を語り得ないようにも思われる。全員の言葉が疑わしいとなれば、誰を信用したら良いのか。

 

羅生門』はこういった言葉の持つ危うさを、4人の言葉をもって描く。言葉が信用できないなら、誰を信用したら良いのか。その答えを映画は、僧侶による倫理的な言葉で締めくくる。言葉が信用ならないなら、人間が信じることができるのは、感情なのである。映画で出てくる感情は、杣売りによる、捨てられた赤ん坊を引き取る心に表れる。それさえも信用できないとなれば、人間は心底、誰も信用できないであろうとでも言うように、杣売りの小さな愛、あるいは優しさは、言葉を超越するものとして提示され、映画は終わる。

 

 

多襄丸役として三船敏郎が出演しているが、素晴らしい名演で最後まで目が離せない。彼は世界のミフネと呼ばれたが、私は黒澤映画をあまり観ていないから、彼がどれほどの俳優か分からなかった。『羅生門』での多襄丸は、物語をかき乱すキーとなる盗賊で、もし彼がいなければ何も起こらなかった武士夫婦に、人生の分け目となる危機的な状況をもたらす。

 

多襄丸は夏の暑い林の中で、武士の妻を強姦したいという欲望に駆られ、その欲望を抑制しきれず事に及んでしまうのであった。その漲る生のエネルギーを爆発させる多襄丸を演じた三船は、役になり切ることを超えて、役を作り出しているかに見える程である。これほどの名優が日本にいたことを私は誇らしく感じるくらいである。

【書評】 モノの意味 大切な物の心理学 著者:ミハイ・チクセントミハイ、ユージン・ロックバーグ=ハルトン 評価☆☆☆☆★ (米国)

 

モノの意味―大切な物の心理学

モノの意味―大切な物の心理学

 

モノ(場所を含む)を大切にするという心理はどういった意味を表すのか。例えば、家の中にあるモノの中で、あなたが大切だと思うモノを挙げて欲しいといった時、私なら本と答える。妻に聞いてみると家という答えが返ってきた。子のひとり(女児)に聞いてみるとおもちゃであった。

 

モノに対する執着について、私は出来るだけ考えないようにしていた。モノに執着すると物欲に支配されているように感じたからだ。しかしあなたが大切だと思うモノは何か?それを挙げよと言われた時に、そもそも、モノに対して”大切”だと思う感情があることに、今さらながら自覚させられる。すると、モノを大切だと思う感情は、ことさらに物質主義的なものではなく、心の投影のように感じるようになった。モノを大切にする、愛するという思いは、物欲ではなく、モノに対する心の投影であり、モノを通じて人間の性質、思考、感情などが露わにされることになろう。

 

『フロー体験 喜びの現象学』で大いに感心させられたチクセントミハイが、ロックバーグ=ハルトンという社会学者と共に著したのが本書である。私は『フロー体験』の著者が書いたから本書を手に取ったに過ぎないが、思いのほか良い本であった。

 

人間がモノを大切にする心的活動について本書は、涵養という概念を用いる。涵養は、人間がモノの追及に際して注意を選択的に向けることではじめて可能になる心的活動であり、モノとの相互作用である。従って、モノに注意を向けることで、人間の心的活動がどのような内容を表すのかということが問題となるだろう。注意とは心的エネルギーと同意の概念である。私が冒頭で「家の中にあるモノの中で、あなたが大切だと思うモノを挙げよ」と自問した時の「大切だ」という言葉には、注意、心的エネルギーそして涵養そのものが含意されている。

 

モノに対する心的活動を考える上で、著者はモノを単なる無機質なモノとのみ考えない。ハンナ・アレントを引き合いに、人間の環境には2通りあるとする。1つは、自然の力によって作られた「宇宙」、そしてもう1つは人間の努力によって造り上げられた「世界」である。アレントは、「世界(世界とはもちろん上記の意味である)のさまざまな物には人間生活を安定させる機能がある。・・・いつもの椅子、いつものテーブルにかかわることで、同一性すなわちアイデンティティを回復させることができる」と言う。モノは単にそこにあり所有されるだけではなくアイデンティティの回復にまで寄与すると言うのである。つまり、モノと人間との相互作用において、人間の性質が規定される訳である。モノはそこに置かれるだけではなく、人間との相互作用を通じて、それを大切にする人間は何を考えているのか、その性質が規定されるというのだ。それゆえに本書におけるモノは、自然と、家の中に置かれるモノに関心が注がれている訳である。

 

愛する人やかつて訪問したことのある場所に触れているという感覚、自然そのものとふれているという感覚は、人間が重要だと考えているものごとを表現し、あるモノや意味に限定して集中的な注意を注ぐよう、動機づけられている目的を明らかにする。例えばいとしい恋人と行ったことのある思い出深い場所を、再び訪問する時に、何とも言えぬ懐旧の念にひかれることがある。既に恋人とは別れ、自分は他の恋人と交際しているのに、その恋人と訪れた場所の思い出や、その恋人に対するあらゆる感情が呼び起こされる。それを懐旧とひとくちに表現したが、恋人に対する感情は良いものばかりではないし、辛く悲しい、あるいは怒りに満ちた感情であることもあろう。その場所がそういった曖昧模糊とした感情でありながら、喜び喚起させる場所であれば、そこはそういった意味においてその人を規定づけるのである。文章におこしてみれば、モノに対する人間の心的活動とは、当たり前といえば当たり前の概念で何てことはないのだが、モノが単にそこにあるものではなく、人間を規定づけ、アイデンティティを回復させる場所であることを想起すると、人間とモノとの相互交流には人間の心理を解き明かす上での謎が数多く残されていることが分かろう。

 

個人におけるモノの意味だけではなく、家族で所有しているモノについての分析も興味深い。家族はモノと共に生活する。それらのモノは、家庭という感覚を伝える。すなわち家庭とはどんなものなのかが、モノを通じて明らかにされる訳である。家族とモノについては、8章の「家族生活の記号」でより明らかに分析されていた。温かい家族の母親は家を「とてもすてきなうちだ」と表現し、冷たい家族の父親は家を「殺風景で人工的で・・・うちの中は寒々しい」と表現していた。

 

人間とモノの相互交流、それに基づく人間の心的活動について分析されていく本書には詩情が横たわっている。それは、400ページにも及ぶ大きな文章の中で、インタビューされた多くの人物たちが吐露する心の風景に、その人々の様々な感情、歴史などが明らかになっているからであろう。

 

【書評】 新版 動機づける力 モチベーションの理論と実践 編訳:DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部 評価☆☆☆☆★ (米国その他)

 

【新版】動機づける力―モチベーションの理論と実践 (Harvard Business Review Anthology)

【新版】動機づける力―モチベーションの理論と実践 (Harvard Business Review Anthology)

 

 

「働く意欲」の向上、すなわち動機づけについての論文集。「二要因理論」で高名なF.ハーズバーグの他、8本の論文を収める。全9本。日本人の論文は無し。

論文といってもビジネス誌に発表されたものなので、それほどアカデミックなものではないから読み易い。脚注も非常に少ない。ただし、文章は読み易いが内容が薄っぺらではなく、アイディアはしっかりと考え抜かれたものなので、ビジネスの参考になること請け合いである。

 

2章の著者が言う通り、「厳しい環境であっても、社員たちに最高の仕事をさせるのは、マネジャーにとって永遠の、そしてなかなか実現できない目標の一つである」。仕事をさせるという言葉には「動機づけ」が含意されている。

“最高”の仕事でなくても良いかもしれないが、動機づけを高めるにはどうすれば良いか、碩学により思考された施策は星の数ほどある。それらを仮に、全て読み込んだとしても、自社に最良の動機づけの施策は、構築できないかもしれない。国・ビジネスの環境あるいは時代はそれぞれ違い、会社も経営者も、会社で働く社員も生きている。その中にある1社の動機づけ対策として、まるでパズルのピースのように、かっちりとあてはまる施策など、いかなる論文の中にも、転がっている訳ではないからだ。それが、自然科学と違うビジネスにおける解答を生み出す難しさで、似たような業態・規模・社風の会社であっても、A社にはこれが有効なのにB社には無効であるという風に、必要な施策は異なるのである。

 

そういう意味で考えると本書に収められた論文が、9本が9本とも違った施策を提出しているのは至極当然とも言える。その中から自社に見合った論文(施策)をあてはめて見るのも良いし、合わなければ裁縫し直すのも一手だ。

 

 

私が面白いと思ったのは5章と6章。

 

5章では、ピグマリオン効果という心理学の用語をマネジメントに援用し、「期待が人を育てる」として、マネジャーの期待に合わせて部下の成績が上下することを解説する。

期待による業績への影響について、著者は実験結果を例示し、平均的な業績のグループが生産性を上げ、高い業績を果たしたことの原因を分析する。それがマネジャーの期待で、マネジャーは部下と打ち合わせをする時、「みんなは優れた潜在能力を持っている。ただ経験が不足しているだけだ」と発破をかけた。するとメンバーは労働生産性を高めることに成功したのである。まさにマネジャーの期待の成果だ。

 

オードリ-・ヘプバーンの映画『マイ・フェア・レディ』では、レディとしての自己イメージを持った主人公イライザ(ヘプバーン)が、他者から花売り娘として見られることを拒否してレディとなっていく有様を描いているが、例示した平均的なグループも同様で、「平均的」と見られることを拒否して、高業績を上げていくのである。

 

一方で、平均的で充分だと思ったり、平均的な自己イメージを脱することができなかったりする可能性もありうるが、それは、後半に指摘がある通り、期待が高業績を生み出すには「上司の能力」に依存するのである。部下に潜在的な能力があっても、それに気付けない上司や、それを教育して延ばすことができない上司ではいくら「期待」を部下に投げ掛けても意味がない。意欲的な部下は、上司に幻滅して自己の成長に後ろ向きになってしまうだろう。従って、企業にとって急務なのは、ピグマリオン効果を効果的に実現するためには、上司の底上げをするということだと、著者は提言する。この論文は1969年に書かれたものだが、この提言が今も尚効果的だというのは、喜ぶべきか悲しむべきか。

 

6章では、権力動機が高いマネジャーが優秀なマネジャーであると解説した。権力動機とは誤解を招きそうな名であるが、権力動機の意味するところは、マネジャー個人の権力を拡大することよりも、人を動かすことに熱心で、「組織全体の利益となるよう、自らを律し、コントロール」できるマネジャーの動機のことである。従って、マネジャーが権力を追求するというイメージとは遠い。

 

一方で、達成動機という概念もある。これは、「いままで以上に優れて、かつ効率的に物事を達成したいという願望」のことで、権力動機と反対に、組織の強化よりもまず自分の進歩に関心があるので、行動の動機は常に自分である。組織を運営し、部下を活用するマネジャーにとって、組織より自分を優先するマネジャーでは、組織目標の達成はおぼつかない。権力動機に動かされるマネジャーは自分よりも組織、部下が優先される。著者がいう通り、優秀なマネジャーは、部下にエネルギーと責任感を漲らせて、秩序ある組織を整える人を指すからである。

もうひとつ、親和動機なる概念もあり、こちらは部下に好かれたいという欲求のことである。

 

これらの概念を活用して著者は、マネジャーには3つのタイプがあり、組織志向マネジャーこそが良いと提案する。

組織志向マネジャーとは権力動機が高く、親和動機が低く、抑制力が高い。彼らは組織的な権力に関心を抱き、部下を動機づけ、生産性を向上させるタイプのマネジャーである。親和志向マネジャーは、親和動機が権力動機より高く、抑制力が低いマネジャーである。個人権力志向マネジャーは、権力動機が親和動機より高いが、抑制力が低いマネジャーである。

 

親和志向マネジャーは、理性よりも感情で判断するので仕事の手順が曖昧になり、整然とした組織力を構築し得ない。また、個人権力志向マネジャーは、親和志向よりはマネジメントの効果が見込めるものの、上司の権限を追求するために、部下は、組織よりも上司に心を尽くそうとしてしまう(つまり上司のために働く)。反面、組織志向マネジャーは、明確で整然とした組織づくりを志向するので、部下のモラルも高まり、業績も向上するであろう。部下は上司ではなく組織のために尽くすように仕向けられているから、上司が異動したり退職したりしても部下のモラルは変化し難いであろう。

 

組織志向マネジャーのプロフィールを最後に紹介しておく。

1.組織中心に物事を考える。すなわち、多くの組織に加わって、それらの組織を築き上げることが自分に課せられた責任だと感じる傾向がある。権力を集中させることが重要だと考えている。

2.仕事が好きである(労働量を減らしたがる達成動機の高い人と差異がある)。

3.自分の利益を犠牲にし、自分が働いている組織の繁栄のために尽くしたいという意欲にあふれている。

4.強い正義感の持ち主である。

 

 

5・6章ほどではないが8章の「Y理論は万能ではない」も面白く、マクレガーのX理論・Y理論を批判的に活用し、事例を元に、Y理論ではなくコンティンジェンシー理論、その核となるセンス・オブ・コンピタンスを提言する。

センス・オブ・コンピタンスは、業務にまつわる能力・スキルを高めるセンスのことで、自分の仕事や環境に慣れ親しみ、技能が向上することでもたらされる満足感の積み重ねのことである。

すなわち技能の向上に限界がないのと同様に、このセンスを身に着け、技能向上による満足感の蓄積は、限りなく積み重ねられる。したがって、このセンスを活用すれば社員の動機づけとして、強力なツールとなるだろう。著者がいうように、「センス・オブ・コンピタンスは一度満たされても、これで満足することはない。つまり、ある目標を達成すると、次の一段と高い目標が設定されるからである」。何だか、フロー理論をテニスの学習効果で説明した時のチクセントミハイの口ぶりと似ているが、動機づけの施策には、限界があってはならないのだろう。

【書評】 燃えよ剣 著者:司馬遼太郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈上〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈下〉 (新潮文庫)

燃えよ剣〈下〉 (新潮文庫)

司馬遼太郎歴史小説は、私の会社の同僚が好きで、よく読んでいるらしい。まあ司馬遼太郎が好きな会社員は多いだろうが、私はそれほど得意ではない。そもそも、大衆文学全般に言えるが文章が陳腐で飽き飽きしてしまうのだ。私は谷崎潤一郎のような純文学的な歴史小説なら読むのに、大衆文学的な歴史小説は苦手なのだが、それは、後者には物語を展開することに関心が置かれ、そのために文章が考え抜かれておらず、美しさを感じないからである。今回読んだ『燃えよ剣』もやはり同じ感想で、筆が乗って書かれていることは分かるが、どうも垢抜けない。本書は、近藤勇のことを野暮ったいと説明するが、本書の文体もまず洗練されてはいないだろう。美しい日本語によって、物語を創作するという意思は、本書からは感じられなかった。

しかし、大衆文学というものがそもそも瀟洒な文による物語の創作ということに関心を置いていないということで諦めればどうなるか。つまり文章をカッコに入れて物語だけを読むことにすれば、本書は充分に良い小説と言える。標準的な水準を超えているだろう。司馬遼太郎という、一時代を築いた作家の小説は、その物語から何か得られるものがあるということなのだろう。ゆえに他の小説も読んでみたいと思った。大衆文学でそんなことを思わせる小説家は、私には司馬遼太郎が初めてだ。
燃えよ剣』で面白く感じるのは、司馬の小説にはキャラクターを通じて思想を語らせ得る点であろう。それだけ人物の描写も丁寧で抜かりがない。

本書は、新撰組副長である土方歳三を主人公に、近藤勇というオモテに立つ男と、ウラから組織を支える男・土方の対比的な描写が良い。土方は洞察力、政治力に優れ、常に思索している。行動力もあるが、近藤の影にいつも控えている。なぜなら土方は新撰組という組織を支えるがゆえに、身を犠牲にすることを厭わないからである。資質からすれば、近藤よりも土方の方がリーダーに向いているような気がしないでもない。

だが土方は陽ではない。組織を牽引するための他者との親和性に欠けるのである。明るければ良いというものではないが、ひねもす考え抜いている陰気な思索家がリーダーに向いているかといえば否であろう。土方は直ぐに人を嫌うし、それゆえに相手からも嫌われやすいが、その点、近藤は明快だし、部下からも慕われている。近藤のためにという部下もいる。だが、組織は、リーダーのためだけでは継続しきれないことを理解しているのが土方で、彼はいかに新撰組という組織が、組織として自律的に存在するための方向性を獲得し得るかを、思索し、言葉にし、自らの身を投じて行動した人物である。最期の散り際も武士らしく戦って死ぬが、決して畳の上では死なぬ士道が彼の行動に伴われているように見える。

私は同じ新撰組を扱った『幕末の青嵐』(木内昇)でも感じたが、本書を読んでも、近藤勇よりも土方歳三の方が私は好みである。近藤が嫌という訳ではないが、土方は企業のマネジャーとして学ばされるところがあり、それはひとえに、土方の行動の多くに、組織を支えるマネジャーであるかのように読み取ることができることではあるまいか。

土方は組織を強化することを目的に新撰組をマネジメントするが、その支柱となるのは剣に対する深い信念である。土方は以下のように語る。

兵書を読むと、ふしぎに心がおちついてくる。(略)孫子、暮子といった兵書はいい。書いてあることは、敵を打ち破る、それだけが唯一の目的だ。

【書評】 武州公秘話 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

武州公秘話 (中公文庫)

武州公秘話 (中公文庫)

乱世の時代、武州公という武将の変態的性欲を赤裸々に描いた歴史物語。

13歳の少年時代、武州公は人質に取られていたのだが、ある時、戦で勝ち取った敵の首を整える女性たちの元へ行ったことがあった。そこで彼は、その首を見つめる一人の美しい女性を見つけた。彼女は武州公よりも身分が下であるが、女性に対して強い美を感じる彼は、身分などは関わりなく美を愛し得る。女性は首を見ながらニタニタと薄ら笑いを浮かべているのである。それを見た武州公は、自らもその首になりたいかのような被虐的な性欲を感じる。ある時彼は、女性が鼻のない首を見て微笑を浮かべているのを見た。不具の顔を見て一層の性欲を感じた彼は、自らも殺人を犯して、鼻を削いだ上で女性の前に首を差し出し、女性の微笑を見たいと思ったのである。

そして武州公は、ある時人目を忍んで戦地へと赴き、睡眠中の武将を殺害し、鼻を削いだのである。本当は首を切り取りたかったが、追手に追われて鼻を削ぐだけに留まった。

これが物語の発端で、武州公が仕える武士が迎える妻というのが、この殺害された武将の娘で、武州公が仕える武士というのも何をトチ狂ってそのような振る舞いに出たのかと思うが、この妻が実は虎視眈々と夫に対して父の復讐の機会を狙っているという物語が、素早い筆さばきで書かれて殊更にスリリングである。物語は純文学的な文芸の美しさというよりも、物語の運びに執着したエンターテインメントとしての面白さを追求している。

妻の名は桔梗といい、彼女は夫の鼻を削ぎ、父と同じ容貌にしたいと企んでいた。そして、手慣れの部下を使い、弓を放って夫の鼻を狙う。失敗して夫を兎唇にしてしまった。しかし一度目の弓で下手人が武州公に殺害され、袂に入った手紙から桔梗のことが露見してしまうというのは、物語を迅速に進めるためには必要だろうが、私には思慮が足りないように思えた。下手人が、間が抜けているようにしか思えなかったからである。

そして新たな下手人が夫の耳を砕き、またも鼻を削ぐことに失敗するのだが、徐々に、顔が損傷していく様を描きたいためにこのような設定にしているように思えてならず、谷崎のグロテスクな嗜虐性が伺われる。別に、さっさと鼻を削いでしまえば良いのに、そして結局、鼻は削がれるにもかかわらず、損傷が徐々に行われるのだから。

武州公と桔梗とは、やがて手を取り合って桔梗の夫の鼻を削ぐことに執心するのだが、この背景がどうもよく分からない。桔梗の家に入るために厠を伝って入るというのも奇妙で薄気味悪く、そんな男をなぜ信用するだろうか。

仮にも夫に仕える男が、主を裏切って桔梗側に付くことを許すというのは、なぜか?桔梗の心理がつかめない。結局、物語の最後、桔梗は夫に詫びる心で貞淑な妻に変わるというのも、取ってつけたようで全く関心しなかった。夫への復讐を目指すなら最後は悪事が露見して殺害されれば面白いものを、単なる善人に終わっている。しかも、解せないのは武州公が桔梗の父を殺して鼻を削いだ張本人なのに桔梗にはそれがバレないまま物語が終わることである。私はいつバレるのかと思ったし、バレたらどんな仕打ちを武州公が受けるかと想像したが、何もないのである。このような展開なので、多いに興を削がれてしまった。

幼い頃に見たニタニタ笑いの美女にしても桔梗にしても、サロメのような女性像である。これはいかにも谷崎らしいもので、本書の解説で正宗白鳥が言うように「谷崎好みの題材を谷崎式手法で活写しているだけ」というのは確かにその通りである。私も正宗と並んで、この怪異な物語に驚かされはしなかった。何よりも物語の構成が特段よろしくないのである。