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【書評】 乃木希典 著者:大濱徹也 評価☆☆☆★★ (日本)

乃木希典 (講談社学術文庫)

乃木希典 (講談社学術文庫)

膨大な資料を元にした乃木希典の評伝

本書『乃木希典』は、大濱徹也(筑波大学名誉教授)による乃木希典の評伝。私が読んだのは講談社学術文庫版であるが、文庫にして427ページあり、膨大な資料を丹念にあたって書かれた力作となっている。乃木希典は長州出身の軍人で、明治の時代精神を体現する者である。明治とともに生き、明治天皇崩御とともに殉死する。彼の殉死は国際的にも知られているほどであった。

構成は、「乃木希典の生涯」「日露戦争後の社会と乃木希典」「明治の終焉」「乃木の死が投じた波紋」「軍神乃木像の展開」の5章から成り立っている。「乃木希典の生涯」には160ページほどが割かれて、厳格な両親や師匠など、長州時代から、軍人となり日露戦争までが描かれていた。次章以降では日露戦争と乃木について、さらに明治天皇崩御とともに明治が終焉し、乃木が殉死したこと、そしてその殉死による波紋など、多くの資料を元に多方面の視点から乃木希典という人物とその周辺、そして社会に至るまで丁寧に描いていく。

私は乃木希典という軍人のことを知らず、本書を手に取ってみたのだが、どうやらあまり好ましい人物ではないようだった。文章が読みやすいのですらすらと読めはしたし、本書が資料を丹念にあたっていることも高評価なのだが、いかんせん、乃木という人物が好ましくないので、評価は少し厳しめのものとなっている。ただし、客観的に乃木希典を知りたいという読者には、好著だろうと思う。

乃木希典の殉死

明治天皇崩御後、乃木希典は妻・静子とともに自殺した。明治天皇を追っての殉死である。乃木だけが殉死するのではなく妻を道連れにするところが独特で、私は二・二六事件に取材した『憂国』(三島由紀夫)を思い出す。『憂国』でも主人公が妻とともに自殺するのである。『憂国』は死とエロティシズムが鮮烈に描かれているのに対し、乃木夫妻の自死は官能的ではない。『憂国』の主人公夫妻は大義のために自殺するから、乃木夫妻同様であるが乃木夫妻の自死にはどうにも官能的なところがない。しかし官能的でないところがかえって乃木夫妻の明治天皇への忠誠を露わにするように見える。ここに官能性がほの見えると、不純な気さえする。純粋に明治天皇への忠誠のために死ぬこと、それが乃木希典夫妻の自死である。

乃木希典夫妻には3人の兄弟がいたが、1人は早世、そしてのこり2人はどちらも戦死しており、乃木希典の直系は夫妻の自殺をもって断絶されている。乃木希典本人も乃木家を断絶させたかったようである。

乃木希典の殉死による波紋

乃木希典の殉死は、明治時代を生きてきた同時代人に多大な影響を与えたが、私が本書を読んで印象に残ったのはむしろ大正時代の文人への波紋を書いた箇所である。

白樺派志賀直哉は、以下のとおり、乃木に対する強い反発を示していた。引用は志賀直哉の日記である(英子というのは家族であろうか)。

乃木さんが自殺したというのを英子からきいた時、馬鹿な奴だという気が、丁度下女かなにかが無考えに何かした時感ずる心持と同じような感じ方で感じられた。

大正人である白樺派にとっては、「乃木の自殺は癪に触るほどの愚劣なもの」でしかなかったのである。下女がしでかした愚行と同列に扱われるほどなのだ。特に白樺派は、学習院出身者が多く、乃木希典学習院院長を務めていた頃にその前時代的な教育方針に辟易していたというから、その自殺は到底敬意を表されるものとはほど遠かったものと見える。

私はなんとなく乃木希典という軍人は、第二次大戦終了後に軍神から俗人に貶められていたように思っていたが、当時の知識人の中には白樺派に限らず乃木の殉死を批判していたものがいたようである。乃木の殉死については評価が二分していたことが、引用を元に詳しく書かれていたのだった。

乃木希典漱石と鴎外

乃木希典の殉死は、明治の代表的文学者である夏目漱石森鴎外にも影響を与えた。そしてこの両人は乃木希典の殉死を通して、創作の材料としたのである。漱石は『こころ』に、鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』という短編小説にそれぞれ結実した。

前者は誰でも知っている名作である。教科書にも掲載されており、文字通り夏目漱石の代表作だ。『こころ』では、先生と呼ばれる人物が恋愛関係に悩み死を考えていたが、乃木希典の殉死を契機に自殺を実行に移す。その際、自分が死んだあとの妻の生活を気にかけており、妻には血を見せたくないとまで言う。
妻を道連れに殉死した乃木希典との差異がここにある。

鴎外は乃木と交流があり、彼の殉死には大きな衝撃を受けたようである。『興津弥五右衛門の遺書』は興津弥五右衛門という歴史上の人物に乃木希典を託して描かれた。いわば鴎外の乃木希典像であろう。

漱石と鴎外による乃木希典観には相違がある。著者は以下のように書く。

漱石は、乃木を支えていた「克己のモラル」が、伝統思想と密着したものであることを見ぬき、そのてんに関し、乃木に対して批判的であった。このことは、漱石と鴎外を根底からわけるものである。

明治人になりきれなかった漱石と、明治人として芥川などの大正人とも通じる心を持つ漱石などの対比的な記述は強い関心を抱かされた。

【映画レビュー】 アウトレイジ最終章 評価☆☆☆★★ (2017年 日本)


北野武監督の最新作『アウトレイジ最終章』を劇場で鑑賞。私は、初代とビヨンドは共に高く評価した。北野映画ランキングでもベスト10入りさせている。全て劇場で鑑賞したほど好きなシリーズで、今回で「最終章」と銘打たれているから、どんな結末を迎えるか期待していた。
残念ながら期待外れの平凡な作品におとしめられている。北野武が自著『仁義なき映画論』で批判していた『ゴッドファーザーPart3』も3作目で失敗したが、『アウトレイジ』シリーズも3作目で失敗したようである。これからレビューを行うが、このブログはネタバレを一切封印していないので注意して読んで欲しい(といってものっけからネタバレなのだが)。

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仁義なき映画論 (文春文庫)

仁義なき映画論 (文春文庫)

死への憧憬ふたたび


私は以前、当ブログ「好きなものと、嫌いなもの」で、ビートたけし演じる大友は死なないと予測した。そう予測したのは、北野監督が『その男、凶暴につき』から『BROTHER』に至るまでのバイオレンス映画を通じて、主役の自殺や殺害により死への憧憬を描写してきたからだ。しかしそれ以降、『座頭市』、そしてこの『アウトレイジ』シリーズも『ビヨンド』までの時点では、死への憧憬が封印されていたのである。

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それゆえに私は『アウトレイジ』シリーズの最終作に至って、もはや大友は死なないだろうと予測したのだ。しかし、エンドロール直前の描写を観て驚いた。驚いたというより少しの落胆があった。大友は銃を顎に突き付けて自殺するのである。こめかみにあてると『ソナチネ』になってしまうので顎に突き付けたのか、という差異はあるものの、『その男、凶暴につき』『3-4X10月』『ソナチネ』『BROTHER』などのバイオレンス映画を通じて描かれた死への憧憬が再び描かれてしまった。「またか」というデジャヴュとともに私は劇場を後にした。

原点回帰した『アウトレイジ最終章』


北野映画は『アウトレイジ最終章』によって、原点回帰したということなのだろうか。『アウトレイジ』シリーズは初代で暴力団に生きるヤクザを描き、組織の問題をあぶり出した。『ビヨンド』は組織からはみ出た男・大友が、片岡刑事の意のままに操られ、個人として組織に立ち向かう。片岡刑事は神のようであり、大友含め他の人物は駒のようであった。しかし組織を壊滅させた大友は片岡刑事=神を殺害する。

そして『最終章』は、神なき後、誰の意のままにもならずに個人の意思通りに活動する男・大友を描いた。前提としてはこれで良いが、個人の意思通りに活動するといっても、『最終章』で描かれているのは、世話になっているチャン会長(日本在住の韓国人フィクサー)の意思を勝手に忖度して、自滅していく愚かな男に過ぎない。せっかく縁故入社できたのに、脱落して破滅する男のようである。縁故入社した企業を抜け出てしまう大友は、チャン会長が求めていないことを行為するのだった。

大友の行為を客観視して思うのは、この行為により、誰が得をするのか?ということ。だから大友の行為には強い距離感を感じるのだが、結局、大友は単なるエゴイストに過ぎないということではないのか。

チャン会長の意思を忖度する大友


韓国でチャン会長からシマを預かっている大友は、『ビヨンド』で勢力を伸ばした花菱会の花田に、自分の店の女をキズものにされた挙句、部下を殺害されたことで、怒り心頭に発する。

しかしその義憤は、チャン会長のシマを汚した花菱会の花田を通して花菱会に向かうことになるが、チャン会長は「自分たちはヤクザではないから」事を荒立てたくないと言う。つまり義憤はチャン会長の意思ではなく、大友の利己的な忖度に過ぎない。

アウトレイジ最終章』は昔の北野映画に戻っただけ


アウトレイジ最終章』は、強引な展開が見られる。チャン会長が花菱会とのイザコザを金で解決したいと言っているのに、チャン会長がコケにされたと思い込み、韓国から勝手に帰国して花菱会に近づく大友。

誰がこんなことを望んでいるかといえば、大友一人を置いて他にいない。あとは大森南朋演じる市川であろう。市川は大友の部下であるから、大友が一括すれば終わるが、大友はチャン会長の名誉を毀損した花菱会への復讐を行う。

他者は誰も望んでいないのに主人公一人の行動が浮遊してしまうのは、『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『BROTHER』などのバイオレンス映画に共通する行動だ。主人公のエゴが際立ち、死へと至るのである。

座頭市』以降のバイオレンス映画ではその死への憧憬が封印され、新しい北野映画が出現したように感じていた。しかし結局、何のことはない、『アウトレイジ最終章』は、『その男』や『BROTHER』へ回帰しただけのことだ。これを自己模倣と言わずになんと言おう。

退屈な花菱会の内紛


アウトレイジ最終章』では、大友による花菱会への復讐と平行して、花菱会の内紛が描かれた。大杉漣演じる新会長が証券会社出身の素人ということで、古参の西野(西田敏行)や中田(塩見三省)は軽視している。西野はいずれ自分が会長の椅子に座ろうと目論む。

なんとなく、初代の山王会の内紛を思わせる既視感のある設定だが、初代と違うのは会長に対して初めから西野が楯突いていることだ。だから彼が暗躍するのは目に見えているので、彼が野村会長を倒して花菱会の会長の椅子に収まるのでは、何ら驚きがない。

また、『ビヨンド』の加藤会長と石原若頭のように、部下を締め付けている訳ではないから、野村会長がいかに恫喝しても西野は恐れないので、観ている方もなんら緊張しない。いかに野村会長が素人の会長だからといっても、西野を恫喝するだけではなく部下を使ってリンチするくらいの描写がないと、後半で西野が暗躍しても野村会長自体がチンケな存在で終わっているので、比較対象がなく面白みに欠けるのである。

それにしても西田敏行塩見三省はどうしたのか。『ビヨンド』では圧倒的な存在感で画面に躍り出ていたが、『アウトレイジ最終章』では病気持ちのジジイしか見えない。大杉漣の演技力との差は歴然で、こんなジジイに野村会長が敗れるようには思えないのだ。

野村会長はインテリヤクザという設定なのだから、機知に富んだ手法で西野や中田を返り討ちにしてほしいものだが、『ビヨンド』の石原若頭を更に矮小化させたようなキャラクターに過ぎなかった。

自己満足に始まり、自己満足に終わる


アウトレイジ最終章』は、とにかく大友の行動の理由が掴めない映画であった。チャン会長がやるなと言うのに行動して、花菱会に手を下す。だが殺すのは野村会長や花田などの幹部だけで、西野や中田などには何もしない。

どうせ理由なき行動を図るなら、花菱会全員を殺害してくれれば面白かったと思う。中途半端に生きながらえさせるからつまらない。しかも生き残ったのはくたばり損ないのジジイどもである。こんな大友の自己満足を延々と見せられた挙句、大友は昔の北野映画よろしく自殺する。これで良かったのか?

暴力描写に緊張感があって良かったことは、付け加える。ピエール瀧原田泰造らの死体をまざまざと見せないところは頂けないのだが。あと、特筆すべきは鈴木慶一の音楽だ。それと何人かのキャスト。それだけのために☆3つは誉めすぎかもしれないが。

アウトレイジ最終章』のキャスト


アウトレイジ最終章』のキャストは、花菱会の野村会長役の大杉漣、幹部役のピエール瀧岸部一徳をはじめとして多くの俳優が新陣営として脇を固めている。特に野村会長役の大杉の演技は凄味があり、知的な元証券マンという経歴からは想像し得ないほどの恫喝をして、若頭の西野(西田敏行)や中田(塩見三省)らを畏怖させる。

ピエール瀧も『アウトレイジ』初参戦とは思えぬほど画面に慣れた印象を与え、最初に出てきた時はSMプレイに勤しむバカなヤクザとして出てくる。この設定は素晴らしく、彼は最後まで変態である。ただ、彼の活躍は多くなく、ぜんぜん暴れない!北野監督はピエール瀧が最高の演技をみせた『凶悪』を観ていないのではないか?とさえ思えた。もしあれを観ていたら、ピエール瀧をもっと活躍させただろう。

それにしても、西田敏行塩見三省の演技は弱弱しくて酷い。ビートたけしもカツゼツが悪く聞き取り難い台詞を吐いているが、外見は相手を畏怖させる存在感がある。だが西田と塩見は現実に病気をしたせいか、みすぼらしいほどに痩せていて、塩見などは杖をついている始末だ。山王会の白山と五味に、恫喝してみせる中田(塩見三省)だが、『ビヨンド』での恐ろしいヤクザぶりはどこへ行ったのか、くたばり損ないのジジイが喚いているようにしか見えない。『最終章』の最大の敗因は西野と中田を出演させたことにあるのではないかと思うほど、彼らの演技は酷い。こんなボケたような二人が野村会長に勝てるとはとうてい思えないのだが!

【書評】 ランサローテ島 著者:ミシェル・ウエルベック 評価☆☆☆☆★ (フランス)

 

 ミシェル・ウエルベック

 

ランサローテ島』は、フランスの小説家ミシェル・ウエルベックの短編である。単行本で60ページくらいの短い小説。

 

私は最近、野崎歓の著書を何冊か読んだ。野崎のプロフィールにミシェル・ウエルベックの翻訳作品がある。なんとなく面白そう。試しに借りてみた。そうしたら非常に面白かった。

 

ミシェル・ウエルベックは、1957年生まれのフランスの小説家である。今年60歳。長編『素粒子』が世界的ベストセラーとなり30ヶ国に翻訳出版された。『地図と領土』でゴンクール賞を受賞。その他の作品に『プラットフォーム』『闘争領域の拡大』などがあるが、2001年出版の『プラットフォーム』にはイスラム原理主義への攻撃的な描写があるそうで、同時多発テロとの関連でも同作は読まれた。

 

ランサローテ島のはじまり

 

ランサローテ島』は、男が旅行代理店のカウンターに行くところから始まる。「セックスしたいわけじゃないんです」と露骨に代理店の若い女性スタッフに言う男は、セックスについて開放的な予感を与える。実際、男はランサローテ島に行って、バイセクシュアルのドイツ人女性二人と乱行するに至るのだ。

「セックスしたいわけじゃない」って?おい、本当かよ?と、本書を読み終えた後で代理店のシーンを読むとそう言いたくなる。

 

ランサローテ島とは、私はどんな島なのか知らなかったが、モロッコ付近にある島である。スペイン領となっている。特に観光名所らしいものもなく、地震と火山噴火の被害によって文化遺産が失われたような島であるが、そういう乾ききって荒涼とした島ゆえに、男は惹かれるのである。

 

パムとバルバラ

 

ランサローテ島で、男はドイツ人女性のパムとバルバラと出会う。二人はレズビアンだが、レズビアン専門という訳ではない(なんだそりゃ)。パムはダメだけど、バルバラはまだ挿入も可能なのだとか(ばかばかしい!)。こういった滑稽な描写が連綿と続く。女性性器をストレートな言葉で発言したり、愛撫やセックスの露骨な描写などもあるが、その餌食となるのはパムとバルバラである。まるで村上春樹かと見紛うほどに執拗な性描写があるが、村上に対するような嫌悪感を私は抱かなかった。村上春樹のように気取った言葉を吐く田舎者ではないという点もあろうが、やはり、男とパムとバルバラとの性行為には、「滑稽さ」がつきまとって離れないからであろうと思っている。丁寧な性描写を見ても、エロティシズムは感じられずひたすらにファニーなのである。

 

馬鹿丸出しのいい加減な英語を使って会話するフランス人の男と、ドイツ人女性二人。「英語はいつだって少しばかり苦手で、三つも文章を並べるともうお手上げ」の連中。率直に女性の体に触れて、反応を確かめる男。知的でもなければ気の利いたことも言えない、ましてや金持ちですらない男に、なぜか身を任せるバイセクシュアルのドイツ人女性二人。このナンセンスさに、私はページを繰る手を止められなかった。

 

ベルギー人のリュディ

 

ランサローテ島』にはもう一人の登場人物がいる。ベルギー人のリュディである。リュディはランサローテ島で、主人公やドイツ人女性二人と行動を共にするが、女性とはセックスしない。代わりに、カルト宗教の信者となって、のちに逮捕されている。

 

カルト宗教では、信者が自由な性関係を謳歌しており、信者の少女に性的関係を強いたり、近親相姦に至る信者たちもいる。リュディはモロッコ人の少女と性関係を結んだ。彼はかつて、モロッコ人女性と結婚しており子までもうけたが、女性はリュディを捨ててモロッコに子とともに帰国してしまった。

 

リュディは、モロッコ人の女性に対する執着が現在でもあるのだろう。モロッコ人の少女に性関係を強いたかどで訴えられている。

 

野崎歓は解説で、『ランサローテ島』は観光旅行が現代の西欧の人間にとって「どのような欲望の装置」となっているかを描いた作品だと言う。主人公の男、パムとバルバラ、そしてリュディ等は全て、観光旅行をして「欲望の装置」たらしめている。そこには常に滑稽さがつきまとっているのだが、欲望とは果たして、そういうものなのかもしれない。

 

このナンセンスさ、滑稽さ、ばかばかしさ、露骨な性描写等は、魅力的である。

 

【書評】 ジャン・ルノワール 越境する映画 著者:野崎歓 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

 

ジャン・ルノワール 越境する映画

ジャン・ルノワール 越境する映画

 

 ジャン・ルノワールとは?

 

フランスの映画監督ジャン・ルノワールの評伝。著者はフランス文学者で映画研究家の野崎歓である。

 

ジャン・ルノワールといわれても私にはどんな映画監督か分からない。何しろ一度も作品を観たことがないのだ。ではジャン・ルノワールとはどんな映画監督なのか。

ジャン・ルノワールは、1894年にフランスのパリで生まれた。父は印象派の巨匠オーギュスト・ルノワール。さすがに父親の方は私でも知っている。暖かい自然の風景の中にいる女性は、私の理想像でもある。オーギュストの作品『ガブリエルとジャン』の男の子のモデルが、ジャン・ルノワールである。

 

いくつかの恋愛、結婚を経て、ディド・フレールというブラジル出身の女性がルノワールの終生の伴侶となっている。ディドは英語が堪能。本書には英語で書かれたジャン・ルノワールの手紙が収められているが、英訳したのはディド夫人のようだ。尚、ジャン・ルノワールは第二次大戦中にアメリカに渡り、のちに市民権を取得している(フランスとの二重国籍)。

 

ルノワールの映画はヌーヴェルヴァーグにも影響を与え、ゴダール、リヴェット、そしてトリュフォーらがジャン・ルノワールの監督作品を称賛した。特にトリュフォージャン・ルノワールとは親交を深め、終生の親友となっている。

 

ジャン・ルノワールの代表作には、『ピクニック』『大いなる幻影』『河』などがある。特に『大いなる幻影』は評価が高く、多くの傑作映画ランキングでランク入りを果たしている(カイエ・デュ・シネマ、エンパイアなど)。晩年は小説を書き、『ジョルジュ大尉の手帳』『イギリス人の犯罪』などを残した。野崎歓ルノワールの小説を高く評価している。1975年にアカデミー名誉賞受賞。パーキンソン病に悩まされたが84歳まで生きた。

 

多数の手紙

  

本書にはたくさんの手紙が収められている。ジャン・ルノワールが書いたものが多いが、反対にルノワール宛てに書かれた手紙も数多い。手紙から伝わってくるのは、ルノワールという映画監督は明るい人物だということ。映画の黎明期を知っている監督なので、その朗らかさはまるで映画の父のようだ。

 

ロベルト・ロッセリーニと不倫の恋に落ちて社会からバッシングを浴びていたイングリッド・バーグマンに対して、その行為を責めることなく優しい言葉を投げ掛けるルノワール。彼が映画の父でなくて、何であろう?

 

ルノワールは渡米してハリウッドで映画を撮影することができた。しかし必ずしも、ハリウッドで成功したという程ではなかった。それでも意気消沈することなく映画を撮り続け、年若い、気鋭のフランス人監督(ゴダールトリュフォーら)から敬愛されるジャン・ルノワール。特にフランソワ・トリュフォーとは、親密に手紙をやり取りする仲だった。トリュフォーに、ルノワールは死期を感じる最中でも手紙を書いた。いつもながらの優しい手紙。

 

ルノワールは後年、小説を書いた。しかし小説を出版した時期が悪く、前時代的な小説を書いたとみなされてしまう。それでも、アメリカ人作家ヘンリー・ミラーから、その文才を好意的に評価する手紙をもらったルノワールルノワールはその後もいくつかの長編を書き、エッセイ集も出版した。ルノワールの手紙は明るく、幸福に満ちている。

 

 

越境するジャン・ルノワール

本書のタイトルは『ジャン・ルノワール 越境する映画』とある。越境するのはルノワールであるはずだが、タイトルは「映画」が主体となっていた。映画監督であるルノワールには常に映画を伴って歩いている。従ってルノワールが越境しようとも、映画が越境していることと、同じ意味に捉えることができるのだ。だから越境する映画となる。

 

ルノワールはフランスの映画監督だが、第二次大戦中にアメリカに越境した。そして、アメリカで必ずしも成功したとは言い難いながらも、映画を撮り続けることができた。サン=テグジュペリチャップリン、バーグマンなどに出会ったのもアメリカである(サン=テグジュペリとはアメリカに向かう船上で出会った)。『河』『フレンチ・カンカン』などを撮ったのも渡米後の時期である。

 

ルノワールは『捕らえられた伍長』を最後に映画監督を引退する。しかし隠遁はせずに、越境する。すなわち、小説家へと越境するのである。ルノワールは越境後の地(文学)において、『ジョルジュ大尉の手帳』『イギリス人の犯罪』などの小説を書いた。文壇の評価は必ずしも芳しくなかったが、何よりも物語を他者に伝えることが好きだったルノワールは、いくつもの長編を残し、エッセイを書いた。筆まめでもあった。

 

越境後のルノワールは何を思ったか。死の前年、ジャン・ルノワールフランソワ・トリュフォーに向けてこのような手紙を書く。

 

私は恵まれています。私の両親は素晴らしい人たちだったし、自然は私に頑丈な体を与えてくれました。そして今、旅路の終わりにさしかかって、あなたが現れたのです。

 

著者・野崎歓が言うように、「自分は恵まれていた」と心から述べることのできるルノワールの晴朗さは羨むべきものであろう。優しく、温かで、多くの映画関係者に愛されたルノワールであった。父がいなかったトリュフォーにとって文字通りルノワールは父であった。ルノワールの葬儀には、アメリカの映画関係者が集まったが、「単なる通りすがりの人たちまで入りこんでいた」のだそうである。縁もゆかりもない通りすがりの人間が集まってしまう葬式には、ルノワールの寛容な人生を物語るような温かみを感じる。

 

ルノワールトリュフォーにあてて、「私たちの関係にはどこかお伽噺のようなところ」があると書いたが、ルノワールはその死の後にまで、お伽噺を演出したかのような印象を受ける。ルノワールは死の世界に越境しても尚、本質は映画監督なのであろうか。本書は、著者のルノワールに対する深い愛着をつぶさに語り、そして書かれた言葉は優美で、うららかな春の風を頬に感じさせるようだ。

 

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【書評】 谷崎潤一郎と異国の言語 著者:野崎歓 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

谷崎潤一郎と異国の言語 (中公文庫)

谷崎潤一郎と異国の言語 (中公文庫)

 

 谷崎潤一郎の関西移住前の初期作品について

 

フランス文学者で映画研究家の野崎歓による谷崎潤一郎についての評論。著者にとって日本文学は門外漢であるが、谷崎潤一郎について「異国の言語」という切り口でまとめ上げていて読み応えは十分だ。『カミュ『よそもの』きみの友だち』でも感じたが、野崎の評論は評論の対象(『よそもの』とか谷崎潤一郎作品とか)に対する深い熱情があるので、読者は対象に関心がなくても評論単独で読むことができる。

 

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尚、本書は、『卍』を除けば大正時代の谷崎作品について書かれているのが特徴。大正時代の谷崎作品は、後期の作品ほど安定的な評価を確保していないように思われ、私のように谷崎作品を通期に渡って等しく評価する者は特異な存在かもしれない。そもそも谷崎潤一郎は、かつて自作についてこのように語っていた。

 

変わると云えば大正末年私が関西の地に移り住むようになってからの私の作品は明らかにそれ以前のものとは区別されるもので、極端に云えばそれ以前のものは自分の作品として認めたくないものが多い。

 

谷崎本人がこのように語ることによって、関西移住前の初期作品に対して不当とも思える過小評価が下されることもある。上述の通り、私は初期作品も、関西移住後の後期作品もどちらも評価している。ただ、各々から感じ取る感性が違うだけだと言うばかりだ。初期作品には官能的で嗜虐的な味わいがあるし、後期作品にはたおやかな香りがある。二つの時代の個性が異なるだけで、どちらが高い評価を受け、どちらが低い評価を受けるものではないはずだ。

 

 

異国の言語を愛した谷崎

 

本書『谷崎潤一郎と異国の言語』は、独探、鶴唳、ハツサン・カンの妖術、人面疽、卍の5作品について書かれている。

 

それぞれの作品について「異国の言語」が取り上げられている。即ち、独探では「フランス語」、鶴唳では「中国語」、ハツサン・カンの妖術では「魔法の言葉」、人面疽では「映画的言語」、卍では「関西の言葉」が異国の言語である。

 

谷崎潤一郎は、英会話は苦手であったが英語の読解のレベルは高く、スタンダールジェイムズ・ジョイスなどを読みこなしていた。また、本書には谷崎が訳したボードレールの詩(英訳からの翻訳)も収められているのだが、美しい日本語に精通している谷崎ならではの名訳がそこに現れているのだった。

 

関西移住前の谷崎の初期作品から、谷崎の西洋崇拝を読み取れるが、本書を読むと谷崎は西洋に限らず「異国の言語」に高い関心を持っていたことが分かる。異国の言語といっても、ハツサン・カンの妖術では魔法語だし、人面疽では映画的言語、卍では関西の言葉が「異国の言語」扱いされている。要は、谷崎にとっての異国の言語とは、西洋のように、崇拝の対象となる異国の言語なのである。魔法語も、映画的言語も、関西の言葉も谷崎にとっては崇拝の対象であり、自分が話す標準語とは異なる異国の言語なのである。