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【書評】 罪と罰(1) 著者:フョードル・ドストエフスキー 評価☆☆☆☆☆+☆☆ (ロシア)

罪と罰』は、人間の滑稽さや暴力性、シニカルさを活写する

19世紀のロシアにフョードル・ドストエフスキーという作家がいた。彼は処女長編『貧しき人々』で華々しく作家デビューを果たす。しかし社会主義サークルの一員になった廉で死刑判決を受けて10年間、シベリアで懲役生活を送った。地上に抜け出た後、彼は『死の家の記録』を書き作家として再出発する。そして『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』などの五大長編を物して60歳で死ぬ。遺作長編は『カラマーゾフの兄弟』だ。
作品はミハイル・バフチンによりポリフォニーと呼ばれ、キャラクターが自身の思想をもって自律的に動き対話を重ねることで、現実の多面性を体現していた。

…とまあ、味気ない紹介がドストエフスキーのような完全なる大作家にはお似合いであろう。フョードル・ドストエフスキーは、誰が何と言おうと大作家で、特に五大長編のいくつかは、世界文学の最高峰なのだ。読むまでもない。文学史上の定石通りに、ドストエフスキーは紛うことなき大作家であるから、読むまでもなく傑作に違いない。それで良いのである。そして作品に対するイメージは物々しく厳粛で高貴である。

私もそう思っていた。五大長編の持つテーマはそれぞれ異なるが、とにかく傑作なのであろうと。しかし亀山郁夫訳の『罪と罰』(1)を読んでみると何かが違う。確かに【紛うことなき傑作】には違いない。しかし単なる傑作とは思えない。『罪と罰』というタイトルにイメージされる厳粛な雰囲気、高貴さ、物々しさはそれほどクローズアップされていない。むしろ登場人物が演じる馬鹿馬鹿しい笑いや、血みどろのグロテスクな暴力シーン、生活臭がぷんぷん匂う人間のシニカルなセリフなどの方が際立つ。その奥底に感じられるのは人間の利己的な価値観である。人間は自身の欲望を満たすために合理的に行動する、と、あたかも経済学の一説を想起したくなるほどだ。徹底した利己主義の体現者が『罪と罰』には出ている。

さしたる動機もなく殺人を犯すラスコーリニコフ

罪と罰』の主人公はロジオーン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ。元大学生で頭はキレる。彼は独自の思想をもって殺人を犯す訳だが、1巻では動機については深く掘り下げられていない。さしたる動機もなく、殺人を犯したような塩梅である。

留意したいのは、ラスコーリニコフが必ずしも必然的に殺人を犯したのではないということである。亀山郁夫も書いているように本書は「運命の書」で、ラスコーリニコフは「重なりあうさまざまな偶然によって」殺人を犯すのである。彼は高利貸しの老婆を殺しにいくが、それ自体、本来、必然性はなかった。ラスコーリニコフは老婆に対する殺意は、心の底に抱いていた。しかし、彼が広場でたまたま耳にした偶然が、最終的に犯行を決定づけることになる。それは老婆と同居している妹リザヴェータがある日のある時間に自宅を不在にする、という情報だった。それを聞いたラスコーリニコフは、その機会を逃すまいと犯行を決意する。そして彼は老婆を殺害するのだが、殺害後、本来はいるはずのない妹リザヴェータが自宅に帰ってきてしまうのだ。なぜなら、「ある日のある時間に自宅を不在にする」というのは、ラスコーリニコフの聞き間違いだったようなのである。

まるで悪魔が、ラスコーリニコフを殺人という大罪まで誘ってしまうかのごとき、運命の恐ろしさは筆舌に尽くしがたいが、彼の動機が1巻では容易に語られないところが不気味である。明るく世渡りがうまいラズミーヒンに比べると、婚約者に死なれて大学も辞めて貧乏なラスコーリニコフは、ひとりよがりの殺人者に過ぎないように見える。1巻でのラスコーリニコフは、ドストエフスキー作品の主人公らしい振る舞いが見られない。すなわち、何らかの思想をもって世界や他者と対峙するような側面がない。それは2巻以降で明らかになるのだろうか。

明るく世渡りがうまいがシニカルなラズミーヒン

ラスコーリニコフと対照的な友人として描かれるのがラズミーヒンだ。彼は明るく世渡りが上手く、翻訳のバイトをやっている。この青年が口が悪くてシニカルで私好みの男で、電車で『罪と罰』を読んでいたら、彼のセリフの箇所で何度笑ってしまったか分からない。亀山郁夫の喜劇的なボキャブラリーにも驚かされる。

・そいつが、出版事業みたいなことをやっててさ、自然科学ものの本なんか出してるんだが、これがかなりの売れ行きなんだよ!タイトルからしてふるってんのさ!そういや、きみはこのおれをいつもバカあつかいしていたけどね、いやあ、おれ以上のバカがいるらしいよ!
・おい、アルコールで頭をやられたんとちがうか!
・いつまでそういうばかげたお芝居つづける気だ!こっちまでおかしくなるぜ……いったいなんのためにわざわざここに来やがった?ちくしょう?

極め付けはナスターシャとのやりとりだ。

ラズミーヒン「おう、ナスターシャがお茶をもってきた。ほんとうにフットワークのいい女だぜ!ナスターシャ、ビール、飲むかい?」
ナスターシャ「まあ、罰あたるわよ!」
ラズミーヒン「じゃ、お茶はどうだ?」
ナスターシャ「お茶ならいいわ」
ラズミーヒン「自分で注げ。ちょいと待った、おれが注いでやる。そこにすわってな」

ラズミーヒンはビールを飲むか?と、自分からナスターシャに聞くが「罰があたる」と言われると今度は「お茶はどうだ?」と尋ねる。相手が「いいわ」と答えたのに今度は「自分で注げ」という始末。このやりとりは堪らない。コントを見ているような気分にさせられる。まさかドストエフスキーの小説を読んで笑わされるとは思わなかった。

まるでブコウスキーのようなドストエフスキー

最後に。脇道に逸れるが、ドストエフスキーという作家は賭博に狂ったことがある。訳者の亀山郁夫の「読書ガイド」によると、以下のようなエピソードがあるらしい。

彼は、おもに債権者の追っ手を逃れるため、六五年七月、三度目の外国旅行に出た。旅のさなか、またしてもルーレットの誘惑に陥った。当時、彼が恋人や友人たちに宛てて書いた手紙は、読むに耐えない、無残な内容に満ちている。
「ホテルを一歩も出られない。借金で八方ふさがりだ」
「即金で三百ルーブル送ってくれるところがあれば、どこでもいいから契約したい」

亀山郁夫は、上記のようなどん底状態があったればこそ、ドストエフスキーが『罪と罰』を生み出したのだと導いている訳だが、借金してまで賭博に狂うとは異常である。こんなエピソードを聞いてしまうと、ドストエフスキーには悪いがパルプ作家のブコウスキーを思い出してしまう。飲んだくれのアメリカの作家・ブコウスキーは、賭博というより酒に狂ったが、似た者同士のような気がする。どっちも最低だ!笑

【書評】 デジタルマーケティングの教科書 5つの進化とフレームワーク 著者:牧田幸裕 評価☆☆☆★★ (日本)

デジタルマーケティングの教科書

デジタルマーケティングの教科書

デジタルマーケティングについて分かりやすく教えてくれる

『デジタルマーケティングの教科書』は、外資コンサルティング会社出身で、現・信州大準教授の牧田幸裕によるデジタルマーケティングの入門書。

仕事で顧客と話していると、専門の人事領域の話が大半であるが、それだけで会話が終了しないこともある。むしろ、マーケティングの話題は避けられない。特に経営者とか、人事のマネジャーなどと話していると、人事領域の話で終わらない。会話の端々に実践的なマーケティングが顔を現すのだ。だからマーケティングの関連書を渉猟しているところだった。

その中でデジタルマーケティングを分かりやすく教えてくれる書籍はないか?と探していたところ、本書にいきあたった。入門書というだけあり、平易な言葉で書かれ晦渋なところはほとんどない。デジタルマーケティングの定義は分かり辛く、もう少し端的に述べるべきとは思ったが、デジタルマーケティングが既存のマーケティング(従来型マーケティングという表現を使っている)の進化系とあって、従来型マーケティングの構造を理解しておればデジタルマーケティングの中身が分かるようになっている。こういった配慮をして頂けると初学者にはありがたい。

従来型マーケティングって何?

本書は従来型マーケティングの進化系としてデジタルマーケティングを捉えている。それゆえに、従来型マーケティングの構造はしっかりと理解しておく必要がある。本書の2章がそれにあたるが、フィリップ・コトラーマーケティング戦略策定プロセスについて丁寧に説明している。初学者は2章を最低5回、熟読して欲しいというくらい重要な知識となる。

しかしながら、いくら熟読したとしても、2章に割かれたページは20ページに満たないので、コトラーの入門書を読まないと充分な理解は覚束ないだろう。従来型マーケティングの知識がデジタルマーケティングを理解するための土台というなら、もう少し紙幅を増やすべきだったと思われる。とりあえず本書では「マーケティング環境分析」「マーケティング戦略立案」「マーケティング戦略実行」「マーケティング戦略管理」などのポイントを押さえられる。ものたりないと思うが。

デジタルマーケティングから「デジタル」が消える日

従来型マーケティングとデジタルマーケティングはどう違うのか。従来型マーケティングは、環境分析を使って「過去」の変化を重視した未来の予測をする。「これは未来が過去の連続性の中にある場合、機能する」と著者は言っている。しかし、「世の中の変化が大きい場合、または連続性がない場合」は、従来型マーケティングでは太刀打ちできない。そこでご登壇頂くのがデジタルマーケティング環境分析ということになる。

未来を定義したうえで、どうすればその因果関係が太くなるのか、それを考えるのが、デジタルマーケティング環境分析なのである。

過去からではなく、まず未来から考えるということ。ここに大いなる差が存在する。過去と、現在のマーケティングとの間に。

デジタルマーケティングは、定義そのものも浮遊する新しい概念だ。だが、著者は、いずれデジタルマーケティングという用語はなくなるという。すなわちデジタルマーケティングの方法は普遍的となるので、いずれ常識的となるから、単にマーケティングと呼ばれるに過ぎないものとなる。その日が来るよりも先にデジタルマーケティングについて知り、実践することが企業にとって市場を掌握できるか否かの試金石となるだろう。

デジタルマーケティングの「5つの進化」、特に消費者理解が面白い

デジタルマーケティングの「5つの進化」というのは、「環境分析」「消費者理解」「セグメンテーション」「チャネル」「プロモーション」の5つ。環境分析は上記でも触れた。面白かったのは「消費者理解」の項で、電通のAISASと、グーグルのZMOTを手がかりに消費者理解を説明していた。

AISASというのは5つの言葉の頭文字を統合した造語で、A(広告を見る)→I(興味を持つ)→S(調べる)→A(購入する)→S(共有する)の流れで消費者は行動すると説明している。ネットが発達した現状、特に「調べる」という行動は、私たち消費者は本当によくやっていると思う。広告を見た(A)後にそのまま商品を買うばかりではない。現実の口コミを聞くこともあるが、ネットで調べることが多いのではないか。同じ口コミでもネットの口コミを参考にするのではないか。Amazonのレビューを見るとか。私なんかも、本はリアルな本屋で買うことも多いが、Amazonで買うことも少なくない。その時、あまりレビューの評価が低い本は、なかなか手に取り辛い。買いたいとは思えない訳だ。

S(共有する)というのは、ツィッターとかSNS、ブログなどで書くというのがそれに値する。買ったものを買っただけで終わらせず、ネットで発言する、つまり不特定多数の他者と共有するというのがデジタルマーケティング時代の消費行動である。

ZMOTはグーグルが提唱した概念で、「リアル店舗に足を運ぶ前に消費者はネットで検索するはずだ、そして製品やサービスの情報を得たうえでリアル店舗に足を運ぶはずだ」との仮説から生まれ出たもの。私は本を買う時にリアル店舗に行って、ネットの意見を頼りにせずに買うが、本を見ながら買って良いのかな?と迷うこともある。その時はネットの評判を検索するのだ。だからZMOTでいっている消費者行動はよく分かる。

チャネル(オムニチャネル)も面白い。キープレイヤーやデジタルマーケティング実践に求められる能力などは、あまり刺激的ではない内容で、蛇足のように感じたが、BtoC企業を対象としたデジタルマーケティングの入門書として全体的に分かりやすく、ポイントが押さえられていて良い本だったと思う。

【書評】 幸せな未来は「ゲーム」が創る 著者:ジェイン・マクゴニカル 評価☆☆☆★★ (米国)

幸せな未来は「ゲーム」が創る

幸せな未来は「ゲーム」が創る

なぜゲームをプレイするのか?

私はゲームが好きだ。私がプレイするのは、テレビに向かってプレイするゲームである。携帯ゲームはやらない。ジャンルはアクションか、アドベンチャーRPGに限られる。私は、ゲームのキャラクターに自分を投影している。なぜゲームをプレイするのかというと、2つの意味がある。キャラクターに自分を投影することの面白さだ。ゲームの画面に自分が現れ、人生のシミュレーションのように、デフォルメされた自分が画面の中にいるような気になる。あるいは単に暇つぶしである。

『幸せな未来は「ゲーム」が創る』は、壊れた現実を修復するために、ゲームの力を借りようとする。壊れた現実というのは、ゲームはこんなに楽しくて意味があるのに、人生はゲームほどに楽しくないという状態のことだ。だからゲームを使って人生を豊かにしようと言う。本当にそうだろうか?

ゲーマーを自認する私でもゲームが人生ほどに面白いとは思えない。「計画された偶発性理論」ではないが、ポジティブに意識したり行動したりすると、意外にも良い出会いや出来事があったりする。ゲームにも意外性はあるが、人生ほど自分にダイレクトに関わらないから、意外性の効果は弱いのだ。

著者はゲームデザイナーにして研究者

著者のジェイン・マクゴニカルについて、紹介しておこう。著者はアメリカのゲームデザイナーにして代替現実ゲーム研究者である。代替現実ゲームや大規模ゲームの活用によって個人の幸福を説明している。ゲームデザイナーであるので、ゲームをプレイする日常を過ごす。本書では著者が夫婦で『チョアウォーズ』というゲームをプレイする様が描かれていた。このゲームは彼女が研究するゲームであるが、「現実生活をより楽しくするために、現実生活でプレイする」代替現実ゲームなのである。かつて流行った『ポケモンGO』を思い出すと分かりやすいが、『チョアウォーズ』の場合は、『ポケモンGO』と少し違う。家事という、一見するとやりたくない仕事を楽しくさせるゲームなのだ。

家族やルームメイトがそれぞれ家事をどれだけやっているかを追跡し、みんなにもっと多くの家事を、もっと楽しくやらせる手助けをしてくれるゲームなのです。

著者はいかに『チョアウォーズ』を活用して家事が面白く、楽しくなったかを説くのだが、私はあまり共感できなかった。私も家事は大嫌いだし、できることなら家事はしたくない。だがわざわざ代替現実ゲームの力を借りてまで家事をしたくないかというと、そこまででもない。家事の中でも料理は好きで積極的に作る。大嫌いな家事の中でも好き嫌いがあるのだ。だから好きな家事である料理を先に行って「楽しい気分」になっておき、その上で掃除やら皿洗いやらをやる。そうすると「楽しい」感情は持てないにしても、なんとなく、大嫌いな家事も「嫌い」くらいには思えるようになる。ゲーム的にいえば、一時的にレベルアップしたようなものだ。わざわざゲームを使って家事のレベルアップなんて面倒くさいことこの上ない。

ゲーミフィケーション的代替現実ゲームの効用

一方、ゲーミフィケーション的な意味での代替現実ゲームの効用には惹かれた。『クエストゥラーン』はゲームをベースにした世界初の学校である。

生徒は一日中、数学、化学、地理、英語、歴史、外国語、コンピュータ、さまざまな分野の芸術を学びます。違うのはどのようにして学ぶかです。生徒は朝起きた瞬間から夜最後の宿題をやり終えるまで、ゲームフルな活動に引き込まれるのです。

学校に行く前から生徒は「クエスト」をやっている(『フォールアウト4』とか『ウィッチャー3』みたいだ)。クエストといってもゲームではなく学習である。自分で課題を選んで自分の力で、あるいは友だちと協働して解いていく。そこには内発的動機づけによる学習の維持・向上という仕組みが隠されている。成績が上がったらアイスを買ってあげるとか、こづかいをあげるとか、そういった外発的動機づけでは、学習にしても仕事にしてもモチベーションを維持するのは難しい。そこに内発的動機づけを潜ませて、自ら学習する、仕事をする、という方向に行けばモチベーションは維持されるのだ。ゲームが人の幸せを創るというのはおこがましいが、学習、仕事などには応用できるといえるのだろう。著者はゲーミフィケーションという用語を使わずに本書を書いているのだが、ゲーミフィケーションと、著者が言っている主張との違いが今一つ分からないのだが…

【書評】 人事の統計分析 人事マイクロデータを用いた人材マネジメントの検証 著者:中嶋哲夫、梅崎修ほか 評価☆☆☆★★ (日本)

人事の統計分析: 人事マイクロデータを用いた人材マネジメントの検証 (MINERVA現代経営学叢書)

人事の統計分析: 人事マイクロデータを用いた人材マネジメントの検証 (MINERVA現代経営学叢書)

統計分析を活用して人材マネジメントを検証する

本書は経済、公共政策の研究者のほかにコンサルタントのような実務家も含め、複数の著者による共著である。6社の企業の実際の人事データを統計分析して検証結果を検討するという興味深いテーマを扱っていた。私も人事評価コンサルティングをしていると、企業から定性的な分析とともに定量的な分析を求められる場面に会う。そもそも、企業が定量的分析の必要性を認識していないことがあり、その際は私たちの方から定量的な分析結果を提示する。その意図するところは、企業の事業戦略に人事戦略の関与が深いからだし、業績の関数として人事の課題は避けて通れないからである。しかし定性的な分析ばかりしていると人事部も経営者も、人事の課題が業績の関数だと思ってもらえないことが多いのだ。ゆえに、定量的分析は重要なツールであり本書が実施した統計分析は丁寧で実務的に参考になった。

著者が本書で言及している通り、統計分析を活用して人事制度を中心とした人材マネジメントの諸問題を検証したことの意義はあるだろう。感覚的に、「アベノミクスで職務等級制度が注目されている。我社も同制度を採用しよう」といったり、「ダイレクトリクルーティングなら候補者に直接コンタクトを取れるから我社も同方法を採用しよう」といったりするのでは、人事戦略は地に落ちる。

本書のように、統計分析を活用して定量的に人事制度を観察し、事業戦略に即した人材マネジメントを実行すること。感覚や、あるいは定性的な人材マネジメントのみでは、人事戦略は片手落ちなのだ。統計分析の効果のほどは、本書を読めばたちまち痛感できるであろう。

対象企業の偏りが気にかかる

しかし、統計分析の重要性は理解できても、対象企業の偏りが気になるのも事実だ。前段で述べたごとく、本書は、統計分析を活用して人材マネジメントを検証し、人事制度の仕組みや制度の課題を浮き彫りにする。統計分析と検証の結果は有意味で本書の意義は大きい。

一方で、検証の対象とした企業の偏りが気にかかる。まず、対象企業の従業員の規模である。従業員200名~1,400名の中堅企業が対象企業だ。中には2,000名の企業もあるが1社のみで、大手を外した理由を知りたくなる。人事制度が整備されていないことがある中小企業を少なくしたとしても、大手企業は人事制度を構築しているし成果主義や職務等級制度などの新しい人事制度を採り入れるのも大手企業から始めることが多かろう。対象企業の数は6社で、多いとはいえないが大手企業の割合が高ければ6社でも良いだろう。加えて、業種の偏りも留意したい。6社中5社が製造業、1社がインテリア工事業だった。サービス業が1社もない。サービス業ではどういう検証結果が得られるか?知りたいところである。いずれにしても製造業が6社中5社もあるのは多過ぎる。

あとはデータ分析をした期間である。1990年代から2000年代前半の日本企業を対象としている。本書が出版されたのは2013年だ。もうちょっと最近の時期を分析しても良いのではなかったか。そのせいで、企業が採用している人事制度は軒並み職能資格制度になっている。もっとも、単に職能資格制度といっても企業によって色合いは様々で、コンピテンシー評価を採り入れることで能力ではなく行動評価をしている企業も含まれてはいる。だが、分析期間が古いせいで職能資格制度ばかりになってしまったのはもったいなかった。

中小企業への焦点

日本において、中小企業で働く従業員は数多い。日本の企業の9割が中小企業だという実態もある。それゆえ中小企業の人事データを統計分析することの重要性は大きい。本書では中小企業を分析の対象としていた。対象となるのは従業員200名の製造業である。賃金制度の実態の把握、昇進・昇格について分析し、「早期格差を統計的に確認できるか」に着目している。結果、中小企業における早期格差は行われていたということを統計分析的に確認されている。

新しい知見は提供されないが統計分析の重要性を改めて実感

本書を読むことで、統計分析という視点で人事データを検証することの重要性は改めて実感できた。読後の効果としてはそれくらいか…

【書評】 復活(下) 著者:レフ・トルストイ 評価☆☆★★★ (ロシア)

復活(下) (岩波文庫)

復活(下) (岩波文庫)

『復活』は、トルストイらしい教条的表現が鼻につく小説

『復活』を最後まで読んだ。トルストイらしい教条的な表現がついてまわる作品で、あまり虫が好く小説とは感じられなかった。例えば、上巻の終わり、ネフリュードフが土地を農民に「譲る?譲らない?」の展開があった。トルストイ私有財産を否定していて、自分の思想を小説に強く押し出すから、本書でも同様の主張をキャラクターに投影するだろうと予測したらその通りになる。ネフリュードフ自身も、若い頃にカチューシャを慰み物にしてから10年は堕落していたが、カチューシャと再会してからの彼は人が変わったようにモラリッシュになる。ここでいうモラルはトルストイ的な思想・主張である。

極めつけは、物語の終盤、ネフリュードフが新約聖書の記述を引っ張り出して、その通りに生きようとする描写である。ネフリュードフは、あたかも作家の掌で動くようで、ずいぶんと素直な男に造形されていた。もうちょっとキャラクターを作家の思想から自由にしてやれば良いのに、と思うのだが、トルストイはネフリュードフを駒のように扱っているのである。堕落した者が一度、キリスト教的な道を歩み始めたら、その道を歩み続けられるというほど、人間は良くできているのだろうか?

ペテロはキリストを裏切り、パウロは肉の欲望に悩んだ

キリストの最初の弟子のペテロは、キリストが兵に捕らわれてから、三度、キリストを知らないと言った。裏切った訳である。キリストを間近で見た、最初の弟子でさえ裏切るのである。自分の命が脅かされるような、究極的な場面に追いやられれば、人は心理的に葛藤し、エゴイスティックになるものである。それさえも超越できるほど、自己を捨て、他者のために生き得る者になるためには、心の葛藤が激しくなければならないし、再び堕落してしまうこともあろうが、そこからまた、這い上がらなければならない。

ネフリュードフのように、一度キリスト教的な道を歩み始めたら、いつの間にやらその道が聖者の道となっていた、というのではあまり感心しない。こんなにも人間は容易に変われるものではないだろう。ペテロは裏切ったし、パウロは情欲に悩まされた。ネフリュードフは性的に堕落し、カチューシャの人生をめちゃくちゃにした。こういう人間の性質は容易に変わるものではない。何しろ、10年ののちに、彼は人妻と姦通しているくらいだ。ふたたび、カチューシャをそそのかして犯してしまいたいというおぞましい思いが現れても不思議ではないし、その方がリアルだ。その欲望と理性が相克し、理性が打ち勝つことができるような描写が見たい。打ち勝つためには、血を吐くような苦しみが生じるはずだ。そのくらい強烈な演出がないとネフリュードフって本当に復活したの?と思えてしまうし、それゆえに、新約聖書を読んでその通りに生きようと決意する描写が寒々しく見えるのだ。

ネフリュードフとカチューシャのエピソードを盛り上げる心理描写が欲しかった

本書の訳者が解説を書いているが、ネフリュードフとカチューシャは、お互いに愛し合っている。にもかかわらず、愛を捨てるというエピソードは確かに良い。これは男女の愛を超越したところに、キリスト教的な愛があるのだということだろう。このエピソードそのものは面白いと思うのだが、それに至るまでの心理描写がものたりない。カチューシャはシモンソンやマリアなどの助力によって「復活」するのだが、復活に至るまでの心理描写がものたりないのである。

良い方向に行こうとしても、人間は善悪両方を持っているのだから、すぐに悪へと連れ戻される。だから苦悩する訳だが、善悪のはざまで煩悶する心理描写は少なく、なぜカチューシャが復活できたのか?が読者に伝わりにくくなっていた。遠藤周作の『沈黙』では、キリスト教に惹かれながらも神父を悪に売ってしまう異常な男が出てくる。彼は神父を裏切った癖に神父の元へと歩み寄ったりする。奇妙ともいえる行動から複雑な心理を読み取る方法もあるが、どうも、『復活』には、キャラクターの行動から複雑な心理を描こうとする向きがある訳ではなく、これまで述べたように、ストレートに複雑な心理を描こうとする訳でもないので、読後も、ものたりない印象が残ってしまうのだった。