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【書評】 知らない人を採ってはいけない 新しい世界基準「リファラル採用」の教科書 著者:白潟敏朗 評価☆☆☆★★ (日本)

リファラル採用とは?縁故採用とは違う新しい採用スタイル

本書『知らない人を採ってはいけない』は、リファラル採用についての解説書。著者の白潟敏朗は、リファラル採用の事業会社を運営している。尚、人材開発の会社トーマツイノベーションの設立者でもある。

最近、プライベートでもリファラル採用の話題が出るようになってきて、社員の紹介を経た採用活動を指すという。それなら、「リファラル採用って縁故採用じゃないの?」という人がいた。しかし本書を読むとどうも違う。著者は、リファラル採用縁故採用と似ているが、全く同じではないというのだ。

社員の紹介だからといて、無条件で入社できるのではなく、しっかり面接し採用の可否を決定します。

つまり、リファラル採用は、社員の紹介という接点では縁故採用と似ているが採用方針が異なるということだ。縁故採用でも、形式的に面接することはあるが、面接の結果がどうあれ採用することが決まっている。しかしリファラルの場合は「しっかり面接し採用の可否を決定」する。

リファラル採用をカテゴライズするとダイレクトリクルーティングの1つである。ダイレクトリクルーティングとは、会社が求職者を積極的にアプローチする採用スタイル。リクナビマイナビのような広告媒体、エージェントなどの人材紹介とは違って、会社自らが求職者と接点を持って採用していくというものだ。

リファラル採用はコストがかからない

ダイレクトリクルーティングは、会社自らが求職者と接点を持って採用していく。そして、リファラル採用もダイレクトリクルーティングの1つである。ということは、会社と求職者の間に仲介が入らない。そのためコストがあまりかからないで済む。

本書を読むと、リファラル採用はコストが安い。リファラルにすれば、広告媒体もエージェントも使わず、かかるコストは社員への紹介報酬や会食費くらいで済むというのだから、大幅なコスト削減である。

私も採用担当をやっていた時、エージェントを使ったことがあるが、年収の30%を成功報酬として請求されることが多かった。年収600万円の人を採用したら、180万円の成功報酬をエージェントに支払わなくてはならない。3人採用したら540万円だ。

これは中途の成功報酬額だが、新卒でも安くはない。リクルートでは1名採用するごとに100万円の成功報酬がかかる。

https://www.recruitcareer.co.jp/business/new_graduates/rikunabi-agent/price/

求人媒体は会社によって費用が異なるが、本書のデータによると媒体は平均して294万円かかっていた。媒体だから1人採用するごとに費用がかかる訳ではないが、それでも高い。

それに対してリファラル採用はどうか。

前述のようにかかる費用は紹介報酬や会食費、せいぜい交通費くらいである。本書には会食費として3万円~15万円かかるというが、イメージしやすい金額だろう。紹介報酬は会社によってまちまちだが、入社時10万円とか3,000円を2年間支給するとかいう事例が載っている。そもそも、報酬を設けない会社もあるし、著者は紹介報酬を勧めていなかった。

エージェントの540万円、広告の340万円と比べてもかなりコスト削減となることが分かるだろう。

「社長と会社を好きになる人」を育てることが難しい

一方、著者がアピールするリファラル採用のメリットには、社員が社長と会社を好きになり、その魅力を知人に訴えて自社に入社してもらうことが挙げられていた。さらっと書いてあるが、これは大変なことではないだろうか?

本書では、リファラル採用のメリットの1つに、「会社の魅力と課題の見える化」が書いてある。

リファラル採用は、シンプルに考えると「自社を友人・知人に紹介したいと社員に思ってもらう」、そして「その社員の話を聞いて、友人・知人に転職したいと思ってもらう」の2つがそろってはじめて動き始めます。

だからこそ、社員が自社を紹介したいと思えなくてはならないし、現状、そうなっていないのであれば変えなくてはならない。それが課題の見える化だと言い、見える化された課題を解決しなくてはならない。

しかし、課題を解決するためのハードルが高い場合があるだろう。例えば、人事制度がメチャクチャだったらどうするか?組織風土が荒んでいたらどうするか?

人事制度は改定しなくてはならない。組織風土も荒んでいたら変えなくてはならないが、風土は目に見えないから制度設計よりも解決は難しい。これらを変えているだけでも時間が大幅に経過してしまうだろう。そもそも自社単独でできるか分からない。といって、採用は待ったなしだから、リファラル採用を目指して、とりあえずは従来の採用手法(媒体、エージェント)を使い、追々リファラルに移行すれば良いということなのかもしれない。

いずれにしても、課題解決のために高いハードルがある場合、どうするのかが本書では見えない。だから、採用活動する社員に、社長と会社を好きになってもらうといっても、それ自体が困難になってしまってはリファラルを始められない。高いハードルについて、どう対処するのかは触れるべきだっただろう。

課題が解決された暁には、リファラル採用はコストパフォーマンスに優れた採用手法となる

しかし、もし、何らかの手段で高いハードルの課題を解決した場合、リファラル採用が上手くいきそうな感じはする。課題が解決され、知人・友人に紹介しても良い会社になったら、採用活動のコスト削減も効果を発揮するだろうからリファラルはコストパフォーマンスが高い採用手法となる。

リファラル採用のデメリットが書かれている

本書にはリファラル採用のデメリットが書かれているので、読者に誠実な印象を与える。デメリットは以下の5点。

・採用できるまでに時間がかかる
・1年以内の大量採用には向かない
・活動してくれる社員に負荷がかかる
・採用を間違えた場合にやめさせづらい
・今いる社員以上のレベルの人材は採りにくい

大量採用に向かないというのは、会社の採用方針によってはリファラルを採用できないことを意味する。この点はエージェントも同様。広告媒体を使うということになる。ちょっと脱線するが、採用ホームページ単独で充分な母集団を集められるようになれば、媒体も要らないが、そうなるとHPだけで採用できる「ダイレクトリクルーティング」となる。媒体には安くない費用を払っている。うまく集客できればHPだけの採用もありかもしれない。

今いる社員以上のレベルの人材は採りにくいというのも、その通りだろう。よほど人脈がある人なら、様々な人材を紹介できるかもしれないが、そういう社員がいること自体が希少。ただ、本書には間接的な知人・友人の紹介もリファラル採用になるというから、レベルの高い人材が来る可能性も否定できない。

リファラル採用の具体的な進め方

本書後半は、リファラル採用の具体的な進め方について解説されていた。まずは採用担当者の人選。採用といっても、人事担当者だけが採用活動を行う訳ではない。他部署からも人を集めていく。その後、欲しい人材像を決めて、リファラル採用を運用する上でのルール作りを行う。次に魅力・課題を設定する。

課題については前述の問題がある。採用活動を行う社員に社長と会社に魅力を持ってもらうことに重点が置かれているのだから、ハードルの高い課題を解決せずには勧められまい。それを解決したとして課題の設定を行う訳だが、「受け入れてもらいたいこと」を知人・友人に言って良いというのは興味深い。確かに、社内の全ての課題を解決することはできないだろう。だから、「これはちょっとな」と社員自身が思うことであっても、知人・友人には何とか受け入れて欲しい課題はある。それを「受け入れてもらいたいこと」として書き出し、応募者に伝えるという点は正直で良いと思う。

課題の設定が終わったら、会社の中期経営計画を立てて、アピールブックというものを作る。口頭で魅力を言うだけではなく、会社の魅力を冊子にして作っておくのだ。そうすれば、社員も相手に魅力を伝えやすいだろう。

本書は、このように、リファラル採用メリット・デメリット、具体的な進め方まで、薄い本ながらリファラル採用のエッセンスが書かれていた。リファラル採用を概観するにはうってつけの本といえると思う。

【映画レビュー】 ぼくは明日、昨日のきみとデートする 評価☆☆★★★ (日本)

あらすじ

同名のライトノベルが原作の恋愛映画。福士蒼汰主演。他のキャストに小松菜奈東出昌大。京都の美術大学に通う男子学生・南山高寿(みなみやま・たかとし)は、通学中の電車で、若い女性に一目惚れをする。この機会を逃してはならないと、思わず声をかけ「一目惚れをしました」と告げて笑顔をもらう。携帯を持っていないという女性に、「また、会えるかな」と尋ねた高寿。女性は「また、会えるよ」と答えるが目には涙が光っていた。

ダサい男がカッコよくなるべきだった

高寿は奥手で、女性と付き合うのも初めて。対する女性の福寿愛美(ふくじゅえみ)の方も初めての恋愛。高寿を演じるのが福士蒼汰。私は彼の演技を見るのが初めて。ネットでは演技が下手だと叩かれているが、そんなに悪くなかった。反対にヒロイン役の小松菜奈は、かなりかわいらしい雰囲気であるが、感情を抑制した演技をしてしまっていて、役になりきれていなかった。福士はクールな役柄ながら、バスの中で嗚咽したり、愛美と心が通じ合えず茫然としたりする場面など良い味を出して演じている。

ただ、この映画は演出が下手くそ。高寿は当初、眼鏡をかけたダサい男という設定なのだが、高寿の見た目があまりダサくないのだ。眼鏡をかけて、ちょっと変な服装をするだけでは物足りない。思いきって、『電車男』の山田孝之みたいにリュックをしょって、長髪でオタクっぽいダサさがないと、女性に出会ってカッコよくなっていくプロセスが見えない。福士は何とかダサい男を演じようとしていたが、彼の美男ぶりが透けて見えるほど見た目が悪くないのである。

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高寿は途中で愛美に髪をカットしてもらうのだが、元々さほど酷い髪形でないので、カットしてもらっても変化を感じなかった。眼鏡男子という言葉が昔流行ったが、あんな感じで「ちょっと服装が変だけど良い男だよね」と思われる見た目だ。こういう重要な設定に手を抜いてしまう映画なのだ。

肝心のパラレルワールドの設定が意味不明である

ぼくは明日、昨日のきみとデートする』という恋愛映画には、ファンタジー要素が入っている。時間軸が混乱しているようなタイトルなのは、そのためだ。ねたばらしをすると、女性の愛美はパラレルワールドの世界に生きている。しかもパラレルワールドの時間軸は、高寿とは逆である。男性の高寿の時間は過去→現在→未来という時間軸に生きるが、愛美は未来→現在→過去に生きているのだ。

パラレルワールドは5年ごとに交差し、2人は会えるようになるという。高寿と愛美は共に20歳。時間軸を逆に生きているので、高寿が25歳になると、次に愛美に会った時に彼女の年齢は15歳になってしまう。更に高寿が30歳、35歳を迎えていくと愛美は10歳、5歳となる。5歳の次は0歳なので2人が出会えるのは、高寿35歳、愛美5歳までということになる。次に高寿が愛美に出会う時、彼女の年齢は15歳なので、もはや恋愛はできない。したがって、恋愛ができるのは20歳であるこの時間、しかもわずか30日間だけというのが、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のテーマ。

このパラレルワールドの設定が映画の肝なのだが、意味が良く分からなかった。単に未来の人で良いんじゃないかと思ったのに、わざわざ分かりにくい設定にしている。パラレルワールドなのに2人が出会える理由は、高寿が35歳の時に5歳の愛美を助け、愛美が35歳の時に5歳の高寿を助けたからというもの。その設定自体はおかしくないけれど、パラレルワールドにした意味が分からない。

20歳の時、30日間だけ愛し合える恋愛というアイディアを先行して、作られたストーリーなのだろうが理解しにくい。高寿は私たちと同じ時間軸を生きているので過去の記憶があるが、愛美は高寿からいえば未来から始まっているので、同じ過去を共有した記憶を持たない。その切なさを描きたいなら、若年性認知症の女性を愛する男性の物語にすれば、まだしも理解しやすかった。そうなるともはやファンタジーではなくなるし、本作のような個性はなくなるが、映画を見る人にとってはよほど分かりやすいはず。

フィクションだからこそリアリティを追及せよ

フィクションだからこそリアリティを追及して欲しいものだ。特に『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』のように、分かりにくいパラレルワールドの設定にするなら、相当に設定を細かく決めないと見ている方は感情移入できない。

一番分からないのは、高寿の世界にいる間、愛美はどのように過ごしているのかということ。家族と一緒にパラレルワールドから高寿の世界に来ているのか?それにしては、家族の姿が一切描かれないのはどうした訳か。彼女だけ来ているのか?そうすると自宅の電話番号はなぜ繋がるのか?パラレルワールドでしか使えない番号なのか?そこらへんの説明が全くない。

愛美にとっては、彼女は時間をさかのぼっていくので、高寿との経験を全然共有できていない。そんな男と、そもそも、愛をはぐくもうと思うだろうか。この点は高寿にとっても同様である。なお時間をさかのぼる愛美は、高寿が生きている時間を生きていないのでいわば記憶がない。それゆえに、高寿が教えてくれたメモを頼りにデートをするのだが、そんなことをしてどうするのだろうか。どう感情が交流するのだろうか。もっとリアリティを追及してもらいたい。

【書評】 サド侯爵夫人/朱雀家の滅亡 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆☆☆ (日本)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

サド侯爵夫人 朱雀家の滅亡 (河出文庫)

『サド侯爵夫人』は三島戯曲の代表作

普段、映画は見るのに演劇を見ない私が戯曲を活字で読むはずがない。それでも読んだのは、三島由紀夫の著作だからである。三島由紀夫のあまたの長編小説を読んできた私は、彼の小説の地の文の詩的なレトリックに酔わされていた。同時に彼は、小説のセリフにも意識を込めて書いていた。詩情、諧謔がセリフの端々に満ちている。戯曲はセリフとセリフで構成される。俳優の織り成す演技が物語を展開せしめるために、セリフは重要なパーツである。戯曲に関心がなかった私が三島の戯曲なら読んでみようと思ったのは、小説のセリフに感心していたからだ。

三島由紀夫のライフワーク『豊穣の海』を読み終え、三島のほとんどの長編小説を読了した私は彼の戯曲に手を伸ばす。何を読んだら良いか。三島由紀夫は劇作家としても著名だった。『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』『近代能楽集』『黒蜥蜴』など多数がある。どれを読んでも良いが、『サド侯爵夫人』が気になった。この作品は、女性6人の会話劇で『サド侯爵夫人』というタイトルなのにサド侯爵本人が出てこない作品なのである。これは面白そうだと思った。

すぐに引き込まれた。サド侯爵とは作家マルキ・ド・サドのことで、彼の作品はサディズムという言葉の由来となった。サドは小説でサディスティックな暴力描写を描いただけでなく、実生活でも性的に乱れた生活を送った。性犯罪や暴力の廉で長い間投獄生活を送った18世紀のフランスの作家である。

『サド侯爵夫人』は、サド侯爵夫人ルネの謎に迫った作品である。謎というのは、ルネは18年近くに亘り貞節を守り、誰からサドを悪く言われようとも夫を信じてきたのに、サドが牢屋から解放され自宅である城に帰ってきたら絶縁するという謎だ。その謎の解明を試みると共に、女6人の会話だけでその場にいないサド侯爵の人物像を語る傑作である。私は他の三島戯曲を読んでいないのに、『サド侯爵夫人』が三島戯曲の代表作だと感じた。

女6人の会話だけでサド侯爵を語る術

舞台はパリのモントルイユ夫人邸のサロンである。戯曲は3幕で時代の流れを経るが、舞台はずっとサロンで変わりない。そこに、サド侯爵夫人ルネ、ルネの母モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、サン・フォン伯爵夫人、シミアーヌ男爵夫人、そして家政婦シャルロットの6人がいる。登場人物は彼女ら6人のみで、サド侯爵本人は現れない。6人の会話だけでサド侯爵の人物像を語るのだ。

それぞれの人物は何かを象徴している。サド侯爵夫人ルネは貞淑、モントルイユ夫人は法・社会・道徳、アンヌは無邪気・無節操、サン・フォン伯爵夫人は肉欲、クリスチャンであるシミアーヌ男爵夫人は神、シャルロットは民衆を象徴する。

モントルイユ夫人は厳格な母親である。牢獄からの解放を願う娘ルネの心情を汲み取り、サン・フォン伯爵夫人に要請して解放してもらおうとする。しかし、モントルイユ夫人は画策してサドを再逮捕させてしまうのだ。彼女は法・社会・道徳を重んじる女性なので、ルネにはサドと離婚して欲しかったのである。それを知ったルネは激怒し、モントルイユ夫人は秩序に外れた人間を憎悪し絶対に許さないのだと言った。

このように、モントルイユ夫人は法・社会・道徳を重んじる余り、サドには辛らつである。サドを再逮捕させるまでに厳格に接する訳だ。一方、サド侯爵夫人ルネはサドに貞淑を近い、戯曲の最後の方まで彼を信じる。サン・フォン伯爵夫人は肉欲に象徴され、サドに近い人物として共感的に語る。シミアーヌ男爵夫人はクリスチャンで、サドについてはキリスト教の立場から達観的に語る。シャルロットは民衆を代表して、フランス革命後に、ルネの引導を渡す役を担う。

女6人の会話だけを通じて、サド侯爵を多面的に描き出す三島由紀夫の手腕は非常に冴えていた。サドはただの一度も舞台には上がらないのに、彼の存在感は圧倒的なのである。

人物像は主観によっていかようにも変わる

私は『サド侯爵夫人』を読んで、人物に対するイメージ(人物像)がいかに主観に捉えられているかを改めて知った。女6人の価値観が異なれば、人物像がいくらでも変わるのだ。サドに対するイメージは、肉欲とか反道徳が近いだろう。だからモントルイユ夫人やサン・フォン伯爵夫人の主観がサド侯爵の人物像に近い。しかし、そこにルネ、シミアーヌ男爵夫人が関わってくると人物像にも多面性が備わってくる。

サド侯爵が放埓な生活を送り、犯罪者として投獄されようとも、ルネは彼を信じる。サドは娼婦と寝るばかりか、妹のアンヌとまで性交するような、獣のような男である。そんな男に対して貞淑を誓うルネがいることは、サドにも貞淑性なるものが帯同しているように思える。サドを巡る時にルネが関わることで、サドの人物像にも貞淑性を感じさえするのだ。

貞淑の徹底、「ジュスティーヌは私だ」

『サド侯爵夫人』は、最終幕で大きな変化を見せるように見える。ルネは浮浪者のようにみすぼらしい姿で自宅を訪れたサドに、会わないと断言するのだ。家政婦シャルロットに命じ、「侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい」と伝えさせる。これは、サド侯爵夫人ルネが貞淑ではなくなったことを意味するように思うが、そうではない。ルネの貞淑は最後まで変わることはない。むしろ貞淑の徹底した姿が、この別離の宣言に現れているのだ。

それを知るには、別離の前のシーンを見るべきだ。ルネは母親のモントルイユ夫人と話している時に、サドが獄中で書いた『ジュスティーヌ』という小説を引き合いに出す。この小説は姉妹の物語で、美徳を守り続けた妹ジュスティーヌが不幸に遭い続け悲惨な最期を遂げるという結末になっていた。ルネは、「ジュスティーヌは私だ」と悟る。そして、自分はサドの創り出した物語の住人に過ぎないと感じた。さらにルネは、神がサドに命じてこのような世界を創り出した(サドの創った世界に支配される)かもしれないとも思う。

それゆえルネは、修道院に入って、神に残りの人生を捧げることにしたのだ。神に人生をささげれば、神がサドに世界を創らせようとしたか否かが分かるだろうから。ルネには、サドを愛さなくなったのではなく、サドの創り出した世界から脱することをもくろむ訳でもなく、むしろその世界に安住することを選択している。ルネはサドとの別離を選んだが貞淑ではなくなったのではなく、彼女はむしろ貞淑を徹底している。

サドとは何者か

『サド侯爵夫人』の特異性は、人物像が他者の主観によっていかようにも変わる点にあるが、読者が、そもそも人物像とは、本当に捉えられるのか?という疑念を抱くことにもある。つまり他者がどのように人物像を捉えても、そこには対象となる相手(サド)は蚊帳の外にあるような気がするのだ。

「ジュスティーヌは私だ」と言うルネと、サド侯爵とが面と向かってコミュニケーションを取る場面は遂に現れない。サドが、「私はそんな人物じゃない」と言えば、そこで人物像は変遷を迫られるか、あるいは瓦解することもあろうが、サドが出てこないので、本当の人物像は分からないともいえる。だが、サドが出てきたところで、人物像を解釈するのは「この私」なのだから、永遠にサドとは何者かということは、分からないかもしれない。だから、「そもそも人物像とは、本当に捉えられるのか?」という疑念を抱いたところで、サドが出てきても人物像はつかめないかもしれないのだ。

だから『サド侯爵夫人』が取った人物像の多面性は、1つの理解の仕方であるが、そこにサド本人が出てきても、出てこなかったとしても、サドの人物像は永遠に分からないかもしれない。人物像のつかめなさを、この戯曲はじっくりと教えてくれる。

『朱雀家の滅亡』は小品

『サド侯爵夫人』と同時に収録されている『朱雀家の滅亡』は、天皇に対する忠義を描いた作品。朱雀侯爵という華族の家柄に生まれた長子・経広(つねひろ)が、戦時中、自ら危険な任地に赴いて戦死する姿を描く。

伯父の光康、女中だが経広の実母であるおれい等は、経広の危険な任地への赴任を回避する方法を画策する。しかし、経広と経広の父である経隆(つねたか)は、何としてでも天皇への忠義を徹底しようとするのだった。

『朱雀家の滅亡』は小品である。経広の天皇への思いは感じるのだが、経広の死後、おれいによる経隆への批判、同じく、経広の恋人による経隆への批判はくどくどしくて、退屈だった。物語は経広の死をもってピークに達し、そこから物語が変遷する訳でもない。戦後の日本に対する著者の批判めいた表現は興味深く読めたが、経広亡き後の『朱雀家の滅亡』の物語の深まりはなかった。

『朱雀家の滅亡』と共に語られる三島の短編『憂国』は、主人公夫妻の死をもってピークに達して結末を迎えるので緊張感を持って終わるのだが、『朱雀家の滅亡』は緊張の糸が切れて、あとはだらだらと物語を無理やり長引かせているような気がしてならなかった。評価☆☆☆☆☆は、『朱雀家の滅亡』に対するもの。

【書評】 告白 三島由紀夫未公開インタビュー 著者:三島由紀夫 評価☆☆☆★★ (日本)

告白 三島由紀夫未公開インタビュー

告白 三島由紀夫未公開インタビュー

『告白』は死の9か月前に収録された三島由紀夫の未公開インタビュー

本書は三島由紀夫の未公開インタビューと、エッセイ「太陽と鉄」を収めたもの。「太陽と鉄」は三島らしい詩的なレトリックに満ちた文章で、ちょっと難解である。

インタビューの方は、1970年2月19日に収録された。このインタビューのテープは、TBSの元記者がTBSの社内倉庫で発見した貴重な資料である。テープが発見されたのは2013年なのだが、報道されたのは2017年。なぜこんなに時間が経過したかというと、専門家や遺族への取材に時間を費やしたからだった。

テープは1時間20分に及ぶもので、三島由紀夫と聞き手であるジョン・ベスターとのやり取りが行われていた。ジョン・ベスターは翻訳家で三島の「太陽と鉄」も訳している人物だ。英語が話せる三島だが、ふたりは日本語を介している。

1970年2月19日。これは何の日か。三島が自決したのはその年の11月25日だから、9か月前のことである。そして三島の最高傑作『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を書き上げた日にあたる。なぜそれが分かったかというと、三島がインタビューでそう話しているからだ。

インタビューの目的は、翻訳家であるベスターが「太陽と鉄」を訳したが、この作品について三島に確認したいことがあって実現したものであった。インタビューの内容を読むと、「太陽と鉄」に関わらず、三島の文学観や死生観などが率直に語られていて興味深い。また、「はっはっは」と豪快に笑う、三島の豪放な振る舞いがセリフのそこかしこに現れ、三島の愉快な一面を見たように思う。

このインタビューを読んで、清冽な感動を受けるとか、芸術家の感性に浸るとか、そういった感覚的な印象は強く持てないので評価は標準的としているが、三島由紀夫の作品が好きな人なら、決して素通りしてはいけないインタビューであろう。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

小説のマテリアルは言葉、そして漢文学の教養の大切さ

インタビューを読んでいて私が思ったのが、小説を書く上で、三島が言葉に強い思いを抱いていることだ。彼は「小説のマテリアルは言葉」だと言い切る。人生や思想は素材に過ぎないと。だが三島は、最近の日本の作家はそう感じていない。そういうところが他の作家と自分とを隔てる点だと言う。

私も三島由紀夫の熱心な読者だが、確かに彼の小説は言葉を大切に扱っている。言葉でしか小説を書き始めることはできないのだから、本来、言葉を大切に扱うことは当然なのだろうが、そのためには教養がなければならない。教養がないと言葉が書けない。そうなると畢竟、言葉を粗雑に扱うことになる。

三島の小説を読むと漢文学の教養があることに気づかされる。彼はインタビューで日本の学校教育の話になり、「漢文学の教養がだんだん衰えてきました。それで日本の文体が非常に弱くなりました」と言っていた。

三島はつまらなくても論語を暗唱させるなどして、日本人の頭の中に漢文を定着させることが大切だと言う。三島の小説の言葉から感ぜられる漢文学の教養の深みを思うと、教育において漢文学を強化することは重要な感じがする。

三島文学の欠点は「劇的すぎること」なのか

聞き手のジョン・ベスターは、大胆にも三島にあなたの文学の欠点は何か?と聞く。三島は「劇的すぎること」だと答えた。三島文学の特徴は、言葉は日本で構成は西洋である。三島が法学部卒の元官僚という背景からしても、論理性を愛したことは想像に難くない。

三島は最初から最後まで物語の構成の見通しを立ててから、小説を書くのであろう。それは、彼の小説の特徴でもあるが、「流れのままに文章になる」ことはできまい。それで三島は欠点だと指摘する。

私は三島から論理的な構成力を奪ったら、彼の文学の魅力はだいぶ乏しいものになると思う。それは彼も分かっていたことだろうが、流れるままに書けないことは彼の文学で「できないこと」なのだからもしかしたら欠点なのかもしれない。読者である私には、論理性は彼の文学の魅力なので、それを奪ってしまっては三島文学たりえないのではないかと思うのだが。

まあ恐らく、ベスターに「欠点は何か?」と尋ねられたから答えたまでのことで、日本文学の構成力の薄弱さを皮肉っているあたり、本気で自覚している訳ではなさそうだ。

三島の行動の意味を知りければ「太陽と鉄」を読め

三島由紀夫の小説は、ストーリーがしっかりしている。『豊饒の海』は謎めいているが、あれは特例で彼の小説の多くは難解なところは多くない。一方、三島の行動についてはつかめないところも多い。なんでこんな行動を取るのか。楯の会しかり、ボディビルしかり、奇妙な洋館しかり、映画出演しかり。そういった行動の意味をさぐるには、「太陽と鉄」を読めば良いのだと言う。

聞き手のジョン・ベスターが「太陽と鉄」を訳したこともあってか、彼は「太陽と鉄」を読めば行動の意味が分かるという。「太陽と鉄」は分かりやすい作品ではないが、三島の行動の意味を知るには良い素材なのだろう。

死生観の変化

『告白』というインタビュー中で最も重要な個所と思われるのは、以下のセリフだろう。

死の位置が肉体の外から中へ入ってきたような気がする。

三島はボディビルをやっていた。そのことで彼は、死が外側にあった。だがボディビル、あるいは武道などを通して肉体を作った。すると三島は、外側にあった死が内側へ入ってくる感覚を覚えたのだという。死生観の大きな変化を読み取ることができる。死を恐れなくなった自覚という気さえ起こる。それは、9か月後に迫る割腹自決を知っているからこその、邪推かもしれないのだが。

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【書評】 ミンツバーグ教授のマネジャーの学校 著者:フィル・レニール、重光直之 評価☆☆☆★★ (カナダ)

ミンツバーグ教授の マネジャーの学校

ミンツバーグ教授の マネジャーの学校

マネジメントの現場こそマネジャーの学校である

ある日突然、自分の会社が買収されたらどうしようか?尊敬している上司が辞めさせられ、そして強烈なリストラが起こり、新しく出向してきた上司は「コストカッター」で、社員の激しいモラルダウンを引き起こしていたら?誰だってどうしたら良いか分からず疲弊してしまうことだろう。著者フィル・レニールはそんな局面に遭遇した。困り果てたレニールは、母の再婚相手に助言を求めた。その再婚相手の名はヘンリー・ミンツバーグ。世界的に名高いカナダの経営学者だった。

義理の息子に、ミンツバーグの出した答えはこれ。「お互いの経験を振り返って語り合い、内省する時間を持つといいだろう。リフレクション、だ」というシンプルなものである。マネジメントの問題を解決するには、内省が必要だということである。

上記のミンツバーグのアドバイスと、ミンツバーグの著書『MBAが会社を滅ぼす』、そしてミンツバーグらが提唱していた国際マネジメント実務修士過程プログラムの資料を元に、レニールは会社のマネジメントを変革しようとする。当初は「マネジメントの勉強会」からはじめたが、遂にはマネジャーのマネジメント力を高めることに成功した。本書ではマネジメントの変革活動を「コーチング・アワセルブズ」という。

本書はケーススタディや経営理論に依存するのではなく、マネジメントの現場からマネジャーが学べる多くのことを教えてくれる。日々、マネジメントに追われているマネジャーには学びが少ないだろう。ミンツバーグがレニールに語った答えのように、一歩立ち止まり内省することこそ重要なのだ。マネジメントの現場こそマネジャーの学校なのである。

著者のフィル・レニールはミンツバーグの義理の息子

著者のフィル・レニールはヘンリー・ミンツバーグの義理の息子にあたる。レニールは、マネジャーとして勤めている会社が買収され、危機的な局面に陥った。誰しも困り果てて疲弊し、現前する難題から逃げたくなるだろう。

レニールは運が良かった。母の再婚相手が世界的な経営学者であるミンツバーグだったのだ。相談しようと思えば相談できる位置にいる。羨ましい限りだ。しかし、本当に「運が良かった」だけなのか?もしレニールが、現前する難題から逃げてしまったらどうなるか?いくら母の再婚相手が経営学者だったと知っても、相談しようと思わなかったかもしれない。

レニールが行動したことが彼の突破口となったのだ。家族にミンツバーグがいたのは幸運で、彼はそのチャンスを逃さず難題を切り開いていった。レニールは、コーチング・アワセルブズを通じてマネジャーが成長していく現状を見た。マネジャーたちの中には、人生を変える者も出てきた。マネジメントに関心がなかった者がマネジメントのキャリアを目指したり、畑違いの職種に進む者も出てきたりした。彼らに共通するのはレニールと同じく行動である。

コーチング・アワセルブズをいくらやったって行動しなければ何も変わらない。レニールもマネジャーも行動が引き金となったのだった。

フィル・レニールのストーリーから分かるマネジメントのあり方

フィル・レイールの実体験から分かるマネジメントのあり方は、マネジメント体験を共有することから始める。最初は愚痴の言い合いでも構わない。感情を共有することが大事だと言う。その上で客観的に見ていく。すると徐々に主体的にマネジメントを捉えることができるようになる。

マネジャーが主体的にマネジメントを捉えることの意義は、マネジャーの現状があるからであろう。マネジャーには大した裁量がない。著者も書いているように、特に大企業ではそうだろう。

コーチング・アワセルブズでは、マネジャーの体験を内省することを大切にする。アクションラーニングの問題解決手法に似ているが、マネジメントの変革に力を入れているところに特徴があって面白い。

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また、共著者の重光直之は、コーチング・アワセルブズの特徴としてマネジャー同士の繋がりが重要だと指摘している。確かにミンツバーグも古くから、『マネジャーの仕事』(1973年刊)でマネジャー同士の繋がりの重要性に触れていた。

マネジャーの仕事

マネジャーの仕事

マネジャー同士の繋がりの重要性については、重光の以下の文章が参考になる(本書87ページ)。

ミドルはトップマネジメントほどの権限はないが、現場を熟知しており、会社の課題と、それをどう変えるべきかを把握している。しかし、同時に一人でやれることも限られている。だから、ミドルマネジャー同士のコミュニティが必要なのだ。

会社はどうなった?

コーチング・アワセルブズはマネジメント変革を目指した人材開発のメソッドである。本書にはマネジャーの変革の積み重ねが職場や会社を巻き込んで変えていくとまで言っている。だが、人材開発だけで会社を変えられるほどの力があるのかは疑問だ。

結局、著者レニールの会社がどうなったのだろうか?組織風土も、職場も会社も変わったのかもしれないが、どうもそこらへんについては文章を多く割いていないのが残念だった。発端はマネジメント変革だったとしても、コストカッターの上司をどう動かしたのか?会社が変わるには社長をも動かさなければならないが、どう動かしたのか?動かしてどうなったのかについては触れられていない。

風が吹けば桶屋が儲かる式に、マネジャーが変われば会社が変わるのだとしても、そこには人事制度や会社の一般的なルール、組織の変革などを経て「会社が変わる」のだろうが、そこらへんは何も触れられていない。人材開発は1つの手段なので、コーチング・アワセルブズだけで上手くいく訳はないはずだ。

だから本書を読み終えて、確かにコーチング・アワセルブズは魅力的な人材開発の手法であることは分かる。しかし人材開発以外に「開発」すべき点に触れないと不誠実な感じがする。コーチング・アワセルブズの魅力は伝わるが、その宣伝本のような印象を持ってしまった。

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