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【書評】 蓼喰う虫 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

谷崎潤一郎の『蓼喰う虫』。文庫版では、新潮社版と岩波版の2種類があるが、断然岩波版が良いだろう。岩波版は、新聞連載当時の小出楢重の挿絵が全て入っているからだ。挿絵のお陰で、この作品の世界観を一層強く映し出してくれること請け合いである。私は岩波文庫は字が小さく感じられてあまり得意ではないのだが、挿絵が全て含められているとなれば、文字の小ささを気にしてはいられない。即座に岩波文庫版の『蓼喰う虫』を買い求めたのである。

この作品は、もはや他人としてしか相手を見られなくなった夫婦が、別離の思いを持ちながら離婚にまで至ることができない心理の流れを丁寧に描いた作品となっている。そういう点で読んでいくと、恋愛や夫婦間の情に細微に至るまで感知した著者ならではの堅実な心理小説ということができるだろう。お互いに別れを意識しながら、離婚にまでは直ちに結論することができない夫婦の、波にたゆたう帆船のような、揺れ動く夫婦の心の動きを活写することに成功している。

文学史的には、『蓼喰う虫』は著者の日本の伝統回帰の作として重要と言われる。確かに、のちの随筆『陰翳礼讃』に出てくるような、陰翳の美はそこかしこに現れている。谷崎の初期短編を愛好する私だが、最近になってようやく『夢の浮き橋』や『少将滋幹の母』等に愛着を覚えるようになった。
さて、主人公・斯波要(かなめ)の眼には、東京に住んでいた頃には好ましいものと思われなかった文楽が、関西移住後には、侘びしくも美しいものとして映っている。文楽と、義父の妾・お久という、日本の伝統美を象徴するような2つのモデルを通じて、要は日本的なるもの(それは江戸の情緒が失われた東京ではなく、関西にこそある)を追及しようと、思索を深めていくのだった。それはつまり、要の語り口や思索を通じて、谷崎自身の思考の転回を図るものであり、それが文学史的に本作を重要視たらしめているものといえる。

主人公は斯波要という男で、会社の役員を務め、富裕な暮らしぶりである。妻は美佐子、そして夫妻には弘という小学生の息子がいる。妻は阿曾という愛人を持つ。一方、要は外国人の馴染みの娼婦の元へと通っていた。弘は子どもながらに、両親の別れを感じ取っているようで、小利口な気遣いを見せているが、それを要も美佐子も不憫に思っているのである。

また、みさには老父がいて、老父にはお久という妾がいる。30歳近くも年下の妾で、美佐子ともそう年が変わらないようだ。老父はお久と二人きりになると、かなり優しい声色を示すことが、要によって知られている。お久は京都の女として、要と老父の視線を通じて高く評価されていて、関西移住後の著者の女性観を象徴するモデルのようにも見えた。

要と美佐子は、もはや一緒に床を共にするのも気疲れするような関係に陥っている。電車に乗れば隣には座らず、美佐子は向かいのイスに腰掛け、要の存在が視線に入らぬよう、本に目を落とす。老父の誘いで人形芝居を見に行けば、要の脚が彼女の足先に触れるのを厭って、接触しないように足の向きを硬直させている。美佐子は現代の女性と違って極めて丁寧な東京弁を話し、夫の要に対しても尊敬語を使用するが、それは昭和初期の富裕層に位置する夫と妻との関係だからそうしているのであって、彼女の心に要を尊敬する気持ちはない。

要は要で、妻をもはや愛していない。別れそのものは寂しいに違いないと思うが、だからといって彼女を愛し切れるとも思えない。その証拠に、阿曾と美佐子との関係を、美佐子を目前にして認めているのである。要は美佐子に条件を付けた約束文をしたためた。そこには、今すぐ離婚するものではないが、ある一定期間を経て、もし阿曾と結婚するに至るのであれば、妻が阿曾の元へ行って良いというような文がいくつかと書いてある。これを妻も異論なく受け取っている。異常といえば異常な夫婦関係だが、ふたりは、まず別離をお互いに意識している。けれども意識は「決意」ではない。直ちに離婚しようとする決意は表明していない。その揺れ動く相互の心情を言葉に表したのがこの約束文なのだろう。

尚、揺れ動く心の推移を描くことに、本作の主眼が置かれているので、結末を迎えても要と美佐子とが離婚する件は描かれていない。あくまでもゆらゆらと波に乗っている心情を描くことが、本作の追及する夫婦の関係なのである。妻を愛せない夫、そして夫を愛せない妻は、恐らくもっと時間を経れば離婚に至るであろうが、結末は描かない。あくまでも道程を描くところにこそ、この作品の重点がある。これを、安易に優柔不断と言ってしまっては、離婚という決意に至る心理のプロセスを全く見ていないことになる。

とはいいつつも、もう少々、物語の展開に起伏があっても良かったとは感じる。『ドルジェル伯の舞踏会』もそうだが、心理を描くということは、このように淡々としてしまうものか。出来事がいくら起ころうとも、心はそうやすやすと、別の心とでもいうべきものを持つまでには至らぬように、動きのない物語となるのか。しかし、確かにそうだとしても、あと少し欲を出して、印象的な場面を書いてもらっても、読者サービスとしては問題ないような気がするのだが。

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冒頭に書いたように、本作は著者の日本の伝統回帰の作である。

それを表すのは、件の通り「文楽」と「お久」の2つのモデルである。文楽にしてもお久にしても、日本の侘びしくも詩情のある雅な美を持っている。東京育ちの要は、在京の頃は文楽を評価していなかったが、こうして関西に移住して芝居を見てみると、温かみがあり風流だと感じるようになる。お久の京都弁における玲瓏たる言葉づかいの中にも、要は、奥床しい美を感じるようになるのだ。特にお久の性格がおとなしい、ということもまた、彼の心を捉えるようである。むろん、お久は老父の妾であって自分のものにはならないが、彼女の使う「~どす」に代表される、麗しい京言葉の甘美さに、彼は強く惹かれていくのだ。


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