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【書評】 潤一郎ラビリンス<11>銀幕の彼方 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

潤一郎ラビリンス〈11〉銀幕の彼方 (中公文庫)
 

 

私が初めて買った『潤一郎ラビリンス』がこの11巻である。副題を見れば「銀幕の彼方」とある通り、映画に関する谷崎の小説や随筆が収められている。私は、少年の頃から映画を観て来て、映画を作ってみたいというような妄想を抱きながら成人したが、その私にとって映画は私の人生観の大きな部分を形作っている。良くも、悪くも。だから結婚し子をもうけた30代の現在においても尚、映画を観てブログでレビューを書くことでお茶を濁している訳だ。それは虚しさというよりは満ちた感じで、私は子どもの頃に抱いた映画に携わることの空想の道から足を踏み外しても、空高いところにいる映画を仰ぎながら、鑑賞してレビューすることで映画を傍に引き寄せたように錯覚し、絶えずその誤った感覚に敢えて飛び込み続けることで自分は映画に関する何事かを知っており、また、語った気になっている。映画は相変わらず遠いところに位置しているのだが。

 

千葉俊二の解説によれば、谷崎は映画製作に関係し、大正活映株式会社の脚本部顧問として招かれた。『葛飾砂子』『蛇性の淫』などいくつかの映画製作に携わった。翌年には早くも経営者側の方針の転換から映画製作からは離れているが、谷崎の映画に対する関心は晩年も衰えることがなく、初期作品から編集されることが多いラビリンスにおいて、例外的に収められた『過酸化マンガン水の夢』が昭和30年に発表されている(谷崎は昭和40年没)通り、彼は映画に取り憑かれたとまでは言わないにしても、映画に対する深い関心は終生に亘って消えることがなかったのだろう。

 

11巻で私が印象深かったのは『人面疽』という小品で、百合枝という名の映画女優が、ある時、自分が撮られた覚えのないフィルムがあることを発見する。人づてに聞いてみるとそれはアメリカ資本の映画で、女性主人公である花魁があるアメリカ人の船員と恋仲になる。そして船員は帰国に際して花魁を船に隠して密航させる算段である。その時にある醜い青年の助けを得てしまうが、その青年は見返りに、一晩だけでも良いので、花魁を自分の女にさせて欲しいと船員に頼む。一晩くらいならと船員は勝手に認めるが、花魁の方であの醜く汚れた青年に体を自由にされるのは忍びないとして、約束を反故にする。青年はそれでもくらいつき、せめて一目だけでも会わせて欲しいと願うが、花魁はそれさえも拒む。怒った青年は自殺し、彼女の膝に人面疽となって張り付くという呪いをかけた。


この人面疽が花魁の人生に歪みを与え、船員との愛を貫くはずの彼女は淫蕩な性質を見せ始め次から次へと男を変えていく。その間、彼女は人面疽を隠していたのだが、世間は何となく膝頭が隠されていることを不審に思っていた。そうこうするうちにある富裕な身分の男と交際するに及ぶも、彼女の人面疽はふとしたことで露わになり、その人面疽はまさに人間が膝から生えているが如くにゲラゲラ笑っているという結末である。


ラストがあっけ無く終局に向かってしまったところが惜しいところだが、それでも尚、結末に向かうまでの展開をスリリングに書いていく筆の力は見事なものだ。谷崎潤一郎は日本の近代文学において川端康成三島由紀夫などと並んで代表的な作家だが、川端や三島に『人面疽』の如き小さなエンターテインメントさえ書けたかと言えば否であろう。大衆小説への執拗な関心と、芸術以外にも柔軟な視線を向ける多様で複眼的な感性が彼をして種々のエンターテインメントを書かしめたのだろう。


その他に挙げたいのが『過酸化マンガン水の夢』と『映畫雑感』という随筆で、いずれも映画に関する谷崎の批評的な価値観の鋭さが伝わる。前者は晩年の随筆になるが、晩年に至るまでも尚映画に強い関心を持ち続けていたことが彼らしい論理的かつ美麗な日本語で書かれ、味わい深い作品である。『悪魔のような女』というフランスのスリラー映画について、徒らに賞賛することなく、批判すべきところは根拠をもって批判しているところが良い。谷崎は一体に評論家としては知られていないし、現に評論家ではないのだが、彼の筋道の通った明晰な文体からは、対象の芸術作品の良し悪しをはっきりと指し示すことが出来る点で説得力がある。なぜこの作品のここが良くてこれがダメなのかが分かりやすく語られるのだ。