好きなものと、嫌いなもの

書評・映画レビューが中心のこだわりが強いブログです

【書評】 多動力 著者:堀江貴文 評価☆★★★★ (日本)

多動力 (NewsPicks Book)

多動力 (NewsPicks Book)

多動力

多動力とは何か。ドラッカーのパラレルキャリアに似たものかと思ったが、異なる概念であった。堀江によればそれは、「いくつもの異なることを同時にこなす力」のことを指す。多動力は生産性を高める力と言ってもよいだろう。時間を節約し、異なる肩書きで多くの仕事ををする。例えば実業家、コンサルタントプログラマー、作家、タレント、ロケット発射。彼はそういう仕事の仕方がいいのだと言うが、果たしてそうか?パラレルキャリアのように本業と副業に影響を与え合う仕事の仕方であれば理解できるが、たくさんの異なる肩書きで多くの仕事を同時にするといっても、人間には物理的に限界があるのだから一つひとつの仕事が薄くなる。ゆえに、そんな人間のアウトプットなどたかが知れている。

堀江貴史本人は一体何を成し遂げたのか?オン・ザ・エッヂライブドア、そしてライブドア事件による収監・出所を経た多岐に亘る活動。どれも中途半端である。極めることなしに、色々なものに手をつけているだけである。だから、彼の活動から生まれた産物は何ら魅力がないのだ。一方で堀江は、サルのようにハマれと言ってはいるが、ハマっても直ぐに飽きてしまうのだとか。こんな考え方だから彼のアウトプットは退屈なのだ。ハマったら嫌になるくらいハマり、これなら俺は誰にも負けない武器を持っていると言えるものでなければ魅力はない。

口述筆記

堀江は月に1回のペースで著作を出していると言う。なぜそんなに書けるのかと言うと、口述筆記だからだそうだ。専属のライターがいて、その人に書いてもらうのである。本書もそうなのだろう。そんな風にして書いた本が30万部売れたと言って自慢する。まあ、そういう本はそれなりの質しか担保されないのだが、30万部も売れてしまうことの方が問題である。買うな、図書館で借りろと思うが。私はビジネス書は大概図書館で借りる。よほど良い本なら買うが、そうでなければ買うことはない。本書のようにロクなことが書いていない本が多いからだ。

堀江は本書で、一年以上かけて書いた本が一万部しか売れないことはよくあると言って、自らの手で本を書く職業の人間をバカにするが、売れればいいという堀江らしい考え方だ。こんな考え方では、小説家なんていう職業はこの世から消えた方がいいかもしれない。10年かけて新作を発表したカズオ・イシグロは今年のノーベル文学賞に輝いた。世界的な作家だから堀江の本よりは売れているだろうが、純文学だからそうそうベストセラーにはなるまい。日本はミーハーが多いからさっそく本屋でイシグロの本が完売になったとか。こういう行動を取る消費者が私は嫌いだが、流行が去れば嵐の後の静けさが待っていることだろう。それでも堀江の本よりは読んでいて楽しいし、何らかの意味がある。感動するとか、イライラするとか、考えさせられたとかいった意味だ。堀江の本には無しかない。

仕事はスマホで充分

堀江が多くの仕事を抱えることができるには訳があり、堀江はインターネットを最大限に活用する。何より時間を節約するため、電話や直接の面会は極力断り、連絡はほとんどスマホで済ませると言う。パソコンさえ不要と言う彼は、スマホで文章を書くし、他者との連絡はLINEやメールで完了させる。自分の時間が何よりも重要な彼は、その時間を邪魔されることを大変に嫌う。

サラリーマンにもスマホでいいと提言する堀江だが、そこまでは行かなくても、確かに堀江が言っているところの無駄は、企業の中には多く見られると思う。堀江は過激だが、企業はもう少し革新的になってもいい。あまりにも無駄や非効率的なことについて保守的で、無頓着すぎる。

【映画レビュー】 闇金ウシジマくん Part3 評価☆☆☆★★ (2016年 日本)

 

 

闇金ウシジマくん』の原作は読んだことがない。私はマンガが苦手で(といいながらマンガレビューも書いているが)、ずっと読み続けることが得意ではないからだ。小説なら長大な作品でも読めるが、マンガだと、イラストや登場人物に反発しやすいので、なかなか読み続けられない。『ウシジマくん』も、ぱらぱらとページを繰ったことはあるけれども、どうも合わなそうなのでドラマと映画版だけ見ている。映画版を全て鑑賞して、最良の作は『ザ・ファイナル』だった。『1』は鑑賞したがあまり記憶には残っていなくて、『2』が『ファイナル』と肩を並べるほど好きで、『2』が一番かと思ったが、『ファイナル』が最後の最後で足を伸ばして、ゴールした、という感じである。

 

『Part3』はぎりぎりの及第点だ。相変わらずの群像劇で、キャバ嬢に狂う一流企業の会社員のストーリー、一発逆転を狙う若者のストーリーに、丑嶋ら闇金グループが関与している。会社員を演じるのは芸人の藤森慎吾で、キャバ嬢に入れ込んで闇金にまで借金して、最後はキャバ嬢に逃げられる愚かな男を演じている。藤森は芸人としては下手ではないが普通。そんなに印象的な演じ方ではなかったので、他に適当な俳優はいなかったのかが悔やまれた。専門の俳優を出演させるべきである。

キャバ嬢を演じた女優は、清楚さとエロさが混交していて魅力的である。

 

一発逆転を狙う若者・真治を演じるのは、本郷奏多ほんごうかなたと読む)で、私は初めて見たように思う。顔は故・見沢知廉に似ている・・・が、読者の皆さんは知らないか。容貌は美形なのだが、何かこう、社会に反発しているような、ふてくされた顔立ちで私の好きなタイプの顔である(私とは、全く、似ても似つかないが)。役柄で言えば、『Part2』で窪田正孝が演じたホストに似ている。

 

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本郷奏多

 

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作家:故見沢知廉

 

真治は、上昇志向が強くて、ネットビジネスを利用して何とか一旗揚げようとしている。このネットビジネスの仕組みがあほらしい。明らかに与沢翼をイメージして、「儲かる仕組み」を商材にしているのだが、儲かる仕組みを買って自分が儲けられる訳がない。結局は虚像なのだ。ただ、真治が底辺から這い上がるために切磋琢磨している姿には共感する。ここまで動機と目指すべき方向性さえ間違っていなければ、大成しそうに思う。

ネットビジネスの仕組みがばかげているので、評価を☆2つにしようかと思ったが、映画のラスト、丑嶋が真治に投げた台詞が良くて、☆3つにしておいた。

真治は、ネットビジネスに関わり始めた頃、美しい読者モデルの女性(白石麻衣)から、「命を賭けて仕事をしているか」と聞かれて、命を賭けてネットビジネスをしたのである。結果は失敗だったが、丑嶋はそれを見ていたので、真治を褒めた訳である。真治は、丑嶋への借金も返していた。

 

読者モデルを演じた白石麻衣はかなりきれいだと思うが、演技力は大してない。浅野忠信とか西島秀俊の演技を棒読みという人がいるが、棒読みはこういう演技を言う。喋り方に抑揚がなく、役柄について持論がなさそうに見えるので、演技をした映像から個性が感じ取れないのである。

 

rollikgvice.hatenablog.com

 

【映画レビュー】 ジョン・ウィック 評価☆☆☆☆★ (2014年、米国)

 

 出張続きで全然ブログの更新ができていない。出張中にホテルで顧客へのレポートを書いたり、制度の改定案を書いたりしている。文章を書くのは好きだし、早い方だが量が多いとさすがに疲れてくる。ブログは娯楽で書いているので、疲れていたら、書きたくない。本は読んでいるが、備忘録程度にも感想をまとめられていない状況である。本はゲーミフィケーションの本を何冊か読んだ。図書館に行けていないので仕方なく買った。新しい研修を考案したいが、何かそのアイディアはないかと思って読んだ。まあまあ、面白いので、機会があればレビューしよう。

 

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昨日、日本でも2作目が公開された『ジョン・ウィック』の1作目をDVDで見た。妻も見たいというのでソファに腰掛けてふたりで見た。だが、1時間くらい肩や腰のマッサージをさせられたので、あまりリラックスして見られたとは言えない。私は腰痛持ちなのできもちいいツボをよく押さえており、マッサージは上手いと自負する。だが、腰痛持ちなのだから、マッサージをするよりも、「される」方が好きである。

 

キアヌ・リーヴスが主演して、久しぶりに逞しいアクションの演技を見せてくれた。ジョン・ウィックというのは殺し屋の名前で、キアヌは殺し屋を演じている訳である。185センチはある大柄なキアヌ・リーヴスがアクションを披露すると、見栄えが良い。日本人俳優でも、ドラマで刑事役をやっていた小栗旬は、キアヌと似たような身長だと思うが、変に痩せていないし、見応えがあった。いくらアクションの技術があっても、肉体的に貧弱だと全然さまにならない。

 

ジョン・ウィック』は殺し屋の復讐劇。演出は独特で、テレビゲームのような疾風怒濤のアクションを見られる。映画中にも銃撃シーンの多いアクションゲームをプレイしている人物が出てくるが、この『ジョン・ウィック』もそんな演出を見せてくれる。キアヌ演じるジョン・ウィックが、撃って、隠れて、また撃って、隠れての繰り返しをして、敵を倒していく。1つの場面が終わって感じるのは、アクションゲームのステージクリアのような感じである。パンチ・キックや銃撃の破壊力は甚だしく、更にスピード感もあって、アクション映画の見本のような、非常に良い演出である。

 

ジョン・ウィックは何のために復讐をするのかというと、病死した妻が自分に託した愛犬を殺されたためである。犬ごときでそこまでやるか?というほど復讐が徹底していて、客観的な事実(犬のため)だけを見るとギャグだが、ジョン・ウィックの復讐は真摯に遂行されているのである。それだけ妻を愛していたということだろうが、一見単なるB級映画に陥ってしまうところを、復讐のまじめさと、ゲーム的な演出のおかげで、味のある映画にしている。

 

ジョン・ウィックが女性に甘いのと、ウィレム・デフォーが大して活躍せずに死んだので、多少減点したが、続編が非常に楽しみな、味わい深いB級アクション映画だった。

【書評】 英雄を謳うまい 著者:レイモンド・カーヴァー 評価☆☆☆★★ (米国)

 

英雄を謳うまい (村上春樹翻訳ライブラリー)

英雄を謳うまい (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 妻が村上春樹の小説が好きで、時折図書館で借りてきてやるのだが(我が家には『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』しかない)、村上春樹の翻訳小説でも良いかと思って借りてきたら、翻訳は嫌だと言う。仕方なく私が読み始めたが、まあまあ良い。初めてカーヴァーの本を読むにしては、本書は特異なセレクトであるが・・・というのも、本書『英雄を謳うまい』は、初期の習作が多くある他、詩、書評や自作に関する短い文章などが収められているからだ。村上が解題で言っているように、「一般の読者にとっては、読み物自体としてそれほど意味がないという種類のものも、中にはあるいは見受けられるかもしれない」という類の本である。

 

文章は、村上のこなれた文章によって、胃の中に言葉を飲み込みながら読めるとでも言い得るほど、味わいのある文章である。しゃれではないが、食事のシーンは特に味覚を感じ易くなるが、村上も、そういえば食事のシーンの描写は上手である。私は村上春樹を、作家としてはあまり評価していないが、彼の文章は良いと思っている。よく言われるように翻訳調といえば翻訳調であるが、難しい言葉を使わず、簡潔で、読みやすい文章である。といっても司馬遼太郎のように無骨な文章ではないので、川が流れるように読める。物語の主人公は日本人であり、舞台も日本なのだが、翻訳調の文章のせいで、外国人が見た日本人および日本という感じがする人物設定と、物語になっている。非常に不自然である。これが私が彼の作品を退屈だと思う点だが、翻訳になると話が変わる。当然、主人公は外国人(多くは米国人)であり、舞台も外国(これも米国)だ。だから違和感がない。

 

村上が解題で言っているように、「自作を語る」はどれも良い文章である。彼の文学の趣味、生活風景、パートナーについての言葉が費やされ、率直に語られていく。何度も読み返したくなる文章が多数収められていた。

オーガスティン・ノートブックより」も、長編小説の序盤として書かれた文章だが、確かに、村上が解題で言っている通りで、ここからどんな物語が始まるのかまるで予想がつかない、期待もできない小説である。だが、ここに書かれている男女のどうでも良いおしゃべり、性的な戯れなどは、私は面白いと思った。

【書評】 美しさと哀しみと 著者:川端康成 評価☆☆☆☆☆ (日本)

 

美しさと哀しみと (中公文庫)

美しさと哀しみと (中公文庫)

 

 川端康成の長編小説。この小説は図書館で借りて読んだが、気に入ったので、書店で買い求めた。川端の小説は、今年に入って、『雪国』『眠れる美女』『山の音』『初恋小説集』と読んできた。『初恋小説集』は評価しないが、3つの長編、1つの短編(眠れる美女)を読んで作品の質が安定していると思った。私は、日本文学の中では三島が一番で、その次に谷崎を評価していたが、今では川端康成が抜きん出ているように思える。谷崎には感心すべき思想が多くないが、川端には無常感が根底にあってこれが私の心を捉える。

 

主人公は小説家の大木で、妻と国文学者の息子がいる。やや通俗的ながら世に知れた小説家である。『山の音』もそうだったが、息子の存在感は薄い。『山の音』では妻をないがしろにして不倫に走る息子が描かれていたが、本書では女性に疎く、美しい女性に騙されて最後は恐らく命を落としてしまうことになる。「恐らく」というのは、小説では息子の死は明確に書かれていないからだが、登場人物の台詞によると恐らく死んでいる。

 

この小説は、時系列的には、大木と音子という16歳の少女による不倫、それによって音子が妊娠中絶するところから始まる。少女と恋愛した時、大木は31歳で、15歳もの年齢の差がある。既にその頃大木は小説家で妻も子もいたのだが音子と不倫を犯している。これに対して大木には罪悪感はあるものの、24年の時を経てまた会おうと試みるところから、罪悪感よりも己の愛を優先する。今音子に会ったところでどうなるものでもないが、大木は、京都に住み、現在は画家として成功している音子に、会えないかと打診する訳だ。こういう彼の行動に、私は無常感を感じる。大木が音子に会ったところで、今さら妻を離縁して音子と生活ができる訳でもない。それにもかかわらず会う気持ちを抑えられず、行動に移してしまうということ。そこに無常感を感じ取れる。

音子は大木のことを恨みもするが、愛情はまだ大木に対して持っており、美貌の若い女弟子けい子を差し向ける。このけい子というのが、のちに大木の息子を事故で死に至らしめる張本人である。

 

けい子は第二の主人公とでもいうべき強烈な存在感を放っており、ほとんど狂気に取りつかれている。女弟子は音子を恋しており、音子のために大木の家庭を崩壊させようと試みる。大木とホテルに泊まってキスをしたり、大木の息子の官能性を刺激する妖艶な姿態を見せる。息子の事故死という結果によって、家庭崩壊に成功するのであるが、彼女の音子に対する狂気的な執着、大木に慰み物にされた音子のために復讐せんとする異常な行動などによって、恋の対象として崇拝される音子をして恐怖せしめる女性である。こういう狂気的な女性は、『雪国』の葉子や、『山の音』の絹子などにも通じるところで、川端の得意とする女性像なのだろう。そして川端は、これらの女性像に狂気と共に「哀しみ」を付与するが、けい子には「美しさ」をも付与する。美しさと哀しみの題が言い表すのは、音子でもあるが、もう少し中心に据えられるのはこのけい子だろうと思う。

 

けい子の行動は、主人公大木が音子と会おうという気持ちを行動に表すのに似て、無為である。音子の関心は、彼女には向いていないからである。だからどんな行動を取ったところで、彼女は音子に愛されることがない。逆に恐れられ、怖がられる。この無為の行動は、無常であり、もっといえば「哀しみ」である。そういう意味では大木の行動もまた、哀しみなのであるが、彼は音子が妊娠中絶をしても、妻を捨てて音子を引き取れなかった無責任がついてまわるので、哀しみかもしれないが、美しさはみじんも感じられない。ただただ、残酷なのであって、彼の息子が事故死に至ってもさしたる同情の観念は湧いてこないのである。

 

従って本書における「美しさと哀しみ」は、必ずセットになる表現である。音子、そしてけい子は、共に美しく、哀しい存在である。彼女たちには悪を感じられない。たとえけい子が大木の息子を事故死に至らしめても悪だとは感じられない。悪なのは大木であって、けい子は音子の思いを勝手に解釈して行動したとはいっても、音子を思う恋の心がそうさせたのであれば、そしてその恋が成就されることがないのだから、美しく、哀しいが、そこに悪は感じられない。本書を読むとけい子の狂気に疲労させられるが、そこには狂気に陥ってしまう哀しみだけではなく、悪を感じられぬ美しさがあるので、何とも言えぬ感情に捉われることを実感する。これが、美しさと哀しみなのであろうか。