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【書評】 聞書抄 著者:谷崎潤一郎 評価☆☆★★★ (日本)

 

聞書抄 (中公文庫)

聞書抄 (中公文庫)

 

 

 

 

中公文庫版 『聞書抄』には表題作の他に3編の短編が収められている。いずれも小品といった体で、出来は良くない。表題作『聞書抄』は、代表作の一つ『春琴抄』が鵙屋春琴伝なる架空の書物を題材に、物語を始めたのと同様、安積源太夫聞書という作者創造の書物を題材に、史実をおりまぜながら描く。いわば虚構と現実とが混交した歴史小説であるが、たおやかな谷崎の文体が目を引くものの、構成がまずく、企画倒れ(虚構と現実の混交の失敗)で終わっている。
 
石田三成の娘の物語かと思って読んでいれば、豊臣秀次らの惨殺シーンで終わっていて、尻切れトンボなのである。関ヶ原の戦いは?石田三成はどうなったのか?小説の末尾に、著者がこの作品は前編であるなどと言ってしまっているが、結末をきちんと書かずに擱筆するなどは、興ざめである。それと、盲人が目を自ら破壊する場面は『春琴抄』と同じパターンで、これも退屈である。類似のエピソードを入れても印象には残らない。
 
それでも、主人公の盲人による語りに見られる通り、文語体を現代語として蘇生させたかのような、雅でたおやかな著者の文体は圧倒的で、それを読めるだけでも充分なのかもしれない。『少将滋幹の母』のように物語性に秀でたところがあれば、まだしもであったと思われる。

【書評】 眠れる美女 著者:川端康成 評価☆☆☆☆★ (日本)

 

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 『眠れる美女』(新潮文庫)は川端康成の短編集で、表題作の他に、『片腕』および『散りぬるを』の2編が収められている。解説において三島由紀夫が傑作と称して絶賛する『眠れる美女』が白眉で、この作品だけなら☆5である。

 

10代の少女(多くは処女)を全裸のまま布団に眠らせて、男性としての力を失った老人たちを、少女たちと共に泊まらせる奇怪な家が舞台である。老人が処女と共に眠り、セックス以外の何をしても許容される関係は、極めて醜悪に想像されるにもかかわらず、そして事実、少女と共に眠りながら頓死してしまう老人のエピソードもあるのだが、そういった関係は外的には相当にグロテスクであるはずが、川端の筆にかかるとただ不気味なだけに留まらず、純粋に美しいとは言えないまでも、処女の美しさ、老人のあさましさ、そして死を前にした過去の幻影の到来などによって、複雑な様相を呈する。それは美しい、とは、単純に言い切れないけれども、汚らしい醜悪さと清冽な美しさとがあいまって、美とも醜とも言い切れない奇怪な世界が現れる。

 

主人公の江口老人の眼を通して物語が語られていく。江口は少女を前にして、過去の女性との交情を思い返し、陶酔させられるものもあれば、淡々と事実を想起するものもあり、あるいは苦渋の表情を共にしなければ思い出せない追憶もある。それらの幻影は詩的であり、あるいは現実的でさえあるのだが、目の前に眠る少女がただ寝ているに過ぎないにもかかわらず、肉体や寝息、あるいは裸体の少女が布団に眠る構図を通じて、種々の追憶が思い出され、幻影は色を変えていくのである。

 

老人は処女と思われる少女を前にセックスを試みるが、本当に処女であることに心づいて止めてしまう場面がある。老人は、勃起しなくなった老人の客の中にあって、自分だけはセックスが出来ると思っているのだが、いざ少女を前にすると処女である事実を前に、先へと進むことが出来ない。彼は恐らくセックスが可能な状態で、少女の体を見たのだろうが、この少女に犯し得ない神秘を感じて、精神的にも物理的にも前へと進めないままに終わってしまうのである。

 

三島が解説の中で、眠れる美女を愛する老人たちを、ネクロフィア(死体愛好者)と言っているが、私もそう思う。明らかに少女らは生きているのだが、どんな薬を用いているのか、一向に起きない。そして、江口老人は睡眠薬を服用して朝まで眠るが、江口が起きても少女は寝たままなのである。死んでいるのではないか?と思って触れば、確かに肌は温かい。しかし江口は一度も少女が起きているところを見たことがない訳である。そして、江口は家の女主人に、「起きているところを見たい」というけれども、許されない。

少女たちに江口は触るし、けがらわしいこともするけれども少女たちは起きない。布団には暖房が入っているが、それを切ると、全裸なので寒がるので生きてはいるが、一向に目は覚まさないのである。眠り続けて目を覚まさない彼女たちは、死体のようであり、少女を愛する老人はネクロフィアである。

 

だから、物語の終盤で少女が本当に死んでしまった時、江口老人はネクロフィアたることを許されなくなったかのようである。死んでしまった少女は、江口の前から運び出されて、この家で死んでいなかったことにされる。実は江口は、この時、ふたりの少女と眠っていたのだが、そのうちの一人が死んでしまったのである。そこで家の女主人は江口に、「もう一人いるではないですか」と言うのである。ネクロフィアたることは、少女の死によって断絶されるという逆説が働くことが印象的だが、もう一人の女がいることで、またもネクロフィアは継続される。江口は家の中で頓死した別の客のように、この家に通い続けるのだろうか。または、神秘的な処女性を破壊しても尚、セックスを行使し、現実性を持ちこむのだろうか。

 

 

『散りぬるを』は私の好みではなかったが、他に収録されている『片腕』も印象的な作品である。ある女性が、自らの片腕を外して男に貸すというシチュエーションは、『眠れる美女』よりも非現実的であるが、『眠れる美女』よりはグロテスクではなく、清冽な美しささえ感じさせる。

女性の片腕は会話をし、男の腕と付け替えることも出来る。片腕は何かを象徴しているように見えてただその強い存在感をもって、無意味性を色濃くするものであり、会話をするだけに『眠れる美女』の少女のような死体性は帯びていないものの、生き物というよりはモノのような違和感がある。”彼女”というには人間の女性らしくはないし、といってモノそのものではないところが片腕の存在の不確かで、不可解な点だろう。

【書評】 フロー体験 喜びの現象学 著者:ミハイ・チクセントミハイ 評価☆☆☆☆☆ (米国)

 

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)

 

 会社で先輩が同僚と雑談をしている時に、フローという言葉を使っていた。単にフローと言えば流れだが、私にはその意味するところが分からず、口惜しいので、チクセントミハイの『フロー体験 喜びの現象学』を読んだ。先輩もこの本を踏まえて言っているらしかった。本書は心理学の書物だが脚注がない。脚注がないから学術的ではないとは言えないが、著者が冒頭で語る通り一般的な読者向けに書かれている。一方で著者の結論の学問的背景を知ろうとする読者のために、巻末に「注」が掲げられているので、著者の語る概念、主張についての根拠を知りたければ注を読むことで足りるようになっている。従って本書は、かゆいところに手が届く作品である。

 

『フロー体験』におけるフロー体験とは、「一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならなくなる状態」のことを言う。また、「その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするということのために多くの時間や労力を費やすような状態」、ないしは「正さねばならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態」を指す概念である。なぜフロー(流れ)という言葉を用いているかといえば、著者が調査をしている時に、どのような状態が最高の状態かを対象者に尋ねると、「流れているような感じだった」であるとか、「私は流れに運ばれた」などと言っていたからである(P.51)。

 

著者は、このような状態はどこでも発生し得ると言う。仕事、ゲーム、遊び、スポーツ、そして、退屈な日常、あるいは強制収容所の中でさえも。それらは人によって感覚が異なり、仕事にフローを感じる者がいる一方、リゾート地に行っても味気ないものと感じてしまうというような場合である。

 

本書の豊富な事例の中で私が気に入ったのは「逆境」と「仕事」についてである。

まず逆境だが、9章の「カオスへの対応について」の中で、逆境、悲劇、ストレス、うまくいかないことに直面した人間は、フロー体験をすることが出来るのか、出来ないかを論じる。予想通りに、出来るという結論が導き出されるが、豊富な事例の中で著者は、「生活からフローを見出す方法を知っている人は、絶望しかない状況をすら楽しむことができる」と言う。

 

すなわち、事故で半身不随となったり、身体に障害を持ったりしている人間が、目的を持ち意味のあるフロー体験に変換しているということの事例が盛り込まれているのだ。

 

9章の要約にまとめられている通り、「フローを体験するには、その達成に努めるべき明確な目標をもたねばならない」が、逆境、悲劇、ストレス、うまくいかないことに直面しても人間は、明確な目標をもち楽しい状態を維持することが出来ることが書かれていた。

 

私も30数年の生涯を振り返ると逆境の多い人生だったとは思うが、耐えるばかりではなかった。それよりも目標を明確にもって、適度にリラックスをしながら、それに向かって没頭し、まい進していたように思う(例えばブラック企業に勤めながら、必ず自分の満足する転職を果たす、という目標。その当時、私はブラック企業に耐えはしたがそればかりではなく、辛い自分の境遇をじっと見つめて自分はなんて辛く悲しい存在なのだろうと思う。そして心の中で滝のような涙を流す。そうすると鬱屈するのではないかと思われがちだが、涙を流すことがストレス解消に繋がるように、自分をかわいそうな存在だと同情することで、私はスッキリしていたのである)。顧みれば私は自らの経験を通して、何となくフロー体験をしていたのかもしれない。

 

 

そしてもう一つは「仕事」について。

仕事を辛いものと思っていた私であるが、転職して以来仕事を辛いとは思わなくなっていた。むしろ辛いどころか、目標に向かって仕事を行うことに、楽しいとさえ思うようになっていたのである。そしてその状態は、それ自体が楽しくて仕事をするために多くの時間や労力を費やして没頭しても、何ら問題だと思わなくなっていた。それをワーカホリックのように考えたこともあったが、それにしてもこの「楽しさ」については説明がつかない。

 

私は、ルーチンワークが好きではない(好きな人がいることも知っている)。人事の仕事をしていた時には定常的仕事が多く、仕事そのものを変えたいと思っていた。しかし職種を変えるにしても現在の仕事との接点がなければ転職することは出来ない。それで人事の仕事で、転職後も続けたい仕事はないか?と考えると、複数列挙出来た。例えば「研修の企画を考えること」、「採用計画を立てて予定人数を確保すること」、「人事制度改定の企画立案をすること」などが楽しい仕事として挙げられた。それらはすべて、「何かを考える」という仕事であり、それらを専門的に行う仕事となると、人事コンサルに繋がった、という訳である。

 

それらを楽しいと思うようになったのは、転職先で実践してからだが、なぜ仕事に没頭することが楽しいか、そもそも、楽しいと言って良いのか、今まで分からないでいたのであるが本書で明瞭になった。 

本書はフローという概念を使って、仕事を通じて人間がフロー体験をし得ることを明言する。それは、私の経験とも合致する。これは断じてワーカホリックではなく、目標達成を志向して自発的に仕事に向かっている状態なのである。この概念を現在の働き方改革などと共に経営に活かせば、社員に自発的な働き方をするように仕組むことも出来よう。

 

 

フロー体験を学習と結びつけているところも非常に興味深かった。

 

4章の「フローの条件」で、著者はテニスの練習を通じたフローについて説明する。

 

アレックスが初めてテニスをする時、彼はネットの向こうにボールを打つことしか出来ない(A1)。難易度は低いが、それは彼の未熟な能力と合致しているから、アレックスはテニスを楽しむことが出来るのである(フローの中にいる)。

しかし練習を続けることによって、アレックスは能力が高まり、A1の練習に退屈し始める(A2に移行する)。またはアレックスは、彼より高いテニスの能力を持つ者と出会い、不安を感じる(A3に移行する)。A2、A3のどちらにしても彼は、フロー状態に留まることが出来なくなってしまうのだ。

 

アレックスが退屈しているなら、彼の挑戦の水準をあげることで、フロー状態に移行させることである。あるいはアレックスが不安なら、彼の能力を高めることで、フロー状態に移行させることである。そして彼は、もう一段高いフロー状態であるA4に移行するのである。

 

これは目的を明確にした学習の効果である。仕事でも、試験勉強でも、あるいはスポーツでも、人間は学習することで能力を高め、挑戦の水準を高めていく。それには必ず目的がなければならない。段階的に引き上げられる短期的な目的(例えば試験科目の数Ⅰをマスターする)もあろうし、もっと高い長期的な目的(例えば医大に合格する)もあろう。

しかし目的だけであれば機械的であるし、人間は継続して行い得ない。著者が言うように、喜ばしいフロー状態を作ることによって、人間は高い学習効果を上げることが出来るのである。学習の中にフロー状態を作る、ということ、それはマニュアル的にこうすればフロー状態たりうるとは言えないし、個人ごとに違うが、それを練習して体得していき、自然にフロー状態を作っていければ、学習効果は高まるのではないかと思う。

上記は勉強について述べたが、仕事においても同様であり、経営に活かすことも出来るはずである。単に残業削減をするだけでは生産性が上がるはずもないのだし、給与を上げるだけでも生産性は高まらない(一時的には向上するだろう)。仕事そのものに楽しさを覚えなければならない。フロー体験は多くの応用が利く概念であった。

アウトレイジ最終章 予告編


北野武監督18作目となる最新作『アウトレイジ 最終章』予告編

 

アウトレイジ最終章』の追加の予告編が出ました。前回出ていた予告編よりも長いバージョンです。10月7日に公開なので更に情報を提供しよう、というところでしょうか。

 

のっけから人を殺しまくるシーンの連続で、相当な迫力が見込めそうです。予告編にしては、過激とも思われますが、R15で大丈夫なんでしょうか。まあそのくらいの方が私も楽しめるのですが。

 

しかし、ややストーリーを見せ過ぎでしょうか?知りたくない事実を知ってしまった感があり、もうちょい編集して欲しかったところ。『ビヨンド』ですさまじい存在感を見せた塩見三省は病気をして痩せてしまったので、ビジュアル的にトーンダウンした印象は否めません。それと、ビートたけしの演技が気になります。呂律が回っていないので、ヤクザとしての迫力は大丈夫でしょうか。

 

事前に知らないでいましたが、津田寛治も出演していますね。私は彼の演技が好きな方なので楽しみです。

 

前作を超えることができるか、非常に期待させる映画です。まちがっても、韓国のフィクサー側(たけし)が単に勝利するだけの映画にはしないで欲しい。最終的に勝利するのは構わないですが、単純な構成にはしないで欲しいところですな。

 

***

 

今年は、『ラ・ラ・ランド』、『沈黙』、『ゴースト・イン・ザ・シェル』、『午後8時の訪問者』、『キング・アーサー』などの作品を劇場で観ました。『ラ・ラ・ランド』は非常に素晴らしく、『午後8時』も良く、酷評されている『キング・アーサー』も素晴らしかった。期待していた『沈黙』は窪塚の演技は良かったが・・・という内容で残念。

さて、8月にはポール・ヴァーホーヴェンの『ELLE』、10月には『アウトレイジ最終章』を観る予定。なかなか豊作になりそうです。

 

邦画が好きじゃないので、どうしても洋画が多くなりがちです。

 

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【書評】 ひきこもらない 著者:pha 評価☆☆☆★★ (日本)

 

ひきこもらない (幻冬舎単行本)

ひきこもらない (幻冬舎単行本)

 

専業主婦である妻にはphaは不評らしく、私がYouTubeで彼の動画を見ながら料理をしていたり、録画しておいた彼の出演番組を見ていると余り良い顔をしない。

「また、pha?」と妻は呆れながらも、強く否定はせずに言う。そういう時、私は落ち着かない気持ちになるが、決してその反応を示されることは嫌ではない。妻が、元ニートで家族を持とうとしないphaについて、嬉々として「phaって良いよね」と言ってきたら、私は嫌である。phaを「良いよね」と言えるのは私のように日々働いている者ならではだ。

 

「また、pha?」と妻は呆れるが、それは、テレビゲームをしている時の親の反応に似ている。 私がプレイステーション(初代)をしながら遊んでいると、親は決まって「また、ゲーム?」と言う。その頃私は中三になっていて、今更「ゲームは1時間」と叱られることはないが、やはり呆れられる。その呆れは、母にとって、「まあ中三になるとこんな子どもでも色々あるんだろう」という程度の認識からもたらされる、従って、ゲームくらい良いかという思いと、でも遊ぶにしても外で遊ぶとかしてくれないかという思いとが入り混じった呆れである。

 

それと同様に、妻もまた、私が労働で疲弊してくたびれている時に、「働きたくないですね」という、phaのくぐもった、いかにも無為の生活を送っている人間の声を聞いて安心することを認識しているゆえに、「phaくらい良いか」という思いと、「こんなニートじゃなくて、もうちょっと洗練された人物にしてくれないか」という思いとが入り混じった呆れである。

 

そのphaが新刊『ひきこもらない』を発表したというので、谷崎潤一郎川端康成の小説を読むのを一時的に中止して、『ひきこもらない』を読むことにする。谷崎はまだしも、川端は世界観が個性的なので、腰を据えて読まねばならないので、頭を楽にさせたいためにphaを読む時間を取る、という理由もあった。

 

幻冬舎plusに発表されたエッセイを収録したエッセイ集で、肩肘を張らずに読めるものが多い。

 

『ひきこもらない』を読んでいて気付いたのは、phaは、人間関係においてはコンビニのようなマニュアル的な交流を望む割に、ビジネスにおいては非マニュアル的な仕事を望んでいることである。後者については、毎日毎日同じ時間に出社して一日中デスクに座っていることが耐えられないと言っている。逆に言えば、その反対なら良いということだろう。

 

すなわち現在の著述家業は、彼の働き方に合っていると言える。非マニュアル的で、創造的な(クリエイティブな)働き方である。私も毎日会社に出社している訳ではなく、顧客のところへ直行することが多く、帰宅時間が仮に2時とか3時であっても出社しない。時間で自身の価値が決まるのではなく生産性で価値が決まる仕事をしているからだ。だからと言って私はphaのように毎日出社することが耐えられない訳ではないけれども、好きか?と言われれば、断然、嫌いである。特に東京にいると殺人的なまでの満員電車に乗って出勤するのがバカバカしく思える。家で出来る仕事を、わざわざ会社でやりたくない。上司や同僚と打ち合わせをしたければ、顧客と打ち合わせをした後に、喫茶店にでも入れば良い。周りの声が気になるのならカラオケボックスでも良いかもしれない。

 

だからphaが言わんとしていることは分かる。私は彼ほどの非マニュアル的な働き方をしている訳ではないが。

 

本書には私が好きな村田沙耶香の『コンビニ人間』のくだりが出てくる。もちろん人間観駅についての箇所でである。私はマニュアル的な人間関係には反対で、少しもphaの言っていることが理解出来ないが、phaにはそういうところがある。家族を持たないというのも全く理解出来ないし、反対だが、まあ、全部賛成の人間なんていたら不気味なので、この程度の価値観の共有が出来れば十分とも言える。

 

このエッセイ集は肩肘を張らないで読めるが、全部がそれではやはり退屈なので、どうしても評価は辛くなるが、それでも徹底して、「何もしない」とか「だるい」とかいった価値観を体現しているのはさすが。私が一番好きなのは、「小笠原で何もしない」というエッセイである。しかもphaは、一ヶ月も小笠原諸島に行っているのに、相変わらずパソコンしたり、読書したりするだけなのである。わざわざ小笠原に行って!?それで良いのである。そのくらい、何もしないことが、良いのである。常に何かしているのに、旅に出てまでも何かしていたら、リラックス出来ないじゃないか。やっぱり、phaは良い。好きである。

 

 

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